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翼を溶かしながら飛べ(中編)  作者: 葩谷 楽文
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-精油と思索の反転-

第4章 隠者:The Hermit



17歳……。細く断続的に組み替えられる「年齢」。逃水(にげみず)のような「現象」に近い。

村沢橙夏(とうか)は、カッターで縁切りしたかのような気難しい遮断をもってして呟いた。そこはかと現実味を帯びない。

16歳……。ある種の業界で働く人間のように、年を重ねることがしゃくにさわる。鉄が打たれる音とシンナーの臭いででふと我に返ると、暖簾分けした苦々しい感情が今度は外の熱気に向かった。

6月末。香港。冷房の効き過ぎた地下鉄に揺られ、石柱の婚姻石で恋愛成就アップを狙って女子4人で参拝後、橙夏たちは中環(セントラル)から尖沙咀(チムサーチョイ)にようやく到着した。地上に出て歩いていても、寒さは皮膚の中に残っている。芯から冷えた。橙夏はバックパックから上着のパーカーを取り出して肩を竦めながら羽織り、隣のレイチェルの腕にしがみついて暖をとろうとしている。

MTR尖沙咀(チムサーチョイ)駅A1出口から外に出る。雑多な海防道を渡り、西へ歩き、2本目の漢口道に入り、50メートルほど4人で歩いていた。

「ヘイ、マイレイディーズ」統率する高鍋(たかなべ)望埜(のあ)が3人の顔色(きもち)を視ることなく、居丈高に声をかけた。「ここにしよう。もう腹減ってマジでヤバいしね」目から鼻へ抜けるように額にこびりつく前髪を指の腹で数回左右に振って、ふわりとさせた。

「そうだね」

一同が過酷な冷房の反応として、鼻水をすする。寸分違わぬ同種類の口角の緯度を保ったまま、同意の証として器用に笑顔を作ってみせる。まるで、『笑え』というボードを、望埜の後ろで誰かもうひとりの彼女が上げているような、引きつった笑いだ。中国系アメリカ人のレイチェルが、隣のタイ出身のパットの左手に自分の腕を絡ませながら賛同する。2人とも身体のラインがはっきりと見えるピンクと緑のポロシャツの襟を立て、まるで孔雀の雄と雌のように(つが)いになって離れないでいる。

彼女たちの腕にはお揃いの緑色に光るものが見える。翡翠のブレスレット。上空の白縹の雲よりも重く同調圧力(ピア・プレッシャー)が両肩にのしかかった。

ほぼ満席で活気のある店内のガラス鏡が壁に敷き詰められたエリアに通された。点心の蒸しに蒸された香しい匂いが充満している。テーブルに着くと、早速、麺とマンゴープリンを注文する。すぐさま望埜はポータブルデバイスをテーブルに出し、昨夜たまたまヒットしたというファッションコーディネーターのサイトの悪口をまくし立て始めた。

そもそも、橙夏の父親にボーディンスクールを提案してきたのが家族ぐるみでつきあいのあったこの望埜の父親だった。2人は東京の大学の1学年先輩と後輩にあたる。よく、橙夏の父が当時、金のない高鍋をよく世話していたようだ。

「ねえ、橙夏。これ、アレじゃない」望埜が嘲笑を浮かべる。悪口に違いない。

「ウザイよね。貧乏くさい顔。というか、東京でがんばってますって感じ」

尻上がりで語尾が伸びるような口調は、彼女の歪んだ優越感と嘲りの象徴だ。甘噛みするように対象の相手をしがむのを常としている。飽きたら吐き出す気だ。

「もう大学決めたの」

 意図的に話を替える。

「このままアメリカにするか、でもやっぱり田舎はもうたくさん! やっぱり東京が一番いいよね。住みやすいし。マジで都会だしさ」

 とりあえず別れられればどこでもいい。

「学校のアカデミックアドバイザーに紹介したら、やっぱ、アメリカのカレッジが望埜にはフィットするって。でもねー、別に普通にイケるとは思うけど、もう3年間ボーディングで缶詰だったから日本でアソビまくりたいよね! でも、そうするとジェフが寂しがるからさ。日本来るとか言ってんのよ」

「スウィート」

「ウェイト! 全然スウィートじゃないし、マジでちょいスプーキーでしょ」

束縛を予想してせっかく離れているのだから自由に遊びたいという意思が見え隠れする。

「確かに、そうだねー」

 橙夏は同意を示さなければ話がこじれると思った。

「かなりジェラスなんだけど」

「なんで」

「レイチェルよ。知らないの? 世界をほとんど牛耳ってるのって実は中国人だって」

 気づかれないように、彼女は舌打ちをしながらレイチェルを視た。

「マジでアンフェアだわ。ほんとヤバいくらいありえない」

「すごい」橙夏は意味もわからず太鼓を持った。

「トレーダーとしてなかなか儲かってるってさ。ママが言ってたから。つまんないの。権力がないからね。逆に政治家って言うのは権力はあるけど、お金はそんなに稼ぐ才能なんてないから。頭悪いし。だからタッグ組んだら最強なのよねー」

 意味もわからず肯く。

「レイチェルみたいにSATとかTOEFLを家庭教師をオンラインでつけて勉強とかできないし。一応帰国したら通うんだけど、橙夏も一緒にいかない? パパに話しとくけど」

彼女がパソコンのキーボードを打ち始める。父親へのメッセージだろう。

「橙夏は病気で学校休むわりにはGPAも悪くないでしょ? まじムカつくわー」

「いや、ちゃんと勉強してるから」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔を望埜が浮かべる。

「ウェイト! 何? ウチが勉強してないって意味!?」

修正するのがもう遅そうだ。

「マジで、何を知ってんの!? 調子乗んないでくれる? マジありえないんだけど……」

「いや、そんなこと言ってないよ。望埜がバカにするからだよ!」橙夏は啖呵を切るような口調で言った。想いとは裏腹な行動が出てしまうのが人間だ。

「……ウェイト! バカにしてんのマジでそっちでしょ!? 誰が口きいてアンタをスクールのオケのメンバーにしてあげたと思ってんの!? ダミット! 成金のくせに」

一泊の流れる沈黙が、とどめを刺す低い声にその座を明け渡す。

「言っとくけど……望埜のSNSのフォロワーの数、知ってるよね? 望埜を敵に回すとマジで怖いからね……」彼女は額と目の下に力を込めて憎しみを湛えた。

 ――17歳。現実は大人たちが憧憬の思いで見つめているよりもえげつない。

橙夏は応急措置ですぐに謝った。さらに相手が喜びそうな話題を振ろうと頑張る。

「それで、望埜はセンス高いからアート専攻?」

 自尊心をくすぐられたのが容易に見てとれる。

「才能あるかなー」

 昼寝していたような惚けた顔して悦に入っている。

「うん、あるよ。絶対」

「でも、確かに、そうね。望埜はファッション専攻にしようかなーこの人みたいな仕事、やりたいなー」

「いいねーうんうん。ファッションセンスあるし、いいと思うよ!」

橙夏は張った顎を両親指と人差し指の間の水かき部分にはめて、合わさった両人差し指に鼻をおしつける―。橙夏がこれ以上喋るまいと決意したときに必ず行う癖だ。

 数十分経つと彼女たちのテーブルに全ての料理が出そろった。箸をもって食べようとする。が、意識が遠くのテーブルに移った。

窓際に座る男。秒針は円を6回ほど描いた。しなやかな動き。意識が行き届いている指。無意識的に動くことがなく、収まるべきところに収まっている。まるで荒事の舞のように。

橙夏は、ふと喉が乾くのを覚えて、ジュースを飲もうと手を伸ばす。カチンと乾いた音が響いた。左手にしているヘルメスの(ケリュイオン)のような葡萄色(えびいろ)のバングルとガラスが衝突した。物事との距離感を常に考える橙夏にとっては考えられない。いくら持ち運びする抗うつ剤を飲んでも、物に自分の何かが自分の意志と裏腹にぶつかることはなかった。それは、唯一自分を自分たらしめる特徴だという自負がある。

橙夏は自分の内側に意識が向いていたので、名前が呼ばれているのに気づかなかった。

「橙夏! 橙夏! ちょっと、アレ見てよ」

言われた通り、自分の意識を入口の方向に向けてみる。突然、耳に大きな音が届いた。怒声が響く。隣のテーブルのカップルが不愉快そうに下を向きながらその隣のテーブルの男を視ている。父親が娘を怒っているようだ。しかも周りへの配慮をみせずに。それを母親だろうか、弟と一緒になって止めようとしていた。

みるみるうちに橙夏の身体の臓器が縮み上がってくる。

男は女の子の髪の毛をひっぱり始める。店員も近づこうとしない。すると、店内の入り口からみて、窓側の左のところにひとりで座る美しい顔の男が動く。橙夏が眺めていた男だ。その彼がテーブルに近づいていく。橙夏はたちまちその男の存在感に魅せられた―。

180センチは優に越える身長だ。慌てて後を追う小太りの男がつまずきそうになっている。感情が豊かそうな分厚い唇。相反するやるせない眼差し。共感できるものがある。アーモンドの形をした目が中央に位置しており、目元には静まり返らせるような威圧感が宿っている。その目が叫ぶ男をずっと見返しながら距離が縮まっていく。必然的に、次から次へ引き波のように、客たちの動きが一時停止する。雲の流れが嘲弄する様にひと息で変貌し、店内が靄の中に迷い込んだようだ。

その背の高いひょろりとした猫背の男が立ち止まる。目にかかっている前髪。細長い肢体。橙夏のテーブルからは見えないが、叫ぶ男性の前に立ち、子供たちの背中越し男の真向かいに位置するように仁王立ちになった。

各テーブルの上からつり下がる電球がチカチカッと点滅する。口が動いているので、何かを話している。電源の周波数が変動しているのか、話している間もずっと電球は点滅したままだ。受け流していいほどの現象ではない。ほぼ間違いなくあの男が関わっていることをほぼ全員が、一時停止から徐々に五感が解放されて感じ取っていた。

橙夏はこめかみをおさえる。偏頭痛を沈めるためだ。迷いなく左指から中指、中指から人差し指……もう一度繰り返す。それから垂直に力を入れたり、撫でたりを繰り返す。

何度目かの人差し指にさしかかったところで、一瞬空中で指がとまる。

立っている男が女の耳に何かささやいている。すでに怒鳴っていた男は腰を抜かしたように椅子に座り込んで驚愕の表情をみせている。

その女のテーブルの下のフロアにぽとぽとと水のようなものが落ちていく……。憔悴しきった顔でだらしなく口が開いて、目は白目を剥いていた。急いで、我に返ったのか、父親にも他の家族に見向きもしないで、自分のハンドバックを引っ手繰るように掴んでそのまま外へと走っていった。

数秒経つと、橙夏たちのテーブルに淫靡な匂いが届いた。

羞恥と吃驚、心地悪さと夢心地、戦慄と性的衝動、恐らく融解することのないそれら全てが炉心で入り混じったような匂いだ。

わざと音をたてながらスプーンを運ぶ。自分の年齢へのもがきを(なぞら)えたような、ぐちょぐちょに――麻婆豆腐と見紛いそうなほど――化けたマンゴープリンが橙夏の前で微かに揺れていた。


今にも雨が降ろうとたくらむ雲が空に滞る中、離陸体制が整う。

橙夏は引き返せない身体をさらに強張らせる。数秒先の未来を想像した。乗っかろうか抗おうか考える。まず立ち上がる。叫ぶ。発狂する。キャビンアテンダントを振り払う。窓の壁に頭を何度もうちつけて血を流す。そして失神する。それらが、今、目の前だ。

窓を眺めて抑えようとする。すると、窓際の男性と目が合った。夜桜のような幽玄な2つの瞳が橙夏を見ている。息を呑んだ。

『もしかして――窓際、変わろうか』

橙夏は虚ろな目で、何も言わずに肯く。

『一度通路側に出るんだ。この子に窓際を譲る』

『なぜですか、窓際でないといけないんじゃないんですか』

『私は大丈夫だ。彼女、このままだと失神してしまう。隣の貴様がケガをするぞ』

窓際の席に着くと、ちょうど機内アナウンスが流れる―。雲の切れ間から青空が顔をだしてくるのが窓から見えた。「滑走路」という言葉を聞いて、今一度身体に緊張が走る。ふと、自分の足元に目を移すと、スニーカーの靴ひもが解けていることに気づいた。橙夏が前のめりになると不快感が胃のあたりに襲った。

『君、名前は』

「えっ。あっ、トウカ」魔法のような香りが優しく橙夏を慰撫した。横隔膜がしゃっくりのときのようにひくっとなった。

彼は足元に手を伸ばした。ブライドルレザーと真鍮の金具の光沢が際立つタナクロール製のアタッシュケースが置いてある。それを長く華奢な指で優雅に引っ張り上げて、中から小瓶を取り出す。思わず橙夏は「あっ!」と声をあげた。驚くのは周りだけでなく、橙夏自身が一番驚いた。慌てて口を隠す。「窓際の男」だ。

その窓際の男はその小瓶の蓋をあけて、左手の平を返して、その中央のあたりの点から垂直に瓶をもっていき、そこで傾ける。ゆっくりともったいぶるように、ぽとんと掌に2滴落ちてから、両手で擦り合わせ、その掌を橙夏に向かって差し出した。その掌に橙夏は自分の鼻を近づける。

すると、鼻腔に、一寸先の闇を蹴散らすに等しい力強さと穏やかな香りが通り抜ける。そして脳天まで突き抜けた。何も言わず、ふたたび吸い込むと、今度は肩、背中、3回目で下腹部のあたりにその香りが充満していく。

『ラバンデュラ・アングスティフォリァだ』彼は口許に笑みを浮かべて言った。目の色はさっきよりも透き通っている。

『私はこれのおかげで冷静でいられる』と言って、また少しだけ微笑んだ。

「さっきの香りは――悪阻みたいな吐き気が治まったんだけど……」

『肉体的にも精神的にも心を落ち着かせる。自分の心の操縦桿を自分のもとへ戻してくれる』

「ラバンデュラ」鸚鵡返しでその説明ではまだわからないことを示すと、「ラベンダー」という聞きなれた言葉が入ってきて、ようやくひとつの問題が整理ができた。

『どうやら手首のところに傷をしているみたいだな。ラベンダーは皮膚の再生能力に優れている。それに感情や気分の回復が目的であれば、ドイツ式の治療方法が一番だ』

「へー」彼は橙夏の手首を見て言った。

『手をだして』

反応的に両手を差し出す。すると、そこに一滴、瓶からさきほどと同じ方法で滴が手の平に落ちる。人肌のようなぬくもりが手の平にひろがる。

『両手の平でこすりあわせながら広げてから耳の後ろに塗ってごらん』

言われた通りにすると、しばらく夢うつつな状態が続いた。橙夏は急激な眠気が訪れたようで目を開けたままそのまま死んだように眠った。

憑き物が落ちたように眠る直前だった。隣の男があの店のテーブルに近づいていった男だと気づいたころには、橙夏の思考は沈滞し始めたところだった。

紺碧の空下に成田空港が見える――。

国際線搭乗ゲート前には、家族連れや中高年グループが目立つ。橙夏たちは手荷物受け取りの方向へ、男たちはそのまは出口の方へと進む。

 搭乗ゲートではパリ行きの搭乗案内が少したどたどしい日本語で、続けて英語、最後に流暢なフランス語で流れている。

「……あの、えっと……どこで会えますか」

グループからひとり外れて小走りでやってきた橙夏は、右手で羽織っているパーカーのジッパーを胸のあたりで上げ下げしながら訊いた。少し震えるような声だが、バックパックの取っ手の部分を強く握りしめながら返答を待ち続けている。

名刺を差し出すように男が指示した。もう一人の男が胸ポケットから光沢(ひか)る本革の名刺入れを取り出した。名刺よりも深みのあるブルーの名刺入れの覚めるような美しさが際立つ。

《erbe》という名前と住所が表に書いてある。裏面には絵。左右に赤い実と緑の葉をたくわえた木が描かれ、上下にはアラビア語の文字が並んでいる。中央で錬金術師らしき男が右手を口元にあてながら、左手でなにやら壺にある液体らしきものをかき混ぜている。

『近くまでもし、寄ることがあったら来たらいい。気に入るよ』

「嘘? やった」名刺の薄さと同じくらいの控えめな声で小さくガッツポーズをする。

男は無表情のまま一度も振り返らずに去っていった。



都内のマンションにようやく着くころには夜の底がみえた。

 ビル風に吹き飛ばされそうになりながら、ステッカーが何枚か貼られた白のトローリーケースを引きながら歩いていると、車輪の音が響く。3階部分まで突き抜けた天井の底まで響く音に嫌気がさしながら、エントランスホールを抜け、カードキーでレジデンス用の入口の中に入って、エレベーターを待った。時刻は7時を廻っていた。

 瀟洒なインテリアに囲まれながらも、蒸し暑い室内は()え臭さが充満していた。鼻をおさえながら、窓を全開にしてベランダに逃げようとしたときに、ふと白い紙がダイニングテーブルの上に置いてあるのに気づいた。

《おかえり。好きに使って。病院ちゃんといってね。明日の午前11時に丸の内で予約済。母親としての責任よ。私にとって―》

 読み終わる前に、次をめくる。地図と行き方がプリントアウトされていた。「国立精神・神経医療研究センター病院」と大きく病院名が赤のカラーで印刷され、うつ病専門の担当医の名刺がその用紙にクリップで止められている。丸めて静かに元の場所に戻した。

そのままベランダからぼんやりと、虹色に燿るレインボーブリッジを見据える。夜をどうやり過ごそうか、いくつか候補を頭の中で並べる。レイトショー、マンガ喫茶、深夜営業している渋谷のホテルにあるプール……。

そうしていると部屋のベッドに投げた携帯が鳴った。

橙夏は着替えるのも億劫で、そのまま掛け布団の上に身を横たえた。仰向けの姿勢になって目を閉じる。しばらくそうやって身動ぎ一つしなかった。瞼の裏にシーリングライトの丸い輪郭が滲んで入り込む。ライトに背中を4分の3ほどむけて、自分の枕についた右頬の数歩先をしきりに正視した。自分の影を左手のひとさし指の腹で撫でるように指を動かし、それから瞼を閉じた。

天空は黒というより雲に覆われ乳白色を咥えている。目を覚ましたのは零時を2時間も過ぎたあたりだった。結局2時間しか眠れなかったということだ。小考する。レイトショー1本がちょうど終わるころの時間だ。

しばらく目を閉じたり開けたりしてみたが、やがて諦めて身体を起こし、鞄の中をごそごそと何かを探し始めた。目当てのものが見つかると、冷蔵庫でペットボトルを探す。ミネラルウォーターのペットボトルを半分まで一気に飲み干すと、視界に異物が混入した。飲みかけのワインのボトルが冷蔵庫に入っていた。

ひどく黒く赤い液体に自分の顔が反射される。不愉快そうにキャビネットのところに進み、4つあるワイングラスをキッチンに並べてただじっと精査した。2つだけが少し食器用洗剤のシミのようなものが残っている。すとんと暗い段ボールに自分を落とし込むようにしゃがみ込んだ。

そのとき、さらなる直感が白く淀んだ事実を告げた。

目の前にはちょうど自分が体育座りになると同じ背丈になるダストボックスが置いてある。中身を漁る。一番底にティッシュに包まれてコンドームが捨てられていた。

ペットボトルを床に投げ捨てた。飛び上がって財布と携帯をもって、急いで外にカップ付きのピンクのトップスのまま飛び出す。1階まで降りるとカサックカサックという床の大理石とビーチサンダルが不協和する音が響いた。

30分後部屋に戻るとビールとタバコをベッドの上に放り投げ、チョコレートは明日の朝食の代わりにとミネラルウォーターと一緒に冷蔵庫に入れた。

梅雨のじめじめとした湿気のせいで、背中にブラウスがくっつきそうだったので、たまらずエアコンのリモコンを探した。が、どこにも見当たらず、しょうがなく諦めて窓の外に出ることにした。ベランダのガラス製の椅子に腰掛け、両足をテーブルの上にのせる。気温は24度近くあり、熱帯夜さながらの気候だ。煙草をもう1本取り出して2口ほど吹かしてから、吸う気がなくなったとばかりに爪弾きにした。じめじめとした暑さと高温の火が近くに暗闇にむかって燃えて落下する小さな炎は、下方では3人の風が雁首をそろえて消し去るだろう。

遠くに見える高層ビルの窓の光を下から追っていき、やがて屋上まで舐めるように観察すると、別の赤い火が何個も確認できる。視界にはいるだけのそれらの航空障害灯の赤いランプの数を順番に数えてみる。ようやく別のことが脳裏に浮かんでやっと呼吸が少しだけ楽になったのは2本目の煙草を根元まで吸っている途中だった。

部屋の中に戻り、スーツケースから取り出した瓶の中から錠剤を取り出す。パチン、という音をたてた。キッチンで包丁を取り出し、白く丸い錠剤を切り刻む。4分の1ずつ。そして買ってきたミネラルウォーターと一緒に呷る。

その気はなかった。

寝室に入って着替えると、ベッドに横たわる。ボア素材のピンクのショートパンツの中に右手を差し込んだ。乾いた音がした――。

枕をひっくり返したのは、やや冷たい面に額から突っ伏す形で現実と対峙するのを拒むだめだ。シーリングライトは全灯のまま目を閉じる。そうして眠っているとやがて深い眠りの洞窟へと落ちていった。

目を覚ましたのは、正午を過ぎた午後1時をまわったところだった。目を擦った手に昨夜のにおいが残っていて、橙夏は急いでキッチンにいって、洗剤で手の皮がむけるくらいに鬼の形相で消毒した。勾配のまるでない日常そのものだった。


 玄関で物音がしているのに気づいたのは、早紀が鏡の前で洋服を合わせているときだった。 

 トラバーチンタイルを敷き詰めた床を誰かが歩く足音がする。時刻は午後2時前。夕方からの東京商工会議所主催の講演会の前には美容院に行きたい。外着をクローゼットにかけなおして、ジーンズとブラウスのラフな姿で玄関に向かった。

 横隔膜が派手にひくついた。久しぶりの驚きだ。

「そんなに娘に会うのがめずらしい」

 ポケットに手を突っ込んだ娘は、ヘアスタイルを整えるのも億劫なのだろう、ポニーテールにして上からフードを被った姿で玄関に立っている。迂闊にも驚きすぎたことに、ひそかに反省した。

「なに、その恰好……」

 しかめっ面で娘を眺める。

「いいじゃん、別に。ただ会いに来ただけだから」

 鼻を臭そうに抑えている。いまさっき香水をつけたからだろう。

「もう少しちゃんとしてよ」

 言い終わると同時にリビングからカチッという音がした。電気ポットの音だ。一瞬気を取らている隙に、訪問者は隣を音もたてずに通り過ぎた。

「また、誰に似たのかしら、あいかわらずの憎まれ口が好きね」と背中を睨みつける。

 いつから子供を愛せなくなったのだろうか? 

 愛や受容を被害者意識が勝ったのはいつ頃だろうか?

 夫に娘のボーディングスクール入学を提案されたときは、本格的な仕事復帰がやっと叶うだろうと、異議を挟むこともしなかった。母親である前にひとりの女であり、ひとりのビジネスウーマンだ。自分の感情や意志は尊重されるべきなのだ。

 それに、産まれてきて数カ月、授乳と寝かしつけでほとんど一日が終ってしまう日々だったことを考えれば、思春期に入って、その恩を仇で返されるような言葉を投げかけられ確執が生まれてしまうくらいならと思い、海外に出した。

「そうさせているのは誰だっけ」

ぼそっわざと力を抜いて言う。天邪鬼さに早紀はいささか苦笑した。

「それで学校はどうなの? 勉強はちゃんとしているの」

「普通よ―」

すぐさま「普通って」と訊いた。しかし、その質問にはただ首を傾げるだけで、きょろきょろと物色するように部屋の中に視線を送っている。

「普通じゃ少しママ困るわよ」語気が強まる。

「なんで」質問ではなく反抗の狼煙(のろし)だ。

「良い大学に入らないと未来はないも同然よ」

黙ってキッチンに行く。戸棚からティーバックとマグカップを取り出す。そして早紀が自分のために沸かしたお湯を、慣れた手つきで注ぎはじめた。

自分に都合の悪い状況から逃げるならばまだかわいい。無視をするのが現代の若者の傾向だとすれば、手のつけようがないと、内心思った。

「親がそういうこと言うのはね、子供の未来が、自分の頑張り次第で幸福にも不幸にもなるのを知っているからよ」

「子供が何考えているか知らない大人がよくそんなこと知ってるんだね」

 ずずずと音をたてながらマグカップを口に運ぶ。

「おじいちゃんだってママによく言ってたわ」

 ひとつ間をあける。我ながら、何百人を前にした講演のようだ。

「『勉強した人間と人様を大切にする人間が勝ち続けられる』って。いま思うと、ほんとそれを言われて育ってきたから今のママがあるの」

 講演と唯一違うところといえば、深刻な説教口調にならないように、わざとピアスをつけながら片手間を演出したという点だ。それでも娘は無視して、テレビのリモコンにおもむろに手を伸ばしザッピングしはじめる。そのままソファに深く座り直した。

もし母が生きていてくれたら……。

昔の、壁に背中をくっつけて泣いていた子供時代がふと早紀の脳裏に蘇った。

あれだけ残酷な事件を経験しても、その子供は立ち直った。そして、今こうして立派に生きている。

だとすれば、なぜ娘はそうではないのか? 

できることなら、心療内科に通わせずに救ってあげたかった。しかし、自分が精神的に弱っていることさえも無視する相手を、一体どう救えばいいのだろう。それに、何よりも母と娘の思春期の繊細な距離感を経験できなかったことが、こうして自分と娘との間に影をおとしている大きな原因だと考えずにはいられなかった。

「ママがよく行くお隣の国々なんて、大学戦争はテストの1点を争うらしいわよ。その1点で未来が決まっちゃうんだって、そこが日本との違いで、一発逆転なんてないらしいのよ。20歳手前で40歳とか50歳の自分の姿が(くさび)で打ち込まれるんだから」

 今日の講演のテーマを予行演習している自分が内心おかしくなってきた。

「あなたの教育にはお金を運のいいことにかけられてるの。アメリカの大学にそのまま進んでいいのよ。だから、お願いだから病院――」

「静かにして、聞こえないから」

早紀は思わず下唇を噛みしめた。グロスが下先に少し付着したので、舌を磨きに洗面所に行った。


母親の質問には答えずテレビに集中する。たいしてかわいくもない猫が橙夏の足にからんでくる。

 時代劇、旅番組、韓国ドラマ、ドラマの再放送と順にザッピングして、とりあえず一番後ろのセットが落ち着いているニュース番組で手をとめた。

 ニュースのコーナーでは『東日本大震災以降の電力の予備力の危機!~再生可能エネルギーは脱原発の切り札なのか!?』と題された大きなパネルの前でアナウンサーと元東電の社員が、『ノースイースト・ブラックアウト』(ニューヨーク大停電)と比較しながら解説をしていた――。

最後に、その専門家は、両手を前で組んでからゆっくりと結論に達する。

「計画停電の主要目的は、あまり多くの国民の方がおそらく知らないことなのですが……日本での計画停電は何のためかというと、それは火力発電所の発電機を守るためです。もし、火力発電所が次々と何かの理由で壊れてしまえば、大規模停電は引き起こされるのは必至です。都市機能を完全に麻痺させ、未曽有の大混乱が引き起こされるでしょうね」

警鐘をならしている専門家自体が他人事のような顔をしてそのコーナーは終了した。

別段何の感想ももたなかった。つまり電力の予備力がいつマイナスになってもおかしくない状態だという簡単な話だ。それはまるで生理がこなけれれば妊娠を疑うのと同じ原理だった。あとはただコメンテーターとして出演している、歌も演技も下手で、ゴシップだけでテレビに出続けた経歴のあるママタレの「視聴者を代表した」愚問に、軽蔑の視線を送りながら、静かに座り心地が悪くなったソファを降りて、カーペットの上に座った。

「とりあえず10万円渡しておくからね」

 エルメスのバーキンから同じブランドの財布を取り出して母が差し出す。

「うん、じゃあね」

 長居は禁物だと思い部屋を出ようとする。

「あ、冷蔵庫に米原のおじいちゃんが送ってくれた牛肉が冷凍してあるから、食べたいときに解凍して食べなさい。塩胡椒ぐらいでちょうどおいしいからね」

それにしても……、と橙夏は想った。

玄関で居合わせたときの母の顔を思い出す。母親というものが、ああも見事なくらいの煙たさを瞳に宿して娘をみれるものだろうか。

いっそう死んでしまった方が何かといろいろな意味で手っ取り早そうだと想像してみる。やはり生まれてくるべきではなかった。堕ろしてもらったほうがよっぽどせいせいする。アフリカの絶滅危惧種ではない人類がこれ以上命をつなぐほど存亡は逼迫してはいない。

しかし、美しい死に方を自分で見つけるまでは自殺はしない。その約束だけは破るとさらに自分の心が歪みそうで怖ろしかった。



ゆくりなく視線を上げる。身体の鳩尾(みぞおち)あたりで風船が破裂した。わなわなと震える唇を亜望は手で隠した。誰もいないはず部屋のライトがカーテンから動いた――。自身の睡眠時間の短さをしばらく回顧してみた。

視者を嘲笑うようにライトが点滅した。どこかまごついているような電気の点滅に、亜望の顔からみるみるうちに生気が奪われていく。

急いでポストを確認後、チラシ類を共用ボックスに捨てようとした時、手の中からするするっと異質な色と性質のものが落ちようとした。慌てて掴む。手書きの字で何かが書いてあった。

〈真琴様 管理人のノダです。緊急事態ということでしたので、マスターキーでお部屋を同僚の方に開けてさしあげました。色々と事情がおありだとは思いますが、宜しくお願い致します〉

 亜望には、どの文節も意味をなさなかった。

 背中に何かが走る。しゅわしゅわっとした泡のようなものが連続的に弾ける音は、ぞくぞくぞくっと痺れるような感覚に先立ち、(うなじ)の中央の窪みのところでこもったそれを弾いた。そして、後に残るのは思考の停止、運動機能の停止、そして「オマエ」という人間の凍結―。

玄関の鍵が開いたままだった。得体のしれない何かは背中から臀部、膀胱のあたりをとおり今度は前面を喉元めがけてせりあがってくる。

 足音ににすでに部屋の占有者となっていた白石菖が振り向いた。

《何してるの》

白夜よりも白い(うなじ)から背中にかけて半円の肌を亜望の方に向けて、黒のワンピースドレス姿の菖が立っていた。

黒が目立つ白さなのか、白が目立つ黒さなのか、おそらくその補完関係に女の身体が必然的にぴたりと収まっているかのような立ち姿だ。

目尻からこめかみのあたりがぴくぴくぴくと筋肉が痙攣する。誘発されたかのように首筋の筋肉も痙攣した。それから、きわめて平静を装いながらいつも通りに心がけて質問したのだった。

《何のマネ》

怒り散らして侵入者を糾弾する選択肢をとらなかった。経験上対人関係における感情の抑制を人生の中で十分すぎるほど学んでいたからだ。ひとつのミスは無間地獄の片道切符だ。装いを間違えたらそれが死衣装になりかねない。

「アレ? 聞いていたのより早かったんだネ――」

眉尻の上がり具合によって、上昇志向と自尊心の高さを窺うことができる。首筋が隆起し、そこだけじんわりと赤くなっているのが白い首でやけに目立っていた。

胃のあたりがまた熱くなった。無遠慮な生物と対峙しなければいけないときの身体の生理現象だ。

正体が暴かれた今、居眠りしていた感覚がじわじわと戻っていく―。

鼻をつくような匂いだ。部屋に一歩ずつ入っていくたびに強くなるその匂いの発信源は、本来自分の部屋にあるべきではない異物が混入したせいだろう。つい数分以内に身体に振りかけただろうと思うくらい強烈だ。 

真実が(たわ)められる予兆があった。

《どうして、中に》

 満身の自制心を滔滔と発揮することに神経を集中している自身に無性に腹が立った。亜望は小部屋から獣が飛び出さないように頑丈に鍵をかけている。その代わりに、片手を背中に回して固く握った。人差し指の爪が親指の付け根部分に突き刺さった。それでしか、受け止めなければいけない現実の衝撃を細分化できる方法が他にはなかったからだ。

「え? 亜望さん大丈夫!? 管理人に開けてもらったんだよ。考えたら分かるでしょ。アタシが鍵持っるわけじゃないんだし。アタシ、ほら、人にすぐ好かれるタイプじゃない」

 冗談を言っているようには見えないのは、その場違いなほどの真剣な顔を見ていれば容易に分かる。圧倒しようと両腕を胸の平坦な胸の前で組んでいるからだ。絶句に先を越される―。

「携帯の番号変えたでしょ。変えたらアタシに報告するのは普通でしょ!? 本当にショックなのはこっちなんだから。全く……連絡とれなくて……アタシがどれだけ心配したか」

背中にもう一度何かが走った。悪寒や戦慄を通り越えた得体の知れない化け物が、亜望の整理整頓されたいくつもの小部屋のつながった天井を破壊するかのように暴れる。主人を虚脱の蜷局(とぐろ)に拉致すると、爆発的な殺意が鎮座した。頭の中が通り魔に出くわしたときのように停止寸前だった。

《管、理、人、が、開けた……》

 答えは分かっている。頭に落とし込むためだ。捨て台詞のようや役目をして欲しくて、亜望は訊いた。

「亜望、さっきから全然言葉にセンスないネ。よくコピーライターやってられるネー」

 質問に答えろ。

「ほんと運だけなんだネ。うらやましいわ」まるで主人のように無遠慮に木目調のダイニングテーブルに腰掛ける。「たいして努力もしなくてもいい人がいるのよね、この世には」

亜望は歩を前にも後にも進めず、彼女との距離を量っている。

「アタシの方がだ・ん・ぜ・ん、才能あるじゃない? いや、うんうんうとかじゃなくて、あるのにネ。アタシが本を読んだり勉強してる時に、どうせ亜望はひとりで酒でも飲んで男でもこの部屋に連れ込んでたんでしょ」

4つある椅子のうち、窓側に配置している列のもうひとつの椅子を、まるでオットマンのように使い始めた。

「アイツは偽善者だよ……亜望に優しくしてくる人間って、偽善者だと思わない」

そう思う。

「あっ、アタシはそんなグループじゃないからネ。本当に心から友達だと思ってるから」

 足の裏からふくらはぎにかけて、痺れがはしった。

菖が寿退社をしてから、退社日と結婚式の日、それから挙式の年の年賀状を除いては、こうして部屋の中に侵入されるまで10年ぐらい会うことも連絡を取ることもなかった。

 主婦になってから少しは主婦にふさわしい穏やかな美意識を表現できないものなのか、と改めて下から上まで彼女を焦げるほどに亜望は視ながら、同時に訝しんだ。脱毛処理を定期的に行っているであろう腕と足を容赦なくさらす格好は、部屋には相応しくはない。美意識というものが、銀座並木通りを歩いていればふさわしい格好とメイクだが、彼女の部屋の中にいると、キレイなアヒルの子のようだ。「緊急事態だって言って、開けてもらったんだよ」とさも褒めて欲しそうに言われると、吐き気で気分が悪くなる。

亜望はようやく一歩前ではなく、横のキッチンに入り、冷蔵個からルイボスティーの飲みかけのペットボトルを取り出して、一気に飲み干した。あまりに勢いよく飲んだせいで、口元からうっすらと赤い液体がこぼれる。

「理解不能だけど。たいしてコピーライティングの経験が高かったわけでもないし、背が高いだけで顔は平凡じゃんか。アタシの方が経験長かったし、仕事もできたはずなんだけど、あ、これ悪口とかじゃないよ。アタシもまだまだっていう意味ね。なんで、亜望が選ばれたのかほんと七不思議」

彼女は自分のネイルをみながら早口で喋った。

 亜望は頭の中で【恵まれた】と【選ばれた】を並べてみる。

 ――私はどうして彼に選ばれたのだろう? なぜ彼女は私を恵まれた方と言ったのだろう?

「まっ、いいか、そんなこと言いにきたわけじゃないし」彼女がボソボソと言った。

 彼女の劇場の暗転は速い。

「それより、喉乾いたんだけどお酒でもある」亜望の返答を待たずに訊いた。

《えっと、今は、特にないかな》

「ウソ。あっ、わかった。ひとりやけ酒用にとってあるとか? もー、誘ってヨ!」

亜望は腑に落ちない顔をすると、すぐに続ける。

「野菜室開けてみたけど、おいしそうな日本酒入ってたよ」

 料理酒として、醸造アルコールや糖類などが入っていない純米酒を普段使う。二の句が告げないでいると、驚いていると勘違いしたらしく気味の悪い笑顔を浮かべて彼女が言った。

喉がまた乾く。

「亜望ったら。久しぶりに飲もうよ。おつまみはたいしたもの作らなくていいからネ」

 わざと腹で笑った。横腹辺りが筋肉痛で返す。

鬱々とした日々が、あの会議室を出た時から続いていたことは事実だ。煮詰まった仕事、珍しく先の見えない明日。軽い刺激を求めていたのかもしれない。何かを打破してくれるような軽い刺激。それは酒やセックスというありふれたもはや30歳後半の自分には刺激には、逆立ちしても成りえないものではない。奇想天外なものをどこかで期待していたのかもしれない。がしかし、これは度を超えている。

亜望がこの日、急いで帰宅したのには理由があった。もう一度プロジェクトのための先方の社是や理念、事業戦略、過去の市場での位置付け、顧客や取引先との関係図、組織風土と新入社員へのOJT資料などの資料を読み直してみる予定だったからだ。

キッチンのシーリングライトのスイッチを押した。突然の光に眩暈がして、ぐさりと地面に何か踏んだような気がして、全身から力が抜けそうになるのを必死でこらえた。

冥々の裡に感じていた業の深さを見た気が胸裏を胸糞悪い色で染めた。最大限できるかぎりの「投資」をしてきたのに、過去への「返済」はこうして亜望の中で再生の節を待っていたことになる。 

外は雨だ。一気に部屋が湿潤し、心を浸水させるほど降り止みそうにない。

亜望が人と繋がりをもつときは、必ず相手を窮地に追い込むか、自分が追い込まれる。そして両方の場合とも、最後は自分が噛みつかれるのだ。「歯形」は容赦なく刻まれる。

結局彼女が帰ったのは零時を過ぎた頃だった。


駅から蒸し暑さを避けるために扇子で仰ぎながら歩いていると、死角にある用水路に思わず足を取られそうになった。素っ頓狂な声を出すと、制服を着た学生たちに失笑をもらった。ただいま。

夏真っ盛りのこの日、母親の七回忌に合わせて亜望は帰郷することにした。

朝のニュースでは、岡山県は降雨確率40%。この数字は90%の確率で晴れると経験則と照らし合わせる。梅雨でさえもさほど雨が降らないのだから。瀬戸内海式気候というのは、気候が安定している。しかし、そこが亜望は嫌いだ。

風が玉の木々を揺らす音も、川のせせらぎの音も、夕方になるとまばらな車の音も、路面電車の音も亜望の耳には届かない。

玄関を開けると、ふわっと台所から酢の香りがしてくる。しばらくすると、目下真琴家で確信的「猛威」を振るう義妹の佐智子(さちこ)が玄関にでてきた。亜望は深々と頭を下げた。

「わざわざ、お忙しい、ところ、ありがとう、ございます」

まるでかばのように大きく口を開く。句読点を節に突き刺したような話し方をする。取り繕われたその顔は、亜望にも負けず劣らずぎこちない。東京駅で買った名物のお菓子を静かに手渡す。

「熊本の人吉のサトルさんはご夫婦と、あと中学生のお子さんと今日は新幹線でいらっしゃています。京都のカズコさんは息子のハルキさんが車で運転して一緒に来られています。あとは、広島のご親戚の方を今待っているところです。もう駅にはついておられると思うので、夫がさきほど車で迎えに行きました」

 受け取りながらさっと進捗状況を説明されると、亜望はまた頭を下げ、奥へと入っていった。流れ作業のようにして居間で訪問客たちに軽い挨拶を済ませると、2階へあがった。亜望の部屋は今は物置となっており、弟のギターや竹刀などが7畳ぐらいのスペースに所狭しと並んでいる。カーテンは高校時代までずっと使用していたものが色あせてまだかけられており、そこだけ時が止まったかのようだ。自分が異物だと感知され部屋から吐き出されないように注意深く足音を立てないように歩いた。

父親とはまだ対面していない。その事実よりもっと奇妙なことは……何よりも、誰も触れないのだ。まるで存在さえ認められてはいないように。

1階へ降りて廊下を歩くと、庭に覚悟していた人影があった―。服が白いシャツで隣の家の白い壁と同化していて、輪郭が分かり辛い。隆太郎は家の北側の庭に戸背(こせ)と岡山県民が呼ぶところの防風林を手入れしていた。車いすに座ったままなので、低いところだけしか揃えられていない。自慢の盆栽の手入れを始める。素人目から見てもその盆栽は既に枯れているのに、色々な角度から触りながらちょきんちょきんと切っていた。

お坊さんがくるまでまだ時間がある。亜望は、気づかない父親を無視して部屋で喪服に着替える。仏壇のある居間で親戚の相手をしなければいけない。

「亜望ちゃんは、まだ結婚せんとね」人吉の親戚がまるでスポーツ中継で自分のお気に入りの打者が打席に立つのを心待ちにしているように質問を投げた。

「あんた、そんなことば、今の時代聞いたらいかんとよ」

「なんや、そうか、聞いたらいかんとか」

「当たり前でしょうが、亜望ちゃんだって感情があるとに」

 昔からだ。フォローが傷口を広げる。私だって……か、と亜望は自嘲気味に笑った。

「誰もそぎゃんことは言っとらんだろうが」

「せからしかけん、とりあえず黙ってお茶ば飲んどって」

 公の場で口裏をあわせられているかのような、そのざっくばらんな2人の性格に触れると、熟練の夫婦漫才を視ているようで熊本からの2人が場を和ませてくれる

「ご家族は今日泊まられるんですよね」

「そぎゃんたい、せっかくだけん観光ばしていかんと」

「ここはなーんにもないから、美術館と博物館ぐらいなんですよ、誇れるものと言えば」

佐智子が急流のように早口で割り込んでくる。運んでくるのは肥沃な土ではなく、ただ栄養のない黒い土のようなものを顔に塗られた気が亜望はした。

「熊本の方が都会だから、つまらんかもよ。ねー慎一郎くん」

佐智子はにこっと笑ってみせたが、年頃なのか無反応だ。

「そぎゃんこたなかばい。福岡にはかなわんけんね。月とすっぽん、いや、万里の長城と熊本城ぐらい規模が違うばい」

豪快な笑い声が九州男児の気性を拡散させていく。

その間も佐智子はだだっ広い畳の居間を足の爪先に至るまで甲斐甲斐しくすり足で動いていた。そのたびにご婦人方にねぎらわれている。いま、こうして客人のように座っている自分は、さぞかし結婚できない理由を曝け出していると思われているのだろうと想った。

「そうそう、佐智子さん、これ、家にあった写真」

佐智子は夫婦の間に割り込んで、しみじみと写真を一枚一枚めくって、実の娘のように感情一杯に吐息を漏らす。さらに、終わりぐらいにさしかかると、ハンカチで目頭をおさえはじめた。その全てを、ただテーブルの端にすわった亜望は見つめるしかなかった。場違いなところにきてしまった、という後悔で頭をかきむしりたくなる。泊まって帰ろうかとも思ったが、やはり今日の最終で東京に帰った方が精神衛生上よさそうに思えた。

「ほら、亜望さんも、これば」

母のモノクロ写真から淡いカラー写真まで結構な枚数が収納できるアルバムが亜望の手に渡された。

ハイカラといいう言葉が適さんとばかりに、若いころの母は黄色のワンピースや、橙色のワンピース、赤のセーターに、黄色のパンツと、暖色ばかりの衣装を身にまとい、サングラスをつけた写真が多かった。天真爛漫、というか、世間知らずで生きてきた母を感じ、結局自分とは一生相見えることはなかったのだ、という揺るがない証拠を目の当たりにしているようで、安堵と少しの淋しさがゆっくり胸裏に起こる。

アルバムをめくっていると、ふと正面を向いてあぐらをかいている写真があった。少しお腹が大きいので、写真のカラーから見て、弟ではなく亜望を身ごもっているときの写真だろう。海辺でビーチカラソルの下で水着姿。バスタオルで下を隠している姿だったが、ふと、左も股の内側に黒いあざのようなものが亜望の目に入った。太陽の光で色があせたものかと思い、表面をなぞってみたが、別段周りの感触と違わない。今度は記憶をたどってみるが、母親の内股のここまで黒々としたあざがあった記憶はない。亜望たちを見下ろすように飾ってある遺影と写真を交互に見つめなおす。

《みどりさん、あのね、お母さんって、こんなところにあざみたいなのがあるんだけど、記憶にないんだけど、ありましたっけ》

彼女は一瞬押し黙った。

「あ、あったよ。なんか、この1週間前ぐらいに階段からこけた時に内出血みたいになったんだって言ってたかな」

《そうなんですか》

ひとりごちなかった。しかし、お坊さんが到着したので疑問は棚上げした。

外は狐の嫁入りらしくお坊さんは少し濡れていた。聞き取りずらい声で般若心経を唱えている間、ずっと考えが止まらない。

やがてお経を終えて、言葉を頂戴すると、静かに佐智子が立つ。しばらくすると、台所から、鰆のばらずしが亡き母の「嫁入り道具」のひとつである備前焼の皿に盛られて運ばれてきた。皆がばら寿司を瓶ビールで流し込んで談笑し始める。食後のデザートとしてはマスカットが振る舞われた。料理が好きな亜望でも、鰆のばらずしの作り方は母からは教わっておらず、またしても彼女の株があがることとなった。

それにしても。亜望は、取り皿に残った寿司を箸でつまみながら考えを戻した。身重の状態であそこまでひどい傷を負うということは、どう考えても奇妙だ。何かが咽喉にひっかかった。

 法事が終わると日帰りで東京に戻る新幹線に乗った。

長時間の新幹線と気の使い方で、世の中は亜望の把握するかぎり首尾よく静止している。とにかくぐっと疲れてしまった。

亜望はついつい数時間前のことを思い出す。感傷的な性悪女のせいで頭の虫がおさまりそうもなかった。というのも、ひととおり終わって実家を出ようと玄関に集まったときのことだった、足代を親戚中に渡すことは常識の範囲内だが、佐智子は渡しながら、「少ないですがもうしわけありません、うちは子供が2人いまして、せめてものお礼です」と悲劇ぶって渡したのだ。それを聞いた親戚中はもちろん心から同情し、逆に、財布から5万円取って彼女に愚かにも渡していた。

 眠気が狡賢い女を(かたど)った厚いガラス盤につぶされるように、圧迫に近い怒りに追い抜かれる。東京に着くまでとうとう一睡もできなかった。



橙夏はマンションの部屋で机に向かっている。

英語の授業でリーディングの課題が出ているのだ。リーディングを読まないだろうという生徒のためにリストが渡されている。が、古くて興味をそそるものがひとつもない。19世紀の文学者を21世紀に生きる自分が読んで何になる? 一体何の役に立つ? 疑問で、さっきからネットサーフィンに思考の波を重ねているだけだ。

フィクション―嘘の集まりだ。嘘の集まりを遺産と呼ぶのだから、人類はなんておめでたいのだ。そういう哲学に準じて、ほとんど橙夏はエッセイを提出していない。ただし、夏が終わって秋の最初の日にまた提出しなければ落第の可能性が浮上している。

エッセイを提出したとしても……その後のことを考えるとやはり蕭蕭(しょうしょう)たる気分にさせられた。常にフィードバックで言われるのは「個性がない。主張がない」だ。個性を出せ、と言われて、個性は出せない。そもそも自分には個性がないのだ。

この日、望埜からの連絡通り、橙夏は新宿の塾を訪れた。特に待ち合わせをしていたわけもないのだが責められた。数時間後、レッスンが終るとひとりで何食わぬ顔で塾を後にした。当てもなく新宿から原宿の方面へ歩く―。

スーツ姿の男性や大学生らしきグループの間をかき分けて、十字路を左に曲がった角の店から出てきた姿を見失わないように走る。ひとりで笑顔の女子高生が走っているのを見見られたら恥ずかしいので、なるべく顔に力を込めた。

「あのー覚えてますか」

 不愛想を装うことには失敗した。白い歯がこぼれているのが自分でも鏡がなくてもわかった。

店頭にも店内にもどうやらきれいな花や苗が陳列され、そこにやさしい陽だまりができている。白い外壁に一度あたった陽光はそのまま溶け込んでいってしまったように、ふんわりとした佇まいだ。橙夏の鼻孔を店内から漂ってくるコーヒーと甘いペストリーの香りが刺激した。

 呼び止められると、少し歩いてからふと男たちは振り向いた。モスグリーンのライディングコートが風のない蒸し暑さのなかでふわりと翻る。

『覚えていると思っているから声をかけてきている。違うかい? 橙夏だね』

花屋と思った店内はカフェが併設されており、中を入口から覗くと、なにやら講習会のようなものが開かれた後のような雰囲気で、女性たちが花々を片付けている。

「ちょっとぶらぶらしていたら、たまたま店出てくるところを見つけて、それ何なの」

『ハンギングバスケットだ』花々が彼の腕に大事そうに赤ん坊のように抱えられている。橙夏は聞き慣れない言葉だなと思った。

『開催してくれと頼まれた。彼も連れて』と言って視線を隣の男性に送る。『彼はただいるだけで、どうやら人気らしい。ドアの近くに立たせておけば引き寄せられる人間は少なくない』背のひょろんとした男が静かに橙夏を睨むように見ている。橙夏は一瞬背筋が凍るような想いがした。香港での一件を思い出さずにはいられない。

「ガ、ガーデニングの一種」質問する声が上擦った。イメージが膨らまなかったからだ。背の高い割と整った顔の中年男性とガーデニング。加えて常に隣にいる目つきは悪いがおそらく王子様系の一重の目の男。橙夏は気づかれないようにさりげなくふたりの距離や醸し出す雰囲気を分析してみた。

『これが、サフィア、こっちがペチュニア、これがローズ、そしてこれがアメリカンブルー』

 わざわざ教えてくれている気の使い方を蔑ろにはしたくはなかったので、分析を一時中断する。「へーきれいだねー特にこの青いやつ。ちっちゃくてかわいい」橙夏は少女のような無防備な顔で触ると『アメリカンブルーだ』と彼は解説した。

 それから3人は表参道の方角に歩いた。勾配が地味にある通りを歩いていると、夏の暑さでうっすらと汗が出てくる。その汗を拭いもせず、橙夏はどこに行くのか行き先さえも彼には尋ねなかった。2人の背中と距離に注意を向ける。手をつなぎはじめたら、逃げた方がいいだろうか、と途中途中の別れ道を確認しては逃げ道を想像した。

 やがて彼らは秘密の抜け道のように細い路地裏に入った。軒先には人影も見えず彼ら以外人がいない。一足早い蝉の鳴き声が上から降り注ぎ、足元からは下水道を通る水の音だけが聞こえてくる。

 彼は信号で止まった。しかも黄色の信号で。おもむろにペットボトルを開けた。握ったその手は指先まで美しかった。橙夏はそれを見てなんだかおかしくなった。

そのうちただ漫然と歩くのにも飽きて、ジーンズの後ろポケットに手を突っ込んだ。携帯電話を取りだす。少し指を動かしたあと、「はい、ポーズ」と言って画面をこちらに向けて手の甲を表にしたピースのポーズをとった。カシャッ。続いて慣れたてつきで画面を左手の人差し指と中指を踊らせて写真の濃淡を調整する。

『何をしている』

「写真整理する前に、友達削除していた……」

『貴様、友達を削除だって!?』

「な、なに、突然」怪訝な表情で後ろを恐る恐る振り返る。

橙夏を驚かせたのは、黙って後ろからずっとついきていた彼の連れの方の驚き方だった。青白く細い指で天に何かを描くように動かし身震いしている。

そのとき風彼の柔らかそうな髪を揺らした。6月とはいえ、気温はあがっているが、それでも吹く風と言えばまだ肌寒いものがある。橙夏は東京の空を見上げた。

 蝉の声が聞こえてくる。辺りはすっかりと夏。そう、夏が来たのだ―。

『橙夏、君は花や香りの力に興味はあるか』

 橙夏は強く肯いた。

『そうか、じゃあ、工房(サロン)が近いから連れて行くとしよう』


 青い目をした猫が橙夏の足元にやってきた。足元の彼女の膝の少し下らへんに自分のにおいを擦りつけようとしているのか頭をスリスリと擦りつけている。彼女はシルバーの毛並みをしっぽの方に向かってさすりながら、歌をくちずさんだ。そうしているうちにうとうととし始めた。

軽い時差ボケもあるのかもしれないし、炎天下の中、長時間外を歩いたのも身体を疲れさせていたようだった。籠った熱のせいか身体が火照っている。

幸い、工房(サロン)の香りは眠りには最適だ。メフィストは眠りに入ったのを確認すると、そっと薄いタオルケットを彼女にかけた。

―どこ? 冷たい……海? ダムのようなものが決壊した。濁流に巻き込まれる。

声を出したい。助けを呼びたい。水が大量に口の中に入ってくる。助けを呼び出せない。濁流をなんとか抜け出そうと、顔を海なのか湖なのか分からない水面から出した。まつげを濡らす水のせいで視界が不明瞭(ぼやけ)る。しばらくすると、遠くでビルの屋上から誰かが飛び降りようとしているのが見えた。男性が助けようと説得しているのだろうか、必死にとめようとしている。自分の命も分からないのに、その2人の幸せを心から祈った。祈って祈って……そのまま沈む―。水の奥底から誰かが視ている。しわがれた顔。首元にピンクのスカーフ。

「おじいちゃん……」

だが、身体のバランスが実に妙だ。おそらく小人達もこう見えていたのであろう、巨人のような大きさだ。足が小さい。反対に頭はものすごく巨大。両手からはウルヴァリンのような爪のようなものが生えている。足が3本あるようにも見える―。

「―ごほっ! ごほっ!うぅ、あぁ……」

『起きたか。ゆっくり眠れた? ほら、これを飲みなさい』

寝ぼけた様子で言われるまま顔を近づける。カップから温かい湯気が出ている。咽るくらいの香りが鼻孔を刺激する。ソファから起き上がって一口すする。寝起きの頭がまた夢の中に誘われるような濃厚な甘い媚薬の香りが鼻腔の中一杯に広がった。

「何の香り」

『レモングラスベースのハーブティーにローズを一滴』

 すとんとさらに深くベッドのお尻が沈み込むように座りなおす。猫は窓の縁にちょこんと乗って黄昏ているのか、外を視ている。

『誰かありえない人でも夢に出てきたのか』

 橙夏はびっくりして飲み込もうとしていたお湯を全て吐き出してしまった。しばらく咽る。

「――私の、おじいちゃん、もう、亡くなったんだけど」

変化出現(アパリション)だ』メフィストは手を顎のところに持ってきて考える仕草をする。

 頭の中を指でなぞる。「なんだっけ? 学校のクソつまんない英語の授業で読んだかな。ヘンリージェームズの『ねじの回転』に出てきた。幽霊っていう意味だったよね」

 橙夏はこの瞬間、秋に出さなければいけないエッセイを思い出した。現実と地続きな事柄が頭に浮かぶのを根気よく目前で止めるように、首を左右に何度か振ってみる。

『夢に何者かが現れた場合、それを変化出現(アパリション)と呼ぶ。たいていは何の脈絡もない悪戯な妄想だが、時には超自然的な要素たちが関わっていることも』

「超自然的って」

『そのありえない人はどこか奇妙な形をしていなかったか』

 橙夏は夢の中の祖父の姿を思い出した。

「頭が大きくて、足がちっちゃくて、顔面もなんか黒かったかな。おじいちゃん、常に色は白かったと思うんだけど、それになんか爪みたいのが、こう、シャキーンていう感じで伸びてたよ!」

 話を背中で聞きながら、彼は窓の方に歩いて行った。窓の前で立ち止まると、一瞬迷っているのか考えているのか少し間を置いて、そしてカーテンと窓を開けた。

『今日は、金曜日だな。外にもいい風が……それに満月だ。なんらヘンテコじゃない』

毎回なんだけど、説明になってない……と橙夏は胸の中で毒づく。

『伝えなければいけないことがあるんだろう。死後の世界から……それとも……』

一艘の船の漕ぎ手を信頼しきった乗客のような目で彼を見上げる。

『いや、何でもない』

予想外の言葉に橙夏が意表をこつんと突かれたような気分になったのは、なにも言葉からだけではなかった。彼の表情が一瞬暗くなり、別人のように見えたからだ。

『確か、街の中を歩いていると周りの不安や怒りを受けてしまうと言ってたな』

 彼が頭の中で何かを並べ替えるように目を回転させる。

「うん」

『それは、呼吸と関係がある』

 橙夏は「呼吸」という言葉自体が自分の行動の中で最も普遍的でしかも普通なことなので、思わず鶏のように顔を突き出しながら頭に疑問符を弾いた。

「……呼吸は苦しくはなるけど。受けちゃうから呼吸が苦しくなっているんだし」

『いや、その逆だ。呼吸が苦しくなるから、受けるんだ』

 彼は天井からつるされている灯篭の緑かかった火を息で吹き消した。橙夏はいつ火がつけられたのかを思い出す。

『いま怒りで呼吸が苦しい』

橙夏は言葉では答えず、先を促すように立ち尽くす。すると、次の一言はふたたび予想に大きく反するものだった。

『論理的に考えれば、形而上という概念は存在しえない。アキレスは亀にかならず追いつくし、形而上という言葉には真実がない。無意味性だけがただ広がる。しかしながら、もし絵空事だとしたら、逆に考えても、けっして「まっとうじゃない訳じゃない」ということだ。つまり、戻すと、周りから受けるから呼吸が困難になる訳でなく、呼吸が困難になるから周りから悪影響を受けるとした場合、問題は解決する』

「する訳ないじゃん! そんな簡単だったらこんなに苦しんでないもん!」 

腹立たしさと悔しさが入り混じって、たちまちのうちに顔が紅潮していく。

『モヤモヤしたり不安になる時には決まって呼吸は浅い』

「違う、違う、違う! 何も分かってないくせに」消え入るような声だけが空気に乗って彼の耳に辿り着いた。その起源の身体はどこかに消え入ってしまうように存在感が軽薄だ。

「何も分かってないのに、私を救うような言い方して。あなただけは、あなただけは、ちょっとは違う……違うと思ってたのに……自分がなんだかわかんない苦しみがわかんないのよ! みんな私を頭がおかしいみたいな言い方して!」

 無計画に橙夏は黒い審判をくだすように―それはもはや自分では驚かないほどの―邪推を続けた。

『残念だったな』メフィストはさらにストンと一段階相手が暗闇に落ちるのを煽るように返した。

「……ひどい」もっと違う何かを期待していた。何か許されるような……。

いま取り乱してしまったことを正当化してくれるような何かを橙夏は期待していた。

『思考では何も解決されない。行動だけが問題を解決する。論理的に考えてばかりいるから行き詰まる。自分の声は踊り出せば自然とこぼれ落ちるから、それを一つ残らず丁寧に拾えばいい。そうやって、物事を見つめていくんだ』

「うるさい! どうせ、そこの引き出しにでも手錠が隠されてて、そこのろうそくでレイプでもするつもりだったくせに!」

『悪いが風呂に入る。今日は帰ってくれ』

 彼は橙夏の発言の文脈と射程を十分理解したかのように、それ以上は一言も言わず足元に寄ってきた猫を抱きかかえて奥の部屋へと行ってしまった。

 頭痛と混乱が一気に押し寄せる。小さな声で違う、という声が遠くで聞こえても、頭の中を支配しているのはもはや自分ではなかった。他の誰か。いったい誰なの? 

噛み締めた奥歯の痛みだけが自分を証明してくれるものだと想った。

 一か八か橙夏は思いっきり罵声を浴びせた。

「ほんと最低ね。恥を知ったらいいわ。絶対罰がくだる。というか、必ず私が罰をくだす!」

心ゆくまで罵ると、橙夏は闘わなくてもいいはずの痛みと相対した。吹き散らされた感情の欠片を踏んで怪我をするのはいつも自分なのに。真ん中のあたりが縦に揺れた。そして、今度は横になびく。ほろ苦いチョコレートを食べた時のような胸のあたりの感触に似ている。甘いのに苦い。苦いのに甘い。とどのつまり、どっちが先なのか分からなかった。



20年ほど前のこと――。

夏の空高く雲の峰が、眼下に観ているのは、かつてルノワールが愛した(ひか)り彩るパリ1区のヴァンドーム広場とコンコルド広場の、二つの王立広場の間。

めずらしく3日ほどの雨が続いていた。パリのホテル前にはイカロスを除く3人の姿がみえる。

『待ちに待った晴れだ! 晴れだ!』

 雨宿りをしていた昆虫たちも羽をひろげてパリに生命をかけた色をたしていく。生命の満ち溢れる季節だ。いくつも重なって立ち上った積乱雲に太陽は隠されているが、青空の下、3人のもとへ遠くから一人の青年が、まだ雨で濡れた路面を小走りでやってくる。

『なんだ? その荷物は』

 朝食の時もいなかったイカロスのことを不思議に思っていたクピドーが、彼の背中の大きな茶色の古びたリュックを一瞥して言った。

『あ、気づきましたか』

 聞くのが遅すぎませんか、のような澄ました顔で応える。得意げに何か懐から切り札でも出すような態度で、ガサゴソと何かを折りたたんだような形状のものを取り出した。ところどころにパイプのようなものが付属している。

『テントです』

 澄ました顔で応える。

『颯爽と答えてくれたところ悪いんだけどもね、閻浮提(げかい)の習慣だから聞いてやるけど、なぜだ』

 クピドーが目を細くして訊ねる。

『何がですか』

『純粋無垢なつるぴかイカロスくん。なぜ、寝袋を持ってきたんだ』

『やだなぁ。テントですよ。携帯用テント。仲間が朝届けてくれると昨日連絡あったので、ちょっと出てたんですよ。どうしてメフィスト様は持ってきてないんですか』

 彼が話す相手を突然メフィストに変えた。

『持ってくる必要がないからに決まってるだろう。おまえ、ほんといちいち疲れるだろうが。ただでさえ今、俺は、落ち込んでるんだ!』

 メフィストが答えるより先にクピドーがとても落ち込んでいるようには聞こえない調子で応えた。

『ご自分の精神の均衡にたいして高を括ってはいけませんよ。だって、一緒に傍で見張ってないと、すぐやさぐれたように家出するじゃないですか。地上だけならまだしも「上」も探さなきゃいけないので、へとへとに疲れるんですよ。小生もいい年ですから。だから一緒に寝ようかと。生きているときも死んでいるときも一緒ですよ』

『気持ち悪い……』

『機嫌悪いですねー』

『お前の寝言がひどくて、俺の不眠症を悪化させるのが関の山だろ!』

『本当に落ち込んでるのか? 落ち込んでないんだったら面倒だから帰るぞ』

メフィストはクピドーの特に変わりのない様子をみて、にべもない言い方で、踵を返そうとする。

『小生はこの寝袋で寝ないと眠れないじゃないですか』

イカロスは名残惜しそうに寝袋を抱きしめた。

『前なんて、クピドー様と2泊3日の矢の修行にカナダまで行った時に、木のロッジなんかで眠れていうんですよ』

『お前、自然が好きなのかそうでないのかよく分からないな』

クピドーがぼそりと言う。

『ところで、イカロス、それは、なんだ』

今度はメフィストがイカロスが袋から出た木材のようなものを指して訊いた。

『これスケッチ調です! やはりパリにくるので、小生も天界で趣味にしていますデッサンを。セーヌ川のほとりで。うまくいけば、天界でパートタイムでデッサンの仕事したいなと!』

『だからその帽子なのか。インキュバスがさっきから笑いをこらえて苦しそうだから、その帽子はずしてやってくれるかな』

 メフィストが冷静な顔で言った。

『ほら、もたもたしてないでルーブル行くぞ!』

 こうして一行はレンタカーで最も即断、即決ができて運動神経の高いイカロスをドライバーにして、ルーブル美術館を目指したのだった。

 散々迷った挙句に、テュイルリー通りをルーブル美術館方面に向かう途中のソルフェリーノ橋(レオポール・セダール・サンゴール橋)がみえてきたところで、イカロスが後部座席に座るメフィストとインキュバスにミラー越しに話しかけている。クピドーがどうしても時々自分に自信をとりもどすために、自分のポートレイトを見ないといけないジンクスを続けて説明する。

『近頃は、毎晩咽び泣く夜を過ごしています。本当に今日はつきあってくれてありがとうございます―最近は、盲目どころか勘違いがひどいありさまでして』

 もじゃもじゃした頭を掻きむしりながらクピドーがすかさず『だから俺は盲目じゃないって言っているだろ!』と訂正した。膝にかけた赤と黒のチェック柄のチェスターコートを整えながら、白いスカーフで口まで隠した。

『認知に関しての向上の精油(オイル)はブレンドしただろう』

『うるさいなーブレンド、ブレンドって。一生、棒でも持って掻き回してればいいんだよ……』

 鼻白んで、口角をねじ曲げて首筋を引っ張って苛立ちを露わにした。わずかに瞼が痙攣し始める。追い込まれたときに身体反応として出てく彼の癖だ。

最近のクピドーはかく云う誇大妄想と被害妄想の間を飛び回っているという――。

『俺ほど、神々の中でも芸術家に愛された神はいない。数多の、そう、東西南北、地平線の彼方の向こうの向こうの、これまたその先の向こうに至るまで……造形の深い愛らしい芸術家たちをインスパイアしてきたのはだれだ? 俺でしょ。いわば、審美の玉手箱だ! 人間に信仰されて初めて実在すると言われるのが神々だ。ということは……一番信仰されている俺は最も実在を証明された、いわば最も人間に認められた神かもしれない! 自分が神過ぎて怖いな』―そうかと思いきや、『ボッチチェリの春に描かれているな。俺の全てが。全てだよ……忌まわしき存在の所以がさ。幸せそうに踊る「慎み」を、この汚れた弓で狙ってやがるんだ。俺みたいなやつが望まれてもいない神がのこのこと地上に降りていってさ、弓の練習とかいって、ばかみたいに打ちまくりやがってさ。空想的愛念などというニュアンスを足してしまったがために……俺が諸悪の根源なんだ……俺なんか……イカロス、頼む! 頼む! 頼むから俺を殺してくれ……』と叫ぶらしい。

 長きにわたるイカロスの物真似を見た他の2人は、笑っていい場所と神妙な顔つきをしなければいけない場所が、あまりの高低差に最後までわからず、結局曖昧なひきつった笑顔をうかべながら聞いていた。

 クピドーは殺気だった目で彼を眺めている。

『一度波に乗れば、後は躁鬱でいうところの躁が続いてくれますので、多少のテンションの高さを我慢すれば鬱のときとを比べたら天国と地獄の差くらい楽ですから』

『早い話が、私は、どちらも耐えられないんだが。本当に感服する』

 メフィストが彼を褒めると、恥ずかしそうに頭皮がみえかけている薄い頭をさすった。

『すみません。お取り込み中に。あの、貴様たち、人を袖にするのはそこらへんで勘弁してはくれませんかね。勝手に他人をこけにしながら、絆を固めるって……』

『メフィスト様、手前より幸せと縁がない人がいるのですね』

 インキュバスがぼっと言う。

『貴様の方がよっぽど幸せだぞ。精神状態はフラットに陰鬱だからな。そっちの方が私にとっては心地がいい』

『おっしゃる通りですね、確かにインキュバスの性格は猫の目のように変わりませんね。猫なのに』

『あの、ですから……君たちよ』

クピドーのことを気にする者が誰もいないようだ。

『とんでもありません。もう、小生は不勉強により勤まりませんよ。インキュバスだからこそできることです』

『当たり前だ』と、インキュバスが不機嫌さを語末に乗せる。

『小生も、もうちょっとインキュバスのように毛髪があれば……』

恨めしそうにインキュバスの長髪を眺める。

『若い時に、太陽の光を浴びすぎましたよ』

『浴び過ぎたというか、太陽の近くに行き過ぎたんだよな』

『メフィスト様、それはいいっこなしですよー若気の至りです』

『うるさいんだよ!』

 3人は一斉にクピドーを申し分のない残忍さをもってして睨んだ。その視線にクピドーが「死」を意識したことは言うまでもない。

 そうこう車中で騒いでいると、ルーブル美術館につながる巨大な地下駐車場に到着した。

 外に出るとひんやりとコンクリートの冷たさが芯まで感じれるほど密着してくる。一行はようやく駐車場からの入口を探すと、イカロスが先導するかたちで少し歩いた。

やがて360度視界が白のロビーが現れた。天井には平行に一定の間隔を開けて設置してあるライトがまるで誘導灯のように奥のエスカレーターまで続いている。エスカレーターに乗ろうとしたが、故障中だったので、やむなく一行は階段であがると、ショッピングモールのホールに出た。

さらに歩を進めると、幾何学の贅沢を凝らした目の前にルーブル逆ピラミッドが見えてきた。外の中天に昇る太陽の燦々たる光。その光を内部に取り込みロビーのいたるところに見物客の影を作っている。逆ピラミッドの構造物を過ぎ、お土産屋を両脇に見ながら歩いて行くと美術館の通路があり、そこでイカロスは他の3人に、『ここで、チェックがあります』と、チケットを手渡した。

 通路を抜けると、ルーブル・ピラミッドの下のホールは地元の人から海外からの旅行者で各々の言語が飛び交い埋め尽くされていた。迷ったら、ここが集合場所ということにして、一行は入口につながる階段をのぼり、再度チケットチェックをしてから、ようやく間接照明に照らされた厳かな階段を昇って館内へと入っていった。


 奔走する感情が出口を希求るように声が出る。クピドーが目を涙で潤ませながら走る。ドノン翼の1階にある彫刻がお目当てだ。

 ミロのヴィーナスやミケランジェロの〈瀕死の奴隷〉、ラムセサス2世の座像には目も暮れない。クピドーはある像の前で立ち尽くした。背に翼を、左の腰のあたりに矢筒をぶらさげた青年の像。その青年が乙女が横たわっている岩の上に降り立ち官能的な接吻を捧げている。アントニオ・カノーヴァの《アモルの接吻で蘇るプシュケ》だ。

『オーロード! プシュケよ、おお、我が愛の源、プシュケよ!』

《アモルの接吻で蘇るプシュケ》は古代ローマの作家アプレイウスの『変容』をもとにカノーヴァが作り上げた至極の名作だ。アモル(クピドー)は愛するプシュケ―その傍らに決して開けてはならないはずの小瓶が開けたまま横倒しの状態で―を優しく抱き上げ、彼女の顔に自分の顔を近づけている。プシュケは身をゆっくりと後にそらし、けだるそうな動作で、恋人に手を回している。

ひとつひとつの手足の動きを具に鑑賞しながら、誰に話すでもなく、クピドーが口を開いた。

『色々あったけど、俺も彼女も結局神と人間との越えてはならない線を越えてしまって全身全霊で愛することを自分の命に代えてでも誓ったから、さすがに母と他の神々も折れてくれてさ。それで不死の(アンブロシア)をくれて、彼女に飲ませて、永遠の命を彼女は手にすることになっ……』

『そして、人間だった彼女が魂の女神として神格化された』後をメフィストが引き継いだ。

『少しは気が済んだか』

『……付き合わせて悪かった。今回は俺の用事だが、次回はきっとお前の番だろうな。あと20年ぐらい先か』

 メフィストは像を見つめたまま聞いている。

判定者(ジャッジ)がいるんだったよな? この世界に』

 思いがけない言葉に苛立ちを隠そうともせずに『不毛な会話だな』と応えた。

『悪行にどれだけ罪の意識を感じるかで判定されるなんて。まさに受難だよな』

『余計なことに首をつっこむな』

『それにしても、案外おまえの判定者(ジャッジ)って近くにいるかもな。この美術館のどこかにいたりしてな』

声に出さずに笑った。

『あーやっと笑ってくださいました! これでミッション終了でございます』

2人のやりとりを緊張した面持ちで眺めていたイカロスは、ニット帽を脱いで胸にあてながら大きく息を吸い込んだ。ペルーの民族衣装のような柄のフリースにロールアップしたジーンズという恰好は、まさか空飛ぶ男には見えない。

『悲劇の殻へのひきこもりは終了です(ザ・ショー・イズ・オーバー)!』

 遠くの方に外にあるルーブル・ピラミッドを見つめるインキュバスが3人の方向に顔をむけた。

 ドゥノン翼の2階は相変わらずの人だかりだ。3人と1人は、ボッティチェッリが描いたフレスコの祝婚画の『ヴィーナスから贈物を授かる若い婦人』を鑑賞した後、ダ・ヴィンチのモナリザ、その裏へ歩くとティツィアーノ・ヴェチェッリオの《聖母子と聖カテリナと羊飼い》(通称《うさぎの聖母》)の前で立ち止まる。

すると、3人が肯きながら絵を眺めていると、惜しみなくため息を吐いた後、『さっきの場所で待っておきます』と、インキュバスがいかにも不機嫌きわまりない調子で言った。それから誰の同意も気にしないで、それだけ言うと来た道を戻っていった―。


鈍い音がした。エスカレーターから降りて、少し歩いた先で、インキュバスの視界の外から何かが足元に当たった。

「イタい!!」

インキュバスの脚と少女の顔がぶつかって、少女はそのまま後ろに飛ばされてしまったようだ。ギロリとした眼を少女に向ける。

 ところが、妙なことが起こった。少女は逃げ出すどころか、立ち上がって「まいご……」と俯きながら近寄ってくるのだ。普段無機質な表情に難儀(くるし)む様子が見え隠れする。とりあえず少女を高圧しようと沈黙のまま鋭い視線を向け続ける。しかし、そういう態度をよそに、その少女は、のびやかなリズムで大人びた言葉を機関銃のように浴びせ始めた。

「迷子になったの。ゆーちゃんが悪いんじゃないよ。ゆーちゃん、待ってたもん。大人のいうこと聞いてあげたのに。言われたところに。約束やぶってない。約束は守るものなのに……」

今にも泣きだしそうに眉をヘの字に曲げて、下唇を突き出す。「破ったらダメ。破ったらにんげんしっかく!」と叫ぶと、周りの来場者たちが2人を好奇心から注目し始める。

「のどかわいた! お腹いたい! 足つかれた。眠い……」

インキュバスは我慢ができず、ほっぺたをひっぱたいて内臓をえぐりだしてやろうとした。それができない理由はただひとつ。すべては閻浮提(げかい)での大悪禍(カオス)のため。助けを求めようと周りを見渡しても、さすがに神聖な美術館の中には魔界の住人は見つけられずにいた。

自分の意志で3人とはぐれたので見つかるはずもなく、師は群衆の中ではオーラを消し去って感じ取ることもできない。歴代のメフィストフェレスでここまで人間界で自分のオーラを消せることに場違いなほどインキュバスは感服した。が、いまとなると、そのことに何のメリットがあるのか、疑問でならない。みるみるうちに見物客が増える。

 そうか! インキュバスの白い心は躍った。

しかし、肝心な小道具が必要だ。少なくとも、2つがなければいま目の前の人間に悲痛な叫びをあげさせることができない。それができなければ、暗闇の淵へと落とし込むことができない。

 ふと、少女の右手に手をやると、一筋の光明が体の中を貫通した。これだ! とインキュバスは心の中で想った。少女が持っていたノートのようなものとペンを強奪するようにとりあげる。「あっ」と言って少女は目の前のインキュバスの目を一点に見つめた。

「なんで、それ、とるの? ゆーちゃんの宿題なの。ママに怒られる。ママこわい……」

そのセリフを話し始めた次の瞬間、インキュバスはノートにペンを走らせた。しきりにペンを進める。昨日の映画のワンシーンをそのまま真似て、目の前の少女を悲しみの絶叫に連れ去る予定だった―。


昨晩のこと。夜10時を過ぎたぐらいに、メフィストとインキュバスは夜の散歩からホテルの部屋に戻ってきた。いち早く先に戻っていたクピドーがテレビをつけて何やら古そうな映画を視ている。色彩豊かな花々のモンタージュの静止画がゆっくりコマ送りされる。オーケストラの演奏をバックに数分間続く冒頭をみて、コートを脱ぎながらインキュバスがたまらず言った。

『不勉強で大変恐縮ですが、クピドー様、どういった変わったご趣味であられますか? 芸術家の考えることは手前にとっては、ボードレール以外理解ができませんからね』

『なんと!』右手に持っているグラスから液体が急いで立ち上がったのでカーペットにこぼれた。『この花のモンタージュがいいんじゃないか!』

 このまま映画が終わるまで一切ソファから立ち上がらないぐらいのありさまを察知したメフィストはインキュバスに、構うんじゃない、と目配せをした。

 どうも近頃調子が悪いと、インキュバスは内心想った。

靴を脱いでも脱いだ気がせず、ベッドに横になっても横になった気がしない。おまけに、食べたのも忘れて空腹を覚え、あんなに葡萄酒(ワイン)をたらふく飲んだのに酔いという僕にも相手にされない。性欲という性欲も生まれず、エレベーターで一緒だったグラマラスな女性に愛欲の目で見られても何も感じなかった。理由を考えあぐねていると、インキュバスはひとつの帰納的な思考を持って現状を理解せしめようとした。

 主人のメフィストの仕業である以外に理由がない、とやがて確信していった。知らぬ間に、この世の中が、月は月でなくなり、猫は猫でなくなり、天と地が転覆し、宇宙のそとに自分だけが追いやられたような……さりとて、そのような業を何の相談もなく実行するのもおかしい。

既に、昨日の晩にメフィストはある〈提案〉を主人にしていたのだ。そして、その〈提案〉はやがて完膚なきまでに遂行されることになる。

 ――ううぇーん! ぎゃーーー!!

突然後頭部付近から女性の叫び声が聞こえたので、インキュバスはやっと現実に引き戻された。共感を確かめようと師をみるが、何の反応も示していない。振り向くと、もう一度、この部屋でもなく外でもなく四角い箱から悲鳴が聞こえてくる。醜い発音の女が叫んでいる。

映画の中ではオードリー・ヘップバーン演じる下町の花売りの娘イライザが悲鳴をあげていた。インキュバスは、クピドーに気づかれないように、横目でちらちらと盗み見た。

やがて、イライザに悲鳴をあげさせる男の所作をみて、得意げな顔を作ってまたベッドに戻っていった。

 

インキュバスは、今か、今か、と愉しみを抑えきれなかった。しかしながら、待てども待てども少女は口を閉じない。そればかりか、立て板に水のようにひっきりなしに楽しそうにお喋りしている。ひとりで普段何をしているか、飛行機の中でみた映画は何か、好きなおもちゃは何か、どんな家に住んでいるか、どんなメイドが働いているか、何匹の犬を買っているか――。

『なぜだ!』心の中で考えるつもりだったが、耐えきれずに声に出てしまった。

「なぜ」驚いた様子で少女が訊いた。

『なぜ、泣かない』

「なんで、泣くの? 悲しくない、よ」彼女は身体をもじもじとひねりながら言った。

『いいや、おまえは悲しいはずだ』

「悲しくない。だって、ゆまの話ずっと聞いてくれているから」

『聞いてなんかいないぞ』

「ウソ。だって、さっきから、ゆまの話すこと、ノートに書いてくれてる」

『そうだ、ほら、泣けよ』

 インキュバスは焦る気持ちを振り払うように、顔の力を込めて不適な笑みを浮かべた。

「……うん? ありがとう」

『ありがとうだって!? 何言ってるのか分かってるのか』

「初めて……だいすきだよ。おにいちゃんのこと」

 それから女の子はインキュバスの膝にしがみついた。

立ったままだと手がちゃんと届かなかったのでインキュバスはもう片方の膝を落として彼女を遠ざけようとした瞬間、彼女はすぽっとインキュバスの胸に飛び込んだ。それから泣いた。その泣き声はだんだん大きくなっていった。安心しきったような泣き声。もう周りを行き交う人々で二人に妙な視線を送る人間などいなかった。それどころか、温かい眼差しで二人の、一言も言葉を交わさない抱擁を見守った。

「一緒にいて。将来、おにいちゃんのお嫁さんになりたい」

 インキュバスは唖然とした。それは、長い日々の中で唯一といっていいくらいに。

「ゆま!」

突然大人の女性の声が遠くから響いてくる。

「ゆま! 誰に抱かれているの!?」

母親らしき人間が遠くから血相を変えて走ってくる。

「もう心配したじゃない。あれだけ離れないでってママ言ったでしょ……ママから離れるからこんなことに……この人に何か悪いことされなかった」

 母親はインキュバスを見上げながら娘に訊いた。

「ううん……されなかったよ」

少女だけ振り返って、「ばいばい」とインキュバスに手を振る―。

インキュバスは慌てた。そして少女の手に自分のネックレスを急いで渡した。指と指が触れ合った。なぜそんなことをしたかというと、それは自分自身が分かっていない。

 

6 


気後れするように指を微かに震わせながら泰平はチャイムを押した。扉の奥の広い室内にチャイム音が響き渡っている。

祐麻たちは待ち合わせ時間より早く三笠宅を訪れていた。

ここにくるまでの間、彼は経緯(いきさつ)を祐麻には説明し、口才を遺憾なく発揮し終わっていた。余念なく、くれぐれもキッチン用品に関しての具体的な説明を創作しておいてくれるようにお願いしてある。

「はじめまして、榊と申します」彼に背中を押された祐麻が、合図とばかりにぎこちなさを最大限にまで抑えて挨拶をする。

「こちらつまらないもでのすが」来る途中に銀座のデパートの地下食料品売り場でソムリエを捕まえて、お土産を見繕っていた。

「ありがとう。ワインは好きだよ。さあ、どうぞ」受け取った三笠がすぐに奥さんに渡す。

「あ、これワインボトルに入っているんですが、中国茶なんです」彼は祐麻の提案を代わりに話した。

「それは珍しい。それはそれはありがとうございます」

奥のダイニングテーブルに通され、彼は祐麻の椅子を引く。そして自分は窓のところに行き、高層マンションから見える東京という街を飲みこむように深呼吸をした。

それから、先客のところに名刺交換に行く。次々と同じことを繰り返している間、祐麻はただ時計を気にしているのを悟れまいと演技をすることで精一杯だった。

意識は自分の下腹部の方向に向かっていく。どうも朝から体調がよくない。十中八九、生理が始まる予感があった―。

「今日はお集まりいただきありがとうございます」

 三笠が立って挨拶をする。乾杯の挨拶が終了すると、テーブルは社交場としてさまざまな話題が飛び交った。

各々が、自分たちの子供の話、娘にポルシェを買ってやったが、今度はランボルギーニが欲しいと言ってきて困っているよ……毎晩六本木に白のランボルギーニでクラブのボス室でモデルとパーティーをする大手ゼネコンの息子の話……到底彼にはついていける代物でもないことを、祐麻だけは理解していた。とてもじゃないが苦し紛れに中学高校と自転車で通い、お金がなくてバイトをしていた苦労話などを彼がしないかどうかだけが心配だった。

「とにかく困ったときは何でも相談してね」別の婦人が泰平に話しかける。

「ありがとうございます。できれば、弊社のパーソナルコーディネーターにおまかせしていただければ。同行業務のみとなります」

 泰平はもったいぶるようにうっすらと笑った。

「マーケティングと行動心理学、認知科学、あとは脳科学さえ自分で本で学んで、それを冷静に常に実践すれば誰でも成功できます」

軽薄な語り口に祐麻には聞こえた。おそらくそれは自分だけではないとも思った。アカデミックな内容の言葉が何の権威も持たずに吐き出されていたのだ。場所が間違っている。

「わたくしのコーディネートで、女性のみなさんも、自分を高めるフェーズを体感して欲しいんです。だから、まずわたくしに投資してもらえれば必ずそのフェーズを体感させます、というのは織り込んで欲しいです」

胃の中に不和感を感じた。それはまるで、夏の暑い日に、冷蔵庫に残っていたレモンと、前日のお昼に絞り出しクッキーを作った余りの生クリームをパスタと絡めて口にしたときのあの芳香剤のようなまずさに似ていた。

祐麻は味を回想している舌をコーヒーで洗い流そうと画策するが、先が見えたので、生唾つばでなんとか舌を鎮めた。

「あら、そう」急に興味を失ったような様子で婦人が返す。

「すみません、出過ぎた真似を。ご婦人をコーディネートだなんてまだまだ経験も未熟でした。修行しなおします」

マットがフォローしようと割って入る。

「そう」婦人が引き続きそっけない態度で応える。「ぜひ、そうしてちょうだい」切れ長の目をした婦人が汚れてもいない口をナプキンで拭いながら言う。

「ばか、ビジネス界の大御所(ビッグ・ショット)だぞ、気をつけろ!」と小声でマットが注意する。


 額のあたりがずっしりと重くなってくる。紛らわせようと目の前のアルコールを一気に飲み干したが、重みはまずばかりだ。頭痛とも偏頭痛とも違う、天井が覆い被さってくるような圧迫感に近い。

ナイフやフォークの磨き上げられているがゆえにシャンデリアの光を反射する光沢までもが、自分を暗い光で愚弄しているかのようだった。くすんだ味を運ぶそのフォークに移る歪んだ自分の顔が映し出されると、泰平は思わず手に力が入るのを抑えらえなかった。

一方祐麻は鋭利な痛みを感じながら、虚空に浮かんでいるシャンデリアしか狭窄しつつある視野にしか入ってこなかった。泰平はそんなことには気にもせず、自分の世界で記憶の糸をたぐっていた。兄のことが頭をよぎったのだ。

突然「ごめん」と言って祐麻が席を立った。泰平は祐麻の方を振り返ることなく、しきりにたいしておかしくないところで拍手をしながら蝶蝶(ちょうちょう)しく笑い続けている。

トイレの場所を三笠の夫人に確認しながら、これが、初めて祐麻にとっての婚約者への蔑みだった。

祐麻は、兼ねてから少し心配していることを指で顔をなでながら沈めて、その思考を振り払った。昨日出血したので生理が始まったはずだ。しかしながら、着床出血の可能性が祐麻の脳裏には飛来している。次から次へと波状に襲ってくる吐き気と貧血を抑えることができず、そのまま10分以上トイレにこもってしまったのだった。

すると、たまりかねたのか、「トントン」とノックがなる。

「泰平」とか細い声で訊ねた。

「祐麻ちゃん、大丈夫? あんまり戻らないから心配して」

「あ、マット? 大丈夫だよ。ありがとう」自分の小さな絶望よりも相手への気遣いを優先することを脳内会議で決めた。

「すぐ出るから――」

テーブルに戻る前に鏡で自分の顔を確認する。が、さっきまで手の甲でアルコールによる火照りを確認していた頬は、まるで1週間絶食を余儀なくされたようにこけている。思わず時計をみた。入った時間は確認してなかったが、30分はおそらく過ぎている。

その間、力をいれて痛みを耐えていたので、全身に力がもう入らない状態になり、血液を体の中を流れているのか流れていないのか、分からないぐらい腕が青白い。

メイクポーチから臨時用のチークを取り出して、頬広めに大きくのせる。念入りに繰り返す。何周かした後、祐麻ははたと手を止めた。惨めで仕方なかった。

父親が3代目の大手食品メーカーの社長を継いでからというもの、何不自由なく生きてきた。鏡に映る自分の不幸さに耐えられるはずはない。それは、耐えるだけの強さがないというより、耐えなければいけない状況を経験したことがなかっただけのことだ。

ニューヨーク州のある田舎町に、19世紀に人権活動家の女性が主導で建設したという女子高のボーディングスクールを、祐麻は4年かかって卒業した。英語が堪能だから海外のスクールへいった訳ではなく、中学時代から日本の三流インターナショナルスクールに通う祐麻は周りととにかくなじめなかったからだった

 祐麻は三笠たちに挨拶だけして、マンションを後にした―。

タクシーがつかまる大通りまで歩いている間、汚れてしまった気位(プライド)剥片(かけら)を投げつけた。外に出ると鬱蒼とした闇と陰鬱な雲が頭上を覆っている。踏まれた蝉の抜け殻のぐさっという音が聞こえた。



第5章 悪魔:The Devil



店の中では、ビルの外壁の大理石の隙間を走っていたものと同じブルーライトと様々な色に点滅する光が、人種的背景の異なるさまざまな人を照らしている。「く」の字になっている階段を上がると、少し周囲を満たすアルコールの匂いが和らいだので、やっと、橙夏は深い呼吸をした。

靖国通りから、新宿歌舞伎町の区役所通りを都営大江戸線火東新宿方面に歩いて突き当たる四差路の角に、10階建ての商業ビルがある。ビルの正面玄関は扇型となっており、2階に続く螺旋の階段では、カクテルドレスを着た外国人の女性2人がタバコを吸いながら遠くに聳えたつ新宿プリンスホテル方面に身体を向けて何やらゲラゲラと話していた。

外では昼間蓄えた熱がそのまま夜になっても空気を温め続けているだろう。都心の密集空間では熱の逃げ場はなく、湯たんぽ状態の新宿は今夜も熱帯夜だ。

「オールライト! じゃあ、ガイズ、乾杯!」

レース調のチェックの柄の入った、黒のベアトップワンピースから露出した日に焼けた肩、背中、腕が照明に照らされると、きらきらと光った。赤い革張りのソファの上に裸足で立って、そうやって高らかに叫びながら、日に焼けた腕を上げた。

「橙夏! 飲んでる? せっかく愛しのレイが来ているんだから!」

「そうさ!」とレイが便乗し、橙夏の剥き出しの肩をぽんと叩いた。ネックラインがラウンドになった白のキャミソールにタイとジーンズという組み合わせ。日に焼けていない白い肩を所在なさげに動かしている。

「これから飲むよー」わざと自分も楽しんでいることを知らしめるために、橙夏は語尾を伸ばした。

効きすぎた冷房の風を避けるために、レイに不覚にも近寄る位置に座った。

「俺が全部悪いんだ。だけど分かって欲しい。それだけ、俺はおまえが欲しいんだよ」

 原因と結果がまるで他人に理解できる代物ではない。

 事件は香港修学旅行の数日前。ラブホテル代わりに使われることは知っていた。しかし、まさか自分が当人になるとは橙夏は夢にも思わなかったのだ。男子トイレで、レイは望埜のボーイフレンドを入口でみはらせて、橙夏の腕を軽くとって素早く連れ込んだ。数日前から計画していたような意気込みが漲っている。心の準備もできていないのに彼は橙夏との展開を急いだ……そこから先はあまり覚えていなかった。

「ふぅーーー!」望埜が囃し立てる。 

「俺はまじさ。君のことを考えずに一時間だって送れやしない」

待ち望んだ言葉なはずなのに、すっぽりとはうまくはまってくれない。圧迫を胸に感じた。胸のときめきとは違う。抑えようとグラスに手をかけた拍子に、彼が手を重ねる。

後ろのポケットにいれてある携帯が突然震えた。電話の揺れ方だ。ばつがわるそうに取り出して画面をみると、そのままポケットの中にまた放り込んだ。

「もう一度チャンスが欲しい」彼は自分の手を橙夏の手の上に置いた。

 ――チャンス。何様だ。わざと自らさりげなさを装って橙夏の胸に押し付けてくる彼の腕を視ながらそう想った。取り繕ってもう一度笑う。

それから1時間はどんちゃん騒ぎでたわいもないことを話―基本的には滞在期間に訪れた原宿や渋谷、浅草の写真だ―お嬢様をほめたたえなければいけなかった。

「おれ、ちょっとトイレ」レイが言うとジェフが同意して部屋を出ていった。隙間を利用するように望埜が橙夏に話しかける。

 橙夏がのけぞった。アルコールが余計に身体に周ってくるような気がして、気持ちが悪くなる。

急に眠気が襲ってきた。いつもなら理性になんとか軍配があがって、ふらふらとしながらもちゃんと正気は保てるのだが、身体と精神に全く入らない。ちゃんと、ずいぶんと前に安定剤は飲んだので、お酒と反応して睡眠薬のような働きはしないだろう。

ドクン。ドクン。ググッ。心臓の鼓動が耳にこびりつくように鳴っている。その心臓の向こうには、荒れ狂う海が見える。菓子をたべて身体を小さくして瓶の中に入ったアリスと逆の行動を―何かを胃の中に押し込んで、酔いを醒まして、ドアをあけないようにする―ため、橙夏は目の前のポテトを山盛り口にいれた。

その行為をみて2人は心配するどころか、げらげらと大げさに手をたたきながら笑った。橙夏のボーイフレンドにいたっては、立って踊っている。完全に、皆がハイでおかしくなってきた。

 

「あー起きちゃった」間の抜けた声が聞こえる。妙に緊張感のない声だ。

橙夏の背中がぞっと震えた。薄暗い闇の中にぼーっと白い顔が浮かび上がる。黒と白、そして赤だけが認識できる。ま

月の光がちょうどあたらない位置に彼らはそれぞれ違うピッチで呼吸している。既に意識がはっきりしている橙夏は声の主を理解していた。

「暴れたりしたらそこに置いてあるナイフでけがさせてしまうことになるからね」

そう言って、ちらりと橙夏の右側に目向けた。相手の視線を追う夜の闇に隠れきれないどす黒い陰を湛えたバタフライナイフの手垢のついた柄がこちらを向いていた。

やけにさっぱりした顔が近づいてくる。橙夏の額にキス……。筆舌に尽くしがたい戦慄が橙夏の背中にひいてある毛布の上を走っていく。叫び声をあげたくても、目が回ってあげられない。動くと眩暈(めまい)がさらにひどくなる。ペットボトルを倒したかのように嘔吐の源泉が胃の中を往復した。

体をよじってみるが、案外手首は簡単には自由にならない。何かの縄だと思っていたものは、実は彼のシャツだった。シャツできつく縛られている。

彼は何も言わずにただ潤んだ瞳を眺めていた。口をテープで封じられているため、橙夏のある感覚が獣の様に冴えわたっていた。

遠くでカラン、と何か鉄パイプのようなものがコンクリートの地面を転がるのが聞こえる。一気に冷たく重く絡むような風が近づく。そして遠ざかる……それを繰り返している。橙夏のむき出しにされた肢体の皮膚という皮膚に鳥肌が立った。カラン、カラン、カンカンカンカン、カキッカキッ、ズズズズ……。しばらく無音に邪魔される。同じ音が意志をもったように続く。

彼が指を止めた。ゆっくりと抜いていく。後ろをふりかえる。見張りの男と目が合ったのか、顔で会話しているようだ。2人の男は血眼の目で暗がりの中、もうひとりの存在を意識したひそひそ声で話し始める。声をおとした怒声が店の裏に滞った闇と風を散らしていった――。

ちょうど横になった状態からは橙夏の視界が衝立としておいてある、把手の部分の塗装がはがれたビールのケースがつみあげられていたり、サーバー用の瓶がならべられていてよく見えない。聞こえるのは足音だけ。その足音はどこかで聞いたことのある音だ。高い音が鳴り響く。

『今日は満月だ』

見張りをしていたジェフが言い返すには相手を確認する必要がある。が、声がどこから聞こえてくるのか全く検討がつかないでいた。

 2人の男らしき影は並んで歩いてくる。

『誰の大切な使者に手を出しているんだ』

橙夏がちょうど視界でとらえるとき、その2人はほぼ同時に何かに片方の膝を立ているように足をかけた。その影たちは、見張りをしている男の立ち位置から線をまっすぐにひくと、ちょうど反射線をYで描くように45度の角度で、膝をむけ、足下に両手をあてて、ゴソゴソとしている。

『待ってたぞ』暗がりを槍で貫くような声がした。『俺が欲しがってるんだ』腹を減らした吸血鬼のような強欲さが滲んだ声だ。

 輪をかけて声がより高い振動を空気にぶちあてていく。埒が明かないと察知したのか、見張り役の男がたまりかねて声を潜めて言った。

「あんたには関係ないことだから、今日のところは見逃してやってくれないか、おれの相棒が奥でさ……。ここは親友としてそっとしてやりたいんだ」

『その女のことは別にどうだっていい』

 突き放すように言った。

『しかし、いまその子に死なれると困る』

 角から左に曲がろうとしている人のかたちとは思えないほど歪な影が幽邃に見えた。

それから後のことはあまり覚えていない。流し過ぎた涙のために、干からびた植物のように朦朧にしか記憶に残らなかった。


 2時間ほど前にさかのぼる。

 クピドーとイカロスは、偶然にも区役所通りを歩いていた。

『つめたっ、ぬるっ!』

温い飛沫がクピドーの足の甲にかかった。夕方の局所的なゲリラ豪雨のせいで、歌舞伎町もそこら中に水たまりができていた。アスファルトで舗装された道とコンクリートの建造物は熱を逃がすことなく溜め込んおり、水たまりが温い。

2人は、いつも通り旅行を愉しんだ後、じめじめとした熱帯夜に耐えきれなくなり、雑居ビルの7階で涼んでいた。

『こうも熱いと、東京で暮らすのは頭がおかしくなりそうだな。天空はほとんど見えないし、もうそろそろ家に帰りたくなってきた』

 グラスの中の氷を指でかき混ぜながらクピドーが嘆き節になる。

『そうですね、日本は体感温度こそが夏の場合、問題ですからね。外気は外国と一緒でやはり海に囲まれていますから湿度がやはりすごいですね』

『あいかわらずの天気の話はいいんだよ。お前は天気の話ばっかりだな』

『天気ほどおもしろい話が他にありますか』

『そういうのは、普通初対面の人間同士がするんだよ』

DJが隅のほうで夏のサンセットを思わせるようなボサノバ調にリミックスされた曲を演出し、2人が座る窓の近くのテーブルを盛り上げるように両手をゆっくりとブースで動かしている。

『愉しそうにみんな過ごしていますね』

 店の中は扇形の構造でそれぞれに段があり、2人は最上段から各テーブルを見渡せる位置に座っている。

『そうだな』

『美しい人間なのにな。やはり人間か……』

『認めたくない気もしますが、クピドー様の親友の侮辱に当たりますからね……しかし……』

『勝手な推測は止めておかないか、イカロス。あいつがもしかしたら今回何もできないかもしれない』

 イカロスは身を乗り出した。

『あいつはきっと今回はやりそうな気がする』

『何か根拠があるんですか』

 今度はがらりと変わって、身を引きながら質問した。

『何かが違う』

『その「何か」を訊いてるんですよ』

『気づかなかったか? あいつのコートのポケットのふくらみ』

 イカロスは思い出すように目の玉を回転する。やがて、肩を竦めた。

『じゃあいい。俺が記憶するかぎり、あれを持ち出したことはなかったはずだ』

『話は替わりますが』

 突然イカロスが真剣な顔をした。

 話を聞けば、最近よく、自分が仕える意味を再考しているということらしい。

 クピドーは、特に相手にする様子もなくウイスキーを片手に窓の外を眺めた。ところが、次の一言で真剣に話を聞く必要があると判断した。両手を顎の下で組み合わせる。

『小生には羽がない。あなた様には羽がある。この違いの意味がわかりますか』

『さあな、飛べるか飛べないかだろ』

『できることとできないことは明確に別れます。メフィスト様もそうではないでしょうか』

『何が言いたい』

『メフィスト様が人間のために何かできることなど皆無でしょう』

クピドーは自分の思惑を先読みされたような気がして、身体を痒そうにねじった。

『紀元前より光の反対としての闇の中で地獄の炎の傍で生きてきた悪魔の血が流れるメフィスト様に、人間が拠り所としている優しさやおもいやりなどという美徳は通用しません。よって、その2つを必要とする人間関係とは無縁です。そして、できないことに挑戦するということは必ず身を滅ぼします。できないことに挑戦するなど愚の骨頂であり、そして身の程知らずなのです。我々は自分たちの身の丈で生きるべきだ。少なくとも小生はそう想うのですが……』

 彼は相応の負担を覚悟で言っているようだ。

一度は人間たちに神と思われた苦い過去がある。彼が空を飛んでいる姿を目撃した羊飼いたちは神の奇跡だと思ったのだ。地上からの神々しいものをみる視線に耐えがたい幸福を感じたという。そうして、身の丈に合わない幸福に身を漬してしまったがために、悲劇が襲った。それ以来、出家した僧のように節操を優先して無鉄砲なクピドーに仕えてきたのだ。

『嘘だろ? そんな風に想ってたのか。俺の羽をいつもうらやましそうに言うのは冗談半分だと思ってたんだけどな……それにしてもそれは違うぞ』

 何も言わずに考えていたことを話してやるタイミングだと思えた。

『常識を押しつけてる。悲しいことに俺たちもな。同時にいつも不満だ。間違ってないだろ? ということは、その常識を破ることでしか満足はできない。そして――簡単に言えば――その生きることへの満足こそが希望をもたらす。俺は、そう思うけどな。期待してみたいんだ。この街にも……』

 まるで公平に希望を捜しているみたいにして、改めてゆっくりと店内を見た。それから、窓から見えるネオン街を再び見て、自分の中で蠢く何かの一部分を削減するように一息ついた。

『できることとできないことの閾を自分で決めるな。自分ほど不確かな存在はいないんだぞ。おまえ自身が一番よく分かってるはずだ』

 イカロスは小さく頷いた。

 メフィストとインキュバスは勇名を馳せる悪魔だ。そして、クピドーは同じかそれ以上に有名な神。

 しかし、イカロスは? 

 彼だけは元々神でも悪魔でもない。我々と同じ人間だった。ならば、なぜイカロスは3人と一緒にいるのか? そろそろ真実を伝えてもいいかもしれない。

 イカロスは死んだ。

 これは、まごうかたなき真実ということを大前提にしたい。イカロスはその死後、神々の話し合いによって「半炯(はんけい)」として輪廻転生が認められて天界に昇臨をゆるされた数少ない人間だ。

「半炯」とは、天界で「神の見習い」のことを指す。そうして「半炯」として神の仲間入りを果たしたイカロスは不老不死を命令づけられた。不思議なことに、この物語の主人公の中でメフィストとクピドーの命は有限だが、イカロスの命は無限だ。後何年続ければいいのかは定かではないが、ずっと代々のクピドーに仕えている。

 そして、もうひとり忘れてはならない不死の男がいる―インキュバスだ。

『お前は愚かじゃない。勇気……だな。飛び立つ勇気を俺はお前から学んだけどね。だから――』

 涙もろいイカロスのその後は言うまでもない。

 その後30分ほど続けて、イカロスは思わず嗚咽を漏らしながらテーブルに突っ伏したまま涙したのだった。「節操」とは似ても似つかない樽のような腹が揺れていた。

 そんな2人の前に突然2人の女性が近づいてくる。

「ねえ、この後どこかで飲み直しませんか」

 おとなしそうな顔で、とても自分たちから男性に声をかえるような女性には見えない。

『いいよいいよ。でも俺たちそろそろ教会に帰らないといけないから』

「教会? もしかして教会の人」

『いや、そうじゃないんだか、そうともいえるというか……その、とにかく寝泊まりをさせてもらっているんだよ』

「じゃあ、今日は教会じゃなくて帝国ホテルにわたし達と泊まりましょ。決定!」

 2人は逃げるようにトイレに駆け込んだ。

『びっくりしましたね』

 個室に入って隣にいるクピドーに話し掛ける。

『まったくだな』

『どうしますか』

『わかっていたらここにはいないだろ』

『そのうち帰りますかね』

『さすがにそうだろうな』

『一昨日よりびっくりしましたね』

『まったくだ』

 一昨日2人は公園のベンチでソフトクリームを頬張っていると、見知らぬ老婆から突然「神様!」と悲鳴をあげられたのだ。両手を目の前にだして拝み始めたその老婆の対応に困っていると、走ってきた若い男が突然謝りだしたのだった。

 聞くところによると施設の職員が散歩に同行していると、目を離した瞬間に消えてしまったというのだった。はっきりとは言わなかったが、痴ほう症であることを暗にほのめかしていた。

『案外、痴ほうの方が真実が見えてたりするもんですね』と、イカロスが感心したように呟いたのだった――。

 個室で10分ほどそのあと黙って過ごしていると。『そろそろ』とお互い同時に出た。どうしていいのかわからず、お互い見つめ合っていると突然一陣の風が吹いてきた。

『クピドー様……これは』

『うん……まずいな』

 2人で同時に端の半開きになったガラス窓を開けて、窓の下をみたときだった。

『オーロード!』

 2人が叫んだ―。


『さぁ、いこうか!!』

喧嘩腰の宣言で近づいてこられても、ジェフが何の威圧も恐怖も感じることはもはや不可能だったに違いない。というのも、インキュバスは拳を握ってファイティングポーズもとることなく、手をだらんとして相手の動きに注視しているそぶりもない。

「こんなやつが相手か。驚かせやがって」と、独りつぶやく。

 首を2、3度回し悠長に準備運動をし始めた。相手のひょろっとした背丈に一瞬勝機を見出したのか、おもむろに目を閉じて力勝負で相手を屈服させる男性の本能的な狩猟意識を喚起するように首を伸ばす。

 右肩をぐっと下にひく。右の拳を大振りにして大きく後ろへ回した。相手の顔に特大のストレートを打ち込むためだろう。インキュバスの顔面に届かせるためには、後3歩前に進まなければ当たらない。

 一方、インキュバスは凄まじい形相で相手に1歩、また1歩とゴムボールのように跳ねながら走っていく。距離が近づき、いよいよ後一歩で相手の右拳が届きそうになるところまできた。

右足が宙に浮いて後着地と同時に強烈な右ストレートを食らわそうとした……。

 目の前が真っ暗だった。身体は誰かに知らぬ間に運ばれたのかと思うくらい、きれいによこたわっている。殺意が残る静寂の空気を張りつめる。

 起き上がると、彼の視界はインキュバスを捉える。さっきと同じ格好で手をだらんと下にやって相手を見つめている。嬉々として無防備な状態に自分をわざと置いているような余裕綽々とした様子だ。相手までの距離はおよそ10歩。

 もう一度。相手との距離をつめていく。助走をさっきよりもつけてスピードをあげて突進した。自分がひょろりとした奴に突き飛ばされる訳がないと考え直したのだろう。

「ぐぐっ……ごほっう」

 物理的な距離のイメージは完ぺきだったはずだ。後2歩ほどで殴り掛かれる距離まで詰めた! その矢先、インキュバスは相手の顎の下の空間に沈んだのだ。

インキュバスが一気に沈み込むように間合いを詰めた。一瞬動きが固まる。見逃すわけがない。左拳が彼の顔面にめり込んでいた。

畳み掛けるかと思いきやインキュバスは一撃が終了するやいなや、大きく飛びながら下がって、仕切り直した。態勢を整え相手の戦意が回復するのを待って攻撃する気だ。

彼がゆっくり相手の間合いをつめながら進む。今度は遠い距離だ。飛び蹴りをしようと飛びながら蹴りを繰り出してきた。インキュバスは、一歩左に軽やかにステップを踏むように移動する。相手の攻撃を体で捌く。左足の外側のつま先部分に体重移動した。そこを軸にして、今度は左から拳をぐるりと180度回転しながら、腰の回転させて振幅の短い反撃の左フックくらわす。矢継ぎ早に、相手がよろめいて下がっていくところ、相手の背後に生け垣を跳び越えるように回り込む。相手の腰をもちあげて、そのまま後ろにパイルドライバーの形でぶん投げた。

 やがて彼は腕力だけでなんとか身体を起こしあげた。口の中から出てくる血を拭いながら、起死回生の咆吼の声をあげた。

「おぉぉぉぉぉぉぉ! おぉぉぉぉ!」

インキュバスは嬉しそうにうしろへ下がる。間合いを無視した彼の上段蹴りが空をきった。空振りの脚が地面についた瞬間。それはインキュバスを一瞬視界からはずした瞬間だった。

インキュバスは宙にいる。まっすぐ胴体とつながった足がしなる。起きる風がナイフよりも鋭く光った。ボコッ! 彼の胸のあたりに底足とかかとが刺さる。

ガタガタガタガタ!!鈍い音と乾いた音が同時にした。彼はたまらず腹のあたりを抑えながらうずくまった。苦しそうな息を漏らしながら、呻き声をあげる。

「起き上がるな、俺がやる!」

 橙夏のもとを今度はレイが離れた。一方インキュバスは犯し難い気品を帯びていた。少しの焦りも感じられない。髪の毛は1本たりとも乱れていないのだ。

そうして何の素振りを見せない中、山が突然動いた。電光石火でインキュバスは膝を一端腹の高さくらいまで抱え込む。それから膝下をムチのように素早く蹴り出す。反撃の相手の右フックを避けて、そのまま伸びた手を下に受け流した。

そのまま首をつかむ。相手を右に左にひきずりながら膝蹴りを連続。そして連続と5回――。相手もすかさず、首からインキュバスの手を力づくで離す。体制を整えようとするが、焦点が定まらずふらふらと体が揺れる。膝蹴りで目のあたりは膨れあがり、鼻と口からは血を流している。

彼が突然走った。近くにある鉄パイプを持ってにやりとした。

「調子に、乗るなよ、てめぇ、誰だ!?」

『よく我にそんな口きけるな。ただじゃすまんぞ』

 彼は返し刀で笑い飛ばした。すると『死ぬ覚悟か』インキュバスがその笑いを一蹴する。

「この野郎、ふざけてんじゃねえぞ!」

 鉄パイプで威嚇しようと大きく素振りする。

『言ったはずだ。その子に今手を出されると困るんだよ』

 歴代のメフィスト家に仕えてきた者だけが持つことを許された威容を誇る口調だ。インキュバスが暗がりで横たわる橙夏を視る。

彼は二メートル近くある鉄パイプを上下左右に振って、破竹の勢いで襲いかかった。インキュバスは右肩を前にして右手の平を上にあげるようにして構えた。初めてだ。

ダダダダッ。強烈な鉄パイプの一撃をくらえば形勢逆転になると思ったのか、インキュバスは2、3歩下がる。相手は下がったのを勝機ととらえ、ほくそ笑んだ。

インキュバスは静寂の声に耳を澄ませるようにして目を閉じた。

「おい、神頼みか! 死ね!!」

 両者の間合いを詰まる。ここぞという間合いだ。鉄パイプの先端が上を向いた。インキュバスめがけてまっすぐ振り落とされる……。左腕が伸びる。伸びた左腕がしなる。インキュバスは相手の攻撃を左腕で受けた。鈍い音が静寂に混じる。

「おまえ、正気か!? そのほっせぇ腕折れるぞ」

 そのころ、鉄パイプの音を聞いてか、ビルに入るテナントのホステスの一人が声をかけて、路地裏に野次馬が1人、2人と集まっていた。酔っ払った男女がまるでボクサーの試合でも観るように、野次を飛ばしている。このままだと歌舞伎町の巡回中の警察官がかけつけるのは時間の問題か。

『思い出作りなら、我に血まみれにさせてもらってから、その後にもし余裕があったらやれよ』

 相手の顔がひきつった。

『それとも、我がつくってやろうか……せっかくおまえらアダムの子孫のために、妖術を封印して素手で戦ってやってたのに、武器を使うとは、さすが下等な生き物だ』

 インキュバスは明々と闇を見上げて、両掌を高く掲げる。恍惚とした快楽を相手に与えてやるような歪んだ優しさに満ちた顔だ。街の明かりが差し込むあたりの天空は晴れ、雲ひとつない夜空がひろがっているというのに、路地裏の4人がいる上は刻々と濃い雲に覆われはじめた。熱帯夜の風は強さを増し、どこからか酒や油、香水や血の色を運んでくるようだ。空気は張り詰め、暑さと相まって蜃気楼な雰囲気だ。野次馬のひとりひとりもただごとではない空気を察知し、1人、2人とまた夜の街へと消えていく。

路地裏には4人が残された。

『おおおぉぉぉぉぉ!!』

冬の山や川、湖のほとりなどにたちこめる冬霧のような霧に視界が遮られ、墨で濃淡を夜空に描いたような空に覆われている。その中に身を置く喜びを感じるように、インキュバスは低く、低く、唸る。地を這うような声は、呪文のように、あるいは詩篇のように朗々と続く。

『警察だ!』

その時誰かが叫んだ。その叫びは3人に緊張を走らせ、インキュバスだけ我関せず顔で【儀式】を遂行しようとしていた、

『そこに立っている君! 手を上にあげなさい!』


 メフィストは急いで橙夏のところに駆け寄った。まだ意識が戻らない彼女の身体を抱え上げた。その声の主とは反対方向の小道を新宿駅を背にして両国橋方向へと疾走する。

 やがて後ろから追いかけてくる足音はもう聞こえなくなった。しかし、眠らない街を一刻も早く去らなければいけなかった。そうしたいと思った訳でもないが、そうしなければいけないと思った訳でもないが、それでもそうした。

 街の明かりもだんだんと落ち着いてきて、辺りは少しだけ暗闇が目立つようになってきた。走って行く姿を周りの人達は不審な目で見ていた。若い女の子を抱きながら中年くらいの男が走って何かから逃げている。しかも歌舞伎町方面からということは、ただ事ではない。そう考えた人達は誰も止めはしなかった。

 人数が少ないスナックの軒下でメフィストはようやく彼女を下ろした。そして、ポケットから瓶を取り出して、彼女の鼻先に近づけた。うぅぅ……うう……10秒もしないうちに効いてきたのか彼女は意識を外に向け始める。

『橙夏、橙夏』誰かの声が聞こえる。いま一番自分が聞きたい声で、いま一番聞かなければいけない声だ。「橙夏!」今一番聞きたくない声も聞こえる。いつからか分からないけど、いつの間にか聞きたくなくなった声。あれは、夏休みのときだ――。

夏休みの工作の宿題を家に忘れたことに気づいて、学校に遅刻することがわかっていても、駅に向かって走った。電車に乗って5駅先の自宅に取りに帰るためだ。あれだけ教わりながら、楽しかった思い出でもあるブーメランを先生にみせたかった。

動く電車の窓から見えた。通過した駅にたしかにその人と腕を絡めてキスをする母親ではない女性を見た瞬間。母親を愛していないことが分かった時にもう、ただの「他人」になった声。

『橙夏……橙夏―』

 今度はあの時の声だ。少しだけしわがれた声……。

 赤ん坊が沐浴されるような格好で首を後ろから支えられている自分に橙夏は気づいた。目の前にはメフィストがいた。

『何も問題ない。君の心も体も誰にも犯されてはいない』

意識を自分の足元に向ける。片方の足だけ軽い感じがした。素足に排気ガスがあたる。香港で自分にと買ったウェッジソール型の白と青のストライプエスパドリーユの片方が見当たらなかった。

橙夏が二の句を言い澱んでいると、彼が先に質問を投げてきた。

『どうしてあんなことに巻き込まれた』

なんと言えばいいか分からなかった。昔セックスを断ったから、レイプされそうになったから、その続きだと思う――とは言えない。

「勝手にあいつが私の胸をつかんできたから、止めてって叫んだのよ、そしたら仲間呼ばれてあんなふうにさせられたの……」

 嘘の代償が橙夏の頭をもたげた。

『さぁ、帰るぞ』彼はそれだけ言うと立ち上がろうとした。

「私は……このままでいい」

『身体が冷えてくるとろくな考えは浮かばない――やがて悲しみに自分を譲ることになる』

 橙夏は携帯で時間を確認しようとした。携帯をポケットから取り出してみると数回着信があることに気づいた。父親の望からだった。クラブ内での電話も彼からだった。

「もう放っといて……」

彼の手を厄介者でも退治するように振り払った。ただただ自分が惨めでならなかった。同時に惨めと思えるだけまだ自分に自尊心があることにも腹が立っている。

 車は5分に一台タクシーが通るくらいだが、行きかう人は相変わらずの多さで、各々が2人を覗きながら通り過ぎていく。

気恥ずかしそうに、橙夏があぐらをかいで座りなおし、首を垂れる。視界にはメフィストの足だけが映り込み、安心と自己嫌悪が同時に押し寄せて、気持ち悪くなって数回咽た。背中をさすりながら彼は何も言わず黙っていた。

周りからの視線を集めても、橙夏は気にせず叫んで、叫んで、咽び泣きながら、叫んだ。「喜んでるのか悲しんでるかが分からないの!」

通過するカップルがびっくりした顔で体をのけぞらせながら通過していく。

「なんでみんな分かるの? なんで? ねぇ、どうしてあなたも分かるの? ぐすっ、自分が誰なんて、他の人と違うなんて、どうやったら分かるの」

橙夏は下を向いたまま、上から声が降りてきてくれるのを待っていた。しかし、彼は沈黙を破ることはしない。「……誰にも教わってないよ。誰も教えてくれなかったもん……」涙でくぐもった声で悔しそうに言った。沈黙を破る音は、エコーの聞き過ぎたカラオケ曲だけだ。

「でもいいの!」

 苦しそうに昇ってくる押しつぶされた笑い声だった。橙夏の顔の下の部分だけ、相変わらず染みと蒸発が繰り返されていた。

 それから2人はゆっくりと歩いて通りを後にした。帰る間、ずっと2人が並んで歩くこともなかったし、言葉も一言も交わさなかった。ただし、橙夏はひとときも彼のコートの裾を離さなかった。


数日後―。橙夏はメフィストの工房(サロン)を見上げた。猫が鋳物面格子窓の周りから、じーっと外をみていた。やがて視線をおとし、橙夏と目が合う。「にゃん」と聞こえるはずのない鳴き真似をしてみると、縄張りの外の見張りを強化するようなキリッと睨まれたような気がした。

「今日は、ほら、差し入れ。家で作ったんだよ」

 工房(サロン)の扉を開けて橙夏はメフィストの姿を探した。隅っこの方で何やら作業中のようだ。

邪魔することはなく、慣れた感じで暖炉の傍にある一人掛けのアームチェアに腰かけ、アームの部分に脚をかける格好で本を読み始めた。やがて、メフィストが橙夏の存在に気づいて近づいても、橙夏は本から目を離そうとしなかった。

『ジュール・ミシュレ『魔女』か』

 本の表表紙を読み上げると、ひょいっと橙夏が顔を出した。

「読んだことある」

『ある』

「あまりオススメじゃない」心配そうに訊ねた。

『そうじゃない。真実過ぎて問題になったくらいだ』

 橙夏はそれだけ聞くと神妙な顔を作った。妙に諒解したような顔をそれからして、ふたたび読み始めた。聞くと、提出しなければいけない課題の本を自分でたまたま本屋で見つけたらしい。

「ところで、あっちで何してるの」橙夏は近寄ってきた猫の頭を撫でながら訊いた。

 質問にはすぐに答えず彼は作業部屋に戻った。

『友と別れるときはギフトが当たり前だ』と、手を止めずに言う。

『今日は、ここに精油をどれでもいいから、君が好きなようにブレンドするといい。そうだな、テーマだけ私が決めてもいい』

 (しおり)も挟むのを忘れるぐらいに勢いよく本を閉じで、目を(みは)った。予想していないタイミングで予想していない提案だった。間髪に入れずに飛びつく。

「うんうん! やってみたい!」

『最初に、ひとつ質問をしてみたい。今の気分でなく、自分が一番最悪な気分の時を考えて欲しい。死にたくなるとか最高だ』

「なーにそれー。だけど、やってみるね」

 相手を喜ばせたい一心で、橙夏は目を閉じてしばらく考える―。

「考えたよ」

『よし、いい子だ。君は想像力も豊かだから、きっと良い作品ができる。こういうのは想像力が生まれつき欠如気味の人間は、いくら頑張ってもできないからな』

 そう言うと、始めるように顎で指示をした。

 素直に目を閉じる。彼が一呼吸置いてから質問した。

『その時に香りたいのは、柑橘系のシトラスの香りか――』

必死にイメージする。

『――ディープな花の香りか、それとも――スパイシーで濃厚な香り』

 学校で教師に揶揄われた時のことと、その晩抗うつ剤を過剰摂取し掛けた慌てて指を口に突っ込んでトイレで吐いた時のことを思い出す。最低最悪。

「柑橘系は嫌だな。楽観的に考えろ! って強制されてるみたいで、すごい押しつけがましい感じがする。スパイシーなのも気分的に……もっと暗くなりそうで嫌だから……だから、残ったディープな花の香りかな……」

『……よし、目を開けて』

 静かに目を開けた。

 すると目の前にいつの間にかガラスのテーブルと瓶がいくつかセットされていた。

『これはキャリアオイル、これはオリーブ油だ。そして、他の瓶は全て精油の瓶、それぞれラテン語や英語で表記してあるから分からないときは質問もいいが、名前よりも自分と香りとの間で感じる一蓮托生(シンクロ)を基準に調合したがいい。左から、ハワイアンサンダルウッド、ジャーマンカモミール、ゼラニウム、イランライン、フランキンセンス、ラベンダー、ブルーサイプレス、ブルータンジー、ローズ、ラバンジン、スペアミント、オコテアだ。好きなものをとって、何種類でもいいから、自分で調合するといい。これが君の瓶だ。私は上に行ってるから、好きに時間を使っていい』

「……うん! 分かった!」

 今から始まることへの期待値が「上に何があるのか」という疑問を上回っていた。


『どうだ』

 1時間ぐらい経ってから、上から降りてきた。

「まだ……何かが足りないの」

――いつも、そうだ、いつも何かが足りない気がする。

 そう考えると、橙夏は突然自分が何か物凄く劣っている存在であることが恥ずかしくなってきた。

 ファッションだけでは普段から感じる汚い「身体」へ向くその(はじ)を拭い去れない。これまで胸をわくわくさせていたものが急速に萎んでいく。手に力が入らなくなる。代わりに入ってきたのは、この場からすぐにでも逃げ去りたい、という火照り。逃げる準備をするために、両足が鶏のようにびくびくと揺れ始める。

『言い換えれば、たったひとつ見つかれば全て解決する』

 橙夏は歓びを胸に閉じ込めて、雨上がりの澄み切った空の月のようにさっぱりとした驚き方をした。メフィストはもう一度繰り返して言う。

「考えたことなかったけど、言われてみればそうなのかな」

『幸福になることを想像したらいい。どれがマイナスの感情から救うのではなく。どれが幸福な気持ちになれるか』

 最悪なことのあとは幸福なことをイメージしろだなんて、ジェットコースターみたいだと想った。

「幸福な気持ち? なんだか恥ずかしいな」

――恥。それは自分にむけられたものではない。「幸福」という概念自体への置き所のないこっぱずかしさからだ。むずがゆそうに身体を少し揺すった。橙夏が素直に恥ずかしいと伝えると、『――幸福。という言葉が恥ずかしいとは、閻浮提(げかい)にはたしかにいっつも何かが足りないんだな』と彼が膝を叩きながら言った。

 それから首を捻りながら必死に想像した。なかなかはっきりと最悪なことを思い出すよりも点と点が線でつながってくれず苦労する。

 何度か繰り返してやっと具体的に思い浮かべてきそうになったところで、「うん」と首を振って追加の瓶を選んで加えた―。

 彼が鼻から吸い込む音が部屋中に響く。

『いい香りだ』

「うん、ほんと、気持ち悪いけど気持ちいいような」

 少しの時間で最悪と幸福をイメージしたからだろう。想像力に体力を奪わらるくらいに費やしてしまったので、少し眠たい。

『幸福とはそんなものかもしれないな』

 ゆっくりと咀嚼するように言った。

『まず、イランイランが多め。イランイランは精神的な調和を助ける。そして怒りを緩和する――ゼラニウムも目立つな。神経を刺激して悪い記憶を開放する助けになる。後は、うん、やはり、サンダルウッド。負の自己帰結を排除する。そして、他のに比べるとブルータンジーも若干多いな。肝臓とリンパ系を浄化する働きってとこか』

 橙夏は次々に言い当てられる中身を隠すように胸に手を当てながら聞いていた。

「どう? センスある」思い切って質問する。

『…………』

 やっぱり、さっき逃げ出しておくべきだったのだ。

 そうしたらもう二度と会わずに済んだ。橙夏は、悔し涙を抑えるために罪人のように、踏んでいる猫のクッションを見つめた。

何も言わずに目の前のメフィストの横を通り過ぎて静かにドアに向かった。落とされた肩は重力に逆らうことなく足取りを重くした―。

『もちろんだ!』

 受け入れられる安心をこのとき初めて知った。重力を失いそうになった。

『もちろん、私が思った通り、これは見事な解放系の精油だよ』

そう言って、瓶もういちど鼻の近くに持っていく。

『いつのまにか人間はいろんなものを背負い込みすぎるし、溜め込みすぎる。何事もほどほどが一番なのだが、そんな自分の中に溜め込んだ怒りなどが解けていくのをイメージしながら自分のお腹の部分や、足の裏に塗るといい』

 得意そうに胸をはった。さっきまでの落ちた肩は肩甲骨にくっつくほどに反り返り、腰にあてた両手まで瑞々しくなる。

「今度は手じゃないんだ」

『そうだ』

「へぇ、奥が深いんだね」

『上を目指すんじゃなくて、何事も奥を目指したがいい』

「えっ。下ネタ」

『何のことだ』

「冗談だよ」

 橙夏は神経質に笑った。

「この前は取り乱したりして、ごめんなさい。本気じゃなかったの」

 覚悟を決めて切り出す。

「いつも同じこと繰り返しちゃうんだけど。それで何人も友達失ってね」

『今、この瞬間、謝ってるだけで十分。君は何かを変えただろ』

「ありがとう」

 自分の口からそんなシンプルで短い言葉が出て来ることに内心驚いた。

「ほんと……優しいんだね。人間、とは、思えないわ」

 一言一言を慎重にくるむような言い方をした。

『ふざ、ふざ、ふざけるんじゃない、私に、優しさなんて、そんなものは断じてない。それにこれは私の家業だ。仕事に打ち込むのは当たり前なことだ。雨でも降ってきたか―』

遅ればせながら狼狽しながら手を広げて大口舌のようにまくしたてた。

脈絡なく窓の傍に向かった。雨は降っていなかった。

彼が窓の傍に向かう途中、周りの家具や瓶たちもすくすと笑うように音を立てた。外は燦々と太陽が輝き、日差しが窓の外から差し込んでいた。ちょうど、陽だまりのところで猫はくむくむと昼寝中だったのに、起こされて少々不機嫌にテーブルの下に悠々さを半分残したまま逃げ込んだ。絶好の場所を奪われて、不貞腐れたような寝方でおしりを彼らの方向に向けている。

乾いたアスファルトを所狭しと人間と自動車が往来していた。

 突然前後に猛ダッシュで、裏路地を走るかのように野性味あふれる走り方で部屋の中を回りはじめた。呆気にとられて猫を追っていると、しばらくしてから猫耳形のトイレに入っていって、こちらを向いたので、気を遣って見ないふりをした。

「ほらほら、怒ってないで香りでもかいでリラックスしな」

 橙夏は目をこすりながら先回りして布石をさらりと敷くように言った。そのままほんの束の間で眠りに落ちていった。日が暮れてからもそのまま起きることはなかった。



入口のドアに近い「頂点」の部分だけ意図的に人が入れるようなスペース。長机がひし形の形に並べられ、パイプ椅子が囲まれた空間にサークル状に並べられている。

 遠ざかるメフィストの背中を橙夏は慌てて追いかけた。

 室内は射抜くような夏の陽射を避けるためか、黒いカーテンが窓に備え付けられてある。室温は弱い冷房のおかげでそれほど外と変わらないように感じられた。

 歌舞伎町での事件以来、橙夏はメフィストのアシスタントとして働いていた。というのも、ほぼ毎日予定されていた塾をすっぽかして《erbe》を訪れていたのだ。吸収力の早い年齢ともあって知識の成長度が著しい。「お客」の名前―そもそも覚えるといよりは、誰もが知っている海外・国内の著名人ばかりだったのではあるが―も覚えが早かった。

 彼は実にさまざまな外国語を流暢に話していた。発音は絹のようにへたりやぎこちなさがなく、手話の場合も彼の指は実に美しく空中で舞い踊っていた。来客を告げる真鍮のベルが鳴れば、すぐにソファに案内する。対面にメフィストが座るのを待って、お湯を沸かす。メフィストの目をみる。どういうブレンドでハーブティーを淹れるのか、もはや二人にしかわからない略語、いや、隠語を使用しながら会話が繰り広げられる。客と彼が話をしている間、戸棚の瓶からそれぞれのドライハーブを取り出してブレンドするというわけだ。

教会や礼拝堂の牧師が演説するようなプラットフォームが空間の真ん中に位置する。そこには、プラスチック製のAフレームで「ファシリテーター」と書いてある。四角いテーブルから離れてぽつんとあるテーブルがどうやら受付らしい。やけに慈愛に満ちた表情の中年の女性と、ずいぶん笑顔を絶やさない若めの女性だ。

「初めてですか」

『私は、初めてではないが、この子は初めて』

 するとその2人の女性は感心したように橙夏に視線を向けた。

「奇跡をみなさんで体験するために、少しだけ説明させていただきますね」

 ――奇跡? 面食らったように目を大きく見張って身体をのけぞらせた。既にインチキ感が充満していると想ったからだ。

近づいてみてみると、下膨れした丸顔の中年女性と角ばったいかつい顔の薄化粧の2人は、笑顔がないとさぞかし怖いのかもしれないと想った。その2人のコンビがリーフレットを橙夏に渡しながら説明し始める。

 初回参加者に必ず説明しているのであろう内容を終始笑顔を絶やさず彼女たちが話し終わると、ネームタグを選ばせられた。さきほどから気にはなっていたが、自分の名前がある訳ではない。

「好きなお名前をつけてください」

 影の薄い別の男が両手を膝に置いたまま2人に話し掛けた。

 メフィストは《ジャック》。橙夏は《キャサリン》を手に取った。

「くれぐれもミーティング兼セッション中は、実名の名で呼び合わないようにしてくださいね」

2人はテーブルの味気ない紙コップを持って、サークルの中へと閾を越えて入っていった。パイプ椅子に並んで腰掛けていると、徐々に人が増え始める。隣の彼は目で姿を確認してから椅子に座るまで追っている様子だが、それも気のなさそうな追いかけ方だった。

10名ほど集まったところだった。会議室の大扉が閉まる。

キャサリンには寮生活の光景と目の前の光景が重なって思えた。一人でいたいのに、一人でいられない。週一のフロアミーティング。積極性が絶対命令。消極性は負け犬の証拠。〈次世代のリーダーシップ〉とやらの素質を持ち合わせていない彼女にとって、寮生活は完全24時間監視下にある刑務所のようなものだ――。

扉を閉めたスタッフらしき人間が急いで窓へ向かう。埼玉大宮駅舎とそごうデパートが見晴らすことのできるその窓をさささっと黒いカーテンを引く。何やら、夏の肝試しのような、ものものしくもおかしくなってしまう雰囲気になった。

年齢はおよそ30後半から50歳くらい。ほぼ女性。共通していることは、誰もが鬱蒼とした心労の痕が顔に刻まれ、不安に後ろ髪を引かれているように思える。

そうして視線を研ぎ澄ませていると、ふと視線同士が重なった。

20代の若い女性。華奢な足がゆるりとしたパンツから出ている。座っていても身長が高いことがわかった。上半身はリネンガーゼのロングシャツ。シャツの中はグレーのタンクトップ。胸の色気は、声高々にとはいかないまでも、それなりに強調されている。華奢な両足の真ん中には、受付隣の丸テーブルに置いてあるジュースを自由に飲むための紙コップではなく、来る途中で買ってきたのだろうコーヒーチェーン店のカップが収まっていた。不幸を背負ったような細身の手足。眼窩のくぼんだ、土色を帯びた血色の悪い顔。

 楕円形の壁時計が4時を廻った。

「愛情、そして信頼の絆――」

 まるで映画が始まったような軽い気持ちでキャサリンは紙コップを口にあてた。

「だからこそ、こうしてわたし達はここに辿りつきました。支えあっているのです。恥ずかしいことではない。その絆のサークルの中でお互いの弱い部分を励ましあい、負の連鎖が入らないようにしてます」

 先が見えない冒頭だ。

「しかし、本日はオープン・ミーティング。初めての参加される方もいらっしゃいます。黙ってお話を聞いておくだけでも全く構いません。お話しする気になられましたら、わたくしにお知らせくださいね」ファシリテーターのフレームの前で、小太りの女性がみずからの歩兵隊に指令を下すように見渡す。

「本日ファシリテーターを務めさせていただきますエルマです」 

オープン・ミーティングでは感情の回復に関心のある人なら誰でも参加できるらしく、クローズド・ミーティングは感情の問題を持っていると思う本人であれば、だれでも参加できるらしい。

 オープンでもなく、どちらかというと、どっちの場合でもクローズどのような……とキャサリンは心の中で思った。

「それでは、まず瞑想にはいりましょう」

 チャカッとラジカセの再生を押す音がした。「それではー、いつものようにー、目を軽く閉じます。呼吸観察からいきましょう。だんんだんと、自分の呼吸がー、自分でコントロール、できるようになっていきます」

 キャサリンが面食らって助けを求めようと右隣をみると、既にジャックは瞑想に入っていた。清々しい顔に一瞬尊敬が揺らいだ。

「いま、自分の、頭にイメージするもの、それを他人に聞こえないように、口にだしてみます。つぶやくように、出します。どんなものでも、大丈夫。普段は人に言えないことでも大丈夫。だれもあなたを差別しません。さぁ、イメージしてくるものをだんだん口にしていきます。神に全部委ねて、安心して、リラックスしてみましょう」

 エルマはまるで言語を覚えたての子供のように、ゆっくりと空気の膜に言葉を置くような口調で指示をだす。

誰かの手が背中に置かれる感触。心臓にまで届きそうな毛布。目をふと開けると、ジャックの右手が彼女の背中に置かれていた。薄目で見ている。2人は目を合わせただけで無言で会話した。

「それでは、呼吸を手放し、ゆっくりと心の静寂を大事に目を開けて、みましょう」

 瞑想というか祈祷の時間のようだった。

 エルマの次の合図で「告白」が始まった。

 摂食障害、アルコール依存症、近親者による家庭内暴力。学校や職場、ネット上でのいじめ。セクハラ、パワハラ、モラハラ。それぞれが当たり前のことだが物語がある。その物語は似ているようで異なるし、異なるようで似ている。そして、どれにも共通することは、皆物語の中でキャサリンと同じ年齢の時に深い痛手を負うような経験をしている、ということだ。

 皆「自分らしさ」に悩んでいた。「自分らしい感情」、「自分らしい思考」、「自分らしい服装」、「自分らしい進路」、「自分らしい生き方」……そんな「自分らしさ」に翻弄されている物語。時代に洗脳された物語。ようするに短い人生を棒に振るだけの物語。だんだんと、キャサリンは自分の悩みがバカらしいものに思えてきた。

ある「実験」をしてみようと、胸に決めた。どうしてそんなことをしようと思ったのか、それを説明することは容易ではない。

何かを断念するときには理由はいくらでも浮かぶ。逃げるときの理由は余るほど見つかってきた。諦める理由も、挑戦しない理由も、嫌いな理由も……。その反面何かを始めるときや継続するとき、後になって振り返ってみると意外にも言葉で説明できる理由が少ない。好きな人の理由より嫌いな人の理由の方が常に多く言うことができるものだ。

皆が話し終わると、キャサリンの番だ。その前のジャックが棄権したので、キャサリンは多少面食らったが、どこか既に腹は決まっていた。

「さぁ、今日初めての参加者の方ね。えーと、キャサリンさん。どうかしら、何かお話ししたいことあるかしら」

 エルマが訊ねる。脆性(ぜいせい)の高そうな演出された親しみ易さに思えた。

「あります」

 後戻りできない後悔と突き進む覚悟が胸に押し寄せた。

「あら、ではみなさんキャサリンのお話を聞きましょう」

 皆の注目がキャサリンに向けられた。

 始まった。人前でのプレゼンテーションが大嫌いなキャサリンの話。意を決っして注目の中話し始めたのだ。それは、第一声から場を凍りつかせることとなった。

「魔法陣みたいですね。悪魔が入り込まないような」

 蟻の騒めきが沈黙の後に続く。

 エルマが場を制圧しようと口を開く。

「面白いこと言われますね。どうしてそう思うのか、聞いてもよろしいかしら」

半ば「聞かせろ」という命令を示唆しているように思えた。

「宗教的だし、支えあってるようにはさっきから見えません」

騒めきは今度は大型動物のそれになった。

キャサリンは気にせず続ける。

「自分の意見を正当化する集団だから、気が楽ですよね」

「あのね、キャサリンさん」

 彼女の声色が変わった。

「自分の意見を正当化する人がいなかったら、みんな自殺してしまうわよ。それに、先程のキャサリンさんの『宗教的』って意見に対してだけど、わたし達は特定の教義や信条を肯定も否定もしていないの」

 おのおのが肯くのが見える。

「でも、『神』って言葉使ってました」

「……たしかに『神』という言葉は使うわ。でも、それは人間の叡智を越えた存在。力という意味なの。自分の努力だけで世の中はよくならないから、見えない力―いわばサムシングオーサムなものを『神』という言葉に置き換えているだけなのよ」

「分かりました。あともうひとつだけ、いいですか?」

 キャサリンの狙いはここからだ。

「もちろんよ―」先ほどよりも険しい表情でエルマが促す。参加者も敬遠するように背もたれに背中を預けきった状態だ。

「みなさん、最初の自己紹介の時に、1年以上、中には3年もこのサークルに所属している人がいるって言っていましたよね。自分の意見を正当化するのにそんなに時間がかかりますか? もし、傷が癒されなくて、それで正当化が必要だとしたら、こういう団体に所属するピリオドを設けるべきだと思います」

「人それぞれなのよ、キャサリンさん。そのご本人が必要なだけここに参加されたらいいの。そういうところなのよ、ここは。一日で心を溶かせる方もいれば、何年もかかる方だっていらっしゃるの。そういう方にはずっとクローズ・ミーティングに参加していただくの。異分子が入った場合に、このコミュニティは理不尽に壊されかねないの」

 ついに射程距離に入ったような緊張感が場に伝わる。

「私はアメリカの高校生です。留学しています。絆を大切にします。プライドを持てといわれます。自分に自信を持てとも……」

「ほら、そうでしょう!」すかさず両手を重ねる。声が上ずった。キャサリンは首を振っているが、すぐさま彼女が続ける。

「先生はそう教えるものなのよ。わたし達もそうなの。もう一度、人間としての個人の尊厳を取り戻しくてここに集まっているのよ。閉鎖的だと言われるかもしれないけども、いいの。それでも――周りを気にせず仲間とともに成長していくのですから」

 また笑顔を作って参加者を見渡す。

「でも、違う気がするんです。うまく説明できないけど――」

「どこが気になるの」

 嵩高(かさだか)い疑問の投げ方にキャサリンは一瞬怯みそうになる。

「……尊厳って私はまだどういうのか分かりませんが――」

 ふたたび騒めく。分からない人間が意見などするなと言わんばかりのひそひそ声。キャサリンは深呼吸をして自分を落ち着かせる。

「個人の尊厳って、偽善的……」

 まだ言い足りない。

「……人間に必要ですか」

どよめく室内。騒めきは深まり、やがて渦になった。キャサリンは、顎を両親指と人差し指の間の水かき部分にはめて、合わさった両人差し指に鼻をおしつける例の癖で自分を保護しようとした。

ところが、背中に手の平が覆いかぶさった。

「むしろお互いを疑いながら生きているように思えます。学校で、リーダーになれ、リーダーになれ、と言われるのと同じことだと思います。例えば、このペーパーにペンの役割をしろっていっても無理ですよね」

「人間には無限の可能性があるんだから、若いうちに決めてはだめよ」

 恐々しい表情でキャサリンにぴしゃりと打つように言った。

「いや、決めているのはわたし達じゃなくて周りです。わたし達は常に監視されて、その社会にふさわしい人間が形成されている」

「じゃあ、キャサリンさんは犯罪者を社会で育てた方がいいとでも言うのかしら? 黙って聞いてれば、とんでもないわね」

 キャサリンが、というより、むしろ他の人間たちの表情が固くなった。恐る恐る皆キャサリンの次の発言を待っている、仰々しく手を合わせる者さえいた。キャサリンは尻込みすることなく続ける。

「そんなこと言ってませんよね」

 いよいよひとりの女性は吐き気で嘔吐(えず)き始め、両隣の参加者が慌てて背中を摩る。血腥(ちなまぐさ)い決闘をしかけているわけではないのだ。

「誤解しないでください。わたし達の役割を物みたいに決めているのはわたし達自身じゃなくて、この社会。『社会』って言葉を使わないと現れないモノ。この不透明で未確認のモノです。コンセプト上だけで存在するしかない、頼りないモノ。なのに、ものすごい強烈な威力を放つモノ―」

「そうやって、社会や大人のせいにできるのは若い時の特権ね。そんなに世の中甘くないわ。わたし達は、人間の尊厳を奪われかけた存在なの」

「何もできなかったんですか」

 ジャックが、ちらりとキャサリンの方を見上げた。興奮して立ち上がったまままくしたているキャサリンはようやく結論に達しようとしている。

「あなた、何を言うの……」

 パタッ、とフレームが落ちた。固唾を飲み込む音が静寂を打ち破る。

「偽善者は祈る姿を皆に見せるために、頃合いを見計らって会場や広場に集まるものでしょ。心から祈るつもりなんてないようにも思えるんです。あなたたちは、本当に祈ったことがありますか」

 唾をぐっと飲みこむ音がした。ふと周りを見ると、あたりは水を打ったように静まり返っていた。

「何でもかんでも『建設的』とか『実はプラスの……』というのをくっつける風潮にありませんか――例えば、「前向きな離婚」とか、「建設的な葛藤」とか、「生産的な喧嘩」、「ポジティブな自殺未遂」、「必要悪な薬物乱用」、「自分探しのためのアルコール中毒」……そのうち「建設的な戦争」もありえそうです」

 ここまでくると、誰が話しているのかさえキャサリンはわからなくなっていた。「橙夏」ではなく「キャサリン」という別の女の子の意見を代弁しているような妙な錯覚さえ覚えた。

「――ありえないと思うんです。そんなこと無責任に言わないで欲しい。いいじゃないですか、よくならなくても。なんで良くしようとするんですか……病気のままじゃダメなんですか」

エルマは驚きのあまり、喉の奥から変な音を出した。

「病気のままでいい訳ないでしょ!」言ったあとも、肩で息をしている。

「異常だと思わせることの方がおかしいと思います」

 彼女は身悶えするような怒りを抑えるように手をだらりとした。

 下に視線を移して、キャサリンが息を吐く。相手を怒らせるようなことを言っているのは重々承知の上でだった。

「傷ついて、なんでそれを肯定するようにして生きていかなきゃいけないんですか」

「肯定しないと人は生きていけないからよ!」彼女は金切り声でをあげた。「自分を騙すことも大事なのよ」すぐに鎮めるように声の調子が下がった。

 キャサリンは首を振った。

「傷がもし私にあったら……そのまま大切にします。だって……それって私の個性だから……」

「個性」という言葉に自分でも声が詰まる……。

「もう少し相手の観点から物事を見ることが大事よ。これからそれができるようになるわ。そろそろこれで……」

 制止されようとするのを感じ取った。

「なんで物事を別の視線から見なきゃいけないんですか」

 話ながらキャサリンの頬を一粒、また一粒と涙が伝った。

 (うね)る静寂が部屋の隅々に手を伸ばす。そしてその手は、キャサリン以外の参加者に浸食し、海食洞のような洞穴を作っているように見える。背中に零度が走った。

「啓発って楽しく生きるために暗い部分まで明るくしようとすることじゃないと思うんです。暗くていい。せっかく暗いのに明るくないって、思っちゃうのって……」

 粗さと隆起のない平べったい沈黙の声がキャサリンの耳朶にべったりとへばりついた。

 ふーっと一度息を吐いてから、なるべき力を込めないで言った。

「癒そうとか、直そうとか、前を向こうとか、考え方を変えよう、とかあまりいって欲しくないんです。これが私の言いたいことでした」

 キャサリンはがくんと座り込んだ。達成感があった。そして、その平らな沈黙の上に自分で話をしながら自分でも驚く思想が彩られてた。

 どれくらいだろうか。ショーウィンドーのマネキンのような参加者たちが、魔法―呪いかもしれない―が解けたように静かに短めの衣擦れの音がぽつぽつとキャサリンには聞こえた。実は短かったのかもしれないが、あまりに長く感じられる沈黙なので、キャサリンはその場に意識を残さず、どこか遠い場所に意識を向けた。ここではないどこか。

 薄目で周りを見る。時間のねじを巻き戻したような光景が目に入った。皆が瞑想のときのような陶酔しきった顔でキャサリンを見つめていたのだ。

 次の瞬間。海の部屋の更衣室で着替えて出てきたら雪山に出てきてしまったと同じくらいに、キャサリンは驚きのあまりに目を白黒させ、目の中で星がちかちかと飛んだ。割れんばかりの喝采―それは誰も予想できなかったに違いない―が静寂の前に躍り出た。

 嘔吐(えず)いていた女性が鼻水と涙で滅茶苦茶な顔をハンカチで抑えている。

「すごい! 涙でちゃう」

「ずるい。そんなこと言われたら……」

主唱者(アポストル)への拍手の中で聞こえてきた声はどれも少しだけ涙声で揺れていた。

ぽろぽろと泣くものもいれば、咽び泣く者、前かがみになったまま動かない者もいた。特にあの若く暗そうな女性はきらきらとした涙を湛えながら、ずっとキャサリンの方に視線を送って合掌していた。エルマさえも泣きながら手を叩いている。ジャックは……皆より2拍ぐらい遅れてはいるが流量な拍手で讃えた。

「キャサリンさん!」エルマが喝采を割った。

「ほんとごめんなさい! わたしったら全然あなたの意見を受け入れなかったわね。すごく恥ずかしいわ……今は受け入れるどころか、賛同で胸が一杯! 今日は……来てくれて、ありがとう!」

 目の縁をハンカチで抑えて声を詰まらせながらも伝えようとしていた。手で胸のあたりの服をぎゅっと掴んでいる。キャサリンも、胸がぎゅっとされたように感じて思わず涙がこみ上げてくる。涙ぐみそうになってしばらく顔をあげられなかった。次から次へ零れる涙がいとおしくて仕方がなかった。

 エルマはプラットフォームの前に出てゆっくりとキャサリンのもとへ歩いていった。キャサリンの前で止まる。顔を綻ばせた。両手を広げてキャサリンを抱きしめた。 びっくりして呼吸が一瞬止まった。母親と同じ匂いがした。顔を歪ませてキャサリンはしゃくり上げるように泣いた。

 キャサリンは船舶から排水されるバラスト水のように、エルマの胸にすがってごーごーと泣きじゃくった。涙が後から後から出てきた。全身全霊で泣いた。へとへとに疲れて涙が涸れるまで。

 もらい泣きしていた人達の拍手もおさまると、戦場を生き抜いた兵士たちのように絆が強まり、和やかな雰囲気でミーティングは幕を下ろした。

最後のエルマの総括で、もう一度キャサリンへの大きな拍手の波が起こった。拍手は時間が経つにつれて一層強まった。

ミーティング終了後、思いがけないことが続いた。キャサリンは近くのボーリング場での「打ち上げ」に誘われたのだ。

「これから行くところがあるので、遠慮させてもらいます」

 別にあるわけではない。相乗り(アシスト)を期待してジャックの方に顔を向ける。思いがけない一言が飛び出した。

『私も行きます』

 唖然とした。わけのわからない衝撃で声に出せなかった。『行くよ』と言いたそうに、ジャックはキャサリンと目を合わせた。

『みんな激しい命懸けの葛藤の末、君を受け入れたんだ。これは究極のヒューマニズムだ』とわけのわからないことを耳打ちされたキャサリンは、ジャックの裏切りのせいでもあるのだが、断る理由も特になかったので、行くことに決めた。

皆帰り支度をして、わいわいとエレベーターに乗り込もうとしたときだった。

すくっと例の若い女性だけが乗り込もうとしなかった。

「あの……」困ったように鼻の頭を掻く。実際困っているのはエレベーターに乗り込んでる側の方だ。警告音が鳴る。

エルマが「ミッチーさん」と呼んだ。ミッチーっていうんだ……キャサリンが彼女が名前が呼ばれるのをこのとき初めて聞いた。というのも、エルマは彼女の番にきたときだけ、少し沈黙を挟み、ひとつ飛ばして隣の人に移ったのだった。

彼女は意を決したように叫ぶ。

「ボーリング……行きたい……行きたいです!」

 キャサリンは目を見張った。

 皆もぽかーんとしていた。

「ミッチーさん!! 話せたじゃない!!」

 エルマはエレベーターを降りた。ミッチーを力一杯抱きしめる。箱の中にいるキャサリンやジャックたちは警告音が鳴る中、示し合わせたように拍手を送った。

 世にも奇妙な光景だった。が、奇跡の一日に間違いはなかった。


 斜陽の中、賑やかな大通りを歩いてきたはずだが、キャサリンは夢見心地でどこをどう歩いたが覚えていなかった。

「ねぇ、どうして」ある疑問が頭をもたげている。

「この2人もついてくるの―」

 キャサリンは喜色満面で隣のレーンで準備運動をするクピドーとイカロスを見ながらジャックに訊ねる。

『タイミングが悪かった』一同が建物から出て大宮駅まで歩いていると、ちょうど2人に遭遇したのだった。

「どういうこと」

『あいつらは神出鬼没(オムニプレゼンス)だし、好感誘発(バトンホール)の能力があるからしょうがない』

「……ったく本当にその言葉好きね。私と出会ったときもその言葉使ってた。説明になってないって。『オムニプレゼンス』ってだいたい何? 韓国語みたい」

 キャサリンはいくらか苛立っていた。というのも苛立ちには理由がある。クピドーとイカロスの2人はどこにいてもそのマイペースさで周囲を巻き込むようなところがあるのだ。新参者の2人は、すでに輪の中心となっていた。

「キャサリンさんのお友達愉快な方たちねー」エルマの言葉に、キャサリンは苦笑いで応えた。隣に座って傍観しているジャックを肘でつっつく。

「恥ずかしいから()めてよ」

『なにを』

「あの2人」キャサリンは顎で指した。

『だから――』

「注意ぐらいできるでしょ! さっきからみんなに知り合いだと思われて私恥ずかしいのよ。何さっきから自分だけ知り合いじゃありませんみたいな澄ました顔してんの」

『知ることは知らないことだ』

「わけのわからないヘリクツはやめなさいよ。大人でしょ」

『楽しそうにやってるじゃないか』

「ガーターでハイタッチしているじゃん! ルール! 周りから白い目で見られているよ。喜んで応援しているのはあの人達だけだよ……見てよ、あの菩薩のようなみんなの顔!」

 ジャックは失笑した。キャサリンはこのとき気づいた。他人事のように笑っているが、おそらくこの男もルールを知らなかったことを。

 くせ毛と薄毛の2人の喜ぶ姿をみて、皆は慈悲深い笑みを浮かべている。

 ミッチーと呼ばれる女性とそのあと少しキャサリンは話をした。看護師の仕事をしているらしく、ここ1年間以上ミーティングには参加していたそうだ。 医師から「心因性失声症」と診断されたらしく、発声練習やカウンセリングも続けているか一向に快方に向かわなかっのだと。職場では使命感によってなんとか医師や他の看護師との意思疎通はできてはいるらしいが、職場から離れると声がでないというのだった。

 原因までは訊ねることはできなかったが、何度も「ありがとう」とキャサリンの手を握った。

「名前、何ていうの」キャサリンがジャックの膝をたたいた。

『名前』

「名前だよ、ネーム」言葉の通じない赤ん坊に話すように彼女がゆっくりと話す。

「あの2人。ちゃんと紹介してよね。あなたのア・シ・ス・タ・ントでしょ。それに今日は私がヒロインなんだからね」

 答えない彼を数秒間目を細めながらじろりと見た。その後、キャサリンは答えを待たずして、自分の番が来たのでボールを手に取った。

振り返って笑う。過去の自分の山を登ってきて、過去の残層を下層部に確認したような感覚。そうして、にっこりとほほ笑んだ。彼もつられるように笑った。神経質な笑いだった。しかし、本心が見え隠れしたのも事実だ。刻まれて揺蕩(たゆた)う笑い皺が何よりの証拠だ。

 幼さの残った笑顔は、初夏の南仏プロヴァンスのラベンダー畑のようにどこまでも柔らかく朗らかだった。


翌日。橙夏はいつもどおり《erbe》にいた。

眠る前に思い出してまた泣いていたのだろう……腫れた瞼を隠すために帽子を深く被ってやってきたのだった。メフィストは何も言わずに、ラベンダーの瓶とコットンを渡した。

 しばらく横になってコットンを置いていると、ひりひりとはするがだんだん効いてくるのが分かる。10分ほど横になると、スクっと起きていつもの仕事にとりかかった。

まずは猫のトイレの掃除だ。次にブラッシング、猫の餌やり。所要時間は10分。箒で掃き、そこら中に置いてあるインテリアの埃を拭く。とにかく走り回った。橙夏は芝居がかったような「貧乏暇なし」が口癖だが、何やかんや、嬉しそうに働いている。

 毎日通うことで橙夏は色々なことを学んだ。そのほとんどは見学しながらだ。メフィストとお客との会話をバレないように盗み聞きすることで知識を蓄えた。ハーブといっても3種類ある。

 1つは食用のハーブ。いわゆる料理やお酒やお菓子類を引き立てるために使う場合と、治癒力促進効果を強めることを目的として植物栄養素(ファイトニュートリエント)を含むハーブを使う場合がある。

 2つ目は治療や予防目的のメディカルハーブ。

 そして、3つ目のハーブは芳香を放つアロマティックハーブ。さらにはメディカルハーブとアロマティックハーブは特に、体に取り込んでも大丈夫な精油(オイル)と、インセンスを楽しむためだけのディフューズ用の精油(オイル)に別れる。

 この日も昼食の時間まで、いつものように有名人がお忍びで訪れてきた。そして、皆帰り際必ず橙夏に手を振って親し気な挨拶をしてくれた。

 昼頃になると、まず猫にキャットフードと鰹節を混ぜたものをお皿にいれる。そして、必ずその時橙夏は眉間のあたりからおしりの方向へ撫でてあげるようにしている。というのも、機嫌の良さそうな音をだしながらカチカチカチと食べている姿が好きなのだ。癒し効果抜群。

 しかしながら、唯一違和感を抱く対象があった。謎めいた事実――それはメフィストではなく来るお客に共通していることだ。皆一様に「お代はいつものような形でお支払いします」と言って部屋をあとにした。

そうこうしていると、聞こえてくるのはいつもの「オーケストラ」だ。

バスクラリネット奏者として嫌々参加している―オーケストラでは「お休み」が多いので退屈しのぎにもならない―時よりも何倍もすてきな曲。親愛なる夏の風。香りとその曲を運んでくれるこの時間帯が、橙夏の一番のお気に入りだ。

瓶の蓋がポンッと開けられる音。瓶の蓋がパカッと小さく開けられる音。グラインダーのカシャッカシャという音。包丁で切ったり叩いたりする音。塩をひとつまみしてふりかける音。焼かれる音。フライパンとコンロがぶつかる音。アルミをひく音。オーブンの音。

橙夏はこうして猫を撫でながらキッチンには入らず、音を聞いているのが好きだった。まるで、クリスマスプレゼントの前に目隠しされた状態で連れていってもらっているような気分になるのだ。橙夏の弾む音を出す心こそがコンサートミストレスといったところだろう。

いつもように手作りの趣向を凝らしたランチが運ばれてくる。

驚くのはこのランチが「コース」ということだ。しかも、一流ホテルで出てくるものと遜色ない。ちなみに、この日のメニューは――アミューズ・ブーシュはカジキマグロのハーブロールとトマトのソルベと卵のココット。前菜はホワイトアスパラガスのマリネ。魚料理はヒラメのフィレ トマトソース。お口直しはシャンパンのグラニテ。メインディッシュ:牛フィレ肉のステーキ。デザート:ショコラミルフィーユ。そして、アイスブレンドハーブティーはハイビスカスとローズヒップの水出し。

芸術作品のような盛りつけと香ばしい香り。バゲットをちょっと漬しながら食べると最高なのだ。甘い魅力に勝てない。勝てる女の子がいれば会ってみたいものだと思った。

いつもと変わらず、食事中の2人とも水入らずの無言だった。メフィストがそう命令したと勘ぐるかもしれないが、2人はそういうタイプの人間であるだけだ。無駄な話を食事中には絶対しないという哲学。レストランでもしこの2人が無言で食べていたら必ず注目を浴びたであろう。

美食家たちと思われるか、冷め切った親子関係か、または年の離れた恋人と思われるだろうか。 

「ね! 遊園地行きたい!」

 お腹のお肉を触る手をとめて、突然橙夏が言った。

『誰が』彼は目を丸くした。おまけに猫までまん丸な目をさらにまん丸にする。

「誰がって、私とあなただよ」

上目遣いで下から覗きこむように、恥ずかしそうに髪を右耳にかけながら言った。

プロポーズされた恥じらう処女のような微笑み方だ。

「あ、でも勘違いしないでよ。メイクアウトなんてする気ないからね」

 憎まれ口は相変わらずだが、相手を傷つけないそれを橙夏は心得ていた。

「あ、また()めてよ! 例のもじゃもじゃしたお調子者呼ぶの。あのひとすぐ空気もってっちゃうから、雰囲気を台なしにしてくれるんだよね」

 彼は黙って、外を見た。対面に座る橙夏をみて、こくりと肯く。ふたりともまた黙って牛フィレ肉をナイフで切りはじめた。


「なんでまた……」

生憎、早朝から小雨とは言い難い雨が降り注いでいた。

そんな天気にがっかりもせずに橙夏の顔は一点の曇りもない。いや、なかった……。ある神が参加するまでは。

橙夏は睨みながら地図を見続ける。遊園地攻略の作戦を練った。

『橙夏ちゃん、どこから先にいく』

 クピドーは愛用の陶磁器製のボウルに蓋を付けたパイプの持参に対して釘をさされていた。よって、リコリスの根を噛みながら話すのでのど飴のような口臭を漂わせている。メフィストは、禁煙に耐えられないであろう神のために、タバコのように数本を小さな包みいれて渡していた。

「今考えてます」素っ気なく事務口調で橙夏が応える。

 甘く清涼感のある香りがリコリスの根から放たれているとは分かっていても、クピドーの口からも臭ってくるのには生理的に受け付けられないでいた。

『ここがいいかな』クピドーが地図を指で指しながら言った。

『まずこういうところで心臓慣らしてからじゃないとな』

 くちゃくちゃと音を立てながら話す。

「こんなところに並んでたら、他の人気があるの全部乗れなくなるよ。何のために高いお金払ってチケット買っていると思っているの。それに、あなたのせいで相当な時間既にムダにしているし」

『…………』

 クピドーはただならぬ彼女からの嫌悪感に思い当たる節がなかった。

『おい』メフィストに耳打ちする。

『嫌われ方がお前以上だぞ。なんとかしろよ、俺をこの子誰だと思ってるんだ。敵にしない方がいいぞ。じゃないと、一生結婚できなくなるぞ』

「お腹すいてきちゃった」

 困惑するクピドーを尻目に橙夏が言った。

「朝時間がかかって何も食べてない」誘惑の匂いがあちらこちらから漂ってくる。「朝からコーヒーぐらいしか飲んでないもん」

『たしかに、私もお腹がすいた』

 メフィストも同意する。

『いやいや、普通入ってすぐに『お腹すいたー』はないでしょ、お2人』

 またくちゃくちゃと音をたてながら異を唱えた。

『乗り物系は並ばないと2時間は当たり前なんだから、まずとりあえず並ぼう。ほら、これ、一番人気だから、まずこれチケットとって、二番目に人気なこれに並ぼう』

 悩んでいる3人を次から次へと来場者が追い越していく。

 中には走っていく家族さえいる。皆が一様に、個人の楽しみを仲間と謳歌しようと必死になっている証拠だった。そして、その光景はいつの時代でも変わらない。

『2人とも聞いて……』

 2人の眼光が鋭く光る。ぎらっとした上空で低く垂れこめる雲の重みと類似したその睨みは、それだけの威力があった。口を(つぐ)まざるをえなかった。

「パフェ食べたい。レイヤーなっているやつがいい」

『そうしよう』

『いや、普通、もうちょっと揚げ物とかポテトとかチキンとかポップコーンだろ』

 クピドーにとって最大限の譲歩だった。

「『うるさい!!』」重なった声でギョロリと目を剥く。

『オーロード! どうしてみんな俺を共通の敵にすることで、結束を固めるんですか!?』

弓なりにくだり気味の眉を限界まで下げながら、ひとり呟いた。


 やっとの思いで座れるテーブルを見つける。3歳ぐらいの子供連れの家族の隣のテーブル。クピドーは食べている間一言も発さない2人を交互に見ながら首を傾げている。

幾層にも重なったお目当てのパフェを食べて2人はご満悦でも、クピドーだけは終始しらけた顔でコーヒーをすすった。

 半分以上パフェを食べきってから橙夏が化粧室に席を立った。口を開いた。おそらくしばらく戻ってこれないと予想し、クピドーが深刻な話題を振った。『あの子は幸せなのか』

すると、メフィストはまるで自分のことについて語るように主観的な重さで言った。

『……分からない』

 実感がこもった余韻が残る。

『いや、他の2人に比べれば期間こそ短いが、お前と一緒にいる時間は長いだろう。でも、それにしてもおまえたち、あんまり喋らないんだな―まっいいけどそんな話は。もうちょっと感慨深いコメントがあるだろうが』

 話題を振ってくれた相手を雑に扱うな、というメッセージを込めた。

『分からないから、分からないと言っているのだ』

『いや、普通ラリーというものがさ、例えば、どうだろうなーう~ん、こういうこともあるけどこういうこともあるから、結局分からないなー、ていうのが会話なんだよ』

『結論、分からないんだから、まどろっこしいい部分をカットしてやっているだろうが』

『想像の翼をひろげたまえよ。俺にとっちゃ悪魔も現代の人間もおんなじだけどな』

『一緒にするな。呪い殺すぞ』

『合理性だけを求めやがって、結論とか序論とかうるさいんだよ』

 クピドーは隠している翼がまるで生えているかのように手で翼のフォルムを形りながら話した。

『会話をしたかったら、まず聞く前にお前の意見を言ってから聞けよ』

 メフィストがスプーンの底を上にして舌の上に乗せながらパフェを口の中に入れた。『まどろこっしさを取り払っているのに態度悪いな、お前』と続ける。

『まどろこっしさをくれよ! 俺はまどろこっしさを欲しているのだよ! まどろこっしさを楽しめる日本人の感性を舐めンなよ!』

『どの目線で、そしてどの立場でモノを言っているのだ。目的はなんなんだ……』

メフィストは、残ったパフェを最後まで食べきった後、勝手知ったる様子で橙夏のパフェに手を伸ばした。

『天使だろうが悪魔だろうが、チベットの僧侶もアフリカの黒魔術師も世界のキリスト教もユダヤ教も、保守派でも先進派でも、俺でもお前でも、誰かのために死にたくないと思うモンだ。それさえ分かってればいろんなことひっくるめて乗り越えていけるんだろうけどな』

『そん簡単なもんじゃない』

『どこがだ』

愛観(あい)恋落(こい)など、閻浮提(げかい)のどの国の人間も理解できない外国語のようなものだ』

『お前、俺の専売特許……』

『問題の核心に迫ろうとしてないだけだ。エピクトテスも『間違った考えを抑えれば不運も抑えられる』と言ったが、正しい』

『なんだ……どんな返しをされるかと思ったら、プラス思考の総本山みたいなギリシャ人を引用したところでまるで意味がないね』

 目を細めてメフィストを睨めつけた。

『バカみたいな恋愛賛美(ロマンティシズム)の権化がよく言えたもんだな』

吹き抜けの頭上を立体的な太陽を完全には隠しきれない衰えかけた乳白色の雲が覆い始める。そして微かに水を隠す音が空を構成する音色に加わった。

 ちょうど橙夏が戻ってきた。


 茶色い煙突のレストランに入る前より灰色は濃く雲が分厚くなっていた。

「ねぇ、そうだ!」橙夏がまるで空と正反対の勢いで2人のほうを振り向いた。「写真撮ろうよ!」悪魔と神は顔を見合わせて、『いい記念だ』とハモる。

「じゃーいくよー」

 3人を携帯の画面にいれようと橙夏がぐんと手を伸ばす。自撮りの姿勢。3人はお互いの体と体を密着させ―メフィストはずっと苛々しながらクピドーの髪の毛を払ってはいたが―一枚の絵に収まった。

『どこに行きたい』メフィストは地図を渡した。

『どうしたんだ』

「ううん、何でもないの……なんか最近色々なことが一気にあったから」

 彼女は花壇の前のスペースにに腰掛けた。

「……塗り絵に失敗したの」

 メフィストは立ったまま彼女を見下ろす。クピドーは少し離れたところで遠い目をしながら空を見上げた。

「パパとママが私のために用意してたんだと思う。塗り絵。輪郭だけはきちんとして、境界線がきちんとあった。全部何かの形になってたの。誰がみても分かるような、そんな形。私には……でも、きれいに塗れなかった。はみだしちゃうからかな」

 彼女は自分を少し嗤うように口元をつくる。「私、学校のアートクラスで油絵をやったのね」そう言うと、首を傾げるメフィストに「油絵具と水彩絵の具の違い知ってる」と訊ねた。

「油の絵の具って宮廷画家のヤン・ファン・エイクっていう人が発明した、という史書があるらしいのね。水彩画にできなくて油絵の具にできることって何か分かる? 油絵具の色素ってくすんでるの。不透明で。でね、だから、画家は自分の好きな色になるまで何度もやり直しがきくのね。だけど、水彩画だと一発勝負って感じで。だから、油絵具を使えば自分の好きな色になるまで塗り直せる。間違ってもやりなおしがきくの。水彩画は自分の間違いを正すことはできないのよ」

 背筋を一度伸ばす。

「間違ったとしても即興で間違いにみせないようにしていく技術が必要になるのね……最近分かったことがあるの。今朝から実はずっとそのこと考えていて、食べるの忘れちゃったのもきっとそのせい。そのエイクっていうひと、本当はかなり絵が嫌いだったんじゃないかって」

『絵がきらい』

「書きたい絵を描きたいから油絵を発明したんじゃないと思う。例えば、魔がさして、それまでの常識的な技法という描き方を壊してみたくなって、偶然やっちゃったような気がするの」

『なんであんな真似をしたんだ』

くるんとスカートを翻しながら恥ずかしそうに「だって……あなたは17歳のティーンエージャーじゃないもの」とだけ彼女は言って微笑んだ。 



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