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第8話

 ルネはラプンツェラのお召物を着替えるその手伝いをし、またそれが終わると今度は絹のドレスの染み抜きをしようとやっきになっていたわけですが――ラプンツェラは「もういいのよ」と言うように、ルネの手が忙しく仕事をしようとするのを止めました。

 その日、エドガーさまがラプンツェラの塔へやってくると、彼女は早速石板に『もう会えません』と、しおれた花のように弱々しく別れの言葉を書きはじめました。

『なぜ?』

 当然ながらすかさずそう、エドガーさまは聞かれました。そしてすぐにピンと直感が彼に教えたのです――これはおそらく、宰相のリュミエールが関係しているに違いないと。

『この絨毯どうしたの?』

 エドガーさまは質問を変えましたが、ラプンツェラは悲しげに首を振るばかりでした。

『なんでもありません。インク壜を落としてしまったのです』

「ふうーん」

 王はラプンツェラが何か隠し事をしているとわかっていましたが、彼女を苦しめたくありませんでしたので、それ以上は何も追求されませんでした。何しろ自分はこの国の王さまなのですから、宰相のリュミエールがなんと言おうと、ラプンツェラには絶対に会いに来続けるつもりでした。

 エドガーさまはいつもしているように、ラプンツェラのほっそりとした白い形のよい手を撫で、そこに口接けようとしましたが、彼女はすぐに手を引っこめてしまいました。そしてもう一度石板に、『どうかお帰りを』と書きこんだのでした。

 流石にこれには彼もムッとしましたが、このくらいのことで諦めるようなエドガーさまではありません。エドガーさまはかねてよりしたいと思っていたことを実行にお移しになりました。すなわち、ラプンツェラのほんのり赤く色づいたような唇に、自分のそれを強引に重ね合わせたのでした。

 ラプンツェラは戸惑いながらも、石板に手を伸ばそうとしましたが、エドガーさまがそれを奪ってしまいました。彼はラプンツェラの手を強引に引っ張って寝室のベッドのところまでゆくと、彼女をそこに座らせました。エドガーさまはいつも、ここの天蓋つきのベッドの存在が気になって仕方がなかったのです。王城の自分の寝室にだって、同じように四本の柱に彫刻が施されていましたが、エドガーさまはとりわけラプンツェラの寝室のベッドのほうを気に入っていたのです。羽根枕からはほんのりと薔薇の香りが漂っていますし、柱の一本一本に船首像の女人柱に似た像が刻みこまれています。エドガーさまは以前からずっと、「何もしない」と約束した上で、ラプンツェラとこのベッドの上で寝てみたくてたまらなかったのでした。

『何もしないよ』

 エドガーさまは石板にそう書くと、困ったような顔をしたラプンツェラに、

『僕は少しここで眠るけど、その間、君にそばにいてほしいんだ。そのくらいいいだろ?』

 王はラシャ織りのジャケットを脱ぎ、革のブーツを床の上に放りだし、ベッドの上にもぐりこむなり、あっという間に眠りの世界へ落ちてゆかれました。ひとり現実の世界にとり残されたラプンツェラは、こんなにも大きく立派になった息子の顔を眺め、ぽろぽろと涙をこぼすばかりでした。

 もう二度と会えないと思っていたのに――でも、運命はなんて残酷なのでしょう!ラプンツェラは自分でも、我が子の幸福を祈ることこそ母の勤めと繰り返し自分に言い聞かせようとしたのですが、もう何もかもが無理でした。もし、彼がこの塔を訪ねてくることがなかったとしたら、ラプンツェラもルネとふたり、それまでと同じように平穏に暮らしてゆくことに耐えがたい苦しみなど覚えたりはしなかったでしょう。でももうすべてがラプンツェラの心の中では終わってしまったのでした。そしてもう二度と新しい扉が開かれることはないのだと思うと――ラプンツェラの魂は死んでしまうしかなかったのです。

 ラプンツェラは愛しい人の柔らかい髪を撫で、神さまに彼の加護を繰り返し何度もお願いすると、自分の遺書を枕元に置きました。彼女はふらつくような足どりでバルコニーまで歩いてゆき、涙でぼやけた視界にいつもの見慣れた景色を収めたあと――そこから真っ逆さまに墜落しました。即死でしたので、少しも苦しみはしませんでした。


「あーあーあーあーあーあああっ!!」

 エドガーさまが次にお目覚めになったのは、外から奇妙な女の叫び声がしてのことでした。部屋の隅にある柱時計に目をやると、時刻は午後の四時でした。半刻にも満たない時間、自分は眠っていたに過ぎませんでしたが、こんなにぐっすり眠ったのは生まれて初めてだとさえエドガーさまは思いました。彼は少し寝ぼけていたせいもあって――外の尋常ならざる気配に気づくのに遅れたのです。

「……ラプンツェラ?」

 彼は身を起こそうとした時に、枕元の紙切れの存在に気づき、何気なくそれを開きました。外からはルネの絶叫がしています。エドガーさまは恐ろしい思いでその紙片に急いで目を走らせました。


<エドガーさま、さようなら。

 ラプンツェラはすっかり生きることに疲れてしまいました。わたしはあなたの本当のお母さんだと――リュミエールさんはそう言うのです。何故こんなことになってしまったのか――わたしにもわかりません。ラプンツェラはただ、エドガーさまが立派な王さまになってくださることを望みます。ただひとつ心残りなのはルネのこと。どうか彼女のことだけは、王さまのお力でお守りくださいますよう、お願いします。ラプンツェラの最後のわがままを、どうかお聞き届けください。


                                 ラプンツェラ・ラッシェラ >


「……ラプンツェラ!」

 王がバルコニーの外を見下ろした時――そこにはラプンツェラのことを抱きかかえる番兵ふたりの姿と、狂ったように泣き叫ぶルネの姿がありました。死してなおラプンツェラは美しかったのですが、彼女の魂はもはやその肉体の中に生きてはいませんでした。ラプンツェラが餌付けしていた鳥が窓辺にやってきて、エドガーさまのことを慰めるように囀りましたが、王にはもう何も――その時聴覚が一時的に遮断されたようになって、何も耳に音が入ってきませんでした。

 これがラプンツェラとエドガー王の、悲しい恋の別れ、血の繋がった母と息子の、許されぬ愛の終わりだったのでした。


 

 >>続く……。




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