今日も部屋を訪れた彼。わたくしはあなたの思い通りになどなりません!
「またあなたですか? ロジェ」
扉を開いた瞬間、僕の愛しいリディアがいつも通りの冷たい声で出迎えてくれた。
お互いに学生時代を共にし、今となってはお互いの家の決まりで婚姻を交わして、同じ屋敷で日々の生活を送っているけれど……彼女の対応はいつもそっけない。
それでも僕は満面の笑みを浮かべて頭を下げる。
ここで退いたら、彼女の反応を楽しむ機会を逃してしまうのだからね。
「ええ、また僕ですよ。こうして美しい奥様にお会いできるなんて、今日も素晴らしい一日ですね。一体どこのどなたが御身の心を射止めたのか……。おっと、この僕でしたね」
「……毎度の事、飽きませんね。御冗談なら鏡に向かって言ってはどうでしょう? 少なくとも、相手の表情の変化は楽しめましょう」
言葉を返す僕を見て、リディア嬢は軽くため息をついた。けれど、その頬がほんのわずかに赤く染まっているのを僕は見逃さない。そうこの目には確かな変化が分かるのだ。
「御冗談なんて、そんな。それにそれでは僕に言葉を返してくれはしない。自分で自分に返せと言うなら、流石にそんな寂しい趣味は持ち合わせておりませんので。これでも妻を持つ身、自分の考え以外の回答をしてくれる方との会話が出来るのですから、是非時間を共にしたい。他でも無い、愛しい妻が退屈しないようにと思ってのことです。感謝していただきたいくらい、と思ってしまうのは夫のわがままですか?」
彼女の眉がキリッと上がる。僕がこう言うといつもそうだ。
「感謝? 申し訳ありませんが、ご期待に添えそうもありませんね。……で?」
「おや? 何でしょうか?」
「……これ以上冗談をおっしゃるようでしたら結構。わたくしがこの部屋を去ります」
「いやいや手厳しい。勿論、用はあります。むしろ用しかない、他でもない愛しい――」
「ああそれ以上は結構。早くご用件を」
ふぅ、相変わらずの強敵だな。そこが堪らないのだけれど。
「ええ、とても大事な用事ですよ。そう、君に会いたい。これ以上の理由は思いつかないくらいですね」
「それは一般には用事とは言いません。……はぁ」
ぴしゃりと切り返してくる彼女の不意の溜息。むしろ愛らしくて堪らない。
僕は懐から一輪の真紅のバラを取り出し、彼女に差し出した。
「どうぞ。お嬢様に似合うと思って選びました」
リディアは一瞬。そう、ほんの一瞬だけ目を見開く。驚きだろうか、それとも警戒だろうか。
だが次の瞬間には、それを悟らせまいとするように眉間に皺を寄せた。
「またですか。こんなもの……。わたくしのような女には不要です」
口ではそう言うが、目がちらりとバラに向いている。
ふふっ、その視線を僕はしっかり捉えた。
「いやそうおっしゃらずに、受け取っていただけると僕が救われます。これを渡すために勇気を振り絞ったんですから」
冗談めかして言うと、彼女の表情が少しだけ崩れる。
「勇気? さて、いつもの事のように思いますが。そう言った言葉を何気無い日常で使うのは愚かなことだと、わたくしは思います」
そう言いながらも、結局バラを受け取りテーブルに置く彼女。これもまたいつもの光景だ。
いやはや。まったく、素直じゃない。……そのクールさに隠れた可憐さ。これを垣間見れるのも、夫となった史上最高の幸運を持つ僕の特権と言えるだろう。
「では、このご褒美に……愛しい妻の笑顔を拝見できませんか?」
「はぁ? 笑顔、ですか?」
何を言い出すのかと、彼女が眉をひそめる。
「ええ。己の妻の笑顔は絶対的に美しい。それは当然ではありますが……残念な事にそれをほとんど見たことがないなんて、不幸なことではありませんか? 損失ですよ、夫婦関係として健全とは言えません。そうでしょう?」
わざと大げさに言うと、彼女は困惑したような、それでいて少しムッとした表情を浮かべる。
「わたくしはそうは思いません。それにそんなもの、簡単にお見せするものでもありません。楽しい事が無ければ人は笑わぬものですので」
「確かに。だからこそ、僕がこうして一生懸命に努力しているんです。ほら、君の為なら僕は一流の旅芸人にもなります。例えば……」
パチッと指を鳴らすと、僕の手の中には赤いバラが一輪。密かに練習したそれは、鮮やかに一瞬の出来事だ。
「またそのような事を……。ですがもったい無いので、先ほどの花と一緒にそこの花瓶にでもご自身で刺しておいてください」
部屋の隅の大型花瓶には、既に大量の花々。
これも全て僕の愛の結晶だ、なんせ彼女は一度も花を捨てろと言った事は無いのだから。
花達に新たな友達を加えて上げたあと、再びじりじりと彼女に近づく。
リディア嬢は椅子に座ったままわずかに後ずさる。動揺が見え隠れする瞳に、僕は微笑みを深める。
「こうして僕が間近でじっと見つめたら、少しくらい笑ってくれるのでしょうか?」
「っ……、何を馬鹿なことを」
ぷいっ。
顔を背けた彼女の頬が、つうと微かに染まる。
いい感じだ。よし、このタイミングを逃すわけにはいかない。
「では、どうでしょう。もし僕がこの距離まで近づいて……」
そう言いながら、彼女の顔の近くに手を伸ばす。ほんの数センチの距離。
「……近いですよ」
「ええ、近いですね。でも、君が止めない限り僕はもっと近づいてしまうかもしれません。困りましたね」
彼女は僅かに視線を泳がせながらも、僕をじっと睨む。
それでもやはり、一歩も引かないところが実に彼女らしい。勇ましく、そして堪らなく愛らしい。
そして、その緊張の中で――。
「……ならばっ――引くのはそちらということで……!」
リディア嬢が小さくつぶやき、思い切ったように僕の唇に触れるようなキスをした。
触れたのは極短い……そう、ほんの一瞬の出来事。
けれど、彼女の勇気に僕は思わず胸をくすぐられる。
「……これで満足ですね。もういいでしょう、わたくしは静かに過ごしたいので」
精一杯の気丈さを装う彼女の姿に、口角を抑えるも難しくなる。
「満足? この感情は感激と言うのですよ。やはり、僕はこの国一番の幸運を持っている。君の存在がその確信をくれる。この世で最も大好きな君が、ね」
そう言いながら微笑むと、彼女は今度こそ分かりやすく顔を真っ赤に染め、勢いよく椅子から立ち上がった。
「お戯れはもう結構ですっ、さっさと出て行きなさい!」
僕の背中を強引に押すと、部屋の外へと追い出して慌てて扉を閉める彼女。
絞められた扉を見ながら、僕は静かに笑う。
「だから、そういうところが本当に可愛いのさ」
一人でそう呟きながら、また次の機会を楽しみにする自分がいた。
……というやりとりを、部屋の隅で待機して見ている女性が一人。
リディアとは同い年の幼馴染で、彼女の侍従でもあるソフィーだ。
(毎度毎度、飽きないものね。見てるこっちが恥ずかしいわ)
リディアの付き人として共にこの屋敷に迎えられて以来、このやり取りをほぼ毎日のように見ていた。
所詮、親同士の決めた仲。という枠では到底収まらない。
認めないのは素直になれないリディアのみだろう。
「まったく! ……ご覧になりましたか? あの方とくればいつもいつも……!」
侍従としても、一人の友人としても内心呆れながら、今日もまたリディアの愚痴と言う名の惚気話を聞く嵌めになるだろうと覚悟を決めるのだった。