第8章 姫島家の戦い(3)
あの忌まわしい日から二週間が過ぎた。
ようやく希梨花は退院できることになった。火傷の跡は生々しく残っていたが、皮膚が突っ張る感覚や、全身のかゆみはほとんどなくなっていた。
退院の日は、敏明が学校を休んで駆けつけてくれた。しかし両親の姿はなかった。聞けば、父親は仕事で家を空けており、母親は体調が悪く伏せているという。希梨花は言い知れぬ寂しさを覚えた。
火災後、家族は指宿市内にアパートを借りて、そこで暮らしていると聞いていた。敏明はそちらへ直行するようタクシーの運転手に伝えたが、希梨花の希望で火災現場となった本宅へ向かうことになった。敏明は、あの家には戻りたくないと拒んだが、希梨花は、どうしても現場を自分の目で見ておきたかった。運転手の前で、半ば強引に敏明を説得する格好になった。
車窓を流れる街の姿は、あの日と何も変わらなかった。まるで時間が止まっているかのようだった。ひょっとすると、姫島家の火事は夢だったのではないか、ふとそんな気分になった。
タクシーは坂を上り始めた。エンジン音が一段と高まる。この先には姫島家が、そしてその奥には早矢仕家がある。二人の女性が命を落した現場である。希梨花はこみ上げてくる感情を必死に抑えた。
神社の前でタクシーを待たせると、二人は境内を横切った。目の前に現れた自宅は変わり果てた姿だった。一階の台所付近は巨大なブルーシートで覆われ、外壁は全体がすすけている。近づくと、焼け焦げた強い臭いが残っていた。
これが本当にあの姫島家なのか、希梨花は自分の目を疑った。住居は悪意を持った人の手によって、破壊し尽くされていた。
建物のガラス部分は余すところなく割られていた。窓だけではない、玄関の小さな電灯までもが容赦なく壊されている。生け垣は倒され、門柱は真ん中辺りから折れ曲がっていた。玄関のドアも中央が大きくへこみ、赤いペンキで殴り書きがしてあった。足下に目を遣ると、生ゴミや粗大ゴミが散乱していた。もはや人が住める状態ではなかった。
身体が倒れそうになる感覚。しかし弟の前では毅然な態度を崩す訳にはいかなかった。
「中へ入れるの?」
希梨花は敏明の方を振り返った。
「先週は警察が黄色いテープを張って立入禁止にしてたんだけど、今は取り外されたみたい」
玄関には鍵が掛かっていた。仕方なく、ブルーシートをめくって中に入った。
家の中は焦げ臭さが一段と強くなった。室内は真っ黒な世界が広がっていた。柱や壁などの構造物は全て炭と化し、台所用品も本来の色彩を奪われて、全てが黒一色だった。もはや何が残っているのかさえ、見当もつかない。
奥へ進むと、そこは居間だった。希梨花は躊躇うことなく足を踏み入れた。こちらの窓は火災でガラス窓が溶け落ちて、そこから柔らかな日差しが差し込んでいた。それは部屋の惨状とは対照的な明るさであった。
外には早矢仕家の一階が見えた。ブルーシートがふわりと風に揺れている。あの晩、敏明と二人で火事の中を突入したのだ。恐怖がじわじわと蘇ってくる。穏やかな日差しの中で、希梨花の身体は震えた。
あの奥で二人の女性が命を落としたのだ。今現場には静かな風が吹いている。むしろその静けさが希梨花の胸を引き裂きそうだった。自然と大粒の涙がこぼれた。
二人はタクシーに乗って、指宿市内へと向かった。駅から遠く離れた小さなアパートである。隣にマンションがあるせいで、昼間でも日が当たらない場所だった。狭い階段を敏明に続いて上がった。
「お母さんの調子がよくないんだ」
敏明は部屋に入る前に、希梨花の方を振り返って言った。
希梨花はそれには何も答えず、扉を開けた。
部屋には母親が伏せていた。希梨花が近づいても、それすら気づかない様子だった。頬はこけ、髪は白く、所々が抜け落ちていた。一気に老人になってしまったようだった。
そんな変わり果てた母親の姿を目の当たりにして、希梨花は何も声を掛けられなかった。ただ涙だけが止めどなく溢れた。
希梨花は彼女の枕元でしばらく座っていた。部屋の明かりも点けず、ただそのままの姿勢でいた。これから家族はどうなってしまうのだろう、そんなことばかりを考えていた。
敏明が一つ大きなくしゃみをしたので、母親が目を覚ました。希梨花に気がつくと、
「ああ、帰っていたのね。おかえりなさい」
と、か細い声で言った。
「お母さん、お医者さんには診てもらってるの?」
希梨花は優しく言葉を掛けた。
「いいえ。もう外には出たくないから」
そんなふうに答えた。
希梨花は、それ以上何も言えなかった。火災後、母親の身に起きたことを察すると、どんな言葉も無力のような気がしたのだ。
「あのね、お父さんと別れようと思うの」
突然そんなことを言った。
希梨花は一瞬何のことか分からずに、黙ったままだった。
「離婚するつもり」
「どうして?」
希梨花はようやく声を上げた。敏明も枕元に膝を寄せた。
「父さんに、もうこれ以上迷惑を掛けられないでしょ」
「誰も迷惑なんて思ってないわよ。お母さん何言っているの?」
「お父さんにとっては、姫島家の家柄の方が大事なのよ。所詮、私は赤の他人なの」
希梨花にはその意味が分からなかった。
翌日、希梨花は早い電車で学校に向かった。いつもとは反対方向の電車に乗ることになった。慣れない景色が車窓を流れていく。車内では、同じ学校の生徒たちが自分に強い視線を投げかけているようだった。
希梨花はふと思い出して首元に目を落した。そこには赤くただれた火傷の傷跡がくっきりとついていた。恐らくみんなはそのことをひそひそ口にしているに違いなかった。希梨花はそんな声には負けず、正々堂々としていようと思った。
駅を出て、通学路を一人歩く。通い慣れた道なのに、どこかよそよそしさを感じるのは何故だろう。心の片隅に後ろめたさがあるのかもしれない。
何と言っても、姫島家は二人の女性の命を奪ったのである。この事実を消すことはできない。しかもそれは同級生である早矢仕拓磨の家族なのである。
取り返しのつかないことをしてしまった。彼には今日中に会って、謝罪したいと思う。果たして彼は自分と向き合った時、何と言うだろうか。
教室に向かうまでに、何度も好奇の目に晒された。しかし不思議と声を掛けてくる者はいなかった。
廊下で友達の前園遥佳と出くわした。彼女は一瞬驚いた顔をして、希梨花に抱きついてきた。
「よかった。本当に心配してたのよ」
と涙混じりに言った。
遥佳に支えられるようにして教室に入ると、誰もが一斉に話しを止めた。全員の視線が希梨花に集中する。制服から覗く生々しい火傷跡は誰の目にも好奇の対象に違いなかった。
さすがに希梨花は学校に来たことを後悔し始めていた。しかし拓磨とだけは会いたい。絶対に会わなければならない。ただそれだけが彼女の心を支えているといってもよかった。
しかしそうは言っても、拓磨のところへ会いにいく勇気はなく、どうしたらよいか、一日中迷うことになった。放課後下駄箱付近でうろうろしていると、拓磨が廊下を歩いてくる姿を捉えた。
彼は途中で希梨花の存在に気づいたようだった。睨むようにして近づいてきた。
「早矢仕くん」
希梨花は思いきって声を掛けた。しばらく人と話してなかったせいか、言葉がもつれて変に裏返ってしまった。
拓磨は希梨花の前で足を止めた。
彼は制服姿だった。いつも放課後に着ていた体操着を今日は着ていなかった。
「早矢仕くん、あの、私どう言ったらよいか」
希梨花がそう切り出すと、
「俺に構わないでくれ」
と無表情に言った。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい」
気の利いた台詞は思いつかなかった。ありきたりの言葉で精一杯だった。
拓磨は何も答えず、靴を履くとさっさとその場を離れようとした。
「今日はサッカーしないの?」
「ああ、サッカーはもう止めたんだ」
拓磨はそう言って、二、三歩進んでから、突然思い出したように、
「姫島、前に約束したよな。テストに勝ったら何でも言うこと聞くって」
「はい?」
「おふくろを返してくれ」
その瞬間、希梨花の心のどこかでガラスが割れる音がした。鋭い刃物で心臓をえぐられるようだった。この先、一生かけても彼は私を許してくれないのだ、それは今はっきりした。
希梨花はその後のことははっきりと覚えていない。死ぬことが償いになるのなら、喜んで身を捧げる覚悟だった。どこか自分の知らない場所で死のう、そう心に決めた。