追放された偽聖女の娘ですが、聖女の力は本物です!
「ローズマリー、きみとの婚約は破棄させてもらう」
第三王子であるディオンの言葉が学園の大広間に響き渡った。ちいさな社交場として、定期的に行われている夜会の最中であったその場は、それまでの喧噪が波のように引いてゆき、しんとした静けさに包まれていた。僅かに、ひそひそと囁く声が落ちては、途絶えてゆく。
「それは、どのような理由でしょうか」
名指しされたローズマリーは、ディオンの婚約者らしく、彼の瞳の色に合わせたブルーグレイのドレスを纏っていた。艶やかに伸びた金の髪を編み下ろし、片側に寄せている。金と青の配色が映えていた。まるで、天井から落ちるシャンデリアの輝きを一身に浴びているよう。
「きみがシャーリー嬢に嫌みを言い、厳しく当たり、事故に見せかけて階段から落としたことは分かっている。彼女を泣かせたことも一度や二度ではない。そのような女性は王族の婚約者としてふさわしくない」
ローズマリーはその言葉を聞いても狼狽えることもなく、余裕そうな笑みを浮かべ。朱の混じる茶色の瞳で真っ直ぐにディオンのことを射貫いている。ふいに、ローズマリーの視線が僅かにずれたとおもうと、ひとときのあいだやわらかい笑みを浮かべた。それは、たちまちかき消えてしまったけれど、シャーリーにはそれだけで充分だった。ローズマリーが口を開きかけたのを確認し、シャーリーはディオンをはじめてするその取り巻きたちの背後からするりと姿を現した。
「お待ちください、殿下」
舞踏会に集まっていた生徒たちの視線が集まったことに気が付いて、怯みそうになる気持ちを堪え、ちいさく拳を握る。それから、ふたたび、困ります、と声を上げた。
「そのようなこと、された覚えもないですし、ローズマリーさまとも仲良しです」
ざわりと空気が揺れた。シャーリーはディオンとともにローズマリーの悪行を糾弾する側の人間ではなかったのか。ディオンの次の婚約者におさまるつもりだったのでは。様々な憶測とともに困惑した気配が会場に満ちてゆく。
そうでしょう、とシャーリーはその困惑に心の裡で同意してみせた。
(わたしだって、どうしてこうなったのか、とても困惑しているのですもの!)
シャーリーは、叫びだしたくなる気持ちを抑え、母親から教わった通りに胸を張り、口角を上げ、そうして、周囲を見渡したのだった。この茶番劇を終わらせるために。
***
シャーリーの母であるアイリスは、かつて隣国の伯爵令嬢だった。幼い頃に聖女候補であることを示す、花のかたちをした痣が二の腕に現れるまでは。聖女は、不思議な力を持つと言われ、聖女候補たちはその能力を発露させるべく、教会で過ごすことになる。アイリスもそうして、幼馴染で子爵家の第四子であったコンラートを護衛騎士として従えて、教会へと赴いたのだった。それが、アイリスが10歳、コンラートが16歳の頃のこと。
アイリスは18になる年に、未来予知と治癒のふたつの力を得た。未来予知はひどく不安定で、すべてのことが分かるわけではなく、アイリス自身もそれを制御できるわけではなかったので誰にも言わずに。そうして、治癒の聖女として、アイリスは披露目され、国と教会のために務めを果たすことを強いられるようになっていった。
王族や貴族――国と教会にとって重要である人物の病や怪我を治すことに日々を費やしていた。
アイリスが聖女としての地位を確立するなかで、気が付けばアイリスは第二王子との婚約が決まり。愛し愛される仲ではなかったものの、穏やかな関係を築いていけると信じていた。聖女として務めを果たす日々のなかでは、殆ど会うことはなかったけれど。
しかし。そのような日々を過ごしていたある日、アイリスは身体の裡に満ちていた力が急速に失われ、治癒能力が使えなくなっていることに気が付いた。彼女はそのような日々がくることを、予知の力で知っていた。それ故に、アイリスは王と貴族たちの前で第二王子により「偽聖女である」と断罪され、国を追われることとなった。アイリスはコンラートと共に、知り合いの辺境伯を頼りに隣国へと逃げた。それは、国外追放とは名ばかりの駆け落ちだった。
そうして、アイリスとコンラートの娘として生まれたシャーリーは、辺境伯領の片隅のちいさな町で慎ましい生活を送っていた。コンラートは護衛や町の防衛のための仕事をし、アイリスはわずかに使える治癒の力とともに、治癒をするなかで学んだ薬草や医療の知識を駆使して町の人々の役に立ち。シャーリーは両親に愛され、大切に育てられていた。シャーリーもまた、聖女の持つ不思議な能力を発露させるまでは。シャーリーたちの住む町が土砂災害に見舞われ、コンラートをはじめとする町の人々が巻き込まれたのを機に、シャーリーの治癒能力が一度に花開いた。それは到底、隠し通せるものではなく、シャーリーは特待生として貴族の子息子女が通う学院へと入学することになったのだった。
全寮制のその学院へ送り出されるその日の朝、アイリスがぽつりと「立場的にはヒロインですものね、心配だわ」と憂いを帯びた声で呟いているのがひどく印象に残っていた。内容は理解できなかったけれど。
平民であるシャーリーが特待生として入学したことで、周囲の目は厳しかった。しかし、シャーリーにとっては授業内容は新鮮で、知らないことを知ることは楽しかった。不安定だった治癒能力も、安定して使えるようになり。この能力を得たことが喜べるようになっていた。
時折、ペンやインク壺などが消えてしまったり、何も無いはずのところで転びかけたり、くすくすと笑い声が遠くから聞こえることはあったけれど、気にしないことに決めていた。気にしても仕方のないことをシャーリーは知っている。
その一方で、幼い頃よりアイリスが「今日はおひめさまの日にしましょう!」と遊びのひとつとして楽しんでいたおひめさまごっこが、じつはマナーや言葉使いのしつけであったことを、シャーリーは入学してから気が付いた。そのため、シャーリーが本気を出せば、貴族の子女たちに引けをとらない行動をすることができた。アイリスが何を思ってそうしていたのかを、シャーリーは知らないが、それは大変ありがたかった。それだけで、シャーリーを見る目の厳しさが和らぐのをひしひしと感じて。
それと同時に、シャーリーに対するちいさな嫌がらせから、第三王子、宰相の息子、騎士団長の息子、隣国の王子のグループによって助けられることが増えたことに気が付いた。それは、シャーリーにとってはありがたくも迷惑なこと。
(なんと言っても、あのグループはとても目立つのだもの!)
煌びやかで華があり、この国の将来を背負うべく日々研鑽を重ねる彼らとともにいることはシャーリーにとってひどく荷が重かった。そしてなにより、それを望んでいないにも関わらず、近づいてこられ、それを迷惑だと気がついていない彼らの纏う圧を、シャーリーは苦痛に感じていた。
(お母さんが言っていたことって、こういうことだったのね……)
アイリスと幼馴染のアレクシスから、「貴族の男性に言い寄られる可能性があるから気をつけなさい」と入学前に言い含められていた。その時には、こんな田舎娘になぜと思っていたが、入学してその理由がよく分かった。貴族令嬢が教育のなかで失ってゆく率直さと、聖女の力は貴族令息たちの興味をひいてしまうものらしい。
(ただの平民を相手にしたって、何も得られるものはないのに……。わたしの治癒能力の扱いをどうするかも、ほとんど決まっているはず)
シャーリーの扱いについては。アイリスとコンラートの後ろ盾になってくれている辺境伯が国とのあいだに入って交渉してくれていた。そのため、彼女の望まない結果にはならず、すべては彼女の了承のうえで行われるはずだった。
そしてなにより。シャーリーには将来を誓った幼馴染がいる。卒業して両親のもとに戻ったら、正式に婚約をすることになっていた。その約束のうえで、彼女は渋々ながらも、学院に入学したのだから。
(たしかに、初日に迷子になって遅刻して慌てて声をかけたのが殿下だったり、その際に落としたハンカチを届けていただいたりしたけれど、こんなことになるなんて……)
学院内の敷地はシャーリーには広大で、目的の場所に辿り着くのが一苦労だった。彷徨うなかで、偶然にも出会った生徒に話しかけたのだったが、それが第三王子であることにシャーリーは気が付いていなかった。そののち、落としたハンカチを返してもらい、何度か話すうちに第三王子であることを知ったのだった。確かに、そのあいだ馴れ馴れしい言動を取ったかもしれないが、このような状況になるまでではなかったはず。だからこそ。
(どう振る舞うのが良いのか、ちゃんと考えなきゃ)
シャーリーは、胸のうちで拳を握りしめると、決意を固めるように腕を振り上げた。うまくやらなければ、彼らから逃れられそうにない。それは困る。とても、困るのだ。
***
それから、シャーリーはひそかに行動をはじめた。第一歩として、第三王子であるディオンの婚約者、ローズマリー・カペル公爵令嬢と話す機会を得ること。そのために、ローズマリーの従者であるアレンに近づくことにした。彼は、ローズマリーが友人たちとお茶会をしているときなどは中庭で待機している。学院内の温室でローズマリーがお茶会をしているのを見かけたその日、シャーリーはアレンの姿を探し、中庭のベンチへと急いだ。彼はひどく黒い印象を与える男だった。黒い衣服に、黒い短髪を丁寧に撫でつけている。そして、ひっそりと風景のなかに溶け込むような静けさを纏っていた。背筋をぴんと伸ばし、無表情のまま温室のほうに視線を向けているアレンを見つけ、一歩ずつ近づいてゆく。足がひどく重く、アレンの近くに辿り着くまでにゆるやかすぎる時間が流れたように感じられた。掌の汗を隠すように、シャーリーが腰のあたりで指を組む。
「アレンさま」
呼びかけた声がわずかに震えたことを、気が付かれなければよいとおもう。掠れた声で呼ばれたその名前を、アレンは拾い上げ、シャーリーへと目を向けた。声をかけたのが、ディオンに近づく平民出身の話題の少女であることに気が付いたのか、わずかに眉間に皺が寄る。ああ、表情が動いた、と関係のないことを考えていなければ、シャーリーの心は怯んでしまいそうだった。
「ローズマリーさまとディオン殿下のことについて、お話があります。どうか、このお手紙をローズマリーさまに渡していただけないでしょうか。もちろん、アレンさまも読んでいただいてかまいません」
アレンは差し出した手紙を一瞥し、「なぜ」と鋭いまなざしのまま、短く問いかけた。
(とても、信じられないかもしれないことは分かってる。それでも、この状況をなんとかしなきゃ)
ちいさく息を飲み、それからシャーリーの瞳はアレンのことをまっすぐに射貫いた。
「詳細はお手紙に書かせていただいたのですが、この状況にはわたしも困っております。ディオン殿下の近くに居ることはわたしの望みではなく、むしろ、とても迷惑しております。そこで、ローズマリーさまとも協力して解決できたらと思いまして」
「なるほど。この状況は不本意であると」
その言葉に、シャーリーは力強く幾度も頷いてみせた。ぶんぶん、と首から音が出てもおかしくないほどに。
「わたしは平民ですし、特別に学院に通っている身分ですから、殿下からの申し出を強く断ることができず……。ローズマリーさまには申し訳ないのですが」
ふたたび手紙へと視線を落とし、それからシャーリーを見直して、いいだろうとアレンはその手紙を受け取った。
「話はする。その後をどうするかは、ローズマリーさまが決めることだ」
「分かっています。どうぞよろしくお願いします」
深く頭を下げると、さっと踵を返した。制服の裾が僅かに翻る。一歩目は踏み出した。二歩目がどうなるかはローズマリーの返答しだい。安堵の息とともに、シャーリーは中庭をあとにした。
ローズマリーからの返事はすみやかに届けられた。どうやら、シャーリーのことはディオンに近づく女子学生として調べられていたらしい。気が付かなかった、とシャーリーは恐れからちいさく背筋を震わせた。とはいえ、叩いて出てくる埃のひとつもないはずだけれど。
「わたくしのお茶会へようこそ」
それはお茶会とは名ばかりの逢引きのようだった。金の髪はなめらかで、緩やかに波打っている。揃いの制服を着用しているはずだったが、とても同じものを身に纏っているとはおもえない。ティカップを持ち上げる薄紅色のゆびさきまでが優雅に踊るようだった。
「手紙は読みましたわ。あなたの事情も把握しました。それで、わたくしにどうしてほしいの?」
「先日、わたしが転んで怪我をした時、ローズマリーさまの嫉妬から来た嫌がらせではないかと囁かれているのを耳にしました。ディオン殿下も、その話に満更でもないご様子。しかしながら、わたしはローズマリーさまが関わっていないことは分かっています。わたしが彼らの動向をお伝えしますし、もし何かあった時にありもしない罪を問われないように、証拠を残していただきたいのです」
それは、講義室を移動している最中のことだった。教科書を抱えて、先を急いでいたシャーリーは誰かに足をかけられて転んでしまう。咄嗟に身体を転がして、顔に怪我をつくることは避けられたけれど、手に擦り傷はできてしまった。シャーリーの治癒能力の困ったところは自分自身は治療できないことだった。力が反発するようで、幾度試してもうまくいかない。
転がった先で、シャーリーは足をかけた生徒を確認し、あとからそれがどの家の令嬢であるかを調べることができた。
「なぜ、わたくしではないと?」
「その日は、ローズマリーさまはお休みされておりましたし、実行した生徒は公爵家の派閥とは違う家の方でしたので」
ふうん、とローズマリーは興味深げにシャーリーを眺めていた。品定めをする視線に、ひとときかんばせを下げたシャーリーは思いなおし、視線を受け止める。
「馬鹿な子ではないようね。気に入りました。わたくしは日記をつける習慣があるの。日々の行動は記しておくことにしましょう」
それから、とシャーリーは恐る恐るという様子でローズマリーに付け加えた。
「できれば、わたしと勉強会などをしていただけませんか。仲が良いことを対外的に示す機会がほしいです」
「ええ、そうね。わたくしは水曜日に図書館にいるわ。そこでお会いしましょう。それから、きちんとしたお茶会にもお招きするから、そのつもりでね」
その言葉に、シャーリーは安堵の息を漏らしながら、僅かに口角を上げた。そのお茶会では、おそらくディオンの側近候補たちの婚約者の令嬢たちと出会うことになるだろう。
「ありがとうございます。無事に卒業をしたいので、頑張ります」
「シャーリーさんがわたくしにここまで関わるのは理由があるの?」
「卒業したら幼馴染と婚約する予定なんです。そのために、ここで断りにくい相手からどうこうされるわけにはいかなくて」
なるほど、とローズマリーはひとつ、深く頷いて見せた。それから、疑いの色をそのまなざしから消し去った。
「あなたの素性がだいぶ込み入ったものであるらしいことは薄々感じていたから、もしかしてこの話も罠かもしれないとおもったのだけれど、そういう理由なら納得できるわ。聖女の力はうつくしいものね」
ローズマリーは授業で見たことのある、その姿をおもいだす。黄金の光に包まれ、シャーリー自身が輝いて見えた。ゆびさきから零れた金の砂のような光が傷口をやわらかくなぞると、触れた端から治癒されてゆく。それが神の御業であると、ローズマリー自身も信じてしまいそうになった。魔術師は存在するが、彼らも治癒は行うことができない。その力は、聖女しか持つことのない力だった。それ故に、王家をはじめとする貴族は彼女を囲いたいのが本音のはず。それを、子息子女の生徒たちまでは理解していなかったとしても。
「聖女と第三王子の婚姻は、王家にとっては都合が良いでしょうから。困ったものね。一緒に、この状況に抗いましょう」
まなざしと纏っていた空気がやわらかくなり、ローズマリーも固い蕾がほころぶような笑顔を浮かべていた。ローズマリー自身もシャーリーとほぼ変わらない少女であることを、纏う空気の高貴さで忘れさせられていたことに気が付いたのだった。
こうして、シャーリーとローズマリーの仲は密かに深められていった。週に一度、勉強会を行い、お茶会で姦しいおしゃべりに花を咲かせ、時折、マナーを厳しく正される。それは、幼い頃より厳しく育てられてきたローズマリーの手によるものであるため、時には冷たく、時には厳しすぎるものであり、シャーリーもそれに涙目で応えることも多々あった。それはふたりの仲に罅を入れるようなものではなかったけれど。しかし、周囲からのまなざしはどうやら違ったらしいということに気が付いたのは、だいぶ後になってからだった。
シャーリーに対し、ローズマリーから虐められているのではと同情の視線を向ける者と、ローズマリーが厳しくあたっているのだからそれに倣うべきだとする者が現れはじめたのだった。
そうして、そのことに気が付いたのはシャーリーが階段を下りているときに後ろから軽く背中を押されたときだった。崩れた体勢を立て直すことができず、シャーリーはそのまま階段を転げ落ち、その合間に辛うじて犯人の顔を確認し。それはローズマリーに憧れていて、シャーリーを快くおもっていない女子生徒の姿。咄嗟に伸ばした手は空を切っていた。
幸いにも、足を挫いた程度で重傷にはならなかったが、それ以来、階段から落としたのはローズマリーではないかという噂が学院内を泳ぎ回ることになった。背びれ尾びれを大きく広げながら。
実際、転げ落ちたシャーリーの元へ最初に駆け付けたのがディオンで、なにも知らないローズマリーが階段を下りてきたことも良くなかった。ディオンは冷たいまなざしでローズマリーを一瞥すると、足を挫いたシャーリーを抱え、医務室へと運んだのだった。
(何もかもがうまくいかない!)
医務室で横になりながら、シャーリーは頭を抱えて暴れ回りたい気持ちだった。そんなことはしないけれど。急いでローズマリーに事情を説明したかった。しかし。
「君のことは僕が守ろう。心配せずに、穏やかに休んでほしい」
ベッド脇に控えるディオンが真剣なまなざしでシャーリーを見つめ、返事も待たずにシャーリーの手を取った。咄嗟に手を引こうとしたのを抑える。相手が第三王子であることをシャーリーは思い出し、慎重に行動すべきだと自らに言い聞かせる。
「わたしは大丈夫ですから、殿下は何もなさらないでください」
「ああ、君はこういうところも謙虚なのだね。どれだけ酷い目に遭っても、僕たちに相談せずにひとりで耐え忍んで。でも、それも終わりだ。大丈夫、僕たちはきちんとすべて正すよ」
僕たち、というのがディオンの取り巻きであることは分かっている。普段から、あれこれと話しかけ、面倒な彼らが何をしようとしているのか、シャーリーはひどく不安になった。
「何をなさるおつもりですか?」
「僕はローズマリーとの婚約を破棄するつもりだ。このような酷い行いを平気でするような女性とは思わなかった。彼女は王族の一員になるのにふさわしくない」
そうだろう、と問いかけるディオンの瞳が溶けるような熱を帯びているのに気が付いて、シャーリーは嫌な予感がした。この先のことは聞いてはいけない。それに何より。彼は今、かわいそうなシャーリーを救う王子の役割に酔っている。それこそ、王子にふさわしくないのでは、とシャーリーはとても言えなかった。言えるわけがない。シャーリーはただの平民なのだから。
「ローズマリーさまとの婚約を破棄するなんて……。そのようなこと、おやめください」
「いや、次の学院内の夜会で報告するつもりだ。その後のことはゆっくりと話し合おう」
その後の僕らの未来のことを、と言っているように聞こえ、シャーリーは鳥肌が立つのを感じる。それを隠し、曖昧に苦笑いを浮かべた。すぐにでも、ローズマリーに相談に行きたい気持ちでいっぱいになりながら。
「というわけで、次の夜会で婚約破棄をされると、殿下が。痛っ」
焼き菓子を摘もうとしたシャーリーの手がぱちんと扇で叩かれる。澄ました顔でティカップを持ち上げるローズマリーに視線を向け、シャーリーはそっと手を膝の上に戻した。どうやら、食べ方が違うらしい。スコーンのあいだに、ドライフルーツを練りこんだクリームチーズを挟んだお菓子の正しい食べ方を知っているはずがない。ひととき、恨めしいまなざしを向けるが、ローズマリーは気にしていないようだった。
「夢見がちだとは思っていましたが、とてつもなく夢想家ですこと」
ティカップを戻し、からりと乾いた声音でローズマリーはため息とともに吐き出した。呆れた、とは言わないもののまなざしは雄弁だ。
「そのときに、これまでのことを追及されるとおもいますので、可能な限り反論するできるようにしましょう」
「そうね……。あなたには秘密にしていたのだけれど、実は陛下に、聖女であるあなたの境遇を相談していて、密かに王家からあなたに護衛がついているわ」
その言葉に、シャーリーは動きを止めた。何を告げられているのか理解が追いつかない。陛下に相談、王家の護衛、つまりそれは監視では……。
「えーっと、つまり?」
「つまり、あなたの周囲の出来事については全て正式な証言があると言うことよ。誰が何をしたのか、全て見ているでしょうから」
わたくしたちのことも含め、とローズマリーは付け加え、ふふふと息を溢すように笑う。紅ののった口角が優雅に持ちあがる。
「ローズマリーさまが何もしてないことの証拠があり、殿下がしてきたことの証言がある、と」
その通りよ、とローズマリーは楽しげに頷いてみせた。気になったシャーリーは周囲をさり気なく見回してみたが、その護衛とやらの存在のことはまったく分からない。王家の護衛、恐るべし。
「次の夜会が楽しみね。ね、せっかくだもの。あなたのドレスはわたくしが用意するわ。支度の時にわたくしの部屋にいらっしゃい」
「申し訳ありませんが、ドレスは事情を知った幼馴染からもう届いていて」
あら嫉妬深い男ね、とローズマリーが広げた扇の内側で呟いた言葉はシャーリーには届かなかった。落ちた言葉を捨て置いて、ローズマリーは微笑みなおす。
「では、揃いのブローチを用意させるわ。仲の良さをアピールしなければ」
その提案に、シャーリーは恐れ多くも嬉しさがこみ上げた。学院内で、彼女は友人らしい友人をつくることができなかった。聖女であると神格化するか、平民であると侮蔑されるか。そのなかで、ローズマリーはシャーリー自身を見てくれるひとだった。打算で作られた関係だったとしても。
「はい、よろしくお願いします」
決まりね、とアレンにあれこれ指示を出しはじめたローズマリーを眺め、シャーリーは眦を溶かした。それは、とても嬉しいことだったので。聞くともなしに聞いていた内容が、想像したよりも大がかりだったとしても。
そうしてはじまった夜会でシャーリーは案の定、第三王子とその側近候補たち、隣国の王子に囲まれていた。ローズマリーと色違いで身につけているブローチの縁をそっとなぞる。身に着けたドレスは幼馴染の髪の色に合わせた黒に銀糸の刺繍を施したもの。それらに、力をもらえるような気がした。
初めこそ、和やかな雰囲気だった夜会も、緊張感に満ちた空気が漣のように寄せては返し。気がついた時には、息苦しいほどの重たい空気がひたひたと足元を侵しはじめていた。ちらちらりと、シャーリーの様子を伺う視線が飛んでくる。どうやら、生徒たちのなかでも何が行われるのかを知っているものもいるようだった。
耐えきれない、とシャーリーが思いはじめたころ、前兆もなく第三王子であるディオンの声が響き渡った。
「ローズマリー、きみとの婚約は破棄させてもらう」
それまでの喧噪が波のように引いてゆき、しんとした静けさに包まれていた。僅かに、ひそひそと囁く声が落ちては、途絶えてゆく。
「それは、どのような理由でしょうか」
名指しされたローズマリーが人のなかから姿を現わす。胸を張り、背筋を伸ばしたその佇まいは気品に溢れてうつくしい。この状況で泣ければ、感嘆の声をひとつやふたつ、漏らしていただろうとおもう。
「きみがシャーリー嬢に嫌みを言い、厳しく当たり、事故に見せかけて階段から落としたことは分かっている。彼女を泣かせたことも一度や二度ではない。そのような女性は王族の婚約者としてふさわしくない」
ローズマリーはその言葉を聞いても、狼狽えることもなく、余裕そうな笑みを浮かべ。朱の混じる茶色の瞳で真っ直ぐにディオンのことを射貫いている。ふいに、ローズマリーの視線が僅かにずれたとおもうと、ひとときのあいだやわらかい笑みを浮かべた。それは、たちまちかき消えてしまったけれど、シャーリーにはそれだけで充分だった。ローズマリーが口を開きかけたのを確認し、シャーリーはディオンをはじめてするその取り巻きたちの背後からするりと姿を現した。
「お待ちください、殿下」
舞踏会に集まっていた生徒たちの視線が集まったことに気が付いて、怯みそうになる気持ちを堪え、ちいさく拳を握る。それから、ふたたび、困ります、と声を上げた。
「そのようなこと、された覚えもないですし、ローズマリーさまとも仲良しです」
ざわりと空気が揺れた。シャーリーはディオンとともにローズマリーの悪行を糾弾する側の人間ではなかったのか。ディオンの次の婚約者におさまるつもりだったのでは。様々な憶測とともに困惑した気配が会場に満ちてゆく。
そうでしょう、とシャーリーはその困惑に心の裡で同意してみせた。
(わたしだって、どうしてこうなったのか、とても困惑しているのですもの!)
シャーリーは叫びだしたくなる気持ちを抑え、母親から教わった通りに胸を張り、口角を上げ、そうして、周囲を見渡したのだった。
「ど、どういうことだ、シャーリー!」
ディオンの声のなかに悲鳴のような音を孕む。その動揺は、シャーリーの名を呼び捨てにしたことに顕著に表れていた。
「そのままの意味です、殿下。ローズマリーさまは平民として育ってきたわたしに、勉強やマナーを教えてくださって、とても親切にしてくださいました。確かに、厳しい指導もありましたが、それも愛情故だと理解しております。わたしの持ち物を隠したり、あれこれと言っていた生徒たちとローズマリーさまは関係がないことも分かっています」
ついとローズマリーに目を向ければ、不服そうな視線を僅かに覗かせてくる。シャーリーはここで口を出すことにはなっていなかった。
「その通りですわ。シャーリーと参加したお茶会の日や勉強会の日もすべて、この日記に記載があります」
掲げられた赤い革の表紙の日記帳は、確かに頻繁に使用されていることがその佇まいから察せられた。
「日記なんてどうにでもなるだろう」
「そうおっしゃると思っておりましたわ。ここ最近のディオンさまの振る舞いにつきましては、陛下にもご相談申しあげ、シャーリーには王宮から護衛が派遣されていますのよ。詳細は彼らに聞けば、自ずと明らかになるでしょう」
うそだ、と苦し紛れに呟いたディオンの視線は会場内を彷徨い、それから何かを見つけたように目が見開かれた。その目は確かに、シャーリーについているという護衛の姿を確認したようだった。振り返ったディオンがシャーリーの姿を捉え、すがるようなまなざしを送ってくる。
「私との婚約のことは……」
喘ぐように落ちた言葉に、シャーリーは背筋が凍る思いでディオンを見つめた。得体のしれない影を眺めているような心地になる。ディオンとの間には何もない。なにひとつ。顔を背けるようにゆっくりと横に振る。
「シャーリーは、わたしの婚約者だ」
ふわりと嗅ぎなれた香りがシャーリーの身体を包み込む。その温度に、声に、彼女は心が落ち着いてゆくのを感じていた。背後から彼女の手を引いた男性がその勢いのままに、彼女の腰を抱き寄せる。丁寧に整えられた黒い髪が普段は癖毛が強くふわふわと揺れることをシャーリーは知っている。静かな焦げ茶のまなざしが、溶けるような熱を帯びることも。
「待たせてしまって、すまないね」
耳馴染みの良いアレクシスの声がふたたび、耳元で吹き込まれる。湿度の高い声音が落ちる。
「婚約者って、もしかして認めていただけたの……?」
「もちろんだよ、シャーリー」
それまでの不穏な気配はどこかへと飛んでゆき、胸が嬉しさで満たされて膨らんでゆく。思わずアレクシスに抱きついてしまう。ひとの視線など気にもならない。
「ありがとう、とても嬉しいわ」
アレクシスがシャーリーの顔を上げさせ、緩んだ髪の毛をやわらかなゆびさきで戻した。
「ど、どういうことだ、アレクシス・ゴードン」
ディオンが動揺のままに声を上げた。第三王子である彼は、アレクシスが北部の辺境伯の嫡男であることを知っていた。そして、この国で辺境伯は国を守るために強い権力を持っていることも。
「そのままの意味です。彼女は私の婚約者ですし、これは正式なものです。学院内で彼女を守れず面倒ごとに巻き込んだ殿下には、彼女は譲れません」
それに、とアレクシスはディオンを取り囲む面々の顔を眺めた。
「とくに、あなたは自国の歴史を学びなおすべきですし、ご両親は困るのではないですか」
隣国の王子であるヘンリックに不敵に笑ってみせた。隣国から追放されたシャーリーの母親のことを、知っているのかと問う色を乗せて。実際のところ、都合の良い駒ではなくなったアイリスに、偽聖女であり、本物の聖女を不当に貶めたという冤罪を擦り付けて追放したのだった。残ったのは、欲におぼれた第二王子と獣を操る聖女、そして治癒能力者を失った王族と教会。
ヘンリックはそのことを知らず、聖女であるシャーリーの清らかさに惚れ、近づいたのだった。
「まあ、陛下にはこちらから手紙をお送りさせていただきますので」
「私たちはなにもしていないぞ!」
そうでしょうか、とアレクシスがローズマリーについと視線を送ったことに気が付いて、シャーリーもまた彼女の様子を伺った。今、ローズマリーの周囲には騎士団長の息子や宰相の息子である貴族令息の婚約者たちが控えている。
「本来の婚約者を蔑ろにし、罪を被せ、他の女性に言い寄っていたようですが」
「そうだ、私はシャーリーと将来を誓いあっていた!」
その言葉を聞いた途端、シャーリーの口から悲鳴のような言葉が零れた。
「そのようなこと、していません! わたしはローズマリーさまにこのことを相談しておりましたし、ローズマリーさまは違うと言い張りましたが聞いていただけなかったではありませんか」
彼らはローズマリーは犯人ではないというシャーリーに対し、「犯人を庇うなんて、なんて健気な……」と言っていたのだ。それは嫌でも耳に残っていた。
「わたしの話なんて、なにも聞いていただけませんでした。穏便に断ろうとしても、遠慮していると解釈されて。ね、本当よ、アレク。本当に違うの」
涙で言葉が滲んでゆく。アレクシスに縋るように見上げれば、分かっているというように、頷きがひとつ返ってくる。それに安堵するように、シャーリーはアレクシスに僅かに身を寄せた。
「シャーリーはディオンさまのことをそのようには見ていないようですよ。あなたの方は、わたくしを裏切っていたようですけれど」
しんとした鋭いまなざしがディオンを貫いていた。その視線にさらされて、彼は「違う、違うんだ」とうわ言のように繰り返すほかなかった。
「もちろん、あなたがたにつきましても、詳しいお話を聞かせていただきますわ」
ディオンを囲んでいた側近候補たちに視線を送ったローズマリーは背後に控えていた彼らの婚約者に頷いてみせた。彼らの婚約がどうなるのかは、彼ら自身はそれぞれ決めることになるだろう。
こうして、夜会での婚約破棄は幕を引かれ、夜会もまた途中で終わることになったのだった。
全てが終わったのち、シャーリーとアレクシスは中庭に出ていた。夜風がふたりを巻き込んで過ぎてゆく。月から、甘い香りが漂ってくる夜だった。
「来てくれるなんて、思わなかった」
「シャーリーから手紙をもらったときも、雲行きが怪しいとは思っていたんだ。そうしたら、ローズ嬢からも便りが届いてね。すべてを投げ出して来たよ」
「ローズ嬢?」
その親し気な言い方が引っ掛かり、シャーリーの声に棘が混じる。
「私もディオン殿下の側近候補のひとりだったから、何度か会ったことがあってね。ディオン殿下自体の下で働くのはごめんだったが、ローズ嬢には好感が持てた。頭も良いし、彼女が一緒でなければ、あのバカ殿下は使いものにならないよ」
そこまで告げて、アレクシスはシャーリーのジト目に気が付き、慌てたように言葉を続けた。
「シャーリーが気になるなら、その呼び方はもうしない。言っておくけれど、人物としての好感で、女性としての好感じゃない。あのタイプの女性は僕には荷が重い」
ふたりが並んでいるところを想像し、それはシャーリーの胸のうちをじくじくと苦しめた。そう、ふたりとも顔がよい。人形のような造形のふたりが並んで、うつくしくないわけがない。それと同時に確かに、似たもの同士のふたりが一緒にいると、あれこれと口喧嘩になりそうなことも容易に想像ができた。ふふ、と笑いが溢れた。それは気心の知れた友人の立ち位置だ。
その表情の変化に安堵の息を漏らしたアレクシスはシャーリーの耳元に唇を寄せた。
「それに、僕がずっと一緒に居たいのはシャーリーだけだから。横から掻っ攫われないようにここまで飛んできたんだ」
分かってくれるよね、と蜂蜜のようにどろりと甘い声がシャーリーの耳朶をくすぐってゆく。吹き込まれた声が熱を帯び身体中を駆け巡る。
「わ、分かってるわ」
「うん、良かった」
そっと、腰に回ったアレクシスの手に力が籠る。まぶたに落ちてきたぬくもりは、そのままシャーリーの唇へと重なった。
シャーリーは卒業までに治癒能力を制御できるようになり、辺境伯領に戻ったのち、アレクシスと婚姻を結び。アイリスの経験から、限りがあると分かっていた彼女たちは治癒を最低限にしか用いることはなく、アレクシスは国からシャーリーを守りぬくと誓った。そうして、家族とともに幸せに暮らしたのだった。
ディオンは謹慎ののち、ローズマリーと話しあいを重ね、そのまま婚約を継続し、ディオンは彼女の聡明さに何度も救われることになった。
これは、偽物と断罪された聖女と、その娘がほんとうの聖女であったはなし。そして、その顛末。
2024年の書初めのような一作です。
年始から、いろいろありますが、余裕のあるタイミングで楽しんでいただければ幸いです。
今年も、マイペースに書いていけたらとおもいます。