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第5章 新しい弟

      1


 春。桐谷きりやさとるは大学受験に失敗して、浪人が確定した。新たな受験生活を始める節目に、ぶらりと一人旅をしようと思った。場所はどこでもいい。知らない土地へ行って、自分を見つめ直したい、ただそんな気持ちだった。

 一人旅などこれまでしたことがなかった。ましてや長期の旅行の経験もほとんどない。思い起こせば、高校の修学旅行で北海道を周遊したぐらいである。その旅行も、自分の意志とはまるで無関係に、みんなの後を遅れずについていくだけのものだった。それはまるで軍隊の行進を思わせる。それ自体に意味はない。

 もちろん気の合う友人との旅は、楽しくなかったと言えば嘘になるが、刺激には程遠いものだった。気がつけば、旅行はあっという間に終わっていた。

 日常生活から離れ、旅先での不安感や高揚感、そして自宅に戻った時の安心感や達成感といった、本来旅行で味わう楽しみは皆無だったように思う。

 だから今、自分一人で本当の旅行をしたいと思う。これからの一年を充実させるためにも、この一人旅はぜひともやり遂げるべき仕事のような気がした。

 まずは行き先を決めなければならない。未知なる土地が、この一人旅にはふさわしい。

 そうなると、南だ。地図の上では第一候補は沖縄となるのだが、飛行機で一瞬に目的地に達する旅は、自分の求める刺激とはどこか違う気がする。

 そうだ、九州を一周してみよう。決めた。期間は一週間。

 悟は生まれて初めての一人旅に心が躍った。誰かに与えられたものではなく、自らの意志で、気ままに九州を歩いてみよう。

 この計画に、両親はあっさりと許可を出してくれた。春の陽気とは裏腹に、暗く落ち込んでいる息子に気を遣ったのかもしれない。

 実のところ、悟にそれほどの悲壮感はなかった。両親の手前、落ち込んでいるのが自然に思えて、そういう素振りでいた。

 しかし、心の中では、まるで逆の気持ちが芽生えていた。それは不思議な安心感と言ってもよい。

 自分は一年後、妥協のない道を進んでいる気がする。学校の仲間が一時の保身のために、希望しない道を行くのとは違う。道は無限に広がっている。それが今、目の前に姿を現した。あとは、それを納得のいくやり方で一年かけて見定めればよい。

 悟はこれから始まる新しい生活に、心地良いプレッシャーを感じていた。

 三月中旬、いよいよ悟は一人旅に出た。宿も決めず、夜行列車の切符だけを握って出発した。朝、目が覚めると、列車は悟を初めての九州へと運んでくれていた。

 快晴の下、福岡市を散策し、その後、太宰府天満宮へ向かった。

 受験の神様を参拝するのは、今回の旅の目的の一つである。途中道に迷ったりもしたが、何とか自力で辿り着くことができて、悟の心は充足感でいっぱいだった。

 気をよくして、長崎県平戸市を目指す。今夜はここで宿泊することになる。

 たびら平戸口駅を降りて、案内板に従ってフェリー乗り場を目指した。バイクでツーリングしている若者らに混じって船に乗った。

 船着き場からは、すでに平戸島が見えている。フェリーで十五分ほどの距離しか離れていない。

 まもなく島の向こうに夕陽が吸い込まれようとしていた。船のデッキに出ると、潮の香りが一段と強くなった。夕方のこの時間、やや冷たい海風が頬をなでる。

 悟はフェリーの最後尾の手すりにもたれて、スクリューが吹き出す白い泡を眺めていた。

 船はあっという間に、海の真ん中まで来ていた。さっきの埠頭が小さく見える。悟は沈みゆく夕陽をいっぱいに浴びた、小さな港町をデジカメに収めておこうと思った。携帯電話や財布を入れたポーチをリュックサックから取り出す。

 と、その時、船体が大きく左に傾いた。悟はその予期せぬ揺れに身体を取られた。先に見える大型貨物船の横波でも受けたのだろうか。

 次の瞬間、不覚にもポーチが悟の手をすり抜けた。まるで羽根が生えて、逃げ出す小鳥のようだった。スローモーションで、手すりの向こうへ落ちていく。悟はとっさのことで身動きできず、ポーチが描く放物線をただ目で追うだけだった。船尾から吹き出す力強い水しぶきが、あっさりとその姿をかき消した。

「あっ」

 悟は小さく声を出していた。

 船尾から見る水面は、白い波が幾重にも作られて、ポーチの行方はまるで解らなかった。

(船を止めてもらおう)

 一瞬、そんな考えが頭をよぎった。しかし辺りも暗くなり始めたこの時間、海の真ん中で落下物を回収するのは不可能に思われた。それに、個人的な理由で公共の乗り物を停止させる訳にもいかない。悟は放心した。

 次第に事の重大さが頭をもたげてきた。まだ旅は始まったばかりなのである。それなのに全財産の入った財布を失ってしまうとは。

 このことは何を意味するのだろうか。これ以上旅は続けられないということである。いや、それよりもこれから迎える夜をどう明かすのか。

 頭の中は真っ白になっていた。悟は船尾から一歩も動くことができずにいた。

 平戸港の到着を告げる船内放送も、悟の耳にはまるで届いていなかった。

 この見知らぬ土地で、一銭も持たない自分。辺りはすっかり暗くなった。不安だけが増幅する。この先、一体どうなるのか。

 意味もなく、空を見上げた。どうやら厚い雲が空を覆い始めていた。まさか雨でも降るというのだろうか。今夜はどこに泊まればよいのか。

 ともかく旅行はここで中断するとして、果たして無事に自宅まで帰れるのだろうか。しかし、せっかくここまでやって来たという気もする。何とか、このまま旅行を続けることはできないだろうか。

 フェリーは平戸港に接岸した。バイクや車は再び命を吹き返し、フェリーから勢いよく出て行く。人々もしっかりした足取りで船を降りていく。

 そんな人波に押し出されるように、悟も船を降りた。そして埠頭に一人佇んで考えた。海から吹く風は一段と冷たい。

 この平戸の街で、自分だけが一人取り残された。頼る人は誰もいない。身を寄せる場所もない。そんな絶望的な気分が悟の胸には広がっていた。



      2


 これからどうしたものか。悟の頭の中には、さっきから同じ質問が逡巡していた。自分には運がないのだと、繰り返し思った。大学受験といい、今回の一人旅といい、失敗ばかりである。平戸にやって来るまでの晴れやかな気分が、今では遠い昔のことのように感じられた。

 しかし、待てよ、と思う。自分は高校を卒業した身分である。もう十分に大人ではないのか。

 こんなトラブルに慌てふためいてどうする。この程度のことが乗り切れないようでは、大学受験なんて成功しないのも当然だ。

 これは与えられた試練なのだと、今気がついた。きっとそうだ。これからの人生を自分の力で歩んでいけるかどうか、試されているのではないだろうか。

 悟はそう考えると、さっきまで心の中に立ちこめていた霧が、徐々に晴れてくるのを感じた。

 そして心が平静を取り戻すと、逆にこのどうにもならない境遇を、楽しんでやろうとする自分が見えてきた。きっと何とかなる。悟は船着き場から、街へ向けて力強く歩き始めた。

 まずは今日の寝る場所だ。金のことは、後回しにしよう。明日、銀行が開いたら下ろせばよい。要するに今夜一晩の我慢だ。どこかで夜を明かすことはできないだろうか。もちろんぐっすり寝られなくてもいい。この寒さだけしのげればいい。

 残るは食事の問題だ。無一文では、ジュース一本買うこともできない。どうせ財布をなくすのであれば、昼のうちに腹一杯にしておくべきだった。

 無意識にポケットに手を入れた。指先が何か硬い物に触れた。取り出すと、それは五百円玉だった。昼に買い物した時のお釣りだった。

 そうか、無一文ではなかった。これはありがたい。さっきまでのどん底の気分が、途端に上向きに転じる。これでパンでも買うことができる。

 ここまで来ると、随分と心は軽くなっていた。もしかすると旅行も続けられるかもしれない。とりあえずこの辺りで食料を調達しようか。

 悟は最初に見つけたコンビニの前で立ち止まった。普段なら何も考えずに、自由に買い物をするところだが、今はそうもいかない。一つひとつの行動を吟味してからやる必要がある。

 食事はコンビニよりもスーパーで買う方が、安く済みそうだ。所持金が五百円玉一枚では、そのくらい慎重にならざるを得ない。

 悟はそのコンビニをやり過ごして、地元のスーパーを探した。しばらく歩くと、やや古い店構えのスーパーに出くわした。男性店員が店じまいの準備にかかろうとしていた。

 時計を見ると、八時少し前だった。買い物を済ませた客がビニール袋を手に、店から出てくる。閉店時間が近いのか、店へ入る客はいなかった。悟は迷うことなく、店内に急いだ。

 営業終了を伝える音楽が流れていた。どの客もレジの方へ向かって歩いていく。悟はその流れに逆行して、食品売り場を目指した。

 すばやく目的の棚を見つけて、菓子パンを三つ掴むとレジへ向かった。それらの合計が五百円以内に収まることをすばやく計算していた。

 閉店間際のこの時間、レジは一つしか開いていなかった。そこには、小柄な若い女性がまっすぐ立っていた。悟の他に客の姿はなかった。すなわち彼が本日最後の客のようだった。

「ようこそ、いらっしゃいませ」

 そんな店員の声を耳にして、悟は不思議な気持ちになった。それは型通りの台詞ではない、どこか温もりを感じさせる抑揚を持っていたからである。まるで優しく語りかけているようだった。もしや彼女は知り合いだったかと、本気で考えさせるほどだった。悟はその理由が分からぬまま、店員の顔に目をやった。

 彼女は、髪を長く伸ばし、整った顔には笑みを浮かべていた。それは作り笑顔ではなく、友達に向けられるような親しみがこもっていた。優しい瞳は女性的な魅力に溢れ、端正な目鼻立ちが知性を感じさせる。年齢は悟と同じぐらいに見えた。自分よりも背が低いので、あるいは高校生のアルバイトかもしれなかった。

 彼女がパンを一つ手にとって、バーコードを読み取らせようとした時、悟はふと気がついた。ここで五百円を使い切ってしまったら、明日自宅に電話を掛けることができないではないか。

 ここから自宅までは長距離電話になる。少なくとも百円玉は残しておく必要がある。このままでは、お釣りは百円を切ってしまう。

 悟は恥ずかしいという気持ちより、行動が先に出た。一番大きなパン袋を掴むと、

「すみません。ちょっと待ってください」

と言い残し、パン売り場まで駆け出していた。

「はい。どうぞ」

 彼女の穏やかな声を背中で聞き、パンを一つ棚まで戻しに行った。

 レジにパンを二つ残したまま、しばらくして小走りで戻った。さっきは反射的に行動してしまったが、レジのあの店員はどう思っただろうか。相手が若い娘だけに、悟は気がかりであった。

 たかだか百円程度のことで必死になっている自分を見て、心の中で笑っていることだろう。レジまで辿り着いた時には、すっかり恥ずかしさが全身を覆っていた。

 しかし、彼女がどう思おうと、今の悟にとっては、これは大問題なのである。

 彼女は両手を白いエプロンの前で重ねて、じっと待ってくれていた。その顔は別に呆れた様子も、嘲笑している様子もない。悟は少し安心した。

 彼女は、長い髪を揺らしながら、二個のパン袋を手に取った。レジがピッピッと乾いた音を立てる。

「ありがとうございます。三百十五円、頂けますか」

 これで何とか、百円玉を確保できた。

 心にゆとりが生まれると、次は彼女のことが気になった。レジを操作する彼女の横顔に視線を向けた。釣りを受け取るところで、互いの視線が真正面でぶつかってしまった。

 彼女はちょっとびっくりしたような表情を見せたが、

「どうも、ありがとうございました」

と深々と頭を下げた。

 エプロンの胸の辺りに名札が付いていた。

「姫島」

という文字が見て取れた。



      3


 やはり悟が最後の客であった。男性店員らは身体を引きずるようにして、店内を片付けている。彼らの背中には、一日の疲れが滲み出ているようだった。

 悟は菓子パン二個を片手に店を出た。店を出る時、さっきの姫島という女性店員のことが気になって振り返った。彼女はレジに立ったまま、ずっと悟の方を見ていた。再び視線が合って、彼女は慌てて目を逸らせた。

 外はついに雨が降り出していた。まさに泣きっ面に蜂である。次から次へと苦難が立ちはだかる。

 今回の旅行には傘を持ってきていなかった。もし途中雨に降られるようなことになれば、使い捨ての傘を買うつもりでいた。しかし今となっては、まるで話が違ってくる。そんな安物傘一本すら買うことができないのだ。

 さて、これからどうしたものか。空を見上げて考える。空はもうすっかりと闇に覆われていたが、その中に、黒い雲が立ちこめているのが分かった。どうやらこのまま雨は止みそうにない。

 時計を見た。まだ八時を回ったばかりだ。夜が明けるまでにはかなり時間がある。問題は、その間どこに身を寄せるかだ。

 しかしこの雨の中、傘も差さずに、目当ての場所を探し回ろうという気にもなれない。

 がらんとした自転車置き場の屋根の下で、悟はパン袋を破った。ビニールの屋根が、雨粒を精一杯受け止めて、破れんばかりの音を立てている。時折、車が水の上を勢いよく滑走していく。

 店の看板の明かりも消えて、この場所も真っ暗になった。とうとう辺りには人の気配がなくなった。自分がここに居続けることも、どうやら拒否されているようだ。道路を走る車のヘッドライトが、悟の姿を建物に大きく投影した。

 店の中はまだうっすらと明かりが残っていて、後片付けが続いている。かごを乱暴に重ねる音、陳列棚を畳む音、台車の車輪が忙しく回る音がした。

 初めての一人旅でこんな目に遭うとは、思いも寄らなかった。これも運命なのかと思う。来年、大学に受かれば、今日のことは笑い話になっているだろうか。いや、記憶から消すことのできない、一生の不覚になるに違いない。

 冷たいパンを二個、あっという間に食べ終えた。本当は缶コーヒーでも欲しいところだが、贅沢は言えない。あとはここで小雨になるのを待とう。

 パン袋をまとめて、近くのゴミ箱に投げ入れた時だった。店の玄関が大げさな音を立てて開いた。突然のことで、悟は心臓が止まる思いがした。

 中から小柄な人影が姿を現した。さっきのレジの女性だった。

「あら」

 彼女は短く声を上げた。

 どうやら外のゴミ箱を店内に片付けるために、玄関を開けたらしい。ゴミ箱を手に掴んだまま、固まってしまった。

 彼女の方も、予期せぬ悟の姿に驚いているのだった。一度姿勢を正してから、

「ど、どうかなされましたか?」

 ややつっかえ気味に訊いた。

 悟は返答に困った。営業時間が終わったスーパーの軒先に居続ける客に、正当な言い訳が思いつくはずもない。

「すみません」

 口から、自然とそんな言葉が出た。

 彼女は悟をじっと見つめて、次の言葉を待っているようだった。しかし、今の立場を彼女にどう説明すればよいのか、皆目見当がつかなかった。

「もしよろしければ、傘をお貸ししましょうか?」

 しばらくしてから、彼女がそう言った。

「ああ、助かります」

 悟は心底救われた気がした。傘があれば、この場を去ることもできる。

「では、ちょっと待っていてくださいね」

 ゴミ箱をそのままにして、彼女は店の中へと戻っていった。

 親切な店員もいるものだ、と悟の心は温かくなった。しかし今傘を借りても、またここへ返しに来なければならない。彼女は悟をこの街の住人と考えたのだろうが、実は通りすがりの旅行者である。やはり断るべきだったか。そんな思いが頭の中を行ったり来たりした。

 再び玄関が開いて、さっきの彼女が、透明なビニール傘を目の前に差し出した。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 悟は受け取った。

「ごめんなさいね、ちょっとくたびれた傘で」

 確かに手の中に収まった傘は、いかにも安物といった感じで、よく見ると芯棒が赤く錆びていた。

「お使いになったら、処分してもらって結構ですので」

 どうやら長年引き取り手のない、忘れ物の類らしい。

「助かりました」

 悟は頭を下げた。

 彼女は何か言おうとしたが、それを飲み込むと、会釈をして店の中へ消えていった。

 旅先で偶然出会ったこの女性に悟は感激した。店員として、困っている客を助けるのは当然のことかもしれないが、それ以上の何かを感じるのだ。彼女は悟に対して、客としてではない、特別な感情を持っているかのように思われた。そう考えるのは自惚れだろうか。

 気がつくと、ゴミ箱がまだ外に置かれたままである。仕方ない。悟は玄関を開けた。

「あの、ゴミ箱、忘れてますよ」

 悟はひっそりとした店内に声を掛けた。

 すぐに奥から、彼女が小走りでやって来た。

「どうも、すみません。すっかり忘れてました。ありがとうございます」

 彼女は照れたような顔をして、ゴミ箱を店の中に入れた。

 そして軽く会釈をすると、

「ありがとうございました」

と言って、玄関を閉めた。中から鍵のかかる音がした。

 悟は自転車置き場で、また一人きりになった。

 傘も手に入ったことだ。この先まっすぐ歩いてみようか。どこかに深夜営業のゲームセンターでもないだろうか。

 しかし船着き場からここまで歩いてきたが、そういう店は皆無だった。町の商店街は、すでにシャッターを下ろして、ひっそりとしている。

(さっきの女性に訊いてみようか)

 彼女なら、気軽に教えてくれそうな気がする。

 悟はぼんやりと立ち続けた。もう何も考えていなかった。ただ彼女が出てくるのを待った。

 しばらくして建物の裏口から続々と店員が出てきた。みんな、車、自転車、徒歩とそれぞれのやり方でこの場を離れていく。

 悟は彼女を探した。しかしこの照明のない暗闇では、彼女を見つけるのは困難だった。

「あの」

 背後から声がした。

 慌てて声の方を振り返ると、傘を開いて立つ人影があった。

 ちょうど今通りかかった車のライトが、その人物を闇の中に浮かび上がらせた。それは舞台でスポットライトを浴びる女優のようであった。やや眩しそうにしながらも、柔らかな笑みを浮かべていたのは、まぎれもなく姫島という女性であった。悟はまた会えたことが正直嬉しかった。

「ああ、よかった」

 彼女から、そんな安堵の声が聞こえた。悟はその言葉の意味を考えた。

 しばしの沈黙。ビニール屋根が、小太鼓を叩くように鳴っていた。

「あの、お腹空きませんか」

 彼女は言いにくそうに切り出した。

「はい?」

「私、これからこの先のファミリーレストランへ行くのですけれど、もしよかったら、ご一緒にどうですか?」

 そういうことか。彼女は私が旅行者で、食事のできる場所が分からず困っているとでも思ったのか。その程度の悩みなら、悩みのうちに入らない。

 悟の答えは決まっていた。今の状態では、彼女の誘いに乗るわけにはいかない。しかしどう言って断るべきか、躊躇した。

「実は今日、お給料が出たんですよ」

 彼女は嬉しそうに言った。

 しかし、どうしてそんな笑顔で誘うのか、悟は不思議でたまらなかった。ひょっとして、彼女は金に困っていることを見抜いているのかもしれない。

 悟は財布を落としてしまい、今は無一文であることを打ち明けた。

「まあ、それは大変でしたね」

 彼女はまるで友達を心配するかのように言った。

「とりあえず歩きましょ」

 彼女に貰った傘は、開けるのにややコツがいった。

 雨の降る中を、二人傘を差して並んで歩く。時折走り抜ける車のライトが、二人の姿を闇の中で際立たせる。

「私、姫島希梨花っていいます」

「桐谷悟です」

 悟は歩きながら、高校は無事卒業したものの、大学受験に失敗したこと、そして九州旅行の初日からトラブルに見舞われたことを話した。

 希梨花と名乗った女性は隣を歩きながら、黙って聞いてくれていた。

 会った時から、あなたは財布をなくして困っている旅行者じゃないかと思っていた、そのような意味のことを希梨花は言った。

 悟は驚いた。この女性は最初から全てをお見通しだったと思うと、どうにも格好悪く、次第に恥ずかしさを抑えられなくなった。

 希梨花はそんな悟に気づくことなく、

「着きましたよ」

 突然そう言って立ち止まった。



      4


 悟の目の前には、大きな駐車場が広がっていた。その奥にレストランが見える。近づいて、窓越しに見える店内には、オレンジ色の暖かい光が充満していた。

 悟の身体はすっかり冷え切っていた。本来、隣を歩く希梨花がいなければ、入店する資格もないのだが、身体だけは早く中に入りたがっていた。

 この時間、店はすこぶる混雑していた。テーブルのあちこちから、人々の声が立ち昇り、大きなうねりとなって店内を流れていた。希梨花と悟は奥の小さなテーブルへと案内された。

「ああ、今日は、ビールでも飲みたい気分」

 席につくなり、希梨花がコートを脱ぎながら言った。

 悟は黙って腰を下ろした。

「桐谷くん、あなた、何歳?」

 目の前で希梨花が訊いた。グレーのセーターがよく似合っている。

「十八です」

 さっき、高校を卒業したばかりだと言ったはずである。

「それじゃ、お酒はだめよね」

 希梨花は、わざとらしく笑った。

「そういう姫島さんは、何歳なんですか?」

 悟はすかさず反撃に出た。

「私は二十一よ」

「へえ」

 悟は嘘でなく驚いた。三つも年上だったのか。

「ほら、お酒で嫌なことを忘れられるって言うでしょ? あれって本当なのかしら?」

「さあ、僕には分かりませんけど。何か嫌なことでもあったのですか?」

 彼女は明らかにその何かを聞かせたがっている。悟はその話に付き合ってやる気でいた。

 ウェイターがメニューとお冷をテーブルに置いて立ち去った。

 希梨花は身を乗り出すと、耳打ちするようにささやく。

「実は私、今無職なのよ」

「えっ?」

 そんなはずはない。ついさっきまで、店でレジを打っていたではないか。

「冗談ですよね?」

「いいえ、真面目な話よ」

「でも、さっきまでスーパーに勤めていたじゃないですか?」

「ああ、それは、今日でクビなの」

「本当ですか?」

 悟は慌てて訊いた。信じられない。そんなことがあるものか。

「もしかして、僕が原因ですか?」

「まさか」

 希梨花は声を出して笑った。

「あなたは、私にとって最後のお客様ね」

 悟にはまだ信じられなかった。そんな偶然があるのだろうか。どう言葉を続ければよいのか、思考が停止した。

「さあ桐谷くん、遠慮せずに好きなものを注文して。ここはお姉さんの奢りなんだから」

 希梨花はそう促した。何だか、食欲がなくなった気分だった。

 旅先で、仕事を失った見ず知らずの女性と向き合っている。これは、一体どういう状況なのだろう。

 とりあえず、明日一番に銀行で金を引き出したら、今日の食事代はすぐに返そうと思う。それで今夜は彼女の言葉に甘えて、食事をさせてもらうことにした。変な話だが、その方が彼女を少しでも元気づけてやれるような気がした。

 そうか、彼女は年下の私から頼られたい、そう思っているのかもしれない。

 悟は先に希梨花の注文を聞いてから、同じものを頼んだ。

 テーブルの向こう側に座っている女性は、悟にとっては不思議な存在だった。職場をクビになったというのに、意外に平気な顔をしている。悲しくても、それを人前では見せない性格なのか、それとも次の仕事が決まっていて安心していられるのか、悟には判断がつかなかった。

「今の仕事は三年ほどやったけど、結構面白かったわ」

 希梨花は遠くを見るような目で言った。

 悟はアルバイトの経験すらなかったので、黙って聞き役に回った。

「レジ係って、どうしてもほら、お客さんの買った物を一つひとつ見る訳でしょ。そのうちに、その人の生活までが見えるようになるのよ」

 悟には意味が分からなかった。

「この人は、おそらく単身赴任で、最近お肉ばかり偏って食べてるな、とか、この人は子どもがたくさん家で待っているんだな、とか、この夫婦は、今日はとても嬉しいことがあったんだなって」

 希梨花の口から言葉が溢れ出す。

「近所の一人暮らしのおじいさんやおばあさんもよく来るの。別に知り合いってわけじゃないけれど、何だかその人のことをよく知っているような気がするのね。それで毎日同じ時刻に来る人が、たまたま来なかったりすると、ちょっと心配になったりしてね」

 彼女の言葉には、長年働いた者だけが持つ重みが感じられた。

 悟は聞きながら、それほど年齢も違わない、この若い女性は何としっかり生きているのかと思った。今の自分にはないものを持っている。働くようになれば、これほど成長するのだろうか。

 悟には兄弟はいなかったが、もし姉がいたら、この目の前にいる希梨花のような感じなのかもしれない。

 そうか、もしかすると、職場を去る最後の一日、彼女は一人ひとりの客にいつもより優しく接していたのではないだろうか。今日限りで辞める職場での、最後の奉仕である。そして一番最後の客となった自分に、特別優しくしてくれた。

 しかし、それにしても、他人がいくら困っているとはいえ、こんなふうに食事に誘うのは不可解である。誰でもいいから、ただ愚痴を聞いてもらいたかったというのが、案外正解かもしれない。

 もう少し彼女の本当の気持ちを探ってみたい気がした。そうすることで、自分に向けられた優しさの理由もはっきりするかもしれない。

「どうして僕に声を掛けてくれたのですか?」

 希梨花はその問いにすぐには答えず、長い髪をかき上げるようにした。

「どうしてかな?」

 そう言うと、彼女は黙りこくった。視線を白い指先に落とした。

 そのまま時間だけが流れていく。

 隣のテーブルからは、絶えず冗談交じりの笑い声が聞こえていた。悟は希梨花から目を逸らさず、じっと待った。

 それから、

「弟のことを思い出したから」

とだけ言った。

 何か心に引っかかるものがあるのか、それだけ言うのに随分と時間がかかった。

「弟さんがいらっしゃるんですか?」

 希梨花の視線は、真っ直ぐ悟に向けられた。

「ええ、田舎に」

「田舎というと?」

「指宿っていう町。知ってる?」

「はい」

 確か鹿児島市から、さらに南へ行った町である。悟は旅先を決めてから、九州の地理はすっかり調べ尽くしていた。

「もしかして、弟さんが僕に似ているとか?」

「ううん、そういうわけじゃないけど」

「けど?」

「何だか、あなたを放っておけなくて」

 そういうことか。彼女は、レジで金に困っている自分を、田舎の弟と重ね合わせた。それで弟を助けるような気持ちから手を差し伸べたのだ。

 悟には希梨花の心情が少しだけ分かったような気がした。

「桐谷くんは、この後、鹿児島の方へは行くの?」

 希梨花は話題を変えるように、そう訊いた。

「ええ、一応そのつもりです」

「指宿へは?」

「まだ決めていないですが、行ってみたいですね」

 希梨花の手前、そう答えた。ここで彼女をがっかりさせる道理はない。

 案の定、それを聞くと、希梨花は満足そうに笑みを浮かべた。

 食事が運ばれてくると、悟は圧倒的なスピードで平らげてしまった。

「元気いいわね。男の子はそうでなくっちゃ」

 希梨花が、フォークとナイフを手に持ったまま、感心するように言った。

「お代わりは?」

「いえ、もう十分です」

 悟はまだ食べ足りない気もしたが、そう言った。

 随分と遅れて、希梨花も食事を終えた。

「それで、姫島さん、明日からどうなさるんですか?」

「何を?」

 希梨花は呑気に言う。

「お仕事ですよ」

「ああ、そうだったわね」

 希梨花は黙って、悟の背後を指さした。

 振り返ると、そこには白い張り紙があった。

「アルバイト募集中」

 赤い文字が大きく躍っている。

「だから、ここへ来たのよ」



      5


 希梨花はバッグの中から一枚の書類を取り出した。それは顔写真を貼った履歴書だった。一度軽く目を通してから、彼女は両手で髪を直す仕草をした。

 姿勢を正して、真っ直ぐ悟の方を見た。

「どう、髪型はヘンじゃないかな?」

 すぐ目の前には、希梨花の真面目な顔があった。じっと見つめられると恥ずかしくなる。悟は視線を逸らした。

「ちゃんと見て」

「大丈夫だと思います」

 悟は無理に言わされた格好になった。

「ありがとう」

 希梨花はすっと立ち上がると、

「それじゃあ、面接に行ってくるわね。貴方はコーヒーでも飲んで、待っていて頂戴」

 希梨花は途中、ウェーターを呼び止めると、いくつか言葉を交わして厨房の奥へと消えていった。そのウェイターが真っ直ぐ悟の所まで来て、追加の注文を尋ねた。悟はコーヒー、とだけ言った。

 運ばれてきたコーヒーを口にしながら、希梨花について考えてみた。

 履歴書持参ということは、最初からこの店を訪れて、面接する予定でいたということだ。先に電話で予約をしてあったのかもしれない。今日偶然に出会った自分と一緒に来ることになった訳である。

 希梨花は見た目もしっかりしているし、実際、人当たりも良さそうなので、面接はおそらくうまくいくことだろう。

 時間だけが静かに流れていく。希梨花がさっきまで座っていた場所は、今はぽっかりと空いていた。周りのテーブルから競うように聞こえてくる笑い声とは対照的に、悟はひどく孤独を感じた。

(このまま希梨花が帰ってこなかったら、どうなるのだろうか?)

 今は無一文なのである。この状態は、いわば無銭飲食である。テーブルの向こう側には、希梨花の着ていたコートが折り畳んで置いてあるものの、もしもということがある。

 悟の心は、ひとたび不安に向けて坂を下り始めると、ますます加速度を増していった。

 希梨花が自分を置き去りにするとは思えないが、もしも二度と姿を現さなかったら、一体どうなってしまうのか。まずはこの店をすんなり出ることはできないだろう。もちろん無事に自宅に帰れることなど思いも寄らない。

 今は希梨花を信じて待つしかない。頼れる人はあの人しかいない。つい数時間前までは知らなかったあの女性を。

 人との出会いは不思議なものだと思う。学生の頃も確かに様々な出会いがあった。しかしそれは学校内に限定されていて、考えてみれば教師のお膳立てによるものだ。一見、偶然の出会いも、実は誰かの作為による。言ってみれば、学校という箱庭の中で、想定内の出会いをしてきたに過ぎない。

 しかし今回の希梨花との出会いは違う。これまで無数の分岐が、目の前に現れては消えていった。その一つひとつを選んだ結果、最終的に彼女に辿り着いたのだ。もし平戸に来て、フェリーに乗り、財布を落とし、あのスーパーに立ち寄らなければ、希梨花には会えなかった。このどれか一つを放棄するだけで、彼女とはすれ違ってしまう。

 もちろん、希梨花の側でも同じことが言える。彼女がもう一日早くスーパーを辞めていたら、自分とは会えなかったはずである。いや、そもそも郷里の指宿から平戸に出てこなければ、ここで会えるはずもない。

 これはどういう巡り合わせなのだろうか。ただの偶然なのか、それともいつかはこうして出会う運命だったのか。もし二人が出会う宿命なら、形は違えども、いつかどこかで出会っていたのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えていると、頭上から声がした。

「おまたせ」

 希梨花が戻ってきていた。悟はやはり彼女の存在が心強かった。

「面接はどうでしたか?」

「さあ、どうかしら? それより、もう出ませんか」

 悟はこの時、希梨花のあごの下に一筋の赤い傷があるのを見逃さなかった。それは血の固まりのようだった。それは最近のものではなく、風化した昔の傷と見受けられた。

 首まであるセーターが傷の行方を隠してはいたが、その勢いからすると、それは胸の方まで続いているように思われた。

 彼女の白い肌には、まるで場違いな傷である。女性として、彼女はこの傷のことを考えない日はないだろう。

 希梨花はゆっくりと手で首元を覆うようにした。それは、自然な仕草のように見えて、実は悟の視線を遮断する意図が感じられた。

 悟も彼女の気分を害することがないよう、気づかない振りですぐに視線を外した。

 希梨花は先にレジまで歩いていった。

「お金は、明日お返します」

「あら、別にいいのよ」

 そう言いながら、彼女は支払いを済ませた。

 二人はレストランの外へ出た。

「でも、返すって言ったって、お金はどうするつもり?」

「明日、一番で銀行へ行って、下ろすつもりです」

 悟は頭の中で何度も繰り返しておいた明日の予定を口にした。

「カードか通帳は持ってるの?」

 そこで悟は凍りついた。そうだった。確かに銀行の口座は持っているものの、この土地で下ろす術がないではないか。浅はかだった。となると実家から郵便で送金してもらわないといけないのか。悟の思考は、また振り出しに戻ってしまった。

 希梨花はそんな様子を見て、

「大丈夫。お家から私の口座に振り込んでもらえば、私が代わりに引き出してあげられるから」

 なるほど、その手があったか。あとは振り込んでから引き出せるまで、どれだけ時間を要するかだ。まあ、明日半日もあれば、完了できるだろう。

 悟の不安が徐々に晴れてくる。半日我慢すれば、また元の通り、旅も続けられそうだ。これで悩みはほとんど解決した。

 外はまだ小雨が降り続いている。

 悟は時計をちらりと見た。まだ十時前だった。さてこれからどうするか。

 二人は傘を開いて、濡れた歩道に踏み出した。

「桐谷くん」

「はい」

「私の家に来る?」

 悟に緊張が走った。それは家に一晩泊めてくれるということか。今日出会ったばかりで、果たしてそこまで世話になっていいものだろうか。いや、その前に彼女が一人暮らしなら、考えものである。若い女性の家に一泊するというのは、どうにも具合が悪い。

「いや、近くに二十四時間営業の店とかはありませんか?」

 悟はやや早口で言った。

「遠慮しなくていいのよ」

 悟は黙りこくった。

「残念ながら、この辺りは田舎だから、そういうお店はないの。それに余計なお金もかかるでしょ」

 希梨花はまるで母親が子供を諭すように言った。確かに彼女の言う通りである。これ以上、彼女に借金を重ねるわけにもいかない。

 悟には迷いがあったが、他にどうすることもできず、ただ黙って希梨花についていくしかなかった。見ず知らずの女性に、助けてもらってばかりの自分が不甲斐なく思えた。

 希梨花はそれ以上口を開かなかった。悟も黙っていた。

 確かに希梨花の言う通り、この街に深夜まで開いている店などなさそうだった。この時刻、商店に明かりはなく、道路を走る車もまばらだった。歩道を照らす街灯だけがその存在を主張していた。その明かりさえ、雨に滲んで弱々しい。

「ここよ」

 希梨花が立ち止まって言った。

 傘の向こうには、二階建の木造アパートだった。希梨花は住民に気を遣っているのか、音を立てないように階段を上っていった。悟も後に続く。

 突き当たりのドアまで進むと、鍵を開けてゆっくりノブを回した。

「どうぞ」

 たちまち六畳一間が見渡せた。部屋は狭いが、若い女性の部屋らしく、きちんと整頓されていて、いい香りがする。

「あっ、ちょっと待って」

 希梨花は部屋に慌てて飛び込むと、干してあった洗濯物を急いで片付けた。手の間から下着が一枚落ちた。それも拾い上げると、すばやく押し入れを開けて投げ込んだ。

 彼女は随分と取り乱していた。さっきまで悟に見せていた、姉のような自信に満ちた姿が、今では一人の女の子の姿に戻っていて、悟は親近感を覚えた。



      6


 小さな土間で立ち尽くしていた悟に、

「さあ、上がって、上がって」

 希梨花はまるで子どものように、大袈裟なやり方で手招きをした。

 部屋の大部分はこたつに占領されている。希梨花はその布団をめくって、スイッチを入れた。

「雨の中歩いたら、すっかり冷えちゃったね。今、お茶入れるから、そこに座ってて」

 希梨花はどこかはしゃいでいるようだった。そんなにこの予期せぬ客が嬉しいのだろうか。

 悟はこたつに足を入れた。両手を突っ張る格好で、部屋の中をぐるりと見回した。

 狭い部屋には、あまり物が置かれていない。こたつの他には、小さなテレビと洋服ダンスがあるだけである。もっともこれ以上家具を入れたら、自由な空間が狭くなるだけかもしれない。

 大学に合格して、一人暮らしを始めたらこんな感じになるのだろうか。悟はそんなことを考えながら、希梨花の方に目をやった。

 彼女は狭い台所に立って、何やら準備を始めていた。

「そうそう。私ね、大きな火傷の跡があるのよ」

 希梨花は背中を向けたまま、いきなりそんなことを言い出した。

 さっき見た、喉から胸にかけての傷のことだと、すぐに分かった。

「そうなんですか」

 悟は、初めて知ったような口ぶりで応じた。

 その声は希梨花に届いているのか、いないのか、彼女は悟の方を一切振り向かなかった。棚から皿を取り出して、慣れた調子で包丁を動かしている。

 どうして彼女が唐突にそんなことを言い出したのか、悟は理解できなかった。遅かれ早かれ、あの傷が見られてしまうことは避けられない。それなら予め全てを話しておこうと思ったのかもしれない。

 希梨花は途中、思い出したように、風呂にお湯を入れた。そのてきぱきした動きには、悟のどんな質問も受け付けないといった、強い意志が表われているようだった。

「何か、お手伝いましょうか?」

 悟は彼女の背中に声を掛けた。

「いいのよ。お客様はそこにいて頂戴」

 旅先で失敗をして、助けられてばかりの、格好悪い男がお客様か。その言葉がただ虚しく響いて、悟は居心地が悪かった。軽い自己嫌悪を覚えた。

 テレビの上には、充電器に収まった携帯電話が置いてあった。彼女は今日一日、これを忘れたまま出掛けていたのか。

 テレビの下のラックには、なぜか英語と数学の教科書が収まっていた。

 ケトルが、突然鳴り響いた。希梨花はすばやくコンロの火を消すと、お茶を入れた。

「はい、どうぞ」

 目の前にはお茶とようかんが並んだ。

 悟の目は、どうしても希梨花の首元に吸い寄せられた。彼女に気づかれないよう、何気ない視線を送った。赤くて長い火傷跡が嫌でも目に飛び込んでくる。白い肌を汚す傷跡は、若い女性にとって酷い仕打ちのように思える。彼女はどうしてこんな傷を背負ってしまったのか、悟は思いを巡らせた。

 お茶を一口すすった。身体が中から温まる。もう二度と外に出ることなど考えられなかった。誰が何と言おうと、今夜はこの部屋から一歩も動かないことを決心した。

 こたつの中で、希梨花の冷えた足と一度軽く接触した。

 ある程度心が温められると、不思議な気分が戻って来る。

 自宅から遠く離れたここ平戸で、つい数時間前には名前も顔も知らなかった女性の部屋に座っている。こたつを挟んで、こんな近い距離で向き合っている。

 大きな火傷を負った彼女。そして今日勤め先を辞めることになった彼女。目の前の女性は、悟にとって何もかもが不思議な存在なのだった。

 彼女が指宿から平戸へ出て来たのには、深い事情があるように思われた。おそらくそれは、その火傷と関係があるのではないだろうか。

 二人は黙りこくった。お互いが何を切り出そうか、考えあぐねているようだった。狭い一室で、壁に掛かった時計の秒針だけが動いていた。

「あっ、そうだ。自宅に電話するんでしょ。この電話、使って」

 希梨花は立ち上がると、テレビの上にある携帯電話を手渡した。

 手に持ってみると、使用感があまり感じられなかった。傷や汚れがほとんどなく、新品そのものだった。

「では、お借りします」

 悟は自宅の番号を押した。親子のみっともない会話を、希梨花に聞かれるのは恥ずかしい限りだが、これも仕方ない。

「もしもし、桐谷ですが」

 母親の声。

「ああ、オレだけど」

 悟は会話を始めながら、どうやって事情を説明すべきか迷った。とりあえず、母親には今の状況を心配させてはならない。

「今、平戸にいるんだけど、ちょっと財布をなくしてしまって、ある人の世話になっているところなんだ」

「え? 何ですって?」

 電話口で母親は、ひどく混乱しているようだった。

「それで、あなた、大丈夫なの?」

「大丈夫。それでさ、悪いけど明日金を振り込んでほしいんだ」

 そう言った途端、

「あっ、これって振り込め詐欺でしょう?」

 それは悪事を見事に暴いて、得意になっている声だった。勝ち誇った母の顔が目に浮かんだ。

「あのねえ、オレは財布無くして、本当に困ってるの」

「本当に?」

「だから詐欺じゃないって」

「あんた、本当に悟なの?」

 何だか面倒な展開になってきた。ここで身内に疑われるとは考えてもみなかった。

 希梨花はこのやり取りを隣で楽しんでいるようだった。

「本物だよ。そもそも九州にいるのは、本人しか知らないことだろ?」

「あら、そんなの分からないわよ。どこかで調べたのかもしれないじゃない」

 まったく疑り深い母親である。まあ、これぐらい慎重なら、詐欺に引っかからないことだけは確かである。

「じゃ、どうすれば信じるんだよ?」

 悟が向きになって言うと、希梨花が、

「私に代わって」

と手を伸ばしてきた。

 悟は電話を渡した。

「お電話代わりました。初めまして、私、姫島希梨花と申します」

 彼女は悟と出会った経緯を手短に説明した。

「それで、もしお疑いでしたら、お金の方はいいですよ。こちらで立て替えておきます。悟さんが自宅にお帰りになってから、返して頂ければ結構です。ただ悟さんがお母さんとお話しできれば、少しは安心するかと思いましたので」

 そんな誠意ある話し方が功を奏したのか、

「お母さんがあなたに代わって、ですって」

 悟は電話を受け取った。

「あのね、姫島さんに迷惑掛かるから、明日、絶対に振り込んでくれよ」

 悟は強い調子で言った。

 そして希梨花から聞いた口座番号を伝えた。

「絶対、頼んだぞ」

 最後にもう一度、念を押してから電話を切った。

「お母さんに随分と冷たいのね」

 希梨花は笑った。

「当たり前ですよ。息子をまったく信じてくれないのですから」

「まあ、そう言わないで。いいお母さんじゃない」

「そうですかね?」

「そうよ。私は、もうずっとお母さんと話してないから、そういう関係が羨ましいわ」

 希梨花はそれだけ言うと、すっかり冷たくなったお茶を飲み干して立ち上がった。



     7


「お風呂が沸いたみたい。桐谷くん、お先にどうぞ」

「いや、僕は後からでいいですよ」

「いいえ、お客様が先よ」

 脱衣場がないので、台所で着替えをすることになった。その間、希梨花は悟に背を向けて、こたつでテレビを観ていた。

 悟は女性用シャンプーの香りが充満する、狭いユニットバスで湯船に浸かった。寒さで萎縮していた身体が、次第に元に戻る感覚があった。

 希梨花はさっき母親と話していない、と言った。それはどういうことなのだろうか。

 たとえ一人暮らしをしていても、盆や正月に故郷へ帰れば、家族と再会することができるはずだ。それができないというのなら、それはどういう理由が考えられるだろう。

 もしかすると希梨花は指宿に家族を残したまま、一人家出をしてきたのではないだろうか。それなら母親とずっと口を利いていない説明もつく。ずばり家出の原因は、あの首の火傷である。あの傷はおそらく大火事の末にできたものである。それを苦にしての家出だろうか。

 希梨花には弟がいるらしい。その弟とも長年会っていなければ、きっと恋しくなるに違いない。その淋しい気持ちが優しさに変わって、今の自分に向けられているのではないだろうか。きっとそうに違いない。

 希梨花はこの平戸に恋人はおろか、友人もいないようだ。家族と別れ、これまで一人ぼっちで暮らしてきた。それでもスーパーの仕事に打ち込むことで、自分の感情を押さえ込んできた。

 しかし今日、その仕事さえも取り上げられた。指宿にいる家族への恋しさが、彼女の中で一気に爆発したのであろう。今、自分がそれを代わりに受け止めている。希梨花は指宿に帰って、家族と会いたいと思っているのではないだろうか。

 突然、ドアがノックされた。

「桐谷くん?」

 希梨花が心配そうな声で呼びかけた。

「はい」

 慌てて返事をする。

「ああ、よかった。お風呂の中で寝込んでしまったのかと思って」

「大丈夫です。今、上がります」

「いえ、別に慌てなくてもいいのよ」

 考え事をしていて、長湯になってしまったようだ。

 悟はドアをゆっくり半分ほど開いた。

「はい、タオル」

 希梨花は顔を横に向けるようにして、バスタオルだけを突き出した。

 悟はそれ受け取ると、身体を拭いて服を着た。

「お先に」

 希梨花はしばらくためらっていたが、

「それじゃ、私も入ろうかな」

 と言った。

「あの、桐谷くん」

「はい?」

「とっても大事なことなんですけど」

「は?」

「いいえ、何でもないの。こっちを見ないでね」

「見るわけないでしょう」

 悟は口を尖らせて言った。

「ごめん、ごめん、念のためよ、念のため」

 希梨花は悟の視線の外で、すばやく衣服を脱ぎ去ると、風呂へと消えていったようだった。

 悟はこたつの中で、いつの間にか、うとうと眠ってしまった。

「そのまま寝ると風邪引いちゃうぞ」

 目を開くと、真上には希梨花の顔があった。白いシャツの首元からは、例の火傷跡が顔を出していた。

「今日は色々あって疲れたでしょ。もう寝ましょうか」

 そう言って希梨花は毛布を掛けてくれた。そして部屋の明かりを消した。

 悟はしばらくはこたつの向こうに寝ている希梨花のことを意識していたが、いつの間にか眠りに落ちていった。

 どのくらい眠ったのだろう。悟は不意に目を覚ました。腕時計に目をやると、午前五時を回ったところだった。暗闇の中、静かに起き上がって、布団で寝ている希梨花を跨いで、トイレに向かった。足音を忍ばせて、また寝床まで戻ってきた。

 少し開いたカーテンから月明かりが漏れていた。目が慣れてくると、この程度の明かりでも、部屋の様子が分かるようになる。

 悟は半身を起こして、希梨花の方を見た。小さな身体がすっぽり布団にくるまれて、かすかな息づかいが聞こえてくる。長い髪が美しい曲線を織りなしていた。

(いつもはこの部屋で、一人寝ているのだな)

 そんな悟の勝手な妄想に抗議するかのように、突然、希梨花は寝返りを打った。

 窓からの青白い光の中に、希梨花の顔が浮かび上がった。綺麗な寝顔だった。

 よく見ると、彼女の顔には幾重にも涙の流れた跡があった。まだ渇き切らず筋として残っている。ずっと布団の中で泣いていたのか、悟はその訳を考えた。

(希梨花にしてやれる恩返しとは、一体何だろうか)

 悟はすっかり目が覚めて、希梨花の寝顔をぼんやりと眺め続けた。

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