鼻歌姫の夢、覆面公爵の願い
フォーサイス伯爵夫妻はとても仲がよかった。
二人の愛し愛される関係に、彼らの子どもたちは呆れつつも幸せに感じていた。
中でもルナリアは父に溺愛されている母を羨ましく思い、いつか自分も母のように愛され必要とされる、そんな相手に嫁ぎたいと願っていた。
しかし、一方でこの貴族社会では難しいということも理解していた。家のために望まない結婚をすることも大いにあり得るのだから。
そして、セドリックからの求婚はルナリアを愛するがゆえのものではなく、ただルナリアの“能力”を求めたものだったことを知ってしまった。
ルナリアは取り繕えず、その場で涙してしまったが、今考えてみれば“能力”に対してだけだとしても必要としてもらえるだけよいのではないか、と思い直したのである。
セドリックからの求婚を受けたルナリアは表向きには公爵夫人としての仕事を覚えるべく、そして、実際には並行してセドリックの呪いを解くために、オルティス公爵邸に入った。
「ルナリア、よく来てくれた」
相変わらずの全身真っ黒な姿で出迎えたセドリックにルナリアはニッコリと微笑む。
「本日よりお世話になります」
「ああ、こちらこそよろしく頼む。そうだ、ルナリア。早速なんだが君に見せたいものがある」
馬車から降りる際に差し出された手にそっと手を重ね、引かれるままに案内される。
「これは……!」
屋敷の入口には向かわず、庭園を少し歩くと目の前に見えてきたのは見慣れたガゼボだった。
「ルナリアはガゼボが好きだろう?」
二人の出会いは庭園のガゼボだった。そして再会の日も。
セドリックはルナリアのために王城やフォーサイス伯爵邸にあるものと同じ形のガゼボを公爵邸の庭園にも設置していたのだ。
目をキラキラと輝かせて喜ぶルナリアに黒に浮かんだ黄金の瞳がまるで眩しいものを見るかのように優しく細められた。
「これなら君も鼻歌を歌いやすいだろう?」
「……ありがとう、ございます……」
(そっか……そうだよね。私は公爵閣下の“呪い”を解くために嫁ぐことになったんだから)
自分を想って造ってくれたわけではなく、呪いを解くために必要な準備としてだったことにルナリアは肩を落とした。
(でも私のためにというのは変わらないもの。私が歌いやすいように配慮してくれたのよね。偉そうにされるよりよっぽどマシだわ)
それからルナリアは毎日セドリックのためだけに鼻歌を歌った。
音楽家でもない、ただの令嬢の、ただの鼻歌に、今まではまったくいなかった観客が一人いることを最初こそ恥ずかしく気まずく思っていたのだが――習慣というものは偉大である。
二人だけで過ごす時間を重ね、お互いの話をしていくたび、ルナリアはセドリックの何気ない気遣いと優しさに、そしてセドリックはルナリアの明るく清らかな心に、惹かれ合っていった。
今では二人だけのティータイムのときすら、何気なく鼻歌を口ずさんでしまうようになっている。
それほどまでにセドリックの隣はルナリアにとって居心地のよいものになっていた。
しかし、お互いに想いばかりが大きくなってしまい、それを伝えられずにすれ違っていた。
(治療が終わって完治したら――私は必要なくなっちゃうよね)
最近、セドリックは手袋を使わなくなった。もちろん二人のときだけだが。
セドリックが“呪い”をかけられてから、屋敷内の肖像画などはすべて撤去され、保管庫にしまわれていたため、彼がどんな顔をしているのか、ルナリアには見当もつかなかった。
ただ治療が終われば覆う必要がなくなる。
二人でいるのは心地よく楽しい。できることならば、ずっとセドリックの隣にいたい――でもそれは迷惑ではないだろうか。
辺りが薄暗くなってきたガゼボにて、話が途切れたところでルナリアはセドリックに問いかけた。
「日に日に軽装になっておられますね……今はどのくらい戻っておりますか」
「まだすべてを見せることはできないが……」
最初の日にしてみせたようにセドリックは上着を脱ぐとそれを椅子の背にかけ、シャツの袖をまくり上げる。
そこには両手と同じ綺麗な腕が現れた。
◇◇◇◇
“同情”――。
ルナリアがセドリックに抱いているのは“恋心”ではなく、“同情”であると。
ずっとそう思っていたセドリックではあるが、だからといってこんなにも自分の心と身体を癒やしてくれるルナリアを、もうすでに手放すことなど少しも考えていなかった。
だから、すでにほとんど良くなった素顔を隠し、本当の自分の姿でもう一度、彼女に求婚しようと心に決め、準備をしていたのだ。
婚約して、ちょうど一年目の記念日。
「ルナリア」
先にガゼボに来ていたセドリックに優しく微笑みながらルナリアは近づいてきた。
ルナリアが目の前まで来るとセドリックは徐ろに覆面をはずした。
自分の素顔はルナリアの好みの顔だろうか。
そんなことを考えていると、驚き固まっていたルナリアの表情がハッと我に返った。そして頬に一筋の涙が溢れる。
それを“呪い”が解けた喜びの涙だと思っているセドリックと、力になれたことへの喜びだけではなく自分の存在が“不要”になってしまった哀しみの感情が入り交じったルナリア。
セドリックはルナリアの前に跪き、そっと手を取った。
「ルナリア。俺と結婚してくれるか」
「な……何で……?」
「やはり……無理やり婚約させていたのだな。公爵家からの縁談は断れないから」
うつむいたセドリックにルナリアは慌てて首を横に振る。
「いえ、そうではなく……呪いが解けたのであれば、閣下はもう自由です。私のような貧乏伯爵の娘などと無理に結婚する必要はありませんわ」
「貧乏? ……誰が?」
「うちの伯爵家はもちろんのこと。その……公爵家も……経済的には厳しいのでは?」
「……は?」
「……え?」
ポカンと二人で見つめ合う。
「ルナリア。君はなぜオルティス公爵家が財政難だと思っているんだ?」
「ええっと……こちらのお屋敷、外観は美しいのに内側はうちの伯爵家と同じレベルなので……」
セドリックはハアと頭を抱えた。
「ルナリアはフォーサイス伯爵家が財政難だと思っているのか?」
「ええ、とても貧乏ですわ!」
「どこが!?」
首を傾けたルナリアにセドリックは大きくため息を吐いた。
「いいか? オルティス公爵家は金に困っていない。そして、そんな我が家と同じ家具や調度品を使っているフォーサイス伯爵家も金に困っていない。……むしろ伯爵家とは思えぬほどの資産を持っているだろうな」
「ええ?!」
驚愕するルナリアに思わず口元を隠し、セドリックは込み上げる笑いを堪えた。
「俺はルナリアが好きだから求婚している」
丸くした目をますます大きく見開く。そしてすぐに顔が真っ赤に染まった。
「この一年で結婚式の準備は整っている」
「え……?」
「あとは君が頷くだけだ」
「ええーっ?!」
セドリックがあらわになった素顔でその口元を緩める。細められた金色の瞳は今までと同じ優しさと愛しさで溢れていた。
「ルナリアが頷いてくれなければ、最高級の白生地で作ったドレスと揃いのタキシードが無駄になってしまうな」
なかなか返事が聞けないセドリックが畳みかけるようにいうとルナリアは目を見開き瞬かせた。
「ずるいですわ……公爵閣下」
「“セドリック”」
「えっ?」
セドリックは寂しそうに目を伏せた。
「ルナリア。君がここに来てから一度も呼ばれたことがない。……知っているか? 俺の名は“セドリック”だ」
「そんなこと、存じ上げておりますわ」
「では、名前で呼んでくれ」
目の前の金色の瞳は、懇願している。
この一年でルナリアはセドリックの表情が見えなくても、その瞳を見ただけで感情が分かるようになってしまった。
セドリックは素直で優しいまっすぐな人だ。
例え呪いが解けていなくても、覆面のまま、身体中が赤黒くただれたままだったとしても、その内面の美しさを知ってしまったルナリアは、彼とずっと一緒にいたいと思っていた。
「喜んでお受けいたしますわ、セドリック様」
黒い覆面がとれた公爵の、今までの生涯で一番の微笑みに、見惚れてしまい、鼻歌を忘れた姫はいつの間にか恋に落とされてしまったのでした。