第3章 創作ダンス
1
窓の外は雨が降っている。昨日からずっとこの調子だ。来週はいよいよ体育祭である。そのため午後の体育は、その練習に当てられていた。この天候ではグランドが使えないから、男子と合同で体育館を使うことになりそうだ。
(拓磨と鉢合わせになったらどうしよう)
希梨花の心配は徐々に大きくなってくる。
女子は創作ダンスの練習をすることになっているが、自分の下手な踊りを拓磨に見られてしまわないだろうか。何とか、回避する方法はないものか。かといって、まさかズル休みをするわけにもいかない。
希梨花は恨めしげに、もう一度空を見上げた。相変わらず、雨粒はさっきと同じ調子で落ちている。
拓磨と勉強をするようになってから、もう三日が経っていた。彼とは毎日、指宿の図書館に通っている。やりたいはずのサッカーを我慢して、よく続くものだと希梨花は感心する。
最近、拓磨と一緒にいることにすっかり慣れてしまった。他人の目も声も、もう気にはならない。そんなことより拓磨の勉強が、テストに間に合うかどうかの方が心配であった。なにしろ、彼にはサッカーがかかっている。何としてもそれを続けさせてあげたかった。
最近日々の生活の中で、拓磨のことばかりが何度も脳裏をかすめる。かつてこれほど一人の異性のことを気に掛けたことはなかった。
「お昼、食べよ」
チャイムが鳴っていた。いつしか友達の遥佳が希梨花の傍まで来ていた。手には小さいお弁当箱を抱えている。
彼女は、学業は程ほどに、そして運動も人並み以上にこなせる、言ってみればバランスのとれた人間である。希梨花は、そんな遥佳のことを時々羨ましく感じていた。
「キリカ、最近早矢仕拓磨と付き合っているって、本当なの?」
遥佳が周囲に注意して、声を落として訊いた。毎日、二人で図書館に通っていることが、すでにクラス中に知れ渡っているのだ、と思った。
「付き合ってなんていないわよ。ただ家が近所だし、勉強を教えてくれって言うから」
遥佳にだけは、本当のことを言うことにした。
「え、じゃあ、彼の方からキリカを誘ったわけ?」
「しー。声が大きいよ」
「あ、ごめんごめん。でもさ、誘ってきたってことは、キリカに気があるってことでしょ?」
遥佳は興味津々といった感じだ。
「そんなわけ、ないじゃない」
あっさり否定してみたものの、本当はどうなのだろうかという気持ちが心のどこかにはあった。
「それで、キリカの方はどうなの?」
「なにが?」
「早矢仕拓磨のことをどう思っているか、ってこと」
「別に。勉強で分からないところを教えているだけよ」
「ふうん」
遥佳はまだこの話題を続けて、何とか本音を聞き出そうと思っているようだったが、希梨花の方から話題を変えた。
「ハルカはいいわよね。運動神経いいから」
「ああ、体育祭のこと?」
「そう。私には、ユウウツだわ」
「あいつにいいところを見せられないから?」
「彼のことは、もういいの」
「でも、あいつ、スポーツ万能だから、キリカとは正反対なのよね」
何気ない遥佳の言葉が、希梨花の心を突き刺さした。
やはり客観的に見てもそうなのだ。希梨花は無残にも現実を突きつけられた。拓磨がこんな自分を好きになるはずがない、か。
「そうよ。だから早矢仕君の話題はもういいから」
希梨花は自分の心とは裏腹に、憮然とした態度でそう言った。
体育祭は奇数組と偶数組で団が分かれている。そのため、午後は、一組と三組の女子が体育館で合同授業になる。そして三組には、拓磨がいる。
希梨花は遥佳と一緒に体操服に着替えて集合した。
体育館の半分は、思った通り男子に占領されていた。あの中には、拓磨もいるはずだ。希梨花は少し緊張する。
女子はクラス別に三列に並び、創作ダンスの練習を開始した。振り付けは体育委員の主導で決めたものである。体育祭は生徒主体の行事なので、教師があれこれ指示することはない。
プレーヤーから軽快な音楽が流れ出す。希梨花はみんなについていくのが精一杯であった。みんなのようにしなやかに踊れない。どうやってもギクシャクした動きになっていることは、自分でも感づいていた。
「姫島さん!」
リハーサルを何度かやったところで、体育委員の有馬紗絵がヒステリックに叫んだ。音楽を止めてからのその声は、体育館の高い天井に届くぐらいに響き渡った。
みんなの視線が一斉に希梨花に向けられた。
「姫島さん、横の人と動きを合わせるようにしてください。あなたの動きが遅いので、その列だけ見た目がとても悪くなってます」
紗絵は眼光鋭く注意した。
「すみません」
希梨花は頭を下げた。恥ずかしさで身体が萎縮する。
「それじゃ、もう一度三列目だけ、お願いします」
希梨花の列の女子だけが全員立たされた。希梨花は自分のせいで、みんなに迷惑をかけていることを辛く感じた。
さっきと同じ音楽が流れ出す。
希梨花は遅れをとらないように、少し早めに動きをつけた。しかしそれはそれで隣の人と合わなくなってしまうのだ。
「ストップ、ストップ」
紗絵が両手を大きく振って、ダンスを遮った。
希梨花は心臓が止まるほど驚いた。
「さっきよりもダメ。ちょっと、姫島さんだけ踊ってもらえませんか」
紗絵は希梨花を残して、その列を全員座らせた。
女子全員が見守る中、希梨花と紗絵が対峙していた。そのただならぬ雰囲気に、おそらく男子の一部も注視しているようだった。しかし希梨花自身は、気が動転していて、そんなことを気にかける余裕などなかった。視線を白い上履きシューズに落として、いかにこの場を凌げるか、ただそれだけを考えていた。
再び音楽が始まる。希梨花はリズムに合わせて、慎重に踊る。しかし失敗しないように、遅れないようにすればするほど、その動きは自然ではなくなっていく。それを修正するのに気を取られると、またリズムに置いていかれるのだ。できることなら、この言うこと聞かない身体を置き去りにして、魂だけどこかへ逃げてしまいたい、と希梨花は本気で考えた。
どこか女子の一部から、小さな笑い声が起きた。
「姫島さん、もっとリズムよく」
紗絵が音楽を突然止めて、怒るような口調で言った。
体育の喜村先生が、スチールの椅子から立ち上がった。
「有馬さん、ちょっと言い過ぎですよ。姫島さんも彼女なりに頑張っているのだから」
紗絵はそんな先生の言葉に耳を貸す様子もなく、希梨花に向かって、
「放課後、個人レッスンをしてもらいます。これではせっかくのクラス演技が、まとまらなくなりますから」
と吐き捨てるように言った。
「はい、分かりました」
希梨花は顔から火が出るほど、恥ずかしかった。責任感が人一倍強い彼女は、クラスのみんなに迷惑をかけているということが最も辛かった。この時ばかりは、拓磨のことなど頭から消えてしまっていた。
長く感じられた体育の授業がようやく終わった。創作ダンス以外にも、大縄飛びやリレーのバトン受け渡しの練習が行われた。希梨花は最初の創作ダンスで完全に萎縮してしまい、その後は何をどうやったのかまるで覚えていなかった。
体育館から更衣室に向かう際に、クラスメートの何人かが希梨花の傍までやって来て、
「あんまり気にしないで」
「全然、問題ないからね」
「放課後、練習付き合うね」
などと声を掛けてくれたのが、せめてもの救いだった。
遥佳が希梨花の後ろを小走りに追いかけてきた。
「おつかれさま。しかし、有馬のあの態度、どう?」
「仕方ないよ。私がヘタなんだから」
希梨花は正直に言った。何も取り繕う言葉はなかった。
遥佳はそんな希梨花を手で制すると、その場に立ち止まらせた。周りにいた他クラスの女子たちが二人を追い越していく。今廊下には、希梨花と遥佳の二人だけしかいなくなった。
慎重に辺りを見回してから、遥佳が口を開く。
「有馬、あいつ、わざとキリカに辛く当たったのよ」
「えっ、どうして?」
「あいつ早矢仕拓磨のことが好きなのよ。だから拓磨の前で、キリカに恥をかかせようとしてやったに決まってる」
「まさか」
希梨花は有馬紗絵のことはよく知らないが、確かに何度か拓磨の傍にいるのを見たことがある。しかしたとえそうだとしても、今回の件では紗絵の言っていることは正しい。希梨花は反論する立場にない。
そういえば、拓磨のことをすっかり忘れていた。彼は体育館で私一人が怒られているところを見た筈である。果たしてどう思っただろうか。
しまった、と突然身体に電撃が走った。放課後、ダンスの練習をしていたら、拓磨に勉強を教えてやれないではないか。みっともない上に、彼との約束も果たせなくなった。希梨花はさすがに自己嫌悪を覚えた。
2
放課後。希梨花はホームルームが終わると、廊下を小走りに拓磨の元へ向かった。ちょうど三組も今、ホームルームが終わったばかりである。教室の扉が開かれて、生徒たちが一斉に吐き出される。その中から拓磨の姿を探した。
学生鞄を背中に回して、拓磨がのんびりと出てきた。背が高いだけに見つけるのは容易だった。
すぐさま駆け寄ると、
「早矢仕君、今日は私、用事があるから、ごめんね」
早口でそう言った。
「ああ、例の放課後練習か」
拓磨は希梨花を見下ろして、軽い調子で言った。
体育館での出来事を、やはり拓磨は知っていたのだ。自分の力ではどうすることもできなくて、もがき苦しんでいたあの時間、彼はずっと見ていたのだ。恥ずかしさと情けなさが同居する複雑な感情が噴き出した。それは一気に身体全体を支配する。身体が猛烈に熱を帯びていた。
「しょうがないから、俺も一緒に踊ってやろうか?」
拓磨は無神経に笑って言った。私の心を、拓磨は何とあっさり傷つけてしまうのかと、希梨花は身震いした。まるで小さな硝子細工を、乱暴にもて遊ぶ子供のようだ。三日間一緒に過ごした拓磨は、まるで私の気持ちを理解していなかった。いや、たった三日だから、無理なのか。
そんな言葉を吐いた拓磨にではなく、自分自身に対して希梨花は腹を立てていた。私は拓磨にまるでふさわしくない相手だ。彼と対等に付き合う資格などない。昼に遥佳が言っていた通りだ。
今度ばかりは拓磨も愛想を尽かしているに違いない。彼は私のことを少しぐらいは理解していると、心のどこかで妄想を抱いていた。決してそんなはずがないのに。
「結構です」
希梨花は爆発しそうな気持ちを押し殺して、無表情に言った。もはや冷静に拓磨の顔は見られなかった。
希梨花は踵を返して、廊下をずんずんと歩いた。一度も後ろは振り返らなかった。拓磨に対してではなく、自分自身に嫌気がさしていた。やり場のない怒り。拓磨から何らかの理解を得られるとでも思っていた自分。彼に何を求めるというのか。彼が自分に優しい言葉の一つでも掛けてくれるとでも思ったのか。自分勝手な妄想と現実との狭間で、希梨花は自分がひどくつまらない人間に思えた。
その後、体操服に着替えて、一人体育館に向かった。有馬紗絵は制服姿のまま、友達数人とやって来た。体育顧問の喜村先生も顔を出した。これで役者は揃ったようだった。体育館を日頃占領しているバスケット部員らが一体何が始まるのかと、こちらに注目している。
「それじゃあ、姫島さん。パート毎に区切って練習しましょうか」
紗絵はさっきとは一変して、優しく言った。
お馴染みの音楽が流れてくる。もう拓磨のことは気にしなくていいのだ、そう思うと心が平穏を取り戻していた。不思議と身体が滑らかに動いた。今までで一番うまくできたようだった。
「やればできるじゃない」
紗絵は満足そうに言った。
しばらくして、遥佳を筆頭にクラスメートが数人応援に駆けつけた。
「私たちも練習に付き合うわ」
そう遥佳が言ってくれた。希梨花は涙が出るほど嬉しかった。
三十分ほど練習したところで、喜村先生が、
「これだけできれば、いいんじゃないかしら」
と紗絵に言った。
「そうですね」
紗絵も素直に応じた。
「それにしても、姫島さん。よく頑張ったわね」
喜村先生が希梨花の傍に来て、褒めてくれた。
「それじゃあ、キリカ、一緒に帰ろうよ」
遥佳がそう言って、希梨花の手を引いた。
体育館の出入口からはグランドが垣間見える。いつの間にか、雨は上がっているようだった。開口部から体育館を覗き込む男子生徒が何人もいた。その中に拓磨の姿を、希梨花は見逃さなかった。いつから見ていたのだろう。希梨花は気づかぬ振りをして、さっさと通過した。
「キリカ、上手になったね」
更衣室で制服に着替えながら、遥佳が言う。これで、みんなに迷惑をかけずに済むと思うと、素直に嬉しかった。
「ありがとう」
「あんまり気にすることないからね。有馬紗絵のこと」
「気にしてないわ。だって、有馬さん、わざわざ放課後まで私に付き合ってくれたんだし」
「キリカは全然分かってないのね。あいつ、さっきは早矢仕が見てたから、優しくしていただけよ」
そうだったのか。希梨花はそこまで思いが至らなかった。
「でも、キリカは早矢仕拓磨のこと、別に何とも思ってないんだから、あいつの一人相撲よね。馬鹿みたいじゃない」
そう言うと遥佳は快活に笑った。しかし希梨花は黙っていた。
「何か食べに行こうよ。お腹減った」
遥佳は、希梨花の様子に気づくこともなく、立て続けに言った。
「そうね」
帰り支度をして下駄箱まで来ると、拓磨がじっとこちらを見て立っていた。
(ずっと私のことを待っていたのか)
希梨花は軽く会釈をして、遥佳の手を引くと、彼の目の前を通り抜けた。
「姫島」
拓磨が呼ぶ。
「ごめんなさい。今日はこの子と約束があるから」
ろくに拓磨の顔を見ずに返した。
遥佳はびっくりしたように目を見開く。
「分かった。じゃあ、また明日」
拓磨は希梨花の背中でそれだけ言うと、グランドに帰っていった。
「キリカ、いいの?」
遥佳が心配そうに訊く。
希梨花は、ますます自分が嫌になった。今度はわざと拓磨と距離を置いて、逆に彼の気を惹こうとしたのか。切り札もないくせに、ただ駆け引きだけで、何かを得ようとしているようだった。自分がひどくちっぽけな人間に思えてきた。
二人は指宿までやって来た。遥佳の家は市内にある。仲良く駅前の喫茶店に入った。
遥佳はいろいろな話をしてくれたが、希梨花はろくに聞いていなかった。適当に相づちを打ってはいたが、どうしても拓磨のことが頭から離れなかった。
拓磨と私はまるで性格が異なる。それを強引に結びつけようとしていなかったか。彼は全然悪くない。悪いのは私の方だ。今日だって遅くなったかもしれないが、一緒に勉強はできたはずである。つまらない意地を張って、拓磨に迷惑をかけているのは、この私ではないのか。今日一日はどこで間違ってしまったのだろう。できることなら、もう一度朝からやり直したい気分だった。
遥佳と別れて、駅に戻った。列車の時間まではまだ少しあったので、一人図書館の方へ歩き出した。毎日拓磨と通っている図書館がすぐに見えてきた。今日、隣に拓磨はいない。もしやと思い、建物に入ってみた。いつもの場所に拓磨を探してみる。しかし、彼の姿があるはずもなかった。
一人列車に乗って帰る。いつもの車内でも、隣にいるはずの拓磨はいない。心に何か満たされないものを感じた。駅を出て、一人坂道を上る。じわじわと寂しさがこみ上げてきた。
誰もいない静かな境内まで辿り着くと、何故だか涙が出た。やはり、明日拓磨に謝ろうと思う。彼とは勉強を一緒にする約束をしたのだ。その約束を破るわけにはいかない。彼が大好きなサッカーを続けていくために、私は彼にとって必要なのだ。ただそれだけで構わない。明日、一番に彼に謝ろうと思う。二人の関係が元に戻るかどうか自信はないけれど、そう心に決めた。
3
次の日、いつもより一時間早く家を出た。この時間なら、朝練をしている拓磨と同じ列車に乗れると考えたからだ。彼と駅で出会える確率は高かった。
神社を横切り、小さな林を抜けて、ゆるやかな坂を下っていった。希梨花は落ち着きなく、周りを見回してみたが、拓磨の姿はなかった。とうとう駅が見えてきた。家から駅までは一本道だから、これまで出会えなかったということは、拓磨はすでに駅に居るのだろう。
しかし会ったら会ったで、どう接したらよいのだろうか。いきなりいつものように声を掛けるのは、さすがに不自然だろう。何よりもまずは謝るべきだと思う。しかしその次にどうするかは、まるで頭になかった。
ホームに上がってみた。いつもと違って、利用客の数は少なかった。端から端まで見渡しても、拓磨の姿はどこにもなかった。ひょっとして今日は朝練がないのだろうか。
そうこうするうちに、列車が来てしまった。乗っていくか、それともここで待つか。拓磨が朝練をサボって、遅くに家を出てくるはずがない。やはりすでに学校に着いているのだろう。希梨花はためらうことなく、列車に乗り込んだ。
この時間、まだ車内は混雑していない。めずらしく座席に座ることができた。海が朝日を反射して、きらきらと光っていた。
希梨花は学校までの道をやや急ぎ足で歩いた。校門を抜けると、グランドに直行した。
やはりサッカー部は朝練を開始していた。部員はみな、朝から機敏な動きで、グランドを縦横無尽に走り廻っている。その中から拓磨の姿を探した。しかしここでも彼の姿を見つけることはできなかった。
今日は体調でも悪くて休んだのだろうか。まさか、昨日のことを気にして休むとも思えない。いずれにせよ、拓磨は今朝の朝練に参加しなかったことは事実である。
校庭にしばらく立っていたが、仕方なく、静まりかえった校舎に入った。セミが我が物顔で鳴いている。その声は、誰もいない廊下にも響いていた。今日も残暑の厳しい一日になりそうである。
希梨花は、自分は初めて拓磨を追いかけていると思った。どうしてだろう、こんなに拓磨のことが気になるなんて。
教室の扉を開けても、予想通り、まだ誰も来ていなかった。始業まではまだ一時間もあるのだ。当然と言えば、当然だった。
希梨花は机に鞄を置くと、すぐに廊下に引き返し、三組の教室も覗いてみた。机と椅子だけが整然と並べられているだけの教室には、誰の姿もなかった。半ば諦めて、廊下の窓からグランドを見下ろした。いくら目を凝らしても、その中に拓磨の姿を見い出すことはできなかった。
彼は今日学校を休んだのだ。そうでもなければ、彼がサッカーの練習を休むはずがない。それで間違いない。
希梨花は、教室の窓際に置かれた花の鉢に水をやって、机の上に教科書を広げた。拓磨とはなかなかうまくいかないものだな、と苦笑した。せっかく素直な気持ちになれたというのに、今度はそれを伝える相手が現れない。これも神様のいたずらなのか。おそらく世界の至るところで、こういったすれ違いがどれだけ起きていることか。そうして、恋人になれるはずの二人が、結ばれることなく別れていくのだ。
放課後、希梨花は帰る支度をして、下駄箱まで歩いていった。結局、これで二日連続、拓磨とは勉強できなかった。
上履きを履き替えて、外に出た。すると、校門の木陰の辺りに、例のサッカー部の後輩が立っているのが見えた。
希梨花は思わず駆け出していた。
「姫島先輩」
彼も気がついて叫んだ。
「早矢仕君は?」
「はい、ただいま呼んできます」
そう言うと、彼は希梨花を残して走り出した。
(なんだ、ちゃんと学校に来てたのか。それなら姿を見せてくれてもいいのに)
確かに門柱の前には、いつもと同じように拓磨のものと思われる鞄一式が置いてあった。
希梨花は胸を撫で下ろした。これで以前の関係が修復できそうな予感がした。拓磨に会ったらまずは謝っておこうと、心の準備を整えた。
「よう、待ったか」
希梨花の傍まで拓磨が走ってきた。今日もサッカーの練習着のままである。かすかに汗の臭いがした。
「昨日は、ごめんなさい」
希梨花は口を開いた。
「え? 何のことだい?」
拓磨は不思議そうに訊いた。
「いいの。とにかくごめんなさい」
もう一度そう言って、希梨花はペコリと頭を下げた。
拓磨はもうそれ以上重ねて訊いてはこなかった。彼のそんなあっさりした性格が、今はありがたかった。
「今日はどうするの?」
希梨花が訊く。
「もちろん、行くよ」
いつもの拓磨だった。希梨花は安心した。彼との関係は思った通り、以前のままだった。本当によかった。神様に感謝した。
「ところで、どうして今日は朝練を休んだの?」
希梨花は歩きながら、拓磨の顔を見上げて訊いた。
「何で、姫島がそんなこと知っているんだよ」
拓磨は驚いた表情で言う。
「だって、私、今朝は早く来たんだから」
「どうして?」
そう突っ込まれると、返答に窮した。
「い、いいじゃない。別に」
今日も二時間みっちり勉強して、二人は帰途についた。神社の境内で以前と同じように別れた。
「ただいま」
希梨花は玄関から台所に向かう。
敏明が母親と何か話し込んでいるところだった。
「おかえり」
二人が声を重ねた。
それからすぐ、敏明が思い出したように、
「姉ちゃん、今朝、拓磨先輩が境内で待ってたぞ」
と言った。
一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
「私を?」
思わずそう声に出していた。
「だって、姉ちゃんはどうしたって訊いてきたから」
そうだったのか。希梨花は朝の不思議な出来事に今、合点がいった。拓磨は朝練を休んで、一時間遅く出る私を境内で待っていてくれたのだ。しまったと思った。
拓磨は私に話があったのだろう。昨日のことである。そうだったのか。お互いが気を遣って、互い違いになったというわけだ。
「あなた最近、拓磨君と一緒に学校行っているの?」
栄美の声で、現実に引き戻された。
「違うわよ。何か学校の用事でもあったのかしら」
希梨花はそう言ってごまかした。
栄美は、「ふうん」と鼻を鳴らした。
二階の自分の部屋へ入ると、希梨花は制服も着替えずに机に座った。こちらから電話をした方がいいだろうか。今朝は待っていてくれてありがとう、それでご用件は何でしたか、と。それで拓磨の口からどんな言葉が出るのか、ちょっと試してみたい気がした。
しかし拓磨のことだ。適当にはぐらかすに決まっている。それに、結果はすれ違いに終わってしまったが、二人が同じことを考えて、同じ行動をそれぞれしていたことが、希梨花にはおかしくてたまらなかった。
この件はこれ以上蒸し返さずに、そっとしておこうと思う。今日は拓磨のやさしい気持ちに触れることができて、希梨花は小さな幸せを感じていた。
4
会議室では、委員会が開かれていた。時が経つのは早いと思う。この一週間は、拓磨と一緒に過ごしてきたせいか、あっという間だった気がする。
今日の希梨花は、体育委員長の拓磨を意識しないではいられなかった。彼と目が合うと、どうしても口元が緩んでしまう。それを他人に悟られないようにするのに必死だった。
みんなの知らない所で、男女が二人だけの秘密を共有するのは、日頃味わえないスリルがある。
拓磨がどう思っているかは分からないが、希梨花にとって、彼は大切な人になりつつある。こんな会議の場でも、彼を意識せずにはいられなかった。
拓磨は前回と同じ調子で意見を述べた。生徒会主催の競技を、時間を割いて一度事前にチェックしておくべきだと主張した。
他にも様々な議題が山積していて、それは多数決に委ねられる議題の一つとなった。
「事前のリハーサルに賛成の方は、挙手をお願いします」
静かな会議室に書記の声だけが響き渡った。
もちろん、拓磨はまっすぐ手を挙げていた。他に何人かの手が挙がった。女子は全員が賛成していた。希梨花もやや間を置いてから、小さく手を挙げた。
拓磨に気に入られようと、賛成した訳ではない。体育祭を成功させるために必要な準備だと、希梨花自身が判断したのだ。今まで人任せにしていた体育祭の運営に、希梨花は積極的に関わろうとしていた。
「では、反対の方は挙手を」
こちらの数は圧倒的に多かった。特に三年男子は、全員の手が挙っていた。
書記はそれを確認すると、
「事前のリハーサルは不必要とします」
と宣言した。
司会の希梨花は、すぐに小さく手を挙げて、
「提案ですが、時間の取れる、有志の方だけでリハーサルを行うのはどうでしょうか?」
と参加者を見渡して言った。一種の妥協案である。希梨花はこれまでにも、こういった中立的な舵取りを何度かしてきた。会議で意見が分かれるような場合は、両者をうまく調整しておく方が、後々後悔しなくて済む。これは希梨花が経験から学んだ、生徒会を円滑に運営する方法であった。
参加者から小さな拍手が沸き起こった。
希梨花は、拓磨の顔にちらりと目をやった。彼は不満そうな顔をしていた。
会議が終わって、委員たちが部屋を出て行く。希梨花はそんな彼らをよそに、黒板を消し、書類をまとめて後片付けをした。その間、拓磨は自分の椅子に座ったままでいた。
全員が出て行くと、会議室には、希梨花と拓磨の二人だけが残された。
「早矢仕君、会議は終わりました」
希梨花は司会者の口調で言った。
「分かってます」
拓磨は微動だにせず、そう答えた。
「では、どうしてそこに座り続けているのですか?」
希梨花も顔の表情を一切変えずに、畳みかけた。
「それは、納得いかないからです」
拓磨は希梨花の方を向かずに答えた。
希梨花はにらめっこに負けたように、吹き出してしまった。
「多数決だから仕方ないわ。賛同者だけでやればいいじゃない」
「そういうのは嫌いです」
拓磨は一本調子で言った。
彼には頑固なところがある。正しいと思ったことが通らないのが、我慢ならないといった感じであった。
「さあ、駄々をこねてないで、もう帰りましょ」
希梨花は拓磨に近寄ると、まるで幼い子の母親のように言った。
その日も家とは反対の列車に乗って、図書館へ向かった。体育祭が徐々に近づいてきたのは気が重いが、こうして拓磨と一緒にいると、そんな気持ちも薄らぐ気がする。
指宿駅を出て、図書館へ向かう途中で、拓磨が話し始めた。
「姫島、今日はちょっと早く切り上げないか?」
「えっ?」
せっかく今まで頑張ってきたというのに、いよいよ勉強に飽きてきたのだろうか。少し根を詰めすぎたか。
「毎日、姫島に世話になっているから、そのお礼がしたくてさ」
拓磨はやや照れたように言う。
「ううん、いいのよ、そんな気を遣わなくても」
希梨花は、すかさずそう言ったが、そんな彼の言葉が素直に嬉しかった。
「そう遠慮するなって。姫島にずっと迷惑かけているのが、どうも嫌なんだ」
そんな気持ちでいたことが、希梨花にはちょっと意外だった。
「別に迷惑とは思ってないわ。いつも帰りにジュースを奢ってくれるじゃない。それで十分よ」
「いや、そんなものじゃなくってさ」
拓磨の意志は固そうだ。それにサッカーがお預けで、ストレスを感じ始めているのかもしれない。それなら彼の息抜きも必要ではないかと思った。
「分かったわ」
それに拓磨とは、勉強抜きで付き合ってみたい気もする。希梨花は彼の提案に従うことにした。
二人は、一時間ほどで勉強を終えて、図書館を後にした。
「さてと」
拓磨は体操着の裾を手で引っ張るような仕草を盛んにしている。
「それで、これからどうするの?」
希梨花は拓磨を見上げた。彼にしてはめずらしく落ち着かない様子である。
「姫島、何か欲しいものあるか?」
「えっ?」
突然、そう言われてびっくりした。
「実はさ、姫島に勉強教えてもらってる、ってオフクロに話したら、何かお礼をしなさいって言われてさ」
拓磨はやっと白状した。
「そうなんだ」
希梨花は自然と頬が緩んだ。
「今朝、オフクロからお金貰って、何かプレゼント買って、姫島に渡すように言われたんだ。でも俺、姫島の好きなものが何だか分からないし」
なるほど、そうだったのか。だから拓磨はどこかいつもと違って見えたのか。彼も慣れないことをする時には、緊張するものなのか。
「そもそも俺、女子にプレゼントなんてしたことないから、どんなものを買ったらよいか分からないんだよ」
拓磨は正直に言った。全てをありのままに語ってくれる彼に、希梨花は好感を持った。
「でも、早矢仕君、女の子にモテるから、大体分かるんじゃないの?」
希梨花は意地悪く訊く。
「俺、サッカー一筋だから、そういうの興味ないんだよ。女子と付き合うのはどうも苦手なんだ」
拓磨の知らない一面を垣間見た気がした。
「だから、姫島の欲しいもの、何か言えよ」
拓磨はこれからプレゼントを渡そうという相手に、随分と偉そうな口調で言う。それが何だか滑稽だった。
「なあ、笑ってないで、好きなもの早く言ってくれ」
そして突然、
「そうだ。この金やるから、何か好きなもの自由に買ってくれ」
「だめよ、そんなの」
希梨花は即座に言った。
「そうだよな。それじゃまるで姫島にバイト代払っているみたいだしな」
拓磨は面白いことを言う。
「私は何もいらないわ。だからお母さんに言ってよ。お気持だけ受け取りますって」
「え、それはマズいよ。俺が怒られちまう」
「それなら、早矢仕君がそのまま、そのお金貰っちゃうっていうのはどう? 私、黙っていてあげるから」
希梨花は冗談交じりに言った。
「嫌だぜ、そんなの」
拓磨は本当に困っているようだった。
そんな様子を散々楽しんでから、
「それじゃあ、あそこで売っているソフトクリーム、二つお願い」
と駅の方を指さして言った。
「ソフトクリーム? そんな物でいいのか?」
「うん」
「じゃあ、ちょっとここで待ってろ。今買ってくる」
拓磨はそう言い残して、駅の方へ駆けていった。
図書館の横は、ちょっとした公園になっている。その中の木製ベンチに、希梨花は腰を下ろした。公園内は犬を散歩させる人や、ふざけて芝生を走り回る幼児と、それを見守る母親がいた。
拓磨は隠し事ができない性格なのだと思う。彼はどんなことも包み隠さず人に話す。変な小細工はしない。その結果、たとえ人とぶつかったり、別れることになっても、彼にとっては全てを受け入れる準備があるのだろう。
一方、私はその反対だと思う。私は思っていることをそのまま人に表現するのが苦手である。いや、苦手と言うよりも、自分や相手が傷つくことを恐れているのだと思う。自分の予期しない結果になるのが怖くて、全てを自分の中に溜め込んでいる。
そうか、それではいつまでたっても、お互いに本当の理解はやって来ないではないか。
公園内の歩道に、軽やかな乾いた足音が近づいてきた。顔を上げると、拓磨が立っていた。両手にはソフトクリームが収まっていた。
「しかしお前、二個も食うのか? そんなに食うと太るぞ」
「二個も食べるわけないでしょ」
希梨花はふざけた調子で、彼の太ももを軽く叩いた。サッカーをやっているせいか、筋肉に覆われてプラスチックのように固い足に、ちょっとびっくりした。
「一つは、早矢仕君どうぞ」
「おお、そうか。ありがとう」
そう大げさに言って、拓磨もベンチに腰掛けた。
「それで、他にほしいものは?」
拓磨は急かすように訊いた。
希梨花はソフトクリームを受け取ってから、
「今度のテストで賭けをしたでしょ。私が勝ったら、その時何かを買ってもらうわ。それまで待っててくれる?」
「そうか、そうだったな。じゃあ、その時までこの金はとっておくよ」
拓磨は不安が解消したのか、いつもの顔に戻った。
「しかし、ちょっと待てよ。その賭けで、俺が勝っちまったらどうなるの?」
「大丈夫よ、私、絶対に負けないから」
希梨花は笑って答えた。
通りから一筋奥に入ったこの公園では、町の喧噪が嘘のように消えていた。時折吹く風が樹木を揺らし、葉と葉が擦れる音がする。それ以外は何も聞こえてこなかった。静かな時間は二人を包み込み、ゆったりと流れていく。
「早矢仕君、以前私のことを悩みがなくていいな、って言ってたわよね」
「そうだったっけ?」
「言ったわ。でもね、私、悩みだらけなのよ。悩みのカタマリ」
「そうか? そうは見えないけど」
拓磨は早々とソフトクリームを食べ終わった。
「分かった。もっと背丈がほしいとか?」
「失礼ね。そんなんじゃないわよ」
希梨花は真面目な顔になって、
「早矢仕君も知っていると思うけど、私、運動が全然ダメなの。だから今度の体育祭なんて、本当は嫌なんだ。創作ダンスだって、全然みんなに付いていけなくて」
拓磨は茶化すことなく、黙って聞いてくれていた。
「早矢仕君はスポーツ得意だから何とも思わないでしょ。でも苦手な私にとっては、死活問題」
希梨花はなぜか拓磨にだけは、心中を打ち明ける気になっていた。どうしてだろう。彼には何も隠してはいけないんだ、そう思えた。
二人の目の前を今、子供たちの乗った自転車がベルを鳴らしながら通過していった。
「悩みってそれか?」
拓磨はそう言った。
「ええ、そうよ」
「それで、姫島はどうなりたいんだ?」
「えっ?」
質問の意味が分からなかった。それでしばらく沈黙していると、拓磨はゆっくりと言葉をつけ足した。
「だから、どうなったら、その悩みはなくなるんだ、って訊いてるんだ」
「うん、だからそれは、運動が人並みにできるようになれば、かな?」
「そんなの、姫島希梨花じゃなくなっちまう」
「えっ?」
希梨花は短くそんな声しか出せなかった。
二人に沈黙が生まれた。拓磨の言葉の意味がさっぱり分からなかった。彼は私に何を伝えたいのだろうか。希梨花はしばし拓磨の言った台詞を心の中で繰り返してみた。でも意味が見えてこない。
「つまり」
「それって」
二人の口から同時に言葉が発せられ、重なる。お互いが口を閉じて、相手に言葉を譲った。
「つまり、姫島希梨花は、姫島希梨花だから、それでいいってこと」
希梨花は自分の言葉を引っ込めて、ただ黙って聞いていた。拓磨は続ける。
「何で、他人と一緒になろうとするんだ? 運動ができない姫島は、そのままできなくていいじゃないか」
訳の分からないことを言う拓磨に、希梨花から笑みがこぼれた。拓磨は言葉を伝えるのが本当に下手だと思う。
「じゃあ、どうすれば私の悩みは解決するの?」
希梨花は意地になって訊いた。
「簡単だよ、悩みと思わなければいいんだ」
拓磨は事も無げに言った。
それができるなら苦労はない。そんな拓磨の言う精神論で乗り越えられるものではない。どれほど私が悩んでいるか、彼には少しも分からないのだ。
「それじゃあ、私はこのままでいい、ってこと?」
希梨花はなおも食い下がった。
「そう。そうと分かったら、ほら何ともないだろ?」
拓磨は両手を空に上げて、万歳するような動作をやって見せた。
「ちょっと待って、でも拓磨君も悩みがあるって言ってわよね。ほら、テストのことで」
「ああ、言ったよ」
「だったら、それも悩まなければ解決ってことになるんじゃない?」
「そうだよ。俺はそもそも勉強のことで、これっぽちも悩んでなんかいないよ。先生の手前、勉強について気にかける振りをしなきゃいけなくて、それが悩みっていうだけさ」
「え?」
「だから、勉強なんて人と同じようにできなきゃならない、とはまったく思ってないんだ。今回サッカーができなくなると嫌だから、不本意ながらやってるだけ。だからそれ自体、まったく悩んでなんかいないよ」
希梨花は呆気にとられてしまった。
つまり拓磨は自分の意志で生きていこうとしているのに、周りの目を気にして、あるいは他人の指図によって生きなければならない、その不甲斐なさに悩んでいるということか。
いや、そんな考え方は自分には無理だ。だって、これだけ運動ができないことで、生徒会の運営や、クラスのみんなに迷惑をかけているではないか。
「確かに拓磨君は人に迷惑をかけていないけれど、私の方はみんなに大迷惑をかけているもの。そんな自分がどうしようもなく惨めで、だから悩んでいるのよ」
「姫島希梨花という人間は、他人にかけてしまった迷惑を、別の形でお返しすることができないのか? そんなことないだろ。お前にはお前のやれることがある。だったらそれでいいんじゃないか。むしろ俺の方が惨めだよ。お前に迷惑ばかりかけて、返してやれるものがないんだから」
そうなんだろうか。なんだか拓磨にうまく丸め込まれているような気がする。拓磨は落ち込んでいる私を励ますために、そう言っているのではないのか。本当にそんな生き方があるというのか。
それにしても、拓磨は私に何も返せないと言ったが、そんなことはないと思う。拓磨はいつも私の曇った心を晴らしてくれる。そして爽やかな風を吹き込んでくれているではないか。
「そうそう、姫島の創作ダンス、楽しみにしてる」
拓磨が優しい目をして言った。
「何よ、それ」
希梨花はちょっと怒ったような声を出した。
「練習して、少しはうまくなったんだろ」
「まあ、ほんのちょっとだけね」
希梨花は恥ずかしそうに言った。
「でも体育祭は憂鬱だな。早矢仕君に格好悪いところを見られたくないもの」
「大丈夫だって。俺、そんな姫島希梨花は好きだから」
拓磨はさらりと言った。
希梨花は弾かれたように顔を上げた。
「さあ、そろそろ帰るか」
拓磨は先にベンチから立ち上がっていた。
5
希梨花は拓磨の少し後ろをついて行った。頭の中は、拓磨のことしかなかった。彼は一体どんなつもりで、あんなことを言ったのだろうか。私を励ますのが目的で、深い意味はなかったのかもしれない。しかしそれでも希梨花は、拓磨を想う気持ちがますます強くなり、小さな身体は今にもはち切れそうだった。もう拓磨の前では、自然体ではいられなかった。
駅を出て、商店街を無言で歩いていると、拓磨が急に立ち止まった。
「あれ、姫島の弟じゃないか?」
数十メートル先の小さな辻に、中学生らしき少年が数人群れているのが見えた。どうやらその中の一人が、みんなにからかわれているような、そんな様子が目に飛び込んできた。
彼らから逃げようと必死にもがいているのは、紛れもなく弟だった。今、敏明は身体を押されるようにして、路地裏に消えた。他の連中も後に続く。
敏明に異変が起きていることは明らかだった。そう思うより先に、拓磨が駆け出していた。希梨花も慌てて後に続く。
「おい、お前ら、何をしてるんだ」
すばやく駆け寄った拓磨が、奥に引っ込んだ一団を一喝した。
希梨花が追いついた時にはもう、三人が一列になって、路地裏から出てくるところだった。みんな伏し目がちに、ふてくされた様子で表に出てきた。そして拓磨と希梨花の横をかすめると、一目散に逃げ出した。
まだ奥には、敏明が残されている。彼は、一瞬安堵の表情を浮かべたが、すぐに姉の存在に気づいたのか、視線を逸らした。
「大丈夫か?」
拓磨が声を掛けた。
「な、何ともないです」
敏明は動揺しているのか、少し言葉を詰まらせた。
「あいつらにいじめられたのか?」
「ち、違います」
希梨花はこれほど怯えた弟の顔を見たことがなかった。目の前の敏明は、自分が知っている敏明とはまるで違っていた。
「失礼します」
敏明は軽く頭を下げると、自宅の方へ駆けていった。
その小さくなっていく背中を見つめていると、
「君の弟、最近変わったことない?」
拓磨が訊いた。
近頃、敏明は無口になった気がしていた。しかしその理由をあまり深くは考えなかった。
「よく分からない。でも昔と違って、あまり自分のことを話さなくなったみたい」
「まあ、男ってのは、中学生にもなると、あまり家族と会話しなくなるけどな」
拓磨は妙に分かったような口ぶりだった。
「どうして?」
「オトコってのは、外で色々あるから、それを逐一家族に報告してたら、余計な心配をかけてしまうだろ?」
「そんなものなの? ただ都合の悪いことを隠してるとかじゃなくて?」
希梨花はそう言ってから、敏明にとって不都合なことがあるとすれば、それは何なのかと考えてみた。弟は生真面目なところがあるから、不良たちからすれば面白くない人物なのかもしれない。確かにそれを家族に説明するのは、面倒でもあるし、いらぬ心配の種を蒔くことにもなるだろう。
「もうちょっと、姉貴として、弟の気持ちを分かってやれよ」
拓磨は偉そうに言った。
希梨花は、今日の事を両親に話すつもりはなかったが、自分にだけは本当のことを明かしてほしいと思った。もし私が手に負えないようなことなら、この隣にいる拓磨に一肌脱いでもらえば、あるいは解決策が見つかるかもしれない。
6
いよいよ体育祭当日。晴天に恵まれ、今日も朝から暑い一日を予感させた。
全校生徒がグランドに整列して、開会式が行われた。希梨花が壇上に上がり、開会宣言をした。
午前中は、大縄飛び、リレーなどを何とかこなし、残るは午後の創作ダンスのみになった。希梨花は競技の合間に拓磨の姿を探したが、彼も体育委員長の仕事が忙しいのか、五分として、同じ場所にはいなかった。到底二人きりになれるチャンスはなかった。
午後になって、二年生女子の創作ダンスの時間が訪れた。
「キリカ、いよいよだね」
隣で遥佳が興奮を抑えきれぬように言う。
「落ち着いていこうね」
「いつも通りにやればいいから」
クラスの仲間が希梨花に声を掛けてくれた。心臓の鼓動が一段と高鳴る。
(拓磨は、どこかで私を見ていてくれるだろうか)
号令の笛が青空に鳴り響いた。この日のために作った赤や黄色の衣装を着た女子全員が、一斉にグランドの中央に並んだ。その姿は実に壮観で、団席の一部からどよめきが起きた。
希梨花の緊張はピークに達していた。次の笛で、いよいよ演技開始だ。
静まりかえったグランドに、前奏が流れ始める。
(姫島希梨花として、できることをやればいいんだ)
さっきまでの緊張は嘘のように消えていた。流れてくる旋律には一つひとつに意味がある。それを自分の身体を駆使して翻訳していく。周りに合わせるのではない。自らが主体となって、音の意味を表現する。そこには自然な躍動が生まれ、それは音楽とともに大空へと昇華していく。旋律は止まることはない。無心になって、全身を動かし続ければよい。
何も恐れるものはない。希梨花の中に自信が湧いた。我が身を頼りに、両手両足に力が入る。いつの間にか、背中に羽根が生えて、一気に空に舞い上がっていた。そこでは全員の一糸乱れぬ姿が見てとれる。それは息を呑むほどに美しかった。
次第に音楽が遠のいていく。それに代わって、観客の拍手が大きくなっていく。今、希梨花は静かに地表に降り立った。時間は、ほんのわずかしか経っていないように感じる。気づけば、手足は動きを止めていた。
笛を合図に女子は一斉にグランドを去っていく。拍手が鳴り止まなかった。
(拓磨、見ていてくれたよね。私にできることはほんの僅かだけど、持てる力を全て出し切ったよ)
これほど満足のいく演技ができたのは、拓磨のおかげだ。彼が私に翼をくれたのだ、そう思った。
「キリカ、最高によかったよ。綺麗だった」
遥佳が抱きついた。周りは互いの健闘をたたえ合う仲間で一杯だった。
プログラムは続いていたが、創作ダンスをやり遂げた希梨花はしばらく放心していた。体育祭はもう終わったようなものである。自分に残されたのは、閉会式の挨拶だけである。
今、希梨花の目の前では、クラス対抗のリレーが始まろうとしていた。ようやく拓磨の姿を見つけた。黄色のハチマキが短い髪によく似合っている。拓磨でもやはり競技前は緊張するのだろうか。
バトンを渡された拓磨は、力の限りを尽くしてトラックを駆けていった。まるで機械のような正確な足の運びで疾走する。希梨花は固唾をのんで見守った。
残念ながら、拓磨のチームは二位に終わったが、それでも彼はさわやかな笑顔を見せていた。希梨花は彼と一緒に過ごした時間を次々と思い出していた。
閉会式が始まった。朝と同じように全校生徒が並んでいたが、どの顔も疲れ切った顔をしている。
「生徒会長のことば。二年一組、姫島希梨花さん」
放送委員の声が、スピーカーを通して響き渡る。
「はい」
ゆっくりと壇上に上がった。
「みなさん、今日は一日お疲れさまでした」
希梨花は一瞬躊躇した。どうしようか最後の最後まで迷ったが、やはり話すことに決めた。
マイクを強く握りしめる。
「実は、私は運動が苦手で、正直、体育祭が来るのが嫌でたまりませんでした。しかしそんな私を励まし、助けてくれる友人がいたおかげで、自分に自信が持て、今日は心から楽しむことができました。友人には本当に感謝しています。この場をお借りして、お礼を言いたいと思います。ありがとうございました」
マイクを戻した。とうとう言ってしまった。でも希梨花はどうしても言わずにはいられなかった。
どこかで小さな拍手が起きた。それはあちこちに飛び火して、ついには大きな拍手が希梨花を包みこんでいた。自然と涙が湧いた。それをみんなに気づかれないように必死に堪えた。
この壇上から拓磨は見えないけれど、全校生徒からの拍手は、そのまま拓磨に向けられているような気がした。