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序章 赤い蛇

      1


 朝。いつものように布団から出て、冷たい水で顔を洗う。洗面台の上には、小さな鏡がついている。水に濡れた顔を上げると、鏡の中にはもう一人の自分がいる。私は目が悪いので、今はぼんやりした輪郭でしかないが、それでも自分の首には赤い蛇がしっかりと巻き付いているのが分かる。

 この赤い蛇は、毎日見ているはずなのに、どうしても慣れることができない。今日もまた不覚にも驚いてしまった。毎朝私を襲うこの絶望感を、世の女性は決して理解できないだろう。私と彼女たちとの間には、深い溝が横たわっている。おそらく一生かかっても、その溝は埋まることはないだろう。これだけは私にはどうすることもできない。ただ指をくわえて、向こうの世界を眺めるだけだ。

 もうとっくに諦めはついている。私はこの赤く気味悪い蛇と、この先死ぬまで共に生きていかなければならない。逃れることはできない。

 コンタクトレンズを入れる。見る物全てが一斉に輪郭を主張し始める。それはあの蛇も例外ではない。こうなってからは、到底鏡の前に立つ気にはなれない。しかし、私も女である。いつまでも鏡から目を逸らしているわけにもいかない。辛くなることが分かっていながら、再度、鏡に自分を映す。

 やはり蛇は同じ場所に居る。決して消えることはない。それどころか、さっきよりも鮮明に、より力を増して存在している。せめてもっと小さく、細くなってくれたら、本気でそう考える。

 パジャマを脱いで、服を着替える。私には服を選ぶ余地はない。首元まであるタートルネックのセーターを頭からすっぽりと被る。このグレーのセーターは、首をすっかり覆い隠すことができる、私のお気に入りだ。

 ちょっと時計を気にして、トーストを口に運ぶ。コーヒーの香ばしい香りが鼻孔を突く。ああ、この蛇さえいなかったら、どんなに気分のよい朝を迎えていることだろう。

 若い女性にとって、朝とは、その日の楽しい予定をあれこれ考える、わくわくする時間のはずだ。華やかな服を身にまとい、お化粧をする。それも全ては、気の合う女友達や、あるいはすてきな男性と出会うための準備である。例えその日が不幸な一日であったとしても、やはり朝には、幸せな予感だけがあるものだ。私も数年前は確かにそうだった。

 しかし今の私には、そんな朝の儀式は必要ない。楽しいことは起こらないと最初から分かっているからだ。そもそも私はそんなものを求めてはいない。できれば外出したくない。なるべく人にも会いたくない。それも全ては、この蛇がいるからだ。私の朝は、絶望の始まりでしかない。

 もう一度鏡の前に立ってみる。ようやくあの蛇は消えかかっている。この首元まであるセーターのおかげだ。赤い蛇は、私の鎖骨辺りから右に左に折れ曲がり、喉元を駆け上がり、ついには、あごの裏まで達している。このセーターの上に、さらにスカーフやマフラーでも巻いてやれば、あの蛇は完全に抹殺できる。

 とにもかくにも、今はまだ春先だから助かっている。この先、確実に夏がやって来る。当然、こんな重装備はできない。それを思うと、季節の移り変わりが憂鬱に感じられる。ずっと真冬が続いてくれたらどんなにいいだろう。そんな風変わりなことを考えるのは、世界広しといえども、この私ぐらいしかいないだろう。

 手であごの下を撫でると、確かにあの蛇は息づいている。周りの滑らかな肌とは、まったく異質の、不快な起伏が一筋の線となって下っている。赤くただれたその筋は、火山から流れ出す溶岩を連想させる。

 溶岩、まさにその通りだ。

 私の人生を狂わせたこの蛇は、確かにあの日の火事が原因なのである。あの忌まわしい火事さえ起きなければ。そんなむなしい妄想を、これまで何万回としたことか。

 家を出る前に、最後にもう一度だけ鏡を見る。

 私は、ストレートの髪を胸元まで伸ばしている。何とかこの長い髪の毛で、あの忌々しい蛇を隠せないものか、そう本気で考えてみたが、あまり役には立たないようだ。私は、目鼻立ちがはっきりしている方なので、自分で言うのも何だが、不美人ではないと思う。だが全てはこの異常な火傷跡が、女性としての自信を喪失させているのは明らかだった。

 アパートのドアに鍵をかけて、静かに階段を降りる。それでも木製の階段はギシギシと音を立てる。九時というやや遅い出勤時間のおかげで、アパートの住人たちとは顔を合わせなくて済んでいる。

 まだ冷たい風の吹く、三月中旬。私はアパートから坂道を下って大通りを行く。等間隔に続く街路樹も、この風にさらされて寒そうだ。観光客の一団が実に大げさな動作で、笑いながら近づいてくる。そんな時、私は舗道の端っこをうつむいて歩く。すれ違いざまに、この蛇に気づく者は一人もいない。

 十分ほど歩くと、職場が見えてくる。

 こんな赤い蛇を抱えながら、よく人前に出る仕事をしていられるものだと我ながら感心する。自分は、もっと人と接しない仕事をするべきではないのか。何か、自宅でできる仕事。そう、小説家や漫画家だったら、人前にこんな醜態を晒さなくて済むのではないだろうか。



      2


 昼。いつものように私は、スーパーでレジ打ちをしている。小さいスーパーだが、昼前と夕方には、多くの客でごった返す。

 私の仕事は、次から次へとやって来る買い物客に向き合う仕事だ。その一人ひとりの視線に、私は怯えている。

 今の時期はそうでもないが、夏場は明らかに好奇の目が向けられる。この首から伸びる、皮膚の赤くただれた傷跡を、客はすんなりとは見逃してくれない。私は敢えて彼らの視線に興味のない振りをして、ひたすら仕事に没頭する。

 客の視線から解放されるまでには、多少の時間がかかる。代金を受け取って、お釣りを渡すまでの、ほんのわずかな数秒が、私にとってはもっとも緊張する時なのである。

 客に何かを言われたらどうしよう。戦々恐々とした思いでレジに立つ。なるべく人に絡まれないようにするには、波風を立てないに尽きる。黙ってレジを打っていればいい。そのうち嵐は去っていく。

 しかし意外にも、この傷跡について、あれこれ私に言ってくる者はいない。たとえ興味が生まれても、それを口にするのは、さすがにはばかられるのだろうか。

 時には、面と向かって「気持ち悪い」と指をさされることもある。そんな時も、私は黙々とレジを打つしかない。何か反論を口にすれば、それだけその人と向き合う時間が長くなる。どうやっても私には勝ち目はない。「その通りです」と頭を下げていればよい。面倒は起こしたくない。

 大人はまだ優しい。理性がある。怖いのは、幼い子供だ。背の低い子供らは、どうしても私を見上げる格好になる。当然、あごの下の異変に気づいて、物珍しそうに私を観察する。黙って視線をぶつけるだけならまだいいが、隣にいる友達や母親に耳打ちするのを見ると、切なくなる。こんな小さな子供にも勝つことができない惨めさを思い知る。

 しかし子供を責めることはできない。全ては私が悪いのだ。この汚れた身体が悪いのだ。

 お昼の休憩時間は四十五分。レジ担当者は時間をずらして、交代で食事を取る。スチールのロッカーだけが整然と並べられた無機質な空間で、一人お弁当を広げる。自分は孤独だと、いつも思う。学生時代は、こんなふうではなかった。自分の周りには、いつも友達がいてくれた。あの頃は楽しかった。

 ところが今はどうだろう。話をしてくれる人はおろか、話を聞いてくれる人もいない。あるのは、客への「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」、そんな安い台詞だけだ。これは会話とは呼べない。

 一体、いつからこんなふうになってしまったのだろう。自分の人生はどうしてこんな詰まらないものになってしまったのだろう。

 答えは分かっている。全ては、この赤い蛇だ。こいつのせいで、私は人生、そして人格までも変わってしまった。

 日頃、人と会話をしないと、いざと言う時滑らかに口が動いてくれないことに気がついた。人間は日頃使わない能力を見事に退化させる。孤独な人間は、淀みない会話ができなくなっていく。このままでは、私は女性でないばかりか、人間でもなくなっていく気がする。

 ついこの前も、若い男性客からどうやらデートのお誘いを受けたのだが、うまく呂律が回らない自分に唖然としてしまった。

 もちろん、人と正面から向き合うのが怖くて、積極的になれないという理由もあるのだろうが、それにしても、人とおしゃべりができないとは情けない。

 やはり自分には、女性であるという自信が消えかかっているのだと思う。堂々と胸を張って、私は普通の女であるとは、とても言えないのである。

 結局、何もかもは自分のせいだと思う。今のこの自分を生み出したのは、他ならぬ自分自身だ。誰のせいでもない。



      3


 夜。いつものように、すっかり暗くなった道を一人歩いて帰る。どこへも寄り道をせず、まっすぐアパートを目指す。

 スーパー勤めをしていると、仕事を終えて、そのまま店内で買い物をすることができる。特別割引はないものの、賞味期限が迫っている食材をただでもらえることもある。その点は経済的に助かっている。何より、人のいる場所に出かける手間が一つ減るのは、実にありがたい。

 今日は、レタス、にんじん、たまねぎなどのお野菜と、コロッケ、天ぷらといったお総菜を片手に家路を急いだ。

 アパートに戻ると、時刻は八時半過ぎになる。まずは風呂の準備をする。アパートは新しくはないが、それでも風呂はちゃんと付いている。当然、そういう物件を選んだのだ。この身体で銭湯へ通うのは荷が重い。

 それから早速夕飯作りに取りかかる。私は料理をするのが好きなので、仕事で疲れていても全然苦にならない。一人暮らしを始めてから、まずは料理の本を買って、それを最初のページから順番に試してみた。スーパーに毎日通っているのだから、食材の調達に困ることはなかった。

 家族と住んでいる頃は、母親の手伝いや、学校の調理実習程度しか、料理する機会はなかったが、それでもいざ一人でやらなければならなくなると、案外まともなものが作れて嬉しかった。自分一人の分量しか作らないので、たとえ失敗したとしても、それほど大きな被害にはならない。

 最初はあれこれ作ってみたが、最終的には、サラダが一番飽きのこない食べ物だと気がついた。というより、一切火を使わない料理であることが、私には一番重要なのだ。

 コンロのスイッチを入れる。青色の可愛い炎が、円形状に整列する。この小さな粒は、人間に飼い慣らされた安全な火である。ほのかに暖かさを感じる。外から帰ったばかりの冷え切った顔が、ゆっくりと温められる。

 しかし、人間が手に負えない凶暴な火を、私は身を以て体験している。このコンロの火は、本来の火ではない。火はもっと恐ろしく、容赦なく人間に牙を向く。それを私は誰よりもよく知っている。

 ケトルが突然、甲高い悲鳴を上げた。ぼんやりコンロの炎を眺めていた私は、今やっと我に返った。一人でいる時間が長いせいか、ちょっとしたきっかけで、昔の思い出に身を委ねてしまう。

 もっと人と話がしたいと思う。そうだ、誰かに自分のことをもっと聞いてもらいたいのだ。女は一人ではやっていけない。話のできる友達がいないということは、女にとって廃人となるに等しい。これほど辛いことはない。たとえ刑務所の中にいたって、話をする相手はいるだろう。今の私には、見事にそんな人がいないのだ。

 この小さな身体に、私は暗い過去を背負って一人で立つ。誰か話を聞いてくれる人がいたら、いくらか肩の荷が下りるだろうか。そして、もっと自分を愛することができるようになるだろうか。

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