第1章 生徒会長の悩み
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九州薩摩半島の南端、鹿児島県指宿市。
姫島希梨花は、砂蒸し風呂で有名なこの町の外れに生まれた。そこは年中観光客で賑わう温泉街とは無縁な、静かな海の町であった。
山は集落を海へ追いやり、一方家々は身を寄せ合ってそれに抵抗する。そうやってこの町ができたのだと、希梨花はいつも考えた。この海と山に挟まれた細長い町に、人々は先祖代々、長きに渡って暮らしている。
とりわけ姫島家というのは、町の名家として通っていた。姫島の祖父が生きていた頃には、町の行事のほとんどを彼が仕切っていたと聞かされた。しかし希梨花が物心つく前に、その祖父も亡くなってしまった。今では昔ほどの実権はなく、父親が商工会のまとめ役を務めている程度だった。
そういう家に長女として生まれた希梨花は、幼い頃から町の人々の期待を背負っているようなところがあった。そのため、学校では常に優等生でいなければならなかった。果たして彼女は、小学、中学、高校と、見事にその期待に応えていった。町の者はみな、希梨花が健やかに育って、日増しに綺麗な娘になっていくのを楽しみに見守っていた。
姫島家は、町の中心から離れた、小高い丘にひっそりと屋敷を構えている。町を見下ろせるその大きな屋敷には、今では希梨花と両親と弟の合わせて四人が暮らしていた。
家のすぐ隣には神社がある。その境内に立つと、穏やかな鹿児島湾が視界いっぱいに広がる。晴れた日には、うっすらとではあるが、桜島のなだらかな稜線を見て取ることができる。
子供の頃、希梨花は三歳下の敏明の手を引いて、毎日のようにその境内に出かけた。自宅から目と鼻の先の境内は、さしずめ庭の延長といった感じであった。
特に何をするというわけでもない。周期的に打ち寄せる小波を、退屈そうな敏明の横で一つひとつ数えた。波は同じように見えても、本当に同じ波は一つとしてない。途中までは確かに同じでも、消え去る最後の瞬間、うねりの形や宙に舞う白い泡の大きさが一定ではないのだ。そんな微妙な違いが面白くて、希梨花は飽きずにいつまでも眺めていた。
両親は、一日中敏明を希梨花に任せておいて、何の心配もなかった。それだけ希梨花が弟思いで、面倒見のよい、しっかりした姉だったと言えよう。
神社と反対側の隣には、早矢仕家があり、希梨花と同級の息子がいた。名前は拓磨といい、同じ小学校に通う同級生であった。
その拓磨は、希梨花の前に現れることはほとんどなく、境内で見かけた記憶もまるでない。代わりに、彼の祖母である公恵がベンチに座って、二人が来るのを待っていた。彼女は希梨花と敏明の姿を見つけると、大きく手招きをして、頭を撫でると一つ、二つお菓子をくれた。
敏明はもらったばかりのお菓子を不器用な手で口に運ぶのだが、よく地面に落としてしまい、すぐに泣いてしまった。落としてしまわぬよう、今度は気をつければよいものを、また同じような不器用さで地面に食べさせる。姉としては、弟に泣かれるのが嫌で、一つまた一つとお菓子を彼の口まで運んでやった。幼い弟が何の興味もない境内に、毎日文句も言わずに付いてきたのは、そんなご褒美があるからに違いなかった。
希梨花は、四季それぞれに敏明と過ごした境内の情景を、今でも容易に目に浮かべることができる。
特に夏には、境内でお祭りが開かれる。神社へと続く坂道の両脇に、色鮮やかな屋台が所狭しと並んで、町中の人々が登ってくる。辺りが徐々に暗くなって、ついにはお囃子がかき消されてしまうほどの喧騒が夜を包み込む。そんな中、希梨花は弟が迷子にならないよう、それだけに気を遣っていた。赤や黄色の大きな風船や、鼻をくすぐる焼きたての食べ物に惑わされることなく、希梨花はしっかりと弟の手を握っていた。
希梨花が中学に上がってからは、敏明と一緒に神社へ行くことはなかった。それでも学校帰りに境内を抜けていくと、たまに公恵がベンチに座っていることがあった。その姿は昔と変わっていなかった。希梨花は懐かしさのあまり彼女の元へ駆け寄って、思い出話に花を咲かせた。
希梨花が高校に入る頃になると、公恵は年のせいか、足の具合も悪くなり、めったに外出しなくなったらしい。もはや境内のベンチに座る者は誰もいなくなった。希梨花は境内で過ごした日々が、時を刻むように打ち寄せる小波にどんどん浸食され、やがて消えてしまうような錯覚にとらわれた。
2
夏休みが終わって間もない九月初旬。高校二年生の姫島希梨花は、帰宅の途についていた。鹿児島中央行きの白い普通列車が、ちょうど駅に滑り込んできた。狭いホームは、同じ高校の制服ばかりが溢れている。
希梨花は、一人列車に乗り込むと、空席には座ろうとせず、車窓に目をやった。鉄道と併走する国道、その先には大きく広がる海が見える。海水浴シーズンがとっくに終わったこの時期、窓を流れていく海岸には人影はまるでなかった。青い空と海は先月と何も変わらないというのに、明らかに秋の到来を感じる。
しかし列車の中に目を戻すと、まだ夏の賑わいが残っていた。軽装の若い旅行客たちが、座席のあちこちを占拠している。ここ指宿は、温泉目当ての観光客の姿が年中消えることはない。今日も車内には彼らの楽しそうな笑い声が充満していた。
希梨花はそんな中、一人ため息をついた。嫌な時期が巡ってきたと思う。それは今月行われる学校の体育祭のことである。
学業については、希梨花は申し分なかった。入学してからというもの、常に学年トップを維持していて、教師からも、また友達からも一目置かれる存在であった。今、生徒会長を務めているのも、それ故のことである。
しかし、運動ということになると、話は一変する。身体を動かすことはまるでダメなのである。体育の授業でさえも、みんなについていくのが困難なほど、運動能力は低かった。走る、跳ぶ、投げる、といった基本動作からして、彼女には人並みにできない。ましてや球技など、ルールのあるスポーツはまったくと言っていいほど向いてないのだ。「天は二物を与えず」を、彼女は見事に実証していた。
日頃の体育がその調子なので、運動会やマラソン大会などの大きな行事では、肩身の狭い思いをしてきた。これらの行事は、当日だけにとどまらず、前々からの準備期間がある。つまりそれだけ辛い思いが持続することになる。どうして自分以外のみんなが、思うように身体を動かしたり、他人と互角に競えるのか、不思議でたまらなかった。自分には、何か身体の病気でもあるのか、と本気で悩んだこともある。
そもそも運動というのは、人間がその昔狩りや漁をする際に、磨いていた能力ではないのか。今の文明社会において、個人にそれほどの運動能力を求める必要はない。つまり生活に困らない程度の基本動作ができれば、それでいいはずだ。希梨花は本気で考える。
今では、運動競技は平和的に行われている。しかし、これも時代が違えば、他人よりも強くなりたいという欲求は、人の支配、突き詰めれば戦争につながると、何かの本で読んだことがある。まさに力の強い者が弱い者を支配できるという理屈である。そういうことなら、自分は誰よりも真っ先に奴隷になってしまうだろう。
十五分ほど揺られて、希梨花は列車を降りた。小さな白い駅舎を出る。駅前の広場には、迎えの車が数台停まっていて、制服がその中に吸い込まれていく。それを横目に、希梨花は家まで歩き出した。
商店街を抜けていくと、店先から声を掛けられる。姫島家の娘として、希梨花を知らない者はいない。そんな時は、今抱えている悩みを少しも見せずに、笑顔で応じる。
坂を上がると神社が見えてきた。と同時に左手には、海も見えるようになる。穏やかな海である。青い海面には所々、白い泡が立ち昇る。波は次から次へと打ち寄せて、決して途切れることはない。希梨花が朝出かけた時から、今まで目を離していた間にも、ごまかすことなく、打ち寄せていたはずである。そう考えると、自然の計り知れない壮大さを感じる。
この時期、夕方の気温は昼間とほとんど変わりがない。しかしこの果てしなく広い海を見ていると、心なしか汗が引いていくように感じられる。
かすかに波の音が聞こえてくる。境内の落ち葉を踏みしめると、葉っぱが破れる乾いた音がした。
境内を横切ると、すぐに自宅だ。
「キリカちゃん、お帰り」
突然、思わぬ方向から声がした。振り向くと、ベンチに腰掛ける早矢仕公恵の姿がそこにあった。しばらく会わないうちに、急激に老けてこんでしまったようだった。
「こんにちは。お久しぶりです」
希梨花は、笑顔で公恵の方へ近づいた。
昔、この境内で公恵は私たち姉弟を可愛がってくれた。あの頃は、悩みなどこれっぽっちもなかった。
希梨花は公恵の横に腰掛けて、しばらく時が過ぎるのを忘れて話し込んだ。
3
「ただいま」
希梨花は玄関を上がって、すぐに台所へ向かった。そこでは母、栄美が夕食の準備をしていた。
「おかえり」
栄美は、ちらりと娘の顔に目をやると、すぐに視線を料理に戻した。今、まな板の上では、魚が三枚に下ろされている真っ最中であった。
「敏明は?」
希梨花はひっそりとした奥の部屋に目をやってからそう訊いた。久しぶりに会った公恵のことを弟に話してみたかったのだ。
「まだよ。今日も遅くなるんじゃないかしら。今度、部長になるらしいの。だから最近、特に張り切っているのよ」
栄美は嬉しそうに言った。
希梨花にはあまり興味のない話だが、
「バスケ部の?」
と訊いた。
栄美は手元に視線を落としたまま、
「そう。バスケットボール部の部長」
そう誇らしげに言った。
「勉強の方は大丈夫なの? 家で全然勉強してないじゃない」
希梨花はすばやく手を洗うと、栄美の後ろで、まだ揚げる前のコロッケの形を整え始めた。
「そうなのよ。困ったわね」
と、まるで本気ではない物言いに、希梨花は軽い反感を覚えた。
両親は、どちらも運動神経が悪いということはない。二人の若い頃の写真を見せてもらったことがあるが、夏は海や山に出かけ、冬はスキーやスケートと、身体を動かすのは好きだったようだ。
中学二年の敏明も運動神経はよく、一年時からバスケ部のレギュラー選手に選ばれるほどだった。
どうして自分だけが、これほど運動能力が低いのか。運動神経も遺伝するというから、もしかしたら、祖父あたりの遺伝なのかもしれない。
それにしても、みんなはよくスポーツに真剣になれるものだと感心する。希梨花には好きなスポーツは一つもないし、ルールを理解している競技もほとんどない。テレビのスポーツ中継には、まるで興味が湧かないし、家族が盛り上がっても、いつも自分だけがついて行けずに、白けてしまうのだ。
「希梨花、どうかしたの?」
栄美が娘の冴えない顔色に気がついたのか、そんなふうに声を掛けた。
「いいえ、別に」
そう言ったきり、希梨花は黙々とコロッケにパン粉をまぶせた。
彼女はこの悩みを家族の誰にも打ち明けたことはなかった。これは希梨花自身の問題である。誰かに言ったところで、何も解決はしない。
困ったことに、生徒会長である希梨花は、学校行事の際に全校生徒の前に立ち、それなりの話をしなければならない。それは今度の体育祭も例外ではない。しかし自分には、まるで興味のない行事の開会宣言や、代表として話をするのが妙に場違いな気がしてならない。それに運動がさっぱりできない自分が、あれこれ話したところで、まるで説得力がないではないか。希梨花は早く体育祭が過ぎ去ってくれることを、願わずにはいられなかった。
4
体育祭はいよいよ十日後に迫ってきた。各クラスの練習も本格的に始まっている。希梨花は各委員会の代表者を集めて、生徒会主催の競技について、打ち合わせをしているところであった。
放課後のこの時間、静かな会議室には、グランドから運動部員の掛声が容赦なく入ってくる。
この部屋には、希梨花の他に十数人の各委員会の代表が集まっていた。その中には、体育委員長を努める早矢仕拓磨の姿があった。彼はクラスこそ違うが、希梨花のよく知る人物である。家の隣に住む、早矢仕公恵の孫である。彼とは、小学校から高校まで同じ学校に通っていながら、ほとんど口を利いた覚えがない。公恵と話した回数の方が圧倒的に多いのである。
「ここにいるメンバーで事前に試してみるべきだ」
拓磨が立ち上がって、意見を述べていた。背が高く、がっしりとした身体から出るその声には威圧感があった。
「机の上で考えていたって、実際どうなるか分からない。試すのが一番いいと思う」
拓磨はそう付け加えて座った。木製の椅子が乱暴な音を立てた。彼の強い意見に、会議室の空気が凍りついてしまった。
今は、生徒会競技のリハーサルについての検討がなされているところだった。
「それに越したことはないけど、みんな忙しいんだから、わざわざ道具を用意してやるほどのことはないんじゃないか」
先輩男子が噛みつくように言った。
それによって会議室の空気は、さらに重くなったようだ。自然にみんなの顔が会長である希梨花に向けられる。
司会である希梨花は、実は考えを持っていなかった。というよりこの種の議題について、希梨花は本気になれなかった。自分が率先していくべき内容ではない気がした。こればかりは、周りの意見に同調することを決め込んでいた。
「会長、どうしますか?」
気づくと、隣に座っている書記が、眼鏡の奥から強い眼差しを向けていた。
希梨花はうつむいた。ここで会長としての強いリーダーシップを発揮すべきなのだろうが、彼女にはそれができなかった。
「ちょっと待ってください。考えがまとまらないので」
そんな曖昧な言葉で間をつなぐ。
窓の外では、セミの鳴き声が大きく聞こえている。突如、運動部員の歓声が上がった。
会議に参加する全員が、希梨花の決断を待っているようだった。彼女は冷や汗が出てきた。自分としては、わざわざ体育祭のリハーサルなど必要がないという気がしていたが、果たしてそれが正しい選択なのだろうか。迷いが生じる。
「会長、もう会議の予定時間を過ぎていますので、また次回の会議で続けませんか」
そう助け船を出してくれたのは、書記だった。そうか、その手があった。希梨花はまったく冷静さを失っていた。
「そうですね、今日のところは一旦終了して、次回続きをやります。それでいいですね」
希梨花は拓磨と、異議を唱えた三年生を等分に見ながら言った。
三年生は何か言いたそうだったが、希梨花がそそくさと手元の書類を片付け始めたので、黙って退室していった。彼女は何も言われないように、わざとそうしたのであった。一方、拓磨は何事もなかったかのように、平然とした顔で席を立った。
希梨花はみんなが会議室を出て行くのを待って、鍵をかけた。それを職員室に返しに行く。彼女は廊下を歩きながら、あれこれ考えていた。
通常の行事ならば、正しい決断をする自信があるのに、体育祭のこととなると、どうしてこう尻込みしてしまうのか。さすがに自己嫌悪を覚えた。
職員室には、担任の内倉先生がまだ残っていた。
「姫島、遅くまでご苦労さん。体育祭の準備も大変だな」
夕日が二人しかいない職員室に差し込んで、あらゆる物が同じ方向に長い影を落としていた。
「そう言えば、今度の模擬試験は学年三位だったぞ。よく頑張ったな」
希梨花は泣きたい気持ちになった。そんな褒め言葉は、ひどく後ろめたいものに感じられた。自分は周りが思っているほど、優れた人物ではないのだ。
「失礼します」
希梨花は、そんな心の中を少しも見せるこなく、職員室を後にした。
自分がひどく卑しい人間に思えた。夏の余韻が残る夕方は、まだ気温が高いはずだが、それでも身体は寒く震える感じがした。