1 涙の女性が、蒸気炉の前の“主任”だった件
風が通り抜けていく。
広い芝地にまばらに咲く白や黄色の花がそよぎ、鳥のさえずりが丘に降り注ぐ。
雲ひとつない青空には魔導飛空船がいくつも浮かび、緩やかな丘陵からは王都の街並みが一望できた。黒い尖塔群。並ぶ煙突から上がる灰色の蒸気は空に溶け、ここが“人の営み”と“静けさの境界”であることを示しているようだった。
芝に沈むように背の低い墓石が点々と並ぶ。その一つの前で、ラインハルト・ハルトマンは黙祷を捧げていた。
花を添え、姿勢を正し、深く息を吸う。
数代前の先祖の墓だ。顔は知らない。だが、ハルトマン家を武勇で伯爵位に押し上げた人物である。その足跡への敬意から、ラインハルトはたびたびここを訪れるのが常となっていた。
彼の金髪が風に揺れる。
「気持ちいいな!」
蒸気に煙る王都も嫌いではない。だが、この“文明の音が届かない丘”は格別だった。
拳を腰に当て、彼はふと視線を巡らせる。
向こうに、黒い服の女性が一人立っていた。
彼女も墓参りに来ているのだろう。顔には薄いベール。風がそれを静かに揺らす。
墓前にしゃがみ、花を置いて、黒い手袋を外す。白い指先で墓石をやわらかく撫でる。
その一つ一つの動作が、凛として美しかった。
そして、ふいに吹いた風がベールを捲り上げた時、灰青の澄んだ瞳から、ひと粒の涙が落ちた。
ラインハルトは咄嗟にポケットを探り、くしゃくしゃのハンカチを取り出したが、すぐ握りしめる。
突然、巨体の男が近づけば驚かせてしまう。ただの通りすがりが踏み込むべきではない。
――儚い涙だ。忘れられそうにない。
彼はあえて明るい鼻歌を口ずさみながら丘を降りた。
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蒸気が白い霧を巻き上げる機関車格納庫が見える。
黒い魔導機関車を囲んで技師たちが走り回り、蒸気と金属の匂いが満ちている。
ラインハルトは鉄道局本部の《安全監査室》の扉を押し開けた。
「おはようございます。ホルン整備主任はどちらに?」
声をかけられた技師が笑顔で答える。
「今は格納庫にいらっしゃいますよ。時間になれば戻ると思います」
懐中時計を見ると、どうやら早く来すぎたらしい。
「では、そちらへ向かってみます」
一礼して部屋を出る。
魔導機関車は、魔石炉《アーク炉》を燃料とする高出力型の輸送機だ。重装甲でも速度が落ちず、悪天候にも強い。
しかし扱われる備品一つ一つが高価なため盗賊団に狙われやすく、今回、第一騎士団であるラインハルトが護衛任務につくことになっている。
――ホルン整備主任は女性だと聞いているが。
ふと視線が止まった。蒸気炉に手を触れ、圧の流れを確かめる女性がいる。
「……圧が右に流れていますね。弁は触らないでください」
落ち着いた低い声。
黒い軍服に似た制服。帽子から覗く銀髪がアーク炉の青光に照らされ、一瞬煌めく。
灰青色の瞳。目元に小さな泣きぼくろ。
彼女は立ち上がり、静かに振り向く。
「おや? あなたは?」
「あ……お……」
言葉が出ないラインハルトに、近くの技師が笑いながら声をかける。
「主任、その方がハルトマン卿です」
女性は腕時計を確認し、軽く頷いた。
「早めのご到着ですね。
申し遅れました。エリアス・ホルン伯の未亡人、クラリッサ・ホルン。
蒸気炉の整備主任です。あなたが……“騎士団の暴風”ですね?」
革手袋を外し、彼女は手を差し出した。
背筋は真っすぐ、瞳は揺るぎなく、どんな男にも怯まぬ強さがある。
先日墓地で見た儚げな横顔とは、まるで別人のようだった。
ラインハルトは口を開き、そして閉じた。
――間違いない。
――墓地にいたあの女性だ。
――儚さも、美しさも、すべて同じ。不意打ちじゃないか!
――なんて凛々しいんだ!
――女神か!?
クラリッサは動かなくなった巨体を前に、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……好きです!!!!」
「……は?」
巨大な格納庫に、第一騎士団の暴風の叫びが、盛大に響き渡った。




