第2章 初恋の記憶
1
誰もいない廊下を歩き、下駄箱のところまで来た。生徒はもうとっくに帰っていて、校舎内は静まりかえっていた。
その静寂を打ち破るように、ボールが地面を転がる音が聞こえた。振り向くと、地表の砂を巻き上げてドリブルをする男子の姿があった。夕日の逆光でシルエットになっているその人物は、あの早矢仕拓磨だった。
彼は昔からスポーツ万能で、いつでも女子の人気をほしいままにしていた。勉強しか取り柄のない希梨花にとって、まるで接点のない人物と言ってもよかった。確かに家は隣同士だが、性格はまるで反対で、これまでも、そしてこれからも縁のない相手である。
希梨花は軽く会釈をして、その場を離れようとした。
「姫島さん」
拓磨が遠くからそう呼んだ。
希梨花は身構えた。さっきの会議のことを言われるに違いなかった。まさか実力行使に出ることはないだろうが、紛糾した会議の責任を追及されたら、返す言葉もない。それでも生徒会長として、自分の体裁だけは繕わなければならない、などと瞬時に考えた。
「一緒に、帰らないか」
「えっ?」
思わず声が出てしまった。不覚にも、心の動揺を相手に見せてしまったようで、ちょっと恥ずかしくなった。
拓磨はボールの動きを見事に止めて、希梨花の返事を待っていた。激しく心臓が鼓動した。
「は、はい」
希梨花は、何とか生徒会長としての威厳を保ったままで、言ったつもりだった。が、その短い言葉は喉に張りついて、かすれたおかしな声が出ただけだった。
「まっすぐ帰るんだろ?」
「ええ」
「じゃあ、一緒に行こう」
「はい」
希梨花はまだ緊張したままだった。何を言われるか分かったものではない。どうせ自分に対する不満か批判に決まっている。
「この前の模擬試験、どうだった?」
「はい?」
二人は駅まで続く一本道を、肩を並べて歩いていた。とっくに下校時間は過ぎているので、周りには誰もいなかった。二つの長い影が、遥か前方を歩いている。こんなふうに拓磨と並んで帰ったことは、これまでに一度もなかった。
「俺さ、全然ダメなんだ。君は?」
「そんなに良くないけど」
希梨花はとっさに嘘を言ってしまった。ここは相手に同調することで、自分に攻撃の矛先が向かないようにするためだった。
「隠さなくてもいいのに」
「いえ、別に隠しているわけじゃないわ」
一度嘘をつくと、引っ込みがつかない。今さら話を軌道修正するのは難しかった。
「俺、今度の試験が悪かったら、サッカー辞めろって担任に言われているんだ」
拓磨は情けない声を出した。さっきの会議の毅然とした態度はどこかに消えていた。
でも、それがどうしたというのか。なぜ、そんな内輪話を私に打ち明けるのだろう。希梨花は拓磨の真意が計りかねた。
「それで、その、勉強教えてくれないか、と思って」
「えっ」
希梨花は驚いて、歩くのを止めた。拓磨は一人先に進んでしまってから、振り返った。
「だめかな?」
希梨花は冷静に考えられなかった。これまで家庭や学校では、弟やみんなの世話をしてきた。それは彼女にとって自分の存在意義を実感できる唯一の場であった。だから今まで遠くにいた拓磨が、自分を頼ってくれたことは、素直に嬉しいことだった。だが、相手はスポーツ少年である。自分とはまるで住む世界が違う。それを拓磨も知らぬはずがない。
「でも」
希梨花は何と言ってよいやら、しばらく考えた。話題すら噛み合いそうにない相手に対して、答えはノーである。
しかし勉強に限定するのであれば、拓磨に教えてやりたいという気もある。なんたって家が隣同士なのである。困っている隣人を助けない道理はない。希梨花は激しく迷った。しかし拓磨の真面目な眼差しを見ると、どうにも断り切れなかった。
「分かりました」
次の瞬間、そう答えていた。
「ありがとう」
拓磨は弾んだ声を上げた。
希梨花にとって、この時自分に向けられた彼の笑顔が、とても新鮮に感じられた。そしてこんなふうに拓磨と話したのは、生まれて初めてだな、と改めて思った。
希梨花は神社の境内で拓磨と別れてから、一人歩きながら考えた。
勉強を教えるなんて、軽い気持ちで約束してしまったが、本当によかったのだろうか。
希梨花には、同性の友達はいるが、異性の友達はさっぱりいなかった。勉強しか能がない女子は、男子からは近寄りがたい存在ということなのだろう。委員長や生徒会長という大役に、男子からも推薦されたりはするのだが、それは面倒な仕事を他人に押しつけようという腹ではないか。だから生徒会長の座に就いたからといって、それは男子が信頼を寄せているという証拠にはならない。そんなことは、これまでの経験から十分承知している。
男子とそんな関係しか築けないなら、こちらから必要以上に彼らに近づくことはないと決めていた。むしろそうやって距離を置いている方が何かと都合がよい。
しかし今回拓磨と一緒に過ごすことで、これまでの自分の信条がどこか崩れるような気がする。二人の間には恋愛関係が生まれるはずもないが、学校で噂にでもなったら、それはそれで厄介なことになりそうだ。拓磨のファンは相当多いと思われる。そんな連中に妬まれれば、学校生活は今までのように平穏無事にはいかなくなるだろう。
それでも、そんな不安な気持ちとは裏腹に、拓磨から面と向かって頼られたことが、自尊心をくすぐっていた。彼のファンは多いとはいえ、勉強をみてあげられる女子は、そんなにいないのではないか。
拓磨と恋仲になろうなどとは微塵も考えていないが、隣に住んでいながら、まるで交流のなかった二人の歯車が、今ここへ来てようやく噛み合って回り始めたようだった。
希梨花は拓磨に声を掛けてもらったことが、やはり嬉しかった。自分も男性から必要とされている、一人の女性なのだと実感できたからである。
2
次の日の朝、早速拓磨がホームルーム直前に会いに来た。彼は希梨花のクラスの女子にも人気があって、背の高い彼がドアを開けると、教室のどこかで歓声が上がるほどだった。
「姫島さん、いますか?」
拓磨に名前を呼ばれて、覚悟はしていたが、極度に緊張してしまった。それをクラスのみんなに悟られないように、わざとゆっくり席を立って、彼の前へ歩み出た。
クラスの女子の視線が自分の動きを追っているのが分かる。緊張感とわずかな優越感とが入り交じっていた。
「例の件だけど」
拓磨が切り出す。声が大きい。みんなに話の内容が聞かれたらどうしようかと内心焦った。
「その件ですね。とりあえず外へ」
希梨花は、生徒会長という威厳を精一杯身にまとって言った。拓磨に限ったわけではないが、男子と話すときはいつもそういう口調になってしまう。
まもなく予鈴が鳴る。そのため廊下を行く者は少なかった。
希梨花は一人、窓際まで歩いていった。拓磨も後に続く。
「勉強のことだけど、今日からいいかな?」
背の高い拓磨は、希梨花を見下ろす格好で言った。
「はい、分かりました」
努めて冷静に答えた。近くで見ると、拓磨は鋭く攻撃的な目をしている。しかし普段は、その瞳は柔和で優しい。活動的な彼には、短髪がよく似合っていた。
「場所はどうしよう?」
「市立図書館はどうですか?」
希梨花はあらかじめ考えておいた言葉を口にした。指宿の駅前にある図書館だ。家とは逆方向になるけれど、勉強した後で、ちょっとしたデート気分も味わえるかもしれない。
拓磨はちょっと考えているようだった。まさか、自分の隠された意図に気づいたのではあるまい。希梨花は自分のふらちな考えが見透かされたのではないかと心配になった。緊張と恥ずかしさが交錯して、おそらく赤くなった顔を、拓磨に見られまいとして、下を向いた。
「オッケー。それじゃ、放課後に」
予鈴が廊下中に響き渡っていた。拓磨は軽く手を挙げて、廊下を駆け出した。走る後ろ姿も様になっていた。その小さくなっていく背中を見ながら、今やっと緊張の糸が解けたのを感じた。
「さあ、姫島。教室に入って」
担任の内倉先生がすぐ後ろに立っていた。突然声を掛けられて、飛び上がるほど驚いた。先生はいつからそこにいたのだろう。今の今まで気づかなかった。
内倉先生は去っていく拓磨と希梨花を交互に見て、不思議そうな表情を浮かべた。
3
今日は時間の経つのが、ひどく遅く感じられた。いつもとは違った自分がいるようだ。授業中は勉強そっちのけで、どうやって拓磨と接したらよいのか、そんなことばかりが頭を占領していた。
「キリカ、どうかしたの?」
顔を上げると、前園遥佳がすぐ目の前に立っていた。彼女は中学からの知り合いで、仲のよい友達だった。
「もう授業、終わったのよ」
希梨花はぼんやりと窓の外に目を向けていた。しかし何も像は結んでいなかった。
「どうしたのよ、ずっと外ばかり見て」
遥佳は重ねて訊く。
「ああ、ちょっと考え事」
希梨花は平静を装った。
「もしかして、早矢仕のこと?」
「えっ?」
さすがに遥佳は鋭い。というよりも、朝から男子が面会に来ること自体珍しいことなので、それを結びつけて考えたのは当然とも言える。
「あいつ、朝、キリカに何を言いに来たの?」
「うん、ちょっと町内のことで」
とっさに嘘を言ってしまった。
「ああ、そうか。早矢仕って確かキリカの家の隣だもんね」
遥佳はあっさりと納得してしまった。
自分は人に対して、秘密を持つことが多いと思う。昔からそうだった。どうにも本音で語れないのだ。相手に説明するのが面倒ということもあるし、余計な心配をかけてしまうのが嫌ということもある。だからたとえ辛いことでも我慢しているのが、一番うまく行くような気がして、家族や友人に何かを相談した記憶はほとんどない。
今回のことも、遥佳には当面隠しておこうと決めていた。
そしてとうとう放課後になってしまった。あれだけ朝から時間があったのに、二人っきりになったら、どんな話をすればよいか、一つも決めていなかった。希梨花は焦り始めた。
そう言えば、放課後に落ち合うことは決めていたが、具体的にはどうするか決めていなかった。下駄箱付近で会えばいいのだろうか。それとも彼の方からまたこの教室に来てくれるのだろうか。もしそうなら人目につかないように、他の生徒がいなくなるまで待った方がよいだろうか。しかし、あまり長く待つわけにもいかない。なぜなら、出発が遅くなれば、それだけ勉強する時間も削られるからだ。
希梨花は周りの様子を気にしながら、ゆっくりと教科書を鞄にしまい込んだ。やはりこちらから拓磨のクラスまで出向いて、それとなく会うのがよいだろうか。
そんなことを、ひどく時間をかけて考えた。
しばらく教室に留まっていたが、拓磨の方からやって来る様子はなかった。仕方なく廊下に出て、彼のクラスの方へ向かった。二階の窓からは、野球部員たちが元気にランニングしているのが見える。
希梨花はその視線を戻そうとして、慌てて動きを止めた。グランドに拓磨の姿が見えたような気がしたからだ。そんなはずはないと思いながら目を凝らした。
いや、確かにあれは拓磨である。間違いない。マネージャーらしき女生徒から、今、気安くサッカーボールを受け取った。拓磨の他にも部員はいるが、その女生徒の優しい仕草は、どうやら特別拓磨にだけ向けられているのがすぐ見破れた。
(なんだ、勉強教えてくれなんて言っておきながら、全然その気はないんじゃない)
希梨花はそのままこっそり、一人で帰ることにした。結局、拓磨はサッカーのことしか頭にないのだ。自分との約束など、すっかり忘れてしまったに違いない。朝から拓磨のことをあれこれ考えていたが、まるで無意味だったことになる。希梨花は一人気をもんでいたことが馬鹿らしく、少々腹が立った。
この先、拓磨とは、ただ家が隣同士という関係で終わりそうである。両家の親同士は古くからの付き合いがあるようだが、拓磨と自分とはほとんど交流がない。スポーツに打ち込む拓磨には、自分は友人としての対象にすらならないのだろう。
4
下駄箱で靴を履き替えて、校舎を出た。校門へ向かうまでの間に、運動部のユニフォームを着た男子がずっとこちらに視線を向けているのに気がついた。希梨花の知らない子だった。どうも一年生らしい。さっきから黙って見守っていたその男子は、ついに弾かれたように希梨花に近寄ってきた。
「姫島先輩ですね」
開口一番、ユニフォームの丸刈り頭が言った。
希梨花は生徒会長なので、おそらく全校生徒の誰もが顔を知っているはずだ。しかし希梨花の方からすれば、知らない生徒の方が多い。現に目の前の彼も初めて見る顔だった。
「はい、そうですが」
希梨花は次の展開がさっぱり読めぬまま、返事をした。
「すみませんが、ちょっとここで待っていてもらえませんか?」
そう言うと、彼は希梨花の返事を聞きもせず、いきなり背を向けて、グランドへと駆けていった。一体何が始まるというのだろうか。希梨花は彼の走る先を凝視した。
彼はグランドの中央まで達した。その先には、何と早矢仕拓磨がいるではないか。
拓磨は一言、二言その部員に言い残すと、こちらに駆けてきた。
希梨花は慌てて、グランドから視線を戻した。
「ごめん、待った?」
今初めて気づいたという演技で、その声に振り向くと、拓磨の笑顔がそこにあった。
希梨花は笑みがこぼれないように、唇を真一文字にきゅっと結び、頬を膨らませるようにして言った。
「早矢仕君、今日は勉強しないのかと思った」
「いいや、だって朝、ちゃんと約束したじゃないか」
拓磨は、約束を忘れては困ると言わんばかりに、不服そうに言った。
希梨花としては、放課後のことをあれこれ考えていただけに、拓磨の言動は呆気にとられるばかりであった。自分にのしかかっていた不安感や、ささやかではあるが朗らかな気持ちなど、拓磨はまるで気にかけていない様子である。やはり私たちは、分かり合えない間柄なのだと妙に納得した。
「でも、カバンは?」
希梨花は、手ぶらの拓磨を見て、そう訊いた。
「ほら、あそこ」
彼は事も無げに指を差した。
よく見ると、校門の下あたりに、学生鞄とスポーツバッグが静かに主人が来るのを待っているではないか。
希梨花は思わず吹き出してしまった。
「何か、ヘンかな?」
「いいえ、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。でもおかしくて」
さっきまで自分の頭に渦巻いていた様々な気持ちが、拓磨にはまったく伝わらず、それどころか、彼が悠然としているのが、無性におかしくなった。
拓磨はこんな性格だったのか。小学校から高校まで、ずっと同級のはずなのに、今まで知らなかった。彼の女心に対する無頓着さは、これまでに何人の女子を唖然とさせてきたのだろうか。
「どうして、後輩に見張りを?」
「だって、そうすればぎりぎりまで練習ができるだろ」
希梨花は、笑いがこみ上げてきた。そこまでして、サッカーの練習に情熱をかけるという拓磨の気が知れない。しかし、スポーツを極めるためには、彼のようなひたむきさが必要なのかもしれない。
「それで、その格好で帰るの?」
希梨花は薄々答えは分かっていたが、一応訊いてみた。
「そうだよ」
拓磨は堂々と胸を張って、ユニフォームの裾を引っ張った。
「早矢仕君って、本当にサッカーが好きなのね」
希梨花は呆れるような、感心するような、どちらともとれる調子で言ってみた。
「本当は、この格好でドリブルして家まで帰りたいぐらいさ」
電車の中でボールを蹴り続ける拓磨の姿を連想して、涙が出るほど笑った。
「姫島って、そんなに笑う子だったのか」
拓磨は意外そうに言った。
「私も、早矢仕君って、こんなに面白い子って今まで知らなかった」
「いや、俺は大まじめだぜ」
二人は、校門を出たところで、顔を見つめ合って笑った。
「俺たちって家も隣りで、学校もずっと同じだったけど、ほとんど付き合いなかったからな」
拓磨がしみじみと言う。
それは希梨花も感じていたことだ。二人は今日初めて同じ気持ちを共有したということか。拓磨との距離が少しだけ縮まった気がした。拓磨と自分を隔てていた壁が、明らかに崩れ始めている。その先には、きっと新しい何かが待っている、そんな予感がした。
5
この時間、駅へ続く道は帰宅する学生ですっかり埋まっていた。学校から解放されて、どの顔も明るく輝いている。そんな中をいつも以上に緊張して歩いているのは、おそらく希梨花一人だけであった。
拓磨の隣を歩きながら、彼にどんなことを話し掛けたらよいのか分からなかった。共通の話題が見つからないのだ。
拓磨の方も、まっすぐ前を見て歩くだけで、何も言ってはこなかった。しばらく二人は黙って歩いた。
「あれ? 今日はサッカーしないのか?」
突然、背後から声がした。
振り返ると、希梨花と同じクラスの二宮だった。
「今日はサボりだ」
「へー、めずらしいな。どうしてまた?」
そこまで言って、二宮は、希梨花が拓磨の横を付かず離れず歩いていることに気づいたようだった。
「あれ、姫島。こりゃまた、珍しい組み合わせだな」
そんなふうに素っ頓狂な声を上げた。
「姫島さんにちょっと頼みがあってな」
「ふうん。それにしても意外だな」
二宮は随分と驚いている。
ホームで列車を待っていると、先輩女子らが、希梨花を押しのけるように拓磨の元へやって来た。そして彼に馴れ馴れしく話し掛けた。その中の一人は希梨花に挑戦的な視線を絡ませてきた。おそらく彼女の目には、拓磨にまとわりついているようにでも映ったのだろう。拓磨とはそんな関係ではない。そんな取り越し苦労とも思える行動が、希梨花には内心おかしかった。
家とは反対方向になる指宿行きの列車が入ってきた。それに二人が乗ろうとするのを見て、拓磨の周りは一様に驚いたようだった。
「おい、拓磨。今日は生徒会長とデートか?」
閉まる扉に向けて、一声浴びせられた。
二宮は口が軽いから、明日はクラス中に知れ渡っているかもしれない。
希梨花は周りの視線から逃げ出すように、列車に乗り込んだのだが、拓磨の方は、この状況を何とも思わないのか、いつもと変わらぬ顔をしていた。
市立図書館への行き帰りは、拓磨と二人きりの楽しい時間を想像していたのだが、現実には人の目や言葉に怯えなければならなかった。
指宿の駅に着いた。ここは地元の学生や、大きな荷物を担いだ観光客らでごった返していて、二人の姿は目立たなくなってしまった。もう冷やかしの声も聞くことはない。
市立図書館は駅から歩いてすぐのところにある。観光タクシーの整列する横を、二人は肩を並べて歩いた。その間、二言、三言、拓磨が話し掛けたぐらいで、それ以上会話は続かなかった。
希梨花は早く図書館に着いて、勉強を始めたいと思っていた。勉強の内容でなら、拓磨に積極的に話し掛けられる気がするからだ。
図書館の中は冷房が効いていて、汗が引いていくのが分かる。ここに来るまでにすっかり汗をかいてしまった。拓磨のそばにいるだけで、これほど緊張させられるとは思わなかった。
「やっと静かなところに来られたな」
館内を見回して、拓磨はそう言った。確かにこの空間では、せいぜい本のページをめくる音ぐらいしか聞こえてこない。
拓磨は早速勉強を開始した。順番に問題を解いて、納得のいかないところを希梨花に質問する。その繰り返しである。問題を解く間、希梨花の方は、自分の勉強をするつもりだったが、拓磨を放っておくのも心配で、ずっと彼の手元ばかりを見ていた。
拓磨は二時間弱、無駄口一つ叩かず、集中していた。今度のテスト結果が、今後のクラブ活動を左右することもあって、必死なのだろう。そんなひたむきな拓磨の姿を見ながら、自分が引き受けたからには、必ずよい結果を出さなければならない、と責任の重さを実感した。
拓磨が問題集を切り上げて、大きく伸びをすると、
「そろそろ帰ろうか」
と言い出した。
希梨花も頷いた。
「そっちの勉強は、はかどった?」
拓磨は勉強道具を片付けながら訊く。
「ええ、まあ」
「でも、俺に付きっきりじゃなかったか?」
「ううん、そんなことないよ」
希梨花は拓磨に余計な心配をかけたくなくて、そう言った。
「でもさ、姫島はいいよな、頭がいいから。こんなに必死にならなくても、いい点数取れるだろ?」
「そうでもないわ。私もテスト前は、結構慌てているんだから」
二人は図書館を出て、駅へ向かった。
「それで姫島は結果が出せる。けど、俺には出せないんだよな」
希梨花は歩きながら、黙って拓磨の話に耳を傾けていた。
「姫島が羨ましいよ。悩みがなくってさ」
希梨花は苦笑した。この私に悩みがない、か。私の方が何十倍、いや何百倍も悩んでいる、そう断言できる。拓磨と違って、表に出さないだけだ。みんな、私の心の中が見えないだけだ。希梨花は無言で叫んだ。
指宿駅に着くと、拓磨は缶ジュースを奢ってくれた。
「姫島の教え方は上手だな。よく理解できたよ」
ホームで列車を待ちながら、拓磨が言う。
「そう? そう言ってもらえて、安心した」
希梨花は拓磨と向き合って、そう答えた。心の中に安堵が生まれた。その後で、気が抜けたのか、思わず小さく笑ってしまった。
拓磨はそんな希梨花の表情を見逃してはくれなかった。
「どうした?」
「うん、ちょっと昔のことを思い出しちゃって」
「どんな?」
「うちの弟が小学生の時、分数の計算が苦手で、それを中学生の私がコーチしたことがあるの」
拓磨は興味深そうに聞いていた。希梨花が「コーチ」という言葉を使ったからかもしれない。そこから、何かヒントを得ようとしているのかもしれなかった。
「一通り計算のやり方を教えてやってから、どちらが早く解けるか、計算ドリルで競争してたの」
「でも、それじゃあ、姉貴が圧勝しちゃうんじゃないか」
「もちろん問題数に差をつけてね」
「なるほど」
「でもね、弟ったら凄いの。毎日毎日特訓して、ついに私に勝ってしまったの」
「本当に?」
「私は、慌ててうっかりミスをしたの。でも、どうして弟がそれほど上達したのか、分かる?」
希梨花は教師が教え子に問いかけるような視線を送った。
拓磨はしばらく腕組みをして考えていたが、突然、
「賞品か?」
と言った。
「そう。私のお年玉を全部あげる、って言ったの」
「そりゃ、頑張るよ」
拓磨は納得したように言った。
「賞金で釣るなんて、姉としてはちょっと後ろめたかったけど、クラスで一番計算ができるようになったって、弟は喜んでた」
「それはいい考えだ。男は賭け事好きだし」
「でも、今日の早矢仕君を見てたら、そんな賞品に頼らなくても大丈夫よね。一生懸命勉強してたもの」
希梨花はそうやって拓磨を褒めた。
「じゃあさ、姫島も俺と勝負してくれ」
唐突に拓磨は真剣な眼差しで切り出した。
「えっ、どういう意味?」
「だから、姫島にはちょっとハンデ付けてもらうけど、何かを賭けないか?」
「お金?」
希梨花は笑って訊いた。
「いや、そういうのじゃなくて。そうだな、賞品って言っても、すぐに思い浮かばないし」
「そうよね」
希梨花も次第にこの話に乗っていた。
「それじゃ、とりあえず、勝った方が相手の言うことを何でも一つ聞くっていうのはどうだい?」
拓磨は目を輝かせて言う。
「いいわよ。でも早矢仕君、私にヘンなこと言ったりしないでね」
「何だよ、そのヘンな、っていうのは。俺のことを誤解してない?」
「冗談よ、冗談」
二人は笑い合った。
ホームに、白い列車が入線してきた。
二人並んで列車に乗る。家が隣ということは、それだけずっと一緒にいられるのだ、と希梨花は考えた。
右側の車窓に、海が見えてきた。秋の静かな海である。隣に立つ拓磨も黙って同じ景色を見ていた。二人寄り添ってはいるけれど、デートというには程遠いと思う。やはり拓磨も他の男子と同じで、私をテストの準備に利用しているに過ぎない。それ以上でもなければ、それ以下でもない。でも、それもいいかもしれない。
駅を降りて、商店街を抜けて、坂を上っていく。二人の自宅はもうすぐだ。
「一つ、訊いてもいい?」
希梨花は歩きながら、思い切って切り出した。もう拓磨を必要以上に意識してはいなかった。随分と自然体でいられた。ここまでの帰り道で、いろいろな話もできた。
「どうして、私に声を掛けてくれたの?」
訊かずにはいられなかった。拓磨とはクラスも違う。勉強を教えてもらうなら、別に他の生徒がいたはずだ。なぜ自分に白羽の矢を立てたのか。隣に暮らしていても、最も遠い存在だったはずなのに。
拓磨は少し考えてから、
「だって、姫島は一番勉強できるだろ」
「そうでもないけど」
希梨花は自分の質問が軽くかわされてしまって、やや白けてしまった。
「そういえば」
拓磨は話題を変えてしまった。本当は、幼なじみである私のことを、拓磨はこれまでどう見ていたのか、その辺りを聞き出したかったのだが、それはあっさりと流されてしまった。
「何?」
希梨花は自分の思うように話が進められなかったことに、やや不機嫌そうな調子で言った。
「うちのオフクロが、姫島のこと、最近綺麗になった、って褒めてたぞ」
「えっ?」
突然、拓磨の口から出た台詞に、顔が赤くなった。どうしてそんなことを直接本人に言うのか。確かに、拓磨のお母さんとは、先週だったか商店街でばったり会っていた。
「そ、そんなことないと思うけど。昔のままよ」
希梨花は言葉を詰まらせた。
「そんなこと言うなら、拓磨君も随分と格好良くなったと思う」
希梨花は正直なところを言った。今日は短い時間ではあったが、どうして学校中の女子が騒ぐのか、ちょっと分かった気がした。一緒にいると、こちらまで爽やかな気分になる。強い意志を持ち、それが人に左右されない行動の原動力になっているという感じだった。
「それは、誰が言ってるんだ?」
拓磨が立ち止まって訊く。
「誰って、その、みんながよ」
「ふうん。俺の方が全然変わってないけどな」
拓磨は不思議そうにそう言った。
希梨花は思わず自分の意見を口にしてしまったものの、そこを拓磨に突っ込まれたので少し焦った。
二人はいつの間にか、境内のところまで来ていた。楽しい時間が経つのはあっという間である。もう少し、ベンチにでも腰掛けて、拓磨と話したい気分だった。でも、それを切り出せるほどの勇気はない。
「今日はありがとう。また明日も頼むよ」
「はい。それじゃあ、さようなら」
希梨花は拓磨を意識しないようにしてきたが、すっかり自分の顔が赤く染まっているような気がした。それを相手に悟られないように、小走りに駆け出した。
今日は自分にとって一生忘れることのない、特別な一日になったと思った。