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第6章 旅先案内人

     1


 カーテンの隙間を通して、春の弱い日差しが悟を優しく目覚めさせてくれた。すでに太陽は高く昇っている。遠くで工事現場の作業音が聞こえていた。人間の営みはとうに始まっている。自分もそれに加わらなければならない。

 悟は上半身だけを起こすと、うつろな眼差しで部屋の中を見回した。そこには見慣れない光景が広がっていた。今、旅先なのだと、すぐに思い出した。

 すぐ奥で一人の女性が立ち仕事をしていた。陽の当たらない狭い台所で、てきぱきと身体を動かしている。それは一人暮らしに十分慣れた者の動きであった。

 昨日九州に着いて、いきなり見ず知らずの女性の部屋で寝起きしているのが不思議でならなかった。一人旅には台本はない。まさにこれが人生の縮図というやつか。

 悟の気配に気づいたのか、その女性はいきなり振り返った。

「ごめん、起こしちゃった?」

 希梨花はタオルで濡れた手をさっと拭うと、悟の方へやって来た。後ろで束ねた髪が左右に揺れた。こたつの上で、サラダの載った皿がカチッと音を立てた。

 希梨花の手によって、カーテンが開けられると、部屋には太陽光が一気に注ぎ込んだ。部屋中の調度品がそれぞれ本来の色を主張し始めた。

 希梨花は化粧をしていなかったが、それでもつやのある肌をしていた。考えてみれば、年齢も悟とそれほど違わない。ついこの間まで、教室で席を並べていた同級生といってもおかしくはない。むしろ彼女とは以前から知り合いだったような感覚が、悟の心には生まれていた。

 彼女と向き合うと、どうしても火傷跡に目がいってしまう。肌を切り裂くほどの大きな傷は夜見たのと変わらなかった。彼女に不似合いな赤い筋は、朝になれば消えているのではないか、と考えていた。しかし現実は無残である。消えるどころか朝の日差しを受けて、余計に存在感を増している。明るい場所で彼女の姿を見るのは、これが初めてなのだと今気がついた。

 希梨花はトーストとコーヒーを運んできた。香ばしい香りが、悟の脳を呼び覚ます。

 コーヒーカップに手をかけようとすると、

「だめ、お行儀悪いわよ。まず顔を洗ってきなさい」

 希梨花はまるで弟を叱るように言った。

 このアパートの一室で、二人の姉弟が暮らしているような、そんな気分になった。

 洗面を済ませると、希梨花と向かい合って座った。

「いただきます」

「どうぞ」

 悟はコーヒーに砂糖を入れたが、希梨花はそのまま口に運んだ。

「砂糖は入れないの?」

「ええ、いつもブラックで飲むのよ」

 小さな彼女が、自分より大人に見えた。

 悟は、トーストを頬張りながら、ラックの中の教科書に目をやった。一人暮らしの成人女性の部屋に、これは似つかわしくない代物である。

「これって、高校の教科書ですよね?」

「そうよ」

「どうして、こんなところに?」

 希梨花は、コーヒーカップを手に、少し照れ笑いを浮かべて、

「さあ、どうしてかな。田舎から持ってきちゃった」

「ちょっと見せてもらっていい?」

 悟は受験生として、興味が湧いた。

「いいわよ」

 教科書を引っぱり出して、ページをめくってみた。

 所々に鉛筆で丁寧な書き込みがされている。この教科書の持ち主は、さぞかし真面目で勉強のできる生徒であったことが容易に推測できた。

「今でも、勉強してるとか?」

「まさか」

 希梨花は目を細めて笑った。

「今となっては必要がない物なのに、なぜか捨てられないの」

 悟は黙って彼女の顔を見つめた。

「おそらく学生時代のことが忘れられないのね」

「楽しかった?」

「そうねえ、いろいろあったけど、今から思うと、面白かったわ」

 今一人ぼっちで生きている希梨花にとって、高校時代は楽しい思い出が詰まっているのかもしれない。

「勉強はよくできた方?」

「さあ、どうかしら」

「スポーツとかは?」

「私、運動はさっぱり駄目だったの」

「それじゃあ、体育の授業は苦労したクチ?」

「意地悪な質問をするのね」

 そうは言いながらも、希梨花は笑顔だった。

「どんな種目も大変だったわ。走るのも、球技も、ついでに踊るのもみんな駄目」

 あまりにも力を込めて言うので、悟はつい笑ってしまった。

「バカにしてるんでしょ」

 希梨花は頬を膨らませた。

「ごめん、ごめん。あんまり強く否定するから、よっぽど苦労したんだな、って思って」

「失礼ね」

 希梨花は悟の肩をぐいと押した。

 その弾みで悟はバランスを崩して、後ろに倒れてしまった。

 それからゆっくりと身体を起こした。

「でも、それはそれでいいんじゃないかな。姫島さんが、姫島さんでいる証だから。僕はそういう人を、別に馬鹿にしたりはしないけどね」

 その言葉が彼女のどこか琴線に触れたようだった。何も言わず、いきなり両手で顔を覆って泣き出した。

 悟は驚いた。

「大丈夫ですか?」

 希梨花はゆっくりと両手を開いた。そして人指し指で目頭の辺りを擦った。

「どうしたの?」

「ううん、何でもない。ちょっと昔を思い出して」

 希梨花は何とか元の調子を取り戻して言った。

「実はね、私、高校を卒業してないのよ」

「えっ?」

「さあ、食事も終わったから、出かけましょ。平戸を案内してあげる」

 希梨花はいきなり立ち上がった。



     2


 希梨花と悟は身支度を済ませると部屋を出た。春の柔らかな空気が二人を包み込んだ。雨の中、途方に暮れていた昨夜のことが、まるで嘘のように思われた。

 隣を歩く希梨花は、紫色のセーターに黄色のスカーフを巻いている。パステルトーンが彼女の落ち着いた雰囲気によく合っていた。春の日差しを一身に受ける彼女は、悟の目に眩しく映った。

 時折吹く春の風が、希梨花の髪やスカーフをなびかせては去っていく。

「平戸観光はかなり歩くことになるけど、大丈夫?」

 希梨花は、波打つ髪を片手で押さえながら、悟の方を振り返った。

「はい、平気です」

 足取りは軽かった。自分が旅行者であることをすっかり忘れていた。観光客として、この街に遊びに来ていることを、今やっと思い出した。

 こんな気持ちでいられるのも、隣を歩く希梨花のおかげである。どん底にいた自分を救ってくれた彼女に、心の中で感謝した。

 平戸の街は、悟にとって興味深いものであった。大通りの風景はどの都市もみな同じようなものだが、一歩路地に入ると、まるで異国に足を踏み入れたような感覚にとらわれる。

「平戸と言ったら、あれね」

 希梨花が立ち止まって、遠くを指さした。その先には、寺院と教会が隣り合う、不思議な風景が広がっていた。

 日本の伝統的風景の中に、容赦なく西洋の建築物が入り込んでいる。それらは同時に一つの空間を共有し、お互いの美を引き立て合っていた。

 悟はしばらくの間、その景色に心を奪われていたが、そのうち目も慣れてくると、気持ちは再び希梨花へと舞い戻ってくる。

 この細い坂道には、観光客の姿が多い。ガイドに先導されて先を急ぐ団体、大学生のサークルらしきグループ、はたまた恋人同士と思われる男女が行き来している。

 そんな人々とすれ違う時、希梨花は決まって、うつ向き加減で道の端っこを歩いた。まるで出会う人全てに遠慮しているようだ。

 何が彼女をそうさせるのか。もちろん答えは分かっている。あの火傷の跡である。

 あの傷のせいで、彼女は人との出会いを極度に恐れている。

 黄色のスカーフも、実は希梨花にとってはファッションでも何でもない。それは別の役割を担っている。彼女は人前に出なければならない時、どうすればあの傷を隠せるのか、ただそれだけを考えているに違いない。

 この春の陽気とは裏腹に、希梨花は外を歩くこと、人前に自らを晒すことに苦痛を感じているのではないか。

 悟は、さっきまでの自分の高揚した気持ちが、後ろめたいものに感じられた。それと同時に、彼女を不憫に思わずにはいられなかった。

 二人の向かう先に、緑色の教会が見えてきた。その聖堂は青空を突き刺すようにそびえ立ち、荘厳な雰囲気は見る者を圧倒していた。

 いつの間にか、二人は丘の上まで来ていた。眼下に平戸港が見渡せた。

 遠くの海を、観光船同士がすれ違っている。

「桐谷くんは、あの港から来たのよ」

 希梨花が教えてくれた。

「あの時は、生きた心地がしませんでしたよ」

 希梨花は小さく笑った。

 それから悟の方を向くと、優しく微笑みかけた。

「でも、私はあなたに会うことができたわ」

 確かにそうかもしれない。何のトラブルもなく、すんなり旅館に泊まっていたら、希梨花とは知り合えなかった。今日、こうして一緒に平戸の街を歩いてはいなかっただろう。

 教会からの坂道は、めずらしい形の井戸や、史料館へと続いていた。その途中に、手湯と足湯があった。手だけ、あるいは足だけがお湯につかるという趣向なのだが、騒がしい先客がいたので、二人は遠くから眺めるだけにした。

「ほら、ここからお城が見えるわよ」

 希梨花ははしゃぐように言った。彼女の指す方角には、小さく平戸城が見えた。

 二人はその城を目指して、今来た道を引き返した。

 城は高台にあるため、また別の坂道を登ることになる。しかしさっきとは違って、二人の他に人影はなかった。最初は元気だった希梨花も途中で息が上がったのか、口数も少なくなり、乱れた呼吸の音だけになった。

 大きな公園を抜けると、平戸城が二人を出迎えた。近くで見ると城自体は小さいが、海の青と城壁の白とが、美しくコントラストを作り上げていた。

 悟は展望台に立って、海から上がってくる風に身を任せた。隣には希梨花が立っている。風は強く、いつまでも彼女の髪を揺らし続けている。

 悟は黙って希梨花の横顔を見つめた。

 彼女は女性として絶望的な傷を負い、高校卒業を待たずに家を飛び出してきた。そして今はこの小さな街で、人々に怯えながら、一人で暮らしている。自分とさほど歳も変わらぬこの女性は、自分には想像もつかない人生を送っているのだ、と思った。

 なぜ、自分は九州に来て、この女性と出会ったのか。神の意志によるものなら、それは何故なのかを考えた。この私に何をさせようというのか。

「桐谷くん、どうかした?」

 隣から希梨花の声がして、我に返った。

「別に、何でもないですよ」

 悟は慌ててそう口にした。

「お金が振り込まれているかどうか、心配なんでしょう?」

 すっかり忘れていた。今は無一文だというのに、希梨花と一緒にいて、妙な安心感が生まれていた。果たして母親は指定の口座に入金してくれただろうか。

「大丈夫よ、きっと。これから銀行へ行ってみましょう」

 希梨花は悟がお金のことをずっと気にしているのだと勝手に考えているようだった。

 二人は並んで坂道を下っていった。木々の間から自動車の激しい往来が見え隠れしていたが、音はここまでは聞こえてこない。眼下に広がる街並みは確かに活動しているはずなのに、その音がまるでしないのだ。そんな不思議な空間を二人は歩いて行った。

 次第に街の喧騒が聞こえるようになってくる。それらは悟を現実世界に引き戻すかのようだった。今まで希梨花と過ごした時間が、全て幻想になっても不思議ではないような気がした。

 希梨花に借りたお金を返し、お礼を言ったら、その後はどうなるのだろうか。もはや彼女と一緒にいる理由がない。それに彼女は今、失業中なのである。仕事探しをしなければならない。いつまでも他人と付き合っている暇はない。

 加えて悟も旅行者なのである。いつまでもここに居座るわけにはいかない。先を急ぐ必要がある。

 希梨花はどうするだろうか。お金を受け取ったら、その場で別れの言葉を切り出すだろうか。

 いずれにせよ、彼女との別れが近づいているのは明らかだった。果たしてそれは自分の望むことなのだろうか。

 希梨花とは別れたくない。もう少し彼女の傍にいたい。

 何故だろう。彼女に甘えたいからではない。そうではなく、今度は彼女を助けてやりたいと思うからだ。間違いない。希梨花に対する気持ちが、おぼろげながら形になってきた。

 二人は銀行の前に着いた。

「それじゃあ、ちょっとここで待っていて頂戴」

 希梨花はそう言い残すと、自動ドアに吸い込まれていった。

 一人きりになって、悟は考える。

 今、はっきりした。希梨花とは別れたくない。

 自分に優しく手を差し伸べてくれた希梨花を、今度は助けてあげたい。どうすれば彼女を助けられるのか、それはまだ分からないが、このまま別れるのだけは嫌だ。

 しばらくすると希梨花が出てきた。

「はい、どうぞ」

 彼女は嬉しそうに、悟に現金を手渡した。

「やっぱりお母さん、あなたのこと信じてくれていたみたいね」

「ありがとうございます」

 とりあえず昨日のお金は返さなければならない。

「姫島さん、昨日は本当にお世話になりました」

 悟は頭を下げて、食事代を差し出した。

「あら、あれは私の奢りだからいいのよ」

「でも」

「いいったらいいの」

 希梨花は頑なに受け取ろうとしなかった。

「それじゃあ、今日の夕食は僕の奢りということで」

「年下がそんな格好をつけないの。それに外食ばかりじゃ、もったいないでしょ」

 まるで姉のような口ぶりだった。悟はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「ねえ、今夜は何が食べたい?」

「え?」

「私が作ってあげる。こう見えてもお料理には自信があるんだから」

 西に傾きかけた太陽を背に受けて、希梨花は嬉しそうだった。悟も自然と笑顔になった。さっきまでの不安がどこかに消えていた。今は彼女と一緒にいられる、それで満足だった。

「僕は、別に何でもいいですよ」

「だめ。そんな張り合いのないこと言わないで。私に何か作らせなさい」

 希梨花は悟の肩を小突くようにして笑った。

 二人はアパートに向かって歩き出した。



     3


 隣を歩く希梨花は、どこか嬉しそうだった。まるで少女のようにはしゃいでいた。

 ひょっとすると、彼女の口から別れの言葉が出てくるのではないか、そこまで心配していただけに、悟には少々拍子抜けだった。

 彼女は自分と一緒に居られることを喜んでいる。こんな頼り甲斐のない年下の男に、何を求めているのだろうのか。

 いや、そうではない。悟はすぐに気がついた。

 身体に取り憑いたあの傷のせいで、彼女はすっかり自信を喪失している。他人と同じように生きられないと勝手に決めつけている。

 唯一の味方は、家族しかない。しかしその家族とも今は離れ離れだ。

 そんな今、悟が希梨花の弟なのである。どこか頼りなく、見ていて安心できない存在。そんな弟の傍にいてやりたいと考えるのは、姉として当然なのかもしれない。そんな希梨花が哀れに思えた。

「ねえ、何にするの?」

 希梨花の顔がすぐ目の前にあった。返事を待つ彼女の顔は、弟に向けられる優しさに満ち溢れていた。

 もう希梨花の気持ちを考えるのは止めよう。彼女と一緒にいられるという現実、ただそれだけで十分だ。今は希梨花の傍にいよう。それが彼女へのお礼でもある。

「この辺りの郷土料理は何ですか?」

 悟は訊き返した。

 希梨花は一瞬、視線を空中にさまよわせて、

「そうねえ、長崎だからやっぱり、ちゃんぽんか、皿うどんかな?」

「それじゃあ、ちゃんぽん」

「むむ、そう来たか」

 予想外の返答に、希梨花は複雑な表情を浮かべた。

「駄目ですか?」

「ううん、駄目じゃないけど。ちゃんぽんって実は一度も作ったことがないのよ」

「それじゃあ、別の物にしましょうか?」

「いいえ、是が非でも作ってみせるわ。自信はないけど、何とかなるでしょう」

「本当に大丈夫ですか?」

 悟は心配そうに訊いた。

「そんなふうに言われると、意地でもおいしいのを作るしかないわね」

「僕も手伝いますよ」

 悟はすかさずそう言った。

「いいの、私一人で頑張るから、桐谷くんは楽しみに待っていて」

「いや、僕も一緒にやらせてください。姫島さんと一緒に作りたいんです」

 そんな強い主張に、希梨花は驚いたようだった。

 少し間を置いてから、

「分かったわ。一緒に作りましょう。でも、失敗したら、連帯責任だからね」

「連帯責任って?」

「二人とも夕飯抜き」

 二人して笑った。

 希梨花がレシピを確認したいと言うので、大通りに面した本屋に入った。彼女はそこで料理の本を何冊か参照した。

 その後、二人は大きなスーパーマーケットに足を運んだ。食品売り場は、彼女が昨日まで勤めていた店とは比較にならないほど大きかった。

 希梨花は手慣れた様子で野菜や肉を吟味し、次々とかごに入れていく。食材を手に取る度に悟の方を向いて、食べられるかどうかを確認した。悟には好き嫌いがないので、彼女はそのままかごに入れていった。

「これで全部ね」

 店内を三十分ほど巡ってレジに向かった。ここは悟が全額支払うと主張したが、彼女はそれなら折半にしようと譲らなかった。

 スーパーを出ると、春の太陽はすっかり落ちていた。少し風が吹くだけで、途端に寒くなる。時折吹き抜ける風に二人は肩をすぼめた。

 見慣れた風景が広がってきた。朝歩いた道である。希梨花のアパートまではあとわずかだった。



     4


「ただいま」

 アパートの扉を開けると、希梨花は誰もいない空間に明るく言った。

「今日は街を案内してくれて、ありがとうございました」

 買い物袋を流し台に置いて、悟は頭を下げた。

「いえいえ、私も楽しませてもらったから」

 希梨花は電気を点けた。

「この街に来て、もう三年になるけど、こうやって実際に観光地を見て回ったのは、今日が初めて」

「そうなんですか?」

「ここで一人暮らしを始めたのはいいけれど、働くことに一生懸命で、多分そんな余裕がなかったのよね。観光地にはいつか行こうと思っていたけれど、結局きっかけがないと行かないものなのね」

 財布をなくした悟は一日辛い思いを強いられたが、高校中退して一人やって来たこの街で、希梨花はもっと大変だったのだろう。

 観光地は一見、華やかなものだが、実際そこに暮らす人にとって、それは単なる生活の場に過ぎない。遊びに来る観光客と視点が違うのも無理はない。

「さて、まずは下ごしらえ。私がスープを作るから、桐谷くんは材料を切る係ね」

「オッケー」

 希梨花は棚から料理の本を取り出して、再度レシピを確認した。

「お料理には自信があるのよ。でも、さすがにちゃんぽんは初めてだから」

 弟の前で、姉としての威厳を守るように言った。悟にはそれがおかしかった。

 悟は不慣れな手つきで野菜や魚介類を切り刻んでいった。希梨花も初めてなら、こちらも初めてである。具材の大きさがまるで揃わない。それでも何とか準備を終わらせた。

 希梨花は悟の切った食材を一気にフライパンに投入すると、手際よくかき混ぜた。大げさな音とともに、部屋中には芳ばしい香りが立ちこめた。

 悟にはこの先何もすることがなかった。希梨花の傍に立って、彼女のきびきびした手さばきを眺めているだけである。

 悟はひたむきな希梨花に見とれた。綺麗な横顔だった。料理に没頭する彼女に強く惹かれるものを感じた。もし彼女が恋人だったら、こんなふうに食事を作ってくれるのだろうか、そんな密かな妄想を抱いた。

 希梨花はスープを入れて、悟に箸を渡すと煮込みを頼んだ。それからフードプロセッサーを取り出して、別の料理に取りかかった。

 料理を作る希梨花の姿は自信に満ちあふれ、堂々としていた。昼間人目を避けておどおどしていた彼女とはまるで違っていた。悟に料理の腕前をわざと見せつけているようだった。

「早くかき混ぜて」

 希梨花が麺を入れてから指示を出す。

 鍋の中は、それらしくなってきた。

「こんなふうにですか?」

「そうそう、上手、上手」

 三十分もすると、小さなテーブルには、ちゃんぽん、エビ餃子、ご飯が並んだ。悟は無性に食欲が湧いてきた。自分も関わったせいか、美味しそうに見える。

「姫島さん、料理うまいんですね」

「だから最初からそう言ったでしょ」

 二人で作ったちゃんぽんはなかなか旨かった。希梨花はコツが分かったので、もう一度作ったら、今度はもっと美味しくできるという意味のことを言った。

 食後、悟の目の前にはコーヒーが出されていた。希梨花の真似をして、砂糖なしで飲んでみた。しかしどうにも苦くて、慌てて砂糖を入れた。

「二人で一緒に料理をするのって、楽しいですね」

 悟はぽつりと言った。

 希梨花はコーヒーカップを両手で挟むようにして聞いている。

「これまで料理なんて作ったことなかったけど、僕もやればできるんだ、ってちょっと感動的でした」

「どうして一緒に作ろう、って気になったの?」

 希梨花は悟を見つめて訊いた。

「何と言うか、姫島さんを一人放っておけないというか」

 彼女は少し首を傾けるような仕草をした。

「こんなことを言うと、出しゃばりかもしれませんが、姫島さんは何でも自分だけで背負い込んでいるように思えるんです」

 悟は躊躇したが、意を決して言った。

「それはどういうこと?」

「おそらく姫島さんはこれまで一人で生きてきて、とても強い女性だとは思います。今の僕にはとても真似できないものを持っている。でも、時にはもっと肩の力を抜いて、もっと人に頼っていいと思うんです」

「それがお料理と何の関係があるの?」

 希梨花は厳しい口調で言った。

「悩み事や困った事があったら、友達や家族に寄りすがってもいいと思うんです」

「あなたは随分と偉そうね」

 彼女は挑戦的な目を向けた。

「あなたに私の何が分かるっていうの? 私には友人や家族はいないの。だから誰にも頼ることはできない。今までもそうだったし、これからだってそう。それのどこがいけないの?」

 途中から涙混じりになって、語尾が上ずった。それから両手で顔を覆った。

 しばしの沈黙。

「言いたいことはそれだけ?」

 希梨花は立ち上がった。食事の後片付けのため、何も言わずに台所へ行った。悟は一人取り残された。

 やはり言い過ぎだったろうか。悟は考えた。彼女の心に土足で入ってしまったのだろうか。しかし自分は間違ってはいないと思う。希梨花は少なくとも家族と一緒に暮らすべきだ。

「お風呂沸いているから、早く入って頂戴。お洗濯があるから」

 希梨花は悟に背中を向けたまま言った。


 低い轟音を立てて洗濯機が回っている。昨日は遅く帰ってきたため、近隣に気を遣って洗濯をしなかったのだと思った。

 希梨花は悟の二日分のシャツや下着も一緒に洗ってくれた。そして黙々と衣類を取り出すと、細かいしわを取るように二度三度叩いた。それから窓の外の物干しに掛けた。

「明日の朝、ここを発とうと思うんだ」

 悟は短く言った。

 希梨花は弾かれたように顔を上げた。

「そんなに慌てて行かなくてもいいのに」

「いや、僕も旅行中だし、いつまでも姫島さんのお世話になる訳にはいかないからね」

「私は別に」

 希梨花は口ごもった。

「もしかして、さっきのこと怒ってるの? 誰だって真実を突きつけられたら、逃げ場がないでしょ」

 外に強い風が吹き抜けて、窓ガラスが音を立てて波打った。犬の遠吠えが聞こえる。

「確かにあなたの言う通りよ。私は昔の私ではなくなってしまったの。自分で言うのも変だけど、昔はそれこそ、よい子だった。でも大火事で身体に傷を負ってからは人が変わってしまったわ。人前には出たくないし、付き合いもしたくない。だけど家族や友人となら、素直になれるかもしれない。また自信を取り戻すきっかけになるのかもしれないわね」

「明日、鹿児島へ行こうと思う」

「鹿児島に?」

「そう。指宿まで行く。だけど困ったことに案内してくれる人がいないんだ」

「えっ?」

「誰か指宿まで同行してくれる人はいないかな? できれば可愛い女性なら、言うことないんだけど」

 希梨花はようやく悟の意図に気づいたようだった。うつむいたまま、髪をかき上げた。

「姫島さん、僕を指宿まで連れていってくれませんか。そして君を待つ家族に会ってほしい。きっとみんな喜ぶと思うよ」

 希梨花の瞳は揺れていた。大粒の涙がこぼれ落ちた。

 田舎へ帰るきっかけを作ってやりたかった。彼女を孤独から救えるのは家族しかいない。

「悟くん、あなたって人は」

 そう言って顔を上げた。そして悟の顔を正面から見据えた。

「分かったわ。指宿を案内してあげる。だって私の生まれた場所だもの」

 希梨花はそう言ってくれた。

「それで、明日は何時に発つの?」

「朝一番の列車で」

 悟はきっぱりと答えた。

「それじゃあ、お弁当作らなきゃね」

「いや、別に無理しなくてもいいよ」

「駄目よ、朝早いとお店も開いてないんだから、お腹減るわよ」

 希梨花はわざと明るく言った。

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