第9章 二人旅(1)
夕方には開聞岳を間近に望めた公園も、今やすっかり闇に包まれていた。砂場付近からまっすぐ伸びた一本の水銀灯が、弱々しく光を放っていた。
その砂場に鼻を突っ込んだ象の中、円筒形の壁面に、二人は隣り合って寝転んでいた。
あれからどのくらい時間が経ったのだろう。背中が壁に張り付いてしまっていた。昼間の日差しを受けて、ほのかに温められていたコンクリートも、今ではすっかり冷えきっている。
外の明かりは象の中まで届いていなかった。そのため、悟には希梨花の表情を読み取ることはできなかった。しかし涙混じりで多くを語った彼女も、落ち着きを取り戻しているようだった。恐らく涙も枯れてしまったのだろう。
二人の間に言葉はなかった。ただゆっくりと時間だけが流れていく。
希梨花が話し終えても、悟は口を開かなかった。彼女を慰めてやる言葉をいくら探しても見つからなかったし、またどんな台詞も彼女の前では無力のような気がしてならなかったからである。
そんな悟の代わりに、公園の木々が海風を受けて、ずっと囁いている。
突然、希梨花がくしゃみをした。
「寒いかい?」
思わず希梨花の手を握った。
「ううん、大丈夫」
しわがれた声だった。それから悟の手をギュッと握り返した。
またしばしの沈黙。
どこか遠くで汽笛が鳴った。
希梨花はふと思い出したように、
「今、何時かしら?」
と訊いた。
二人の共有する空間は真っ暗闇だったが、それでも目は慣れていて、近づければ文字盤が読み取れた。
「八時半過ぎ」
「それじゃあ、今のが終電ね」
「えっ、もう?」
悟は驚いた。こんな早くに列車がなくなってしまうとは、都会では考えられない。しかし今、自分は旅先にいる。九州の最南端なら、そんなことがあってもおかしくはない、そう思い直した。
「間違いないわ。だってあの日と同じだもの」
あの日とは、希梨花が学校を飛び出し、家出した日である。彼女の、いわば一人旅は、この公園から始まっているのだ。
「今夜はどうするんだい?」
まさか、ここで夜を明かすというのか。
希梨花はそんな悟の心を見透かしたように、
「心配しないで。お姉さんについて来なさい」
と肩を軽く叩いた。
それは、いつもの希梨花だった。悟の心は軽くなった。今は彼女の傍にいようと思う。自分にできることはそれしかない。だが、それで彼女の心が安らぐのであれば、それでいいと思う。
「それじゃあ、行きましょ」
希梨花は丸いコンクリートから背中を引き剥がした。中腰で象の外へと出る。悟も後に続いた。
海から上がってくる風が強い。二人は身体を震わせた。まだ四月である。九州とはいえ、夜になると気温は低かった。
二人は公園を後にした。開聞岳が真っ黒な影と化して、二人を見送っていた。
並んで坂道を下っていく。
悟はひどく空腹を感じた。そう言えば、昼から何も食べていなかった。
暗闇の中、ぼんやりと小さな駅舎が見えてきた。昼に降りた無人駅である。
山小屋を思わせる、その駅舎の横には、自動販売機が置かれていた。駅舎よりも眩しい光を放っている。悟は自然と吸い寄せられたが、残念ながら飲料水では、腹は満たせそうもない。
希梨花が引戸を開けると、大袈裟な音が辺りに響いた。そして森の奥深くへと吸い込まれていった。
田舎町の駅は自由に出入りができるのだった。一日の仕事を終えた待合所は、二人を優しく迎えてくれた。
「今夜はここで一泊ね」
蛍光灯の青白い光が、希梨花の全身を浮かび上がらせた。
念のため、悟は壁の時刻表を見た。
列車の本数は数えるほどしかない。希梨花の言う通り、最終はつい先程出たようだ。始発列車は五時半である。これから八時間待たなければならない。
二人は木製のベンチに腰掛けた。地元の老人が寄付したという座布団を、お互い二枚重ねで座った。
「今日はとっても嬉しかった」
希梨花はあえて悟の顔を見ず、ぼんやりと改札口の方を向いていた。
「あなたが居なかったら、私、どうなったか分からないもの」
その言葉の意味を考えた。あの公園で命を絶つつもりだったのだろうか。心のどこかが締め付けられる感じがした。
希梨花にとって、この旅は一体何だったのだろうか。家を飛び出した彼女は、故郷に帰ってきたにも関わらず、家族と会うことができなかった。心の支えになるはずの身内はもういない。自ら選んだ道だとはいえ、ひとりぼっちになってしまった。
そんな希梨花に対して、自分に何ができるのか。悟はそればかりを考えていた。
「ここも寒くなってきたわね」
希梨花はジーンズのミニスカートから伸びる両足をバタつかせた。
確かにガラス戸をぴたりと閉めれば、外気は遮断できるのだが、この安普請の建物は冷気の侵入をたやすく許している。
悟は反対側のベンチに読み捨ててあった新聞を取ってきて、数枚ずつに分けると、希梨花の両足に覆い被せた。
「これで少しは寒くないだろう?」
「ありがとう。ねえ、悟くん。もっとこっちに身体を寄せて。こうすればお互い温かくなるでしょ」
希梨花は悟に寄り添った。
「あの日もここで始発列車を待ってたの?」
悟が訊くと、
「そうよ」
と答えた。
「今、私はちょうど同じ場所に腰掛けてる。あの日とまったく同じ光景」
「寒かった?」
「ええ、だって真冬だったのよ」
それから思い出し笑いをした。
「どうしたの?」
「学校から直接来たでしょ。だから制服のままだったの。寒くて寒くて仕方ないから、体操服の上下を着込んだのよ」
「なるほど」
「異様に身体が膨れ上がって、見た目は格好悪いけど温かかったな。だけどそのまま寝込んじゃって、朝目が覚めたら、いつの間にか地元の人が居て、とっても恥ずかしかった」
「そりゃみんな驚いただろうね」
悟は吹き出した。
「そんなに笑わなくてもいいでしょ」
「その格好で列車に乗ったの?」
「まさか、慌てて脱いだわ」
「ぜひ、見てみたかったな、その姿」
「もう!」
「今日は体操服持ってないの?」
「ある訳ないでしょ」
希梨花は悟の足を軽くつねった。
夜の待合所は時間の進むのが遅かった。悟は時折立ち上がっては、室内のポスターや案内を食い入るように見て回った。もうすっかり内容を覚えてしまうほどだった。
諦めてベンチに戻ると、壁の古時計を見上げた。さっきから何度も同じ行動を繰り返しているが、まるで針は動いてくれない。
「お腹空いたわね」
希梨花は天井を見上げて言った。
「うん」
この空腹が寒さに拍車をかけているのは明らかだった。
「あの日と一緒。寒くて、お腹も空いて、一人心細かったわ。私、これからどうなるのかな、って。でも今日はあなたが居るから、全然違う気持ちでいられる」
そう言って、悟の腕に両手を絡ませた。
「悟くんって、温かい」
そんな希梨花の何気ない行動も、少々恥ずかしくなった。
「どうして平戸へ向かったの?」
悟はそんなふうに訊いてみた。
「最初は長崎へ行くつもりだったの」
「どうして?」
「中学の修学旅行で行ったことがあったから。ほら、初めての土地って、ちょっと怖いじゃない? だから九州からは出られなかった。中学の楽しい思い出に後押しされたのかもしれないわ」
「お金は?」
「実はね、病院で払った入院費が少し残ってたの」
「ふうん。それで高校の制服のまま、長崎まで行ったんだ?」
「そう。でもね、長崎駅でちょっとした事件があって」
希梨花は記憶を辿りながら、楽しんでいる様子である。
「知りたい?」
「ぜひ」
希梨花のことは何でも知りたいと思った。時間はたっぷりとある。今は彼女との会話を楽しむつもりだった。