第4章 運命のカーテンレール
1
体育祭が終わると、学生たちはそれまでのお祭りムードから一変して、後に控える中間考査の準備に追われることとなった。
拓磨も希梨花と一緒に勉強を続けていた。しかし県大会に向けて練習があるため、図書館へ行く回数は以前よりも減っていた。
希梨花は拓磨と一緒にいられる時間が少なくなったことは残念だったが、それよりも、拓磨が以前ほど明るい顔を見せなくなったことの方が気がかりだった。どうしてなのだろう。大事な大会の前で、気持ちが穏やかではないのか、あるいは存分に練習ができないことにストレスを感じているのか、希梨花には理由が分からなかった。
そしてテストも無事終わり、拓磨は大会を目指して遅くまで練習する毎日に戻った。それによって、希梨花の役目も終りを告げた。
一週間後、テストの結果が発表された。拓磨は前もって準備していたこともあり、以前と比べ、成績が大幅にアップした。彼は公約を見事に果たし、サッカーを続けられることを約束された。
テストが終わって、一度だけ、希梨花は下駄箱で拓磨と会話をする機会があった。彼は希梨花にとても感謝している、と言った。それ以上のことは何も言ってくれなかった。それだけ言うと、拓磨はグランドに戻っていった。
テストの前に二人は賭けをした。拓磨は前回よりも百以上順位を上げること、希梨花は全校で三位以内に入ることで勝負をつけることにした。
結果、拓磨は百五十位も順位を上げ、一方、希梨花は五位だったため、拓磨の勝ちとなった。
拓磨はこの賭けについても何も言ってこなかった。すでにサッカーの試合の方に気持ちが奪われていて、それどころではないようだった。希梨花には寂しさだけが残った。
拓磨を想う気持ちの何分の一すらも、彼の方は持ってくれなかった。二人のすれ違いを痛感した。これまで何年も隣に住みながら、一度も付き合いがなかったということは、やはりそれなりの理由があったのだ。
拓磨とは暮らす世界が違っていた。今までも、これから先も、彼とは分かり合えることはないのだろう。
しかし、私は拓磨と一緒に過ごした日々を決して忘れることはないだろう。彼のおかげで、私は一人の女性であることに気がついた。こんな感情は生まれて初めてだった。彼は私の知らない一面を引き出してくれた。拓磨には感謝しなければならない。また、いつか機会があったら、少しでも話ができればいいと思う。
いつか拓磨に助けてもらった敏明が、ますます閉鎖的になり、家ではほとんど口を利かなくなっていた。姉として、これまで弟のことは何でも把握しているつもりだったが、それはまるで思い違いだったようだ。最近では、弟が私の手の届かぬ所へ行ってしまうのではないか、そんなことを思い始めた。その不安はみるみるうちに希梨花の心を占拠した。そのせいもあってか、拓磨のことをこれ以上悩まずに済みそうだった。
2
年の瀬を迎えていた。もうすぐ冬休みがやって来る。この時期は、いつも一年は早いものだと感じる。特に今年は、拓磨といろいろあって、秋から一気に駆け抜けていった気がする。
希梨花は学校からまっすぐ一人で自宅に向かっていた。今日も一人ぼっちである。拓磨と一緒に帰ったあの日々がまるで嘘のようである。自分は夢でも見ていたのだろうか。
駅を降りて、商店街を歩いた。こんな小さな町でも、クリスマスの飾りつけや、大売出しの旗が上がっている。そんないつもと違った賑やかさが、希梨花をより一層寂しく感じさせた。
酒屋の前で、見覚えのある女性の後ろ姿を見掛けた。彼女は買い物を済ませ、ちょうど店を出てきたところだった。
希梨花は小走りでその人物に近寄って、声を掛けた。
「早矢仕君のお母さん」
彼女は振り返った。
「ああ、キリカちゃん。今、帰り?」
「はい」
早矢仕雅代は、色白の物静かな女性であった。活動的な拓磨とは雰囲気がまるで違う。一升瓶の入った袋を黄色の手袋で抱えていた。そういえば、いつしか自分のことを綺麗になったと言ってくれたのは、この人だったか。
二人は並んで同じ方向に歩き出した。
「そうそう、テスト前に拓磨の勉強みてくれたんですってね」
雅代が切り出した。
「一緒に勉強していただけです」
「あら、でもおかげであの子、成績が上がったのよ」
雅代は嬉しそうだった。
「それで心置きなくサッカーができるって、張り切っちゃって。どうしようもないんだから」
希梨花は隣を歩きながら、黙って聞いていた。
「それで今日と明日は、県大会の遠征で家に帰ってこないのよ」
「そうなんですか?」
希梨花はまるで知らなかった。拓磨は私にはもう何も言ってはくれない。体育祭の頃、毎日いろんな話をしたことが懐かしく思い出された。
三叉路に差し掛かると、
「これからも、拓磨のことよろしくね」
と雅代は立ち止まって言った。
それから、
「私、他に用事がありますから」
と向きを変えて歩いていった。
希梨花はこの時、彼女の姿をしばらく目で追った。背中がどこか寂しそうに見えたのは気のせいか。
坂を少し上っていくと、木立の間から神社が見えてくる。この時期は一日中、陽が当たらないせいで、ここだけ一段と気温が低く感じられる。
神社の敷地を横切った。誰もいないはずの境内に、ふと人の気配を感じて、目をやった。
早矢仕公恵がベンチに座っていた。腰を一杯に曲げて、小さくなってじっとしていた。会わないうちに、随分歳をとったように思えた。この場所で、敏明と一緒に遊んでもらったあの日から、どれだけ時が経ったのだろうか。
希梨花は公恵と少し話がしたくなって、そっと近づいた。公恵はまるで気がつかない様子だった。視線を意味もなく地面の辺りに向けていた。
「おばあちゃん?」
「ああ、キリカちゃんかい。お帰り」
彼女は希梨花の声を頼りに顔を上げた。しかし目はあまり見えていない様子だった。
「おばあちゃん、寒くないの?」
希梨花はすぐ横に腰を下ろした。
「ああ、大丈夫だよ。昔はもっと寒かったんだから」
希梨花は公恵が素手でいることに気づいて、手袋の手で彼女の手を擦り合わせた。
「ああ、暖かい」
公恵は目を細めて微笑んだ。
希梨花は、孫のことをさりげなく訊いてみようという気になった。
「おばあちゃん、拓磨君とはよく話をするの?」
公恵は、含み笑いをして、
「あの子、私には優しいよ。キリカちゃんみたいにね」
「へえ」
希梨花は嘘でなく驚いた。
「そうそう、拓磨には最近、好きな子ができたみたいだね」
希梨花は、それを聞いた途端、どこか胸の奥が締め付けられるようだった。誰のことだろう。まさか私のことではあるまい。
「そうなんですか?」
まるで他人事のように言ってみたが、心の中では、それが誰なのかを考えていた。
「キリカちゃん。あなた、拓磨のこと好きかい?」
「え?」
「もしかして、お付き合いしているのは、あなたかい?」
「いえ、そういう関係ではないですけど」
希梨花はきっぱりと否定できた。
「そうなの? まあ、ともかく孫のことをよろしく頼みますね」
そう言うと頭を下げた。いや、頼むも何も、拓磨とは何もないのだ。それは公恵の見当違いと言わざるを得ない。
「拓磨君、私のことを何か言ってましたか?」
希梨花は思わず訊いた。
「そりゃあ、言ってましたよ。いい子だって」
希梨花は苦笑した。いい子、か。拓磨にとっては、私はただの便利屋だったのだろう。便利でいい子、という意味だ。
しばらくお互いの近況を話した後、公恵は別れ際に、
「拓磨のことをよろしく頼みます」
ともう一度同じことを言った。
拓磨の母親も祖母も、自分に会って同じことを言うのだな、と希梨花は思った。
この夕方の不思議な出来事を、この後の人生において、希梨花は何度も思い出すことになるのだった。
3
その日の深夜、希梨花は突然目が覚めた。どうやらこたつで寝てしまったらしい。時計を見ると、午前三時を少し回ったところである。
いつの間に眠ってしまったのだろう。目の前には、数学の問題集が開いていた。それはまったく手つかずの状態で残っている。
ふと身体が何かに突き上げられた感じがして、一瞬にして目が覚めてしまった。意識もはっきりと戻っていた。今夜は勉強はこのぐらいにして、歯を磨いてきちんとベッドで寝直そうと思った。
立ち上がって、部屋の扉を開けた。深夜のこの時間、辺りは静まりかえっている。音を立てないように廊下に出た。
希梨花はこの時、なにか家の中の気配がいつもと違うように思えた。なぜだろう。どうも胸騒ぎがする。みんなが寝静まったこの間隙を縫って、何かが密かに進行している、そんな感じだった。自分が起きて、それに気づいたからには、この事態を自らの手で阻止しなければならない。
階下に誰かがいる。まさか泥棒だろうか。何やらぼそぼそと小声でささやくような気配。
階段を静かに降りて、声のする方へ向かう。悪漢に気づかれてはならない。慎重に事を運ぶ必要がある。
この真夜中、廊下に異様な温度が感じられた。明らかに何か異変が起きている。泥棒なんかではない。この頃には、希梨花の疑念は確信へと変わりつつあった。
どうやら台所が、その発生源のようだった。自然に足が向いていた。台所へ続く扉の隙間から明かりが漏れていた。それは安定した光源ではなく、強弱が不自然に変化するものだった。ドアノブに触ると、熱を帯びているのが分かった。
まさか。希梨花は耳を澄ました。信じたくはないが、扉の向こう側から、炎が燃え盛る音がする。
火事だ!
希梨花はどうしていいか分からないまま、階段を駆け上がった。家族全員が二階で寝ているはずだった。とにかく家族を起こすのが先決である。
希梨花は駆けながら、大声を出した。
「みんな、起きて。火事よ」
さっきから身体の震えが止まらない。それは寒さによるものなのか、それとも恐怖からなのか。
最も手近かな弟の部屋を開けた。
敏明は起きていた。弟の無事を確認すると、少し気が落ち着いた。
「敏明、大変、火事よ」
お父さん、お母さんは大丈夫か。いつもなら、二人とも奥の寝室にいるはずだが、まさかということもある。希梨花は弟の部屋を飛び出して、声を張り上げた。
「どうしたんだ?」
廊下の奥から、乱暴に駆けて来る音がして、両親が姿を見せた。
希梨花は父親に飛びついた。
「台所が燃えてるの」
怖さのあまり、知らず声が震えた。
「みんな、ここに居なさい」
父親の怒鳴る声が、不安を増幅する。母親の震える手が、希梨花と敏明を包み込んだ。
父親は一人で階段を降りていって、またすぐに戻ってきた。
「玄関の方は大丈夫だ。みんな、逃げるぞ」
敏明を先頭に、家族四人は玄関から外へ出た。誰も怪我をした者はいない。ひとまずは安心だ。
外では、細い木々を勢いよくへし折るような音が聞こえる。四人は台所が見渡せる境内の方へ急いだ。
家族の誰もが呆然とした。台所の窓という窓からは、荒れ狂う炎が見え隠れしていた。もし中に誰かがいたらと思うと、ぞっとした。
一体何に怒っているのか、炎は不満を一気にぶちまける勢いで、ますます暴れ出した。そして人間を挑発するかのように、舌なめずりをする。こうなるととても人間の手には負えない。怪物は家の中を荒らすだけでは飽きたらず、外へ出ようとしている。今、一斉に窓が破られた。
社務所の窓一面に、炎が映っていた。まるで神社に火が乗り移ったような錯覚を覚える。暗闇を引き裂いて、昼間のように炎が辺りを照らしていた。
待てよ。反対側はどうなっているのか。
弟も同じ事を思ったのか、お互い顔を見合わせた。次の瞬間、姉弟は一斉に駆け出していた。隣は早矢仕家である。家と家のすき間はきわめて狭い。
悪い予感は的中していた。
姫島家の一階部分から立ち上る炎は、早矢仕家まで達していた。姫島家だけではもの足りず、隣の家まで焼くつもりか。一階は公恵の暮らす部屋のはずだ。
姉弟は顔面蒼白になった。まだ延焼は始まったばかりだ。もしまだ足の悪い公恵が残されているのなら、助けるのは今しかない。一刻の猶予もない。
「火事だ。火事だ」
遠くで誰かの叫ぶ声が聞こえた。
希梨花が一瞬、その声に気を取られた隙に、敏明が早矢仕家に向かって駆け出していた。
希梨花も躊躇することなく、敏明の後に続いた。今なら二人の若い力で公恵を助けることができるはずだ。何より弟だけを危険な目に遭わすことはできない。
「早矢仕さん、起きてください」
希梨花が叫ぶ。返事はない。早矢仕家は真っ暗で人の気配がない。
敏明は手近な窓ガラスを、石を振り下ろして割った。ガラスが粉々になるも、音は聞こえてこない。迫りくる炎のうなり声にかき消されているからだ。
敏明は割れた窓からうまく身体を滑り込ませた。希梨花も続く。
部屋の中は外よりも暗かった。一歩先に何があるかも分からない。希梨花は何かに思い切り足をぶつけた。不思議と痛みはすぐに忘れた。時間がない。
「おばあちゃん、火事だ」
先を行く、敏明の声が聞こえた。暗闇で姿は見えない。まだこの部屋に炎は到達していない。今のうちに公恵を捜さなければ。
火よりも先に、煙が立ち昇り始めた。闇の中、不安ばかりが増大する。
部屋の中はどうなっているのか。ここに公恵はいないのか。
姉弟で勝手知らぬ部屋に突入したのは、無謀ではなかったか。今ならまだ二人とも生還できる。これ以上の深入りは危険ではないか。
「おばあちゃん」
敏明の声。公恵を発見したのか。
次の瞬間、部屋のどこかで窓ガラスが割れたようだった。炎の音が急に近くなった。希梨花に恐怖が襲ってくる。もう時間がない。
公恵をおいてでも、敏明を助けなければならない。希梨花は恐怖と向き合いながら、心を決めた。
割れた窓から炎が容赦なく侵入した。天井にも届きそうな火柱が、部屋の中を一気に明るくした。
今、敏明の姿が確認できた。人影は二重に見える。敏明が公恵を抱きかかえているのか。手を貸さなければ。
敏明の方へ一歩踏み出そうとするのだが、これまで経験したことのない熱風が襲う。まるで溶鉱炉の中にいるようだ。髪の毛が焦げるような感覚。炎は本気で襲いかかってくる。人間に対して少しの容赦もない。
いつの間にか、部屋にはいくつかの火柱が立ち、凶暴な轟音が希梨花を包み込んでいた。思っていたよりも火の回りが早い。こんなはずではなかった。このまま私たちは炎の生け贄になるのか。死を意識する。
部屋の奥の二つの影は身動きが取れずにいた。予測不能な炎の動きに行く手を阻まれているのだ。公恵と思われる小さな影はぐったりとして、自分の意志で動く気配がない。
「敏明、逃げて」
希梨花が叫んだ。もし間に合わないなら、公恵を残していくしかない。希梨花は弟のことだけを案じた。
「いいから逃げて」
果たして声は届いているのか、もう一度叫んだ。
弟の方へ手を差し出そうとするのだが、熱風に腕をもぎ取られそうだ。自分は何と無力なのか。弟すら助けることができない。
炎の中、希梨花は孤立した。先に進むことも、後に戻ることもできなくなった。いよいよ死を覚悟した。自分の命と引き替えに、敏明だけは何とか助かって欲しい。
熱風と煙の中で、希梨花の視界はほとんど失われ、意識が遠のき始めた。敏明も私もここで死ぬのか。
次の瞬間、身体の横に軽い衝撃が走った。敏明が炎の間を縫って、こちらに飛び込んできたのだ。よかった、少しの安堵が生まれた。敏明だけ逃げてほしい、そうおぼろげに考えた。
しかし敏明はすぐ横で倒れ込んだままだった。煙が立ち込めて、目を開けて確認することができない。
皮膚が溶けていく感覚。何か、弟に言わなければならないのに、声を出すことができない。気を抜けば、身体が宙に浮くような不思議な感覚がする。
「姉ちゃん」
希梨花はどこか遠くで敏明の声を聞いた。ほっとした。敏明は無事だったのだ。よかった。こんな地獄の中にも神様がいるのか、信じられない気分だった。
それも束の間、飴のようにねじ曲がったカーテンレールが、まるで生き物のように希梨花に襲いかかった。予期せぬ出来事に、彼女に為す術はなかった。沸騰寸前まで熱せられたそのレールは、烙印のように彼女の喉元を押しつけた。
希梨花はたまらず悲鳴を上げた。この世のものとは思えぬ苦痛。呼吸ができない。どうせなら楽に死なせてくれ。この修羅場の中で、それを上回る仕打ちがあったとは。
もう自分の力で身体を動かすことはできなかった。このままここで死ぬのか、と朦朧とした頭で考えた。
ところが、次の瞬間、身体が自分の意志とは無関係に動き始めた。まさに天の力だった。足が強引に引っ張られていく。
何かに頭を強く打ちつけた。遠くで無数の大人の声がする。この先何があるのか、考える間もなく意識がかすんでいった。
4
目覚めたのは、白いシーツの上であった。
周りに人の気配はない。静かな空間に、一人身を置いていた。今ようやく、自分は病院のベッドに横たわっていることを知った。
命は助かったのだ。
あの地獄から生還できたのか。にわかには信じられなかった。本当はあの時私は死んでしまって、今は別人の身体となってここにいるような気がした。
あの火事の中、私は無力だった。そんな私を助けられるのは神様でしかない、本気でそう考えた。
自然と涙が生まれて、頬を伝って流れ落ちた。
一体、どのくらい眠っていたのだろう。
ふっと、敏明のことに思いが至った。弟は大丈夫だったのだろうか。
希梨花は上半身を起こそうとして、突然頭の芯から電気が流れるような衝撃を感じた。途端に身体を動かす気が削がれる。
頭部に触れると、包帯が幾重にも巻かれていた。
意識が完全に戻ると、同時に身体のあちこちから痛みが息を吹き返した。肩から手足にかけて、全てに鉛のような倦怠感が宿っている。痛みとかゆみが身体全体に訴えかけてきた。
さっきから、呼吸をする度に何か引っかかるものを感じていた。今、その理由が分かった。あごの下から喉にかけて、皮膚に違和感があるのだ。何だか喉が異常に膨れ上がっている。
わずかに顔を起こすと、あごから胸の上あたりまで大げさな処置がしてあるのが分かる。皮膚が突っ張る感じはこのせいか。外からは確認できないが、湿布のようなものが貼り付けてあるようだ。上から軽く押さえるだけで、身体全体を麻痺させるに十分な痛みが返ってくる。
時が経てば、この苦痛から、きれいさっぱり解放されるのだろうか。それとも一生このままベッドの上で生活することになるのだろうか。そんなことを一人病室の中で考えた。
そうだ、敏明はどうなったのだろうか。
再び思いが巡ってきた。まさか、死んだのではあるまい。神様は姉だけを助けて、弟を放っておくはずがない。必ず敏明の命も救ってくれているはずだ。
しかし、もしそうであるなら、どうしてこの場にいないのだろうか。希梨花は恐ろしい想像をして身体が震えた。また涙が出た。
敏明は、あの炎の中、自分の力で私の傍までやって来た。その時確かに生きていたのだ。しかしその後のことが思い出せない。隣にいながら、彼が息をしていたのかどうかさえも分からないのだ。
そう言えば、早矢仕公恵はどうなったのだろう。
炎の中で、敏明と公恵の姿が浮かび上がっていた。あの時、彼女の身体はぐったりとしていた。だから敏明は連れ出すのに苦労していたのだろう。もう既に手遅れだったということか。
火事を出したのは、姫島家である。もし公恵が亡くなったとすれば、それは姫島家のせいに他ならない。彼女を殺したのは、この姫島家ということになる。
もしそんなことになったら、一体どう責任をとればよいのか。希梨花はそう考えると、いてもたってもいられなかった。早く事実を受け止めたいと思った。
神様、どうか敏明と公恵の命を救っていてください、希梨花は何度も祈った。
公恵を案じていると、いつしか拓磨の顔が浮かんだ。もし公恵が死んでいたら、孫の拓磨は私に何と言うだろうか。
どう考えてみても、姫島家と早矢仕家はこの先、今まで通りの関係を続けられない気がした。私と拓磨の関係もそうなるであろう。
身体全体の痛みと一人戦いながら、希梨花の目には涙が溢れて止まらなかった。