現在と過去と《side 姫》
「おはよう、ルーナ。昨日は随分早く帰ってきたようだけど、何かあったのかい?」
久しぶりの舞踏会だったというのに、いつものルナリアからは考えられないくらい早く帰ってきたと従僕から聞いた長兄ルイースが、朝食に顔を出したルナリアに問いかけた。
夜会に出席したときはほぼ明け方に帰ってくるため、朝食もいつもにない行動なのである。
ルナリアが苦笑いすると、心配した次兄ルオリオが顔を覗き込んできた。
「顔色が悪い」
ルナリアは慌てて首を振った。
そんなはずはない。昨夜はお酒もそこそこに、早めに帰ってきたのだから。
「大丈夫ですわ」
余計な心配をかけまいとルナリアはニッコリと微笑むと、ルイースはスッと目を細めた。
「巻き込まれたのだろう?」
ルナリアは目を見開いて眉をハの字に曲げ、小さく息を吐いた。
長兄はいつもそうだ。すべて分かっているくせにルナリアの口から言わせようとする。
「ルイ兄様。分かっていらっしゃるなら私に聞く必要はないのでは?」
ルイースは困ったように笑って、肩をすくめてみせた。
「ルーナから聞きたいんだよ。いつも僕らを頼ってくれないじゃないか。別邸にいるときくらい、頼りにされたいんだけどな」
王都にあるフォーサイス伯爵邸は母方の親戚から別邸として譲り受け、今は王城で働く兄二人が主に暮らしている。
領地の屋敷と比べると小さく質素な屋敷だ。外観はいかにも貧乏貴族を思わせる――のだが、あくまでそれは外観と共有部分のみ。フォーサイス家の者たちが使う各私室は美しく洗練された家具や調度品で揃えられていた。
いまだそれに気がついていないのはルナリアだけであるのだが。
「それで? 昨夜は何があったの?」
「先ほどルイ兄様がおっしゃっていたとおりですわ。少々絡まれただけです」
「厄介な相手に見つかってしまったようだな」
「ルオ」
ルイースが言葉を遮ると、ルオリオは黒縁の眼鏡をくいと上げた。
(ルオ兄様……今、厄介な相手っていった? ……やっぱりか!)
しかし『巻き込まれた』というのはどういう意味だろう。絡まれた、という方が正しい気がする。
ルナリアが首をひねると、基本無口なルオリオが「大丈夫だ、心配するな」とルナリアの頭をそっと撫でた。
二人の兄はいつまでたってもルナリアを子ども扱いしてくる。だから頼りたくないというのもあるのだ。
「お兄様方は夜会での“噂”をご存知ですの?」
「“噂”?」
昨日の舞踏会で気になったのは、真っ黒な彼だけじゃない。
「ええ、“幸せを運ぶ鼻歌姫”の噂、ですわ」
「あれか……」
ルイースは「もちろん知ってるよ」と小さく微笑んだ。ルナリアは表情をムッとさせる。
「知っていたら、教えてほしかったですわ」
「なぜだい? もしかしてルーナも聴いてみたいの? 噂の鼻歌を」
先ほどよりも笑みを深めた長兄にルナリアは確信した。
――これはもうすでにバレている、と。
◇◇◇◇
(鼻歌の)始まりはルナリアが幼少期へと遡る。
敷地内のガゼボでダンスの練習をしていたルナリアはイチ、ニー、サンのカウントから何気なく鼻歌を歌った瞬間、ビリビリと身体を雷に打たれたような電撃が走った。
(――この感覚……! 知っているわ!!)
まるで湯船に浸かりながら歌ったときのような、あの反響音。そして、得も言われぬ気持ち良さ。
その日からガゼボでの鼻歌ダンスがルナリアの秘密の日課となった。
ある日、王城でのデビュタントに出席したルナリアは静まり返った庭園で、実家の敷地内にあるのと同じ形をしたガゼボを発見し、嬉しくなってついその中心で鼻歌を口ずさんでしまった。
――そこに先客がいたことに気づかずに。
田舎の貧乏貴族の娘。
父にエスコートされて出席したはいいのだが、場違い感が否めないうえ、挨拶が済んでしまえば一気に退屈になってしまったルナリアは、そっとホールを抜け出した。
元々、田舎の領地から出たこともなく、野山が庭代わりで走り回って遊んでいたため、最初こそキラキラと輝く初めて見る世界に感嘆していたのだが、どうも堅すぎて息苦しくなってしまった。
外の空気を吸うために庭園へ来たのだが、領地の屋敷を思わせるガゼボに少々油断したようだ。
(〜♪ ……!)
気持ち良く鼻歌ダンスをしていたら、芝が踏まれる音が近づいてきたのに気づき、ルナリアは自慢の瞬足でその場から瞬時に逃げ去った。
(大丈夫、姿は見られていないはず……!)
まさか、誰もいないと思っていた庭園に人がいたなんて。庭師か使用人ならばよいのだが。
薄暗い庭園。月明かりだけがふんわりとガゼボを照らしていた。だからきっと大丈夫だ。
ホールに戻ったルナリアは何事もなかったかのように軽食をつまんでいく。変な緊張感と小さな達成感を味わっていると、
「ああ、ルナリア。こんなところにいたのか。心配したよ」
「お父様」
探し回ってくれたのだろう。額に少し汗が滲んでいる。何も告げずに出てしまったのだ。しかも初めての場所。心配するに決まっている。
「ごめんなさい」
「ルナリアが無事ならいいんだ。しかしあまり離れてはいけないよ」
「分かりました」
このときルナリアはまだ知らなかった。
自分の鼻歌には特殊な効果がある、ということを。