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第7章 ゴーホーム、ノーホーム

     1


 朝靄がかかっていた。それは街全体を包み込んで、あらゆる色彩を奪い去っている。目に見えるもの、全てが水墨画のようだった。

 まだ人々が眠る街は、真冬のように寒い。

 悟は始発のバスに揺られていた。すぐ隣には希梨花が座っている。二人の他に乗客はいなかった。

 バスは今、平戸大橋に差し掛かった。橋から見る海は穏やかである。しかしこの海が自分の財布を飲み込んでしまったのだ、悟はそんなふうに考えた。

 希梨花の横顔は不安げで、どこか弱々しかった。確かに彼女は他人の目に怯えているようなところがある。しかし悟の前では頼れる姉という立場を貫いてきた。

 だが今の彼女は、姉であることをすっかり忘れているようだ。帰郷することに迷いがあるのか、悟の前でも、いつもの自信が見られない。やはり故郷の地を踏むことは、彼女にとって相当勇気がいることなのだろうか。

 たびら平戸口駅でバスを降りた。全てはこの駅から始まったのだと、悟は思った。そんな思い出の駅舎をまじまじと眺めた。

 二人は寄り添うようにしてホームに立った。早朝の空気はとても冷たく、顔に突き刺さる。お互いが自然と身体を寄せ合った。悟は希梨花の横で、初めて平戸にやって来た雨の夜を思い出した。あの日は心も身体も寒かった。

 やがて小さな列車がゆっくりと、大きくカーブして入って来た。この時間、車内に乗客はまばらだった。

 二人は並んで腰を下ろした。希梨花は気が抜けたように、ぼんやりとしたままだった。彼女の目には何も映っていないようだった。

「姫島さん、大丈夫?」

 悟は我慢できずに声を掛けた。

「えっ、どうかした?」

 希梨花は我に返って、悟の顔をしっかりと見た。

「だって、さっきから何も喋らないから」

「ああ、ごめんなさい。ちょっと疲れているのかも」

 彼女はそう答えた。しかし悟にはそれが嘘だとすぐに分かった。希梨花は迷っているのである。家族に会うことに躊躇しているのだ。

 列車はゆっくりと佐世保へ向けて走っていく。ほとんど乗客のいない狭い車内には、停車駅を告げる放送だけが無意味に響いていた。

「あっ、そうだ。悟くん、お腹空かない?」

 希梨花は小さな包みを取り出した。

「これ、一緒に食べよ」

 中を開くと、可愛らしいサンドイッチが並んでいた。いつの間に作ったのだろうか。悟は全然気づかなかった。このために自分よりもずっと早く起きていたのか、と思った。

 故郷に帰り、再び家族に会える日の朝、希梨花はどんな気持ちで一人台所に立っていたのだろう。これまでの辛かった日々を思い出していたのかもしれない。

「おいしそうだね、頂きます」

 悟はひときわ明るい声を出して、小さなサンドイッチをつまんだ。一個ずつ希梨花と交互に食べた。

 佐世保までは普通列車のため、車内販売がない。よって、このちょっとした食事がとても有り難かった。

 希梨花は機転の利く女性だと思った。ちょっとした気遣いが、いろんな場面で悟を助けてくれる。彼女のそんなところがますます魅力的に感じられた。しかし自分はそんな彼女にとって、世話の焼ける弟でしかないのだと思うと、少々気分も落ち込んだ。

 希梨花を幸せにしてやりたい。そんな気持ちばかりが空回りする。今の自分に一体何がしてやれるというのか。

 佐世保で一旦列車を降りて、切符売り場まで足を運んだ。

 二人は指宿までの切符を買った。ここからは特急、新幹線と乗り継ぐことになる。大きい窓とゆったりした座席が、二人だけの空間を演出してくれた。

 鹿児島には昼頃の到着になる。まだ三時間ほどある。

 悟は、これから向かう故郷のことを希梨花に聞いてみたかった。どんな話でも構わない。話をするうちに、彼女の緊張も徐々に解けてくるのではないか。

 希梨花は表情豊かに様々な話をしてくれた。静かな車内で、彼女の話にじっくり耳を傾けることができた。

 列車を乗り換え、座席が変わっても、希梨花の話はずっと熱を帯びていた。やはり彼女は故郷や家族のことを一日たりとも忘れたことはなかったのだ。

 車窓の風景が一定のリズムで流れていく。同じ風景は一つもない。列車は彼女の想いを乗せて、ひたすら故郷を目指して走っている。

 希梨花は話が一段落すると、今度は悟の話を聞きたがった。住んでいる街や高校生活のことをあれこれ質問した。希梨花に比べれば、悟の方は特に人に語って聞かせるようなものはない。これまで何不自由なく、平々凡々とした人生を送ってきたに過ぎない。

 姫島希梨花は指宿の小さな町で、弟を深く愛しながら育った。彼女の悟に対する優しさは、本来その弟へ向けられるはずのものである。そう思うと、自分の存在は一体何なのだろうと切なくなった。

 いつしか時は流れていた。二人の乗った新幹線は、もう三十分足らずで鹿児島に到着する。

 悟は最後にどうしても訊きたいことがあった。今の今まで訊くことができなかった。どうしようか激しく迷ったが、やはり訊くことにした。

「希梨花さんは、故郷に好きな人はいなかったの?」

 悟は希梨花の横顔を見つめた。どんな表情の変化も見逃さないつもりだった。

「そうね、いたと思う」

 微妙な言い回しだった。

「サッカーやっている人。私の前でいつも輝いていた。そんな彼に似合う女性になりたいと思ってた。でも私、スポーツが苦手でしょ。だから話を合わせるのにも苦労したのよ」

 希梨花は嬉しそうに言った。

 悟にとって、そんな話を聞くのは辛かった。

「でも、好きな人がいたのに、どうして指宿を出てきたの?」

 希梨花の口元が一瞬にして歪んだ。次の言葉に詰まったようだった。答える代わりに顔を手で覆った。

「ごめん。変なことを訊いてしまって」

 悟は素直に謝った。別に興味本位で訊いた訳ではない。うまく言えないが、希梨花のことは何でも知りたいと思ったのだ。それを彼女に説明するのは難しそうだった。悟はそのまま黙ってしまった。

 彼女は窓の方へ顔を向けていた。涙を拭うような仕草を見せた。

「悟くんは高校の時、好きな人はいたの?」

「いや、いませんでした」

 車内放送が鹿児島駅への到着を伝えた。気の早い乗客は立ち上がって、降りる準備を始めている。

 希梨花とはここで別れた方がいいのではないか。悟はそう思った。

 彼女には助けてもらってばかりだったが、それでも最後に故郷へ帰るきっかけを与えることができた。その程度のお礼しかできなかったけれども、今の自分には仕方がない。このまま希梨花について行っては、彼女にとって邪魔になるだけだ。悟は決心する。

「希梨花さん、今まで本当にありがとうございました。おかげで九州旅行が無事に続けられそうです」

 突然の悟の言葉に、希梨花は驚いたようだった。

「でも、まだ観光案内が」

「いえ、実は最初からここでお別れするつもりだったのです。僕も一人旅ですから、いつまでも希梨花さんの世話になる訳にはいきません」

 平戸を出る時から、心のどこかではこうなることを予想していたのだ。ここから先は希梨花自身の問題である。

 車窓はさっきまでの田園風景がすっかり消えて、人家や高層建築が現れ始めた。車窓を流れる街の風景が徐々にスピードを緩めていく。

「分かりました。では、ここでお別れにしましょう。もし時間があったら、平戸のアパートに立ち寄って頂戴。いつでも歓迎するわ」

 希梨花は笑顔でそう言った。

 ホームが見えてきた。長い旅だった。悟は感慨が湧いた。希梨花と過ごした日々が、あっという間だったことを実感した。

 最後に彼女に言うべきことはないのか。何か伝える気持ちはないのか。

 周りの人々が座席から立ち上がる中、悟の頭の中では、形にならない気持ちが渦巻いていた。

 乗客は列を作って順番に列車を降りていく。ホームでは、「鹿児島中央」の駅名が連呼されていた。

 希梨花を先に降ろして、悟はその後に続いた。鹿児島市は快晴だった。ホームに差し込む光に一瞬目を細めた。

「見送るよ」

 悟はそう言って、希梨花と一緒に在来線のホームへ向かった。駅構内は観光客の姿が多い。大きな荷物を担ぐ人々を縫うように、二人は歩いていった。

 希梨花の小さな身体は、他の乗客に紛れて、時折見え隠れした。それでも彼女は迷うことなく真っ直ぐに歩いていく。やはりここは彼女の故郷なのだと思った。

 階段を下りながら、希梨花は悟の方を振り返った。

「あの列車で指宿まで行くのよ」

 彼女の指さす方向には、すでに下りの普通列車が入っていた。しかし出発にはまだ時間があるのか、扉を開けたままの車両には、人の姿はほとんどなかった。

 悟も列車に乗り込んだ。二人してベンチシートに腰掛けた。

 ここ鹿児島は、心なしか平戸よりも暖かく感じる。平戸を出る時は明け方だったので、余計にそう感じるのかもしれない。

「悟くんは、これからどうする予定なの?」

「そうですね、この後、鹿児島の街を見て、桜島へ行こうと思ってます」

「そうなんだ」

 希梨花は嬉しそうな声を上げた。

「で、その後は?」

「まだ決めてないですけど、とりあえず今日はこの街で一泊してから、明日の行動を決めます」

「一人旅って自由でいいものね」

 希梨花は笑った。

「指宿へは?」

「はい。明日、時間があれば」

「ぜひ来てください。そうしたらまた会えるかもしれないし」

 悟は苦笑した。もう一度会ってどうすると言うのだ。家族と感動の再会を果たしたら、、自分の出る幕はない。

 発車を伝える車内放送があった。時間が来ても、昼の列車は乗客が少なかった。

 悟は慌ててホームへ飛び降りた。

「希梨花さん。いろいろと、ありがとうございました」

 そう言って、深く頭を下げた。この九州旅行で一番の収穫は、希梨花と出会えたことだと思う。

 希梨花はちょっと照れたような顔になって、

「こちらこそ、ありがとうございます」

と言った。そして、

「楽しい旅行を続けてくださいね」

と付け加えた。

 ホームにベルの音が響き渡った。

 希梨花はすぐ近くの座席に腰を下ろした。一枚の窓越しにお互いが見つめ合う格好になった。

 本当にやり残したことはないのか。悟は自分に問いかける。

 彼女は小さく手を振った。悟もつられて手を振る。その瞬間、希梨花の目に涙が溢れて頬を伝った。

 悟の目には、確かにそう映った。



     2


 悟はホームに一人立ちすくんでいた。希梨花を乗せた列車は、とっくに見えなくなってしまった。それでも彼はその場を離れようとはしなかった。

 これから観光に出かける気分にはなれなかった。では、一体どうしたらいいのか、まるで見当がつかない。

 平戸で財布を落とした日のことを思い出した。あの時とまったく同じ気分だった。早く希梨花に助けてもらいたい、そう願った。

 希梨花は最後に涙を見せた。あの涙は一体何だったのか。彼女は心のどこかで、自分との別れを惜しんでいたというのか。あの涙は本当は一緒についてきてほしい、そんな気持ちの表れだと考えるのは自惚れだろうか。

 彼女は、旅行者に無理強いはしなかった。それでも話の中で、何度か本心を伝えようとしていたのではないだろうか。もしそうだとしたら、自分に自信がなくて、彼女のメッセージを正しく受け止められなかった。

 彼女の気持ちどころか、自分の本当の気持ちにも気づかずに、あっさりと希梨花を手放してしまった。つくづく馬鹿だと思う。

 結局二人とも、さよならを言わなかったな、と思った。それはお互いが、すぐ再会できるような気がしていたからなのだろう。

 今、彼女と別れてからはっきりした。希梨花のことが好きなんだ。それを彼女に伝えたい。

 自分の気持ちは、彼女が故郷に帰るのとはまるで関係がない。昔の彼氏をどう思っていようが、それも関係ない。

 ただそれを彼女に分かってもらいたい。このままでは、きっと後悔することになる。

 悟は電光掲示板を見上げた。もう三十分すると次の列車が出る。悟は決心した。

 希梨花を追いかけよう。そして、彼女に告白しよう。

 誰もいないホームで悟の心だけが激しく燃えさかっていた。駅のどこかで鳴るベルの音や人々の喧騒は、もはや彼の耳には届いていなかった。

 果たして彼女に追いつくことができるだろうか。悟は考えた。

 希梨花の実家を正確に聞いたわけではない。よって彼女がどの駅で降りるのかは分からない。

 しかし多少のヒントは残されている。彼女は学生時代、鹿児島の方ではなく指宿の方へ遊びに出掛けたと言っていた。つまり実家はこれから向かう指宿よりも手前にあるのだ。割と近くだったと言うから、指宿から数駅手前が目指す駅となる。さらに家から海が望めると言った。だったら海の見える駅を探そう。

 何とか絞りこめそうだ。悟の中に自信が湧いた。きっと希梨花に会える。

 ようやく指宿行きの列車が入ってきた。悟は扉が開くのももどかしく、すぐさま飛び乗った。

 悟は、希梨花に三十分遅れで鹿児島中央駅を出発した。その位の差なら、彼女に追いつくことは十分可能に思われた。

 駅を出てしばらくすると、左手には広大な海が開けた。すぐ真横に国道が迫っている。

 しかし列車は徐々に海から離れて内陸部を走り出した。

 これでは海が見えない。目的の駅は過ぎてしまったか、と一瞬考えた。しかしまだ指宿まではかなりの駅がある。まだ大丈夫である。車内に貼られた路線図を何度も見直した。

 悟にとって、初めて聞く駅名が続く。どの駅も彼に訴えてはこなかった。こんなことなら希梨花から正確に駅の名前を聞いておくべきだった。今となって悟は悔やんだ。果たして彼女はどの駅で降りたのだろうか。

 あと数駅で指宿に達してしまう。ここらでもう十分圏内である。悟は次の駅で降りてみることにした。

 列車は小さな無人駅に停まった。扉が開く。本当にここが希梨花の住んでいた町なのだろうか。

 間近に海が迫っている。自信はないが、彼女の話と符合するような気がする。悟は思いきってホームに降り立った。

 他に降りる客はいなかった。列車は汽笛を一度鳴らすと、さっさとホームを離れていった。こんな駅に用はないと言わんばかりだった。

 悟はホームに一人取り残された。波の音とかすかな潮の香りが上がってくる。

 人気のない駅舎を出た。振り返ってみると、駅は白い民家のような造りをしている。

 駅前は、アスファルトの地面がただ広がっているだけである。駅利用者の車が一台と自転車が数台が並んでいた。道を尋ねようにも、人の姿は見当たらなかった。

 すぐ目の前を国道が走っている。その先は青い海である。

 本当にこの駅でよかったのか、不安がよぎる。しかし悟は集落が見える方へ一人歩き始めた。

 それにしても人がいなかった。穏やかな海が広がっているだけである。たまに車が横を通り過ぎていく。

 しばらく行くと、郵便局や商店が立ち並んでいた。どうやら方角だけは間違ってないようだ。

 希梨花は本当にこの町に住んでいたのか。三十分前に彼女がここを歩いたような気もするし、逆にそうでない気もする。

 幸運なことに、視界にタクシーが飛び込んできた。悟は反射的に手を挙げた。これでこの不安な状況から、一歩先へ進められるような気がした。

 タクシーは一旦悟の後方まで走り抜けてから、急ブレーキで停まった。Uターンして、悟に横付けした。

 開いたドアから乗り込む。

「どちらまで?」

 年輩の運転手がかすれた声で訊いた。

「この辺りに姫島という家はありませんか?」

「姫島さん、ですか?」

 運転手は困ったような声を上げた。どうやら厄介な客を乗せてしまったと少し後悔している様子だった。

 車は停まったままである。方向指示器の動作音だけが忙しく鳴っている。

「昔からの名家らしいんですが」

 悟はそう付け足した。

「ああ、もしかすると隣町の姫島さんのことかい?」

 運転手は思いついたように言った。

「隣町ですか?」

「ああ。確かにそういう家があったが」

「じゃあ、そこへお願いします」

 悟は勢い込んで言った。

 しかし運転手は車を動かそうとはしなかった。まさか場所が分からないというのか。

「いや、今はもう引越したと聞いているがね」

 悟は放心した。どういうことだ。頭の中が混乱する。

「それはいつのことですか?」

 そんな言葉を捻り出した。

「姫島さんの家は火事になってね。その後、熊本かどこかへ引越したという話だよ」

 訳が分からなかった。何かの間違いではないのか。

「とりあえず、隣町まで行ってください」

 運転手は少し頭をひねるような仕草をしてから、アクセルを踏み込んだ。

 火事という言葉には特に驚かなかった。希梨花の火傷がそれを物語っていたからだ。問題は、姫島家が熊本に引越しているという事実である。もしそれが本当なら、どうして希梨花はこの土地に帰ってきたのか。

「引越したのは、いつ頃なんですか?」

「そうだなあ、去年か一昨年ぐらいですかね」

 車は隣町へ向けて、海の見える道路を走っていく。

 運転手は話好きらしく、よく喋った。

「大きな火事だったんだ。死者が二人も出て、町は大騒ぎさ」

 悟は驚いた。

「亡くなったのは、姫島家の人なんですか?」

「いや、隣人だよ。だから、この町に居づらくなったんじゃないかね」

「火事の原因は何だったんですか?」

「詳しいことは知らないが、どうも娘さんの火の不始末とかいう話だったが」

 悟は言葉を失った。娘とは希梨花のことである。彼女の過ちで、二人の命が失われた。そして彼女は身体に深い傷を負った。その後家出をするも、知らぬ間に一家は別の土地に引越してしまっていた。

 タクシーは緩やかなカーブを抜けて隣町に入った。突然左右に民家が現れ始めた。さっきよりも大きな集落だった。

「お客さん、どこまで行きますか?」

 運転手が顔だけ後ろを向けて訊いた。

 姫島家はもうないと言う。そんな場所に希梨花がいるとは思えない。

「駅はどこですか?」

「あそこの交差点を曲がったところですよ」

「では、そこまでお願いします」

 タクシーは右に折れた。すぐ奥に白い駅舎が見える。さっきよりも少し大きな西洋風の建物だった。教会を連想させた。

 駅前の通りだというのに、こちらも人の姿はまるでなかった。今この町で動いているのは、このタクシーだけのような錯覚を覚えた。

 今、駅舎の中に人影が動いたようだった。まさか。

 車は駅前の広い空き地に停まった。悟は料金を払うのももどかしく、すぐに駅舎に駆け込んだ。

 中に一人の女性が立っていた。まるで子どものように弱々しかった。身体を引きずるようにして、立っているのが精一杯といった様子だった。

「希梨花!」

 悟が叫んだ。

 小さな駅舎は、静けさに包まれていた。



     3


 悟の呼び声にも、希梨花はすぐに反応できずにいた。それが自分に向けられたものと気づくのに、少々時間を要した。不思議そうな顔をゆっくりと上げて、それから悟の方を見た。目はうつろで焦点が定まらない様子だった。

 希梨花の姿は変わり果てていた。ついさっき鹿児島にいた時とはまるで別人だった。悟はこれほどだらしない希梨花を初めて見た。

「大丈夫かい?」

 悟は近づいて、そう言った。

 彼女と再会できた喜びは微塵もなかった。今は彼女の心情を察するのに必死だった。

「あれ、悟くん。どうしてここに?」

 希梨花はまるで状況が飲み込めないらしく、そう言った。

「君のことが心配で、追いかけてきたんだ」

「えっ、何が心配なの?」

 自分の気持ちが気づかれないよう、希梨花は必死に隠しているのだった。とぼけているのは明らかだった。

「家族には会えたのかい?」

 それは酷な質問だった。別に彼女に意地悪をするつもりはない。希梨花を愛しているからこそ、自分が訊くべきことのように思われた。逃げたくはなかった。

「もちろん会ってきたわよ。あなたって変なこと訊くのね」

 希梨花は一度も悟と目を合わすことなく答えた。言葉に命が通っていなかった。真実の匂いがまるでなかった。

「これからどうするの?」

「平戸へ帰るに決まっているじゃない。こう見えても、私は忙しいの」

 希梨花はつんと横を向いた。悟とは一切目を合わせようとはしなかった。不安や絶望感が心の許容量を超えて、もうどうすることもできなくなっていた。理由もなく、ただ強がって見せるしかないようだった。

「俺、町の人から聞いたんだ」

 悟はそう言いながらも、さすがに辛かった。真実を知らない方がどれだけ楽だろう。しかし現実から目を逸らすわけにはいかない。

「一体、何のこと?」

 希梨花にとって、それは最後のあがきだった。

「昔、君に何が起きたのかを」

「ああ、火事のこと。それならあなたに最初に会った時、ちゃんと言ったわ。今更、何を言うの?」

「その火事で二人の命が奪われたってこと」

 それを聞いた途端、希梨花は挑戦的な目を悟に向けた。そして身体を引きずるようにして悟に迫ってきた。残された力だけを頼りに、今にも飛びかかろうとする野獣を思わせた。

「あなたは、そんなことを調べるために、わざわざここまで来たのね」

 希梨花の汚い口調に、悟は動揺した。これほど取り乱した彼女は初めてだった。自分にはいつも姉のように優しい表情を浮かべていた。それが今、明らかに敵対している。

 悟は黙っていた。

「何よ、年下のくせに偉そうに。私の過去なんてどうだっていいじゃない。あなたに何か迷惑をかけたとでも言うの?」

 狭い待合所に、希梨花の声だけが響き渡った。二人だけの空間に、お互い逃げ場はなかった。

「そうよ、確かに私の家が火事になって、二人が死んでしまったわ。だから罰として、私は人に見せられないほどの火傷を負ってるじゃないの。それで満足でしょ。これ以上、私にどうしろって言うの?」

「希梨花、そんな言い方は止めろよ。亡くなった人たちに失礼だよ」

 悟は穏やかに言った。

「はいはい、あなたの言う通りね。でも、もういいでしょ。私が勝手に家を飛び出して、戻ってきたら家族はいなくなっていた。これでもういいじゃない。気分もさっぱりしたわ。私は一人で暮らしていくから大丈夫。これでいいんでしょ」

 希梨花の顔が近くにあった。一方的に彼女が詰め寄っていた。

 そんな彼女に、悟は強い調子で言った。

「そうやって心にもないことを言うな。そんな希梨花は嫌いだ」

「私だって、あんたなんか大嫌い! もうこれ以上、私に付きまとわないで」

 思わず希梨花の頬に右手が飛んでいた。

 彼女は二、三歩後ろによろけてから、尻餅をついた。ジーンズのミニスカートから、細い足がもつれていた。一瞬間があって、希梨花は肩を小刻みに震わせて泣き出した。打たれた頬を手で押さえるようにした。

「ごめん」

 悟は希梨花の傍まで行って、手を差し出した。しかし彼女は泣きながら、冷たい視線を向けた。

「年上の女に手を上げるなんて、最低よ」

 希梨花はかすかな声で言った。

 二人しかいない駅舎には、希梨花の涙をすする音だけが響いていた。悟はそれ以上、彼女にどう接してよいか分からず、そのまま立ちすくんだ。

 いつしか列車に乗るために町の人がやって来る気配がした。希梨花はゆっくりと立ち上がると、両手でスカートのお尻を叩いた。

 遠くで踏切の音が聞こえていた。どうやら列車が来たようだ。希梨花は悟を無視するように、一人で無人の改札口を通り抜けた。

 悟もすぐに後を追った。

 下りの普通列車だった。希梨花はこの列車に乗るつもりらしい。

 悟は彼女の隣に並んだ。

「これ、鹿児島とは反対だぞ」

「別にあなたには関係ないでしょ。もう、ついて来ないで頂戴」

 希梨花は海の方を見て言った。もう涙は乾いているようだった。

 列車が停車して、希梨花の目の前で扉が開いた。彼女はさっさと乗り込んだ。悟も後に続いた。

 彼女はすぐ目の前に空席があるにもかかわらず、通路をずんずん歩いていく。そして車両の一番前のベンチシートに腰を下ろした。

 悟は敢えて彼女の横には腰掛けず、つり革につかまって、彼女の前に立った。

 そんな悟を睨むようにして、

「ついて来ないでって言ったはずよ。車掌さん呼ぶわよ」

 怒った声だった。彼女にもこんな声が出せるのか、と悟は意外に思った。彼女の本当の気持ちを分かっている自分だからこそ、彼女も本音を出せるのだ。何故だか悟は嬉しくなった。

 仕方なく彼女から離れて、ちょうど反対側のベンチシートに腰掛けた。希梨花を真正面に見据えた。彼女は頬を膨らませて、横を向いた。

 列車に揺られながら、悟は冷静さを取り戻していた。

 どこまでも一人で悲しみを背負い込む女だと思った。そんな彼女を好きになった。少し笑みが漏れた。

 でも今度ばかりは、希梨花を一人にはさせない。これからずっと守ってやる、そう悟は思った。



     4


 列車は走り続けていた。

 希梨花の後ろの窓には、ずっと海が見えていた。彼女はまるで青いキャンバスに描かれたモデルのようだった。彼女は幼い頃からこの海とともに育ってきたから、海が似合うのだと妙に納得した。

 希梨花は離れた席に座っている悟とは、決して目を合わさないように、無理に横を向いていた。

 大きな駅に到着した。

「指宿」という放送が流れた。さすがにうつろな眼差しだった希梨花も、この時ばかりは、鞭で打たれたように顔を上げた。

 おそらくこの駅には様々な思い出が詰まっているのだろう。それは家族との思い出かもしれないし、サッカー青年との思い出なのかもしれない。

 希梨花はきっとこの駅で降りると、悟は思っていた。彼女は自分を油断させておいて、一瞬で煙に巻くやり方で降りてしまうのではないか、そう勘ぐっていたのだが、それは杞憂に終わった。

 駅名に一瞬反応しただけで、彼女はまたぼんやりとした表情に戻ってしまった。

 悟は列車の揺れに身を任せながら、希梨花のことだけを考えていた。

 さっき希梨花は自分の醜い火傷跡のことを、罰だと言った。火事で亡くなった二人に対する罰として、確かに一生消えることのない傷を負っている。日々人目を避けて、日陰で暮らしていても、それを罰だと甘んじて受け入れている。

 そんな彼女の心の叫びを聞いてやれるのは、この世でただ一人、悟しかいないのだった。家族を失った今、彼女の味方は他にはいない。

 しかしそんな男に突き放されて、彼女はさぞ絶望したことだろう。普段、人と争うことなど思いも寄らぬ彼女が、あれほど激しく罵ったのも無理はない。

 希梨花の横顔を眺めながら、悟の心は締め付けられるようだった。可哀想な女だと思う。頬を打ったことを後悔した。彼女を放ってはおけない。傍にいてやらなければならない、そう思った。

 悟はいきなり立ち上がると、揺れる車内を希梨花の方へ向かった。

「ここ、空いてますか?」

 希梨花の頭上から声を掛けた。

 彼女は上目遣いで悟を見ると、憮然とした顔で、

「空いてません」

と言った。

 その言い方がおかしくて、悟は思わず笑ってしまった。

 彼女の声から、先程までのとげとげしさは消えていた。随分と心は落ち着いてきたようだ。

「よいしょ」

 そんな声を掛けて、希梨花の隣に割り込むように腰を下ろした。シートが小さく鳴った。彼女の身体と接触する。

「あなたって強引な人ね」

 希梨花は口を尖らせて、小さく言った。

 悟は彼女に何か優しい言葉の一つでも掛けてやるべきかと思ったが、それができなかった。たとえどんな言葉でも、今は作り物になってしまうような気がした。ただ彼女の横にいようと思った。

 希梨花は何も喋らなかった。

 不思議な時間が流れていた。寄り添う二人が、お互いどちらからも口を開かなかった。

 列車が揺れる度に、希梨花の小さな肩が悟の腕に触れた。そんな時、彼女はすぐに身体をこわばらせた。接触しないように、身体を小さくした。しかしまたしばらくすると、気持ちが緩むのか、同じことを繰り返した。

 指宿駅をいくつか過ぎたところで、彼女は急に立ち上がった。

「私、次で降りますので。さよなら」

 慌てて悟も立ち上がった。

 二人してホームに降り立った。駅舎はなく、線路に沿ってコンクリートが長く延びているだけの駅だった。どうして希梨花がこんな寂しい駅に降りたのか、見当もつかなかった。

 太陽が西に傾きかけていた。少し風が吹くと寒く感じる。

 そんな中、希梨花は意外にもしっかりした足取りで歩いていく。彼女には何か目指す物があるようだった。

 さっきから遠くに三角形の山が見えていた。道路脇の看板に「開聞岳」という文字が見て取れた。

 希梨花は何も言わずに進んでいく。しかし当然、悟が後をついて来ていることは知っているはずである。

 道は徐々に坂道になる。そのまま行くと赤い鳥居が見えてきた。

 神社だった。それを横目に、さらに上がっていくと、突き当たりで大きく開けた空間に出た。

 ちょっとした公園だった。滑り台やジャングルジムが暇そうに立っている。地元の子どもにも相手にされない公園なのか、人の姿はなかった。

「ついて来ないで、って言ったのに」

 希梨花は悟の方を振り返った。

「こっちよ」

 希梨花に促されるように公園の奥へと進んだ。徐々に海が見えてくる。そして開聞岳が堂々と迫っていた。

「いい眺めだ」

 悟は思わず声を出した。

「ここは、私が高校の時に見つけた秘密の場所なの」

 手すりを両手で掴んで、希梨花は穏やかな声で言った。

 時折吹く風が、彼女の長い髪をなびかせた。

「こんな所、よく見つけたね」

 希梨花は少し得意げな顔になって、

「学校を途中で抜け出して、反対方向の列車に乗ったの。それでさっきの駅で降りて歩いていたら、偶然ここに着いてた」

「へえ、そりゃ凄いね」

 悟は驚いて言った。

 火事の後、彼女の身にはいろんな辛い出来事があったのだろう。そんな時、誰もいないこの場所が彼女を癒してくれたのか。

「あなたは、ここが私にとって素敵な場所だと思っているんでしょう?」

「うん」

「でもね、それは違うの。だって私は死ぬ場所を探していたんだもの」

 希梨花はあっさりと言った。

 強い風が通り抜けた。辺りの雑木林が噂話でもするかのように、一斉にざわめいた。

 悟は希梨花の横顔を凝視したまま、凍り付いた。



     5


 悟の横で、希梨花の髪がいつまでも揺れ続けていた。風は海から吹いて、この小高い丘まで上がってくる。

 乗り手のいない二つのブランコが、まるで生き物のようにじゃれ合っていた。動く度に甲高い声を上げた。

 開聞岳のシルエットが西日を飲み込んで、いつしか空は茜色に染まっていた。

 当時、この場所に一人の少女が立っていた。今の自分と変わらぬ年の少女が、背負っていた重圧。それを計り知ることなど到底できないと思った。彼女の気持ちを分かってやる、などと口で言うのは簡単だ。しかし彼女の悲しみは果てしなく深い。人を寄せつけない深海と言ってもよい。

 彼女の前では、自分は何と無力なことか。そう思うと、どんな言葉も発せられなかった。

 二人は佇んでいた。長いこと、そうしているような気がしたが、実際に時間はほとんど経っていなかった。

「今日は、真っ先にこの公園を思い出したの」

 希梨花は流れる髪を押さえつけるようにして言った。

(まさか、死ぬつもりでここへ来たのではあるまい)

「今日は大丈夫。一人じゃないから」

 彼女はそんな悟の心を見透かすように言った。

 もし彼女を一人にしておいたら、どうなっていたのだろうか。それを考えると、悟はぞっとした。

 しかし希梨花も昔の希梨花ではないはずだ。今では立派に一人で生きている。昔の弱い希梨花ではない。感情任せに行動する女性ではないことを知っている。そう考えると少し安心した。

 春は暗くなるのが早い。いつの間にか夕暮れは消えていた。空高くに星が輝いていた。

「ちょっと、寒くなってきたね」

 悟がジャケットの衿を合わせるようにして言った。

 希梨花は公園内の砂場辺りを指さして、

「あの象さんの中に入りましょ」

と提案した。

 象さんとは、コンクリートで作られた遊具であった。ペンキが剥がれていて、遠くからはとても象には見えなかったが、近くまで来るとその造形は確かに象である。鼻が滑り台になっていて、砂場に突っ込んでいた。身体はくり抜かれていて、狭い穴から中に入ることができた。内部の壁に手をつくと、日中日差しを浴びていたせいで、温もりがまだ残っていた。

 ここなら風が当たることもなく、ほのかに暖かい。

 胴体が円柱形のため、壁はぐるりと一周している。希梨花の横で、身体を壁に密着させた。妙に天井が近くて、圧迫感があった。

 子供の頃の懐かしい感覚が蘇ってきた。こういう狭い空間が大好きだった。秘密基地である。今まですっかり忘れていた。

「あの日も、こうやってずっとここに居たのよ」

 希梨花の声がコンクリートの空間に反響する。

「一人で?」

「そうよ、一人で」

 希梨花は遠くを見るような目をして、少しずつ語り始めた。

 悟は、彼女の話をどこまでも聞いてやろうという気になっていた。

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