第7話
「リュミエール!リュミエール卿はいるか!」
王は城へ戻られますと、宰相が仕事をしている部屋に入るなり、そう大声で叫ばれました。執務室の机の上で巻き物を読んでいたリュミエールは、何事かと思い、書記に一旦部屋から下がるよう命じてから、王の御前に姿を現しました。
「これは一体何ごとですかな、王よ」
エドガーさまはそれまで書記が腰かけてリュミエールの口述を筆記していた椅子に座りますと、机の上に肘をつかれました。
「おまえ、わたしに何か隠していることがあるだろう。それも、お祖父さまのブライエンバッハ王のことで」
リュミエールはとんと心当たりがありませんでしたから、はて、というように首を傾げました。彼にとってはラプンツェラの存在など、今は大した問題ではありませんでしたので、彼女のことがすぐに思い浮かばなかったのも無理はありません。その上、先代の王のブライエンバッハ陛下のこととなると……リュミエールにはエドガーさまが何を申されているのか、まったく見当もつきませんでした。
「とぼけなくともよい。わたしはもうすべてを知っているのだ。よし、ここはひとつおまえにヒントを与えてやろう。まずはヒントその一」
エドガーさまは博識なリュミエールをやりこめてやれるのが楽しくてたまらないご様子でした。何故ならこの骨ばった魚のような顔をした男はこれまで、勿体ぶった顔をして事あるごとに説教ばかり垂れてきたからです。
「裏の森にある石の塔。ヒントその二、その塔に住むラプンツェラという名の絶世の美女……これでもまだ王であるわたしをたばかるつもりか、リュミエール」
宰相リュミエールの顔色は、エドガーさまが思った以上に青ざめていました。彼の手から巻き物が落ち、どこまでも床の上を滑ってゆきましたが、彼はそのことにさえまるで気づいていない様子でした。
「一体、どこでそれを……ああ、エドガーさま。番兵どもは一体何をしておったのか。あれだけわしは人を近づけるなと……」
「彼らを責めるのはお角違いというものだぞ、リュミエール。わたしはたまたま狩猟をしている時にオオジカを追っていて、偶然あの塔を発見したのだ。そして彼女が何者なのか、大体のところ見当がついた」
「……王はあの方に、お会いになったのでございますか?」
「いかにも」と、エドガーさまはさも得意げに頷かれました。「あのような美姫、いつまでも隠しておけると思ったか、リュミエール。何しろわたしとラプンツェラは血が繋がっておるのだからな、もうあのように不自由な生活だけは絶対にさせぬぞ。今日はそれを言いたくてわたしはここへきたのだ」
「そ、それでは王は、真実を……それともあの女が何か申したのでございますか?お父上のエドワールさまのことを……」
リュミエールは慌てて巻き物を拾い集め、またその中の一巻を巻き直しましたが、なかなかうまくゆきません。ラプンツェラがもし王城の、セシリア王大后の目に入るところにでも住むことになったとしたら――自分の今の地位とて磐石とは言えなくなってくるかもしれないのです。こんなことなら真実が露見する前にあの女を殺しておくのだった……リュミエールはそう苦い思いで後悔さえしました。
「お父上がラプンツェラと何か関係があるのか?」
この時エドガーさまは初めて、自分の推理がもしかしたら外れているのかもしれないと思いました。そしてリュミエールのほうでもまた、もしかして王は何か勘違いしておられるのではないかという可能性に気づいたのです。
「エドガーさま、ラプンツェラは本来なら王家に存在するはずのない女性なのです。にも関わらずああして彼女のことを生かしておいているのは、耳の聞こえぬ気の毒な方であればこそ……王さまにおかれましてはよくよく御配慮くださいますよう、このリュミエール、頭を低くしてお願いする以外ございません」
そう言って宰相が深々とエドガーさまのことを拝しましたので、王は組んでいた足をほどくと、椅子から立ち上がりました。
「わたしに向かって頭など下げなくともよい。わたしはただ……真実が知りたいだけなのだ。ラプンツェラはブライエンバッハ王の子なのだろう?王家の間にある肖像画……父上の妹のカミーユさまにラプンツェラはよく似ておるではないか。リュミエール、観念して白状しろ。さもなくば、いかにおまえといえども……」
「王よ、どうかお許しを。そのことはいかにわたしといえども、口には出せぬことでございますゆえ。賢明なる王におかれましては、裏の森の塔のことも、そこに住む美しいご婦人のこともお忘れになっていただきたい。以前彼女に言葉を教えたことのある侍医が――わたしにこう申していたことがございます。ラプンツェラに塔に閉じこもりきりの生活はつらくはないかと聞いたところ、「生きているだけで幸せ」との答えが返ってきたと……王よ、決して滅多な考えは起こされますな。王がよかれと思ってラプンツェラに対してしたことが――かえってあの耳の聞こえぬ気の毒な方を苦しめる結果にだってなるやもしれませぬ。どうかそのことをお忘れなさいますな」
「……わかった」
エドガーさまは低くそう呟くと、王衣を翻して宰相の執務室から出ていかれました。この時エドガーさまにはっきりわかったのは、ラプンツェラがブライエンバッハ王の子であるということと、ラプンツェラを王城へ連れてくるのは、確かにリュミエールの言うとおり彼女を幸福にしないかもしれないという、そのふたつのことだけでした。
(生きているだけで幸せ、か……)
果たして自分なら、同じように思うことができるだろうかとエドガーさまは考えました。たぶん自分なら、耳の聞こえないことを神に恨み、またあのような人の寄りつかぬ塔に幽閉されることになった運命を呪うだろう。それなのに……。
エドガーさまはラプンツェラの健気さにすっかり打たれると、せめて少しの間でもあそこから出して外の空気を吸わせてあげたいように思いました。
(可哀想に。彼女が何か悪いことをしたから耳が聞こえないわけでも、あんなところへ閉じこめられることになったわけでもないだろうに……)
王はその夜、ベッドの中で、ラプンツェラが何かあの塔の中でも楽しめることはないだろうかと考えながら眠りにつきました。ラプンツェラの顔がちらついてなかなか眠れなかったエドガーさまは最後には――せめても彼女が幸せであるようにと神さまに祈ってさえいました。王さまは生まれてこの方そのように敬虔な気持ちになったことは一度もなかったので、心の内側に芽生えた新しい兆しに自分でも驚きながら、眠りの底へと落ちていったのでした。
それから王は毎日のように、時間の許すかぎり、裏の森の石の塔へと出かけてゆきました。そしてよく晴れた日には湖のほとりまでふたりで仲良く散歩をしたり、またルネも誘って三人でピクニックを楽しんだりしました。エドガーさまは自分の後を尾けてきたリュミエールの側近の姿に気づいていましたが――あえて気にしないことにしていました。それよりも、うさぎやリスが森の中を動きまわる姿を見ては嬉しそうにはしゃぐラプンツェラの姿を、野生動物よりもなんて愛らしいのだろうと思ってじっと見つめていました。
そうなのです。王さまはラプンツェラの塔に通いはじめて一月と経たないうちに――彼女のことを愛しはじめていたのでした。
樹の影に隠れているリュミエールの側近にそこまで気づかれることはないだろうとエドガーさまは思っておられたわけですが、実をいうと宰相のリュミエールはそのことをこそもっとも心配して、側近に様子を窺わせていたのでした。
「ふうむ、やはりな」
リュミエールは側近のひとりからエドガーさまは塔の女性に恋をしているらしいとの報告を受けると、すぐに従僕たちに馬車の用意をさせて、自ら裏の森のラプンツェラの塔へと向かいました。途中から長い距離を歩かねばなりませんが、この際仕方がありません。何しろ王立学院でエドガーさまが単位をとるために授業をお受けになっている時しか、王に気づかれないで行動を起こせる機会はないのですから。
宰相リュミエールは石壁の塔を見上げると、十六年ほど前にここへ初めて訪れた時のことを思いだそうとしました――そしてあの頃に比べればラプンツェラも年老いて、よもや十六も年下の青年を魅了するだけの美しさは残っておるまいと、そのように想像していた
のですが、側近の報告によりますと「エドガーさまが夢中になるのも無理のない美女」ということではありませんか。
(やれやれ。まったく男というのはどいつもこいつも……)
リュミエールは側近の目の中にもやや尋常ならざる色が垣間見えるのを思いだして、螺旋階段を上りながら軽い目まいを覚えたほどでした。しかしながら、彼もまたラプンツェラが十六年前と同じく――あるいは十六年前以上に美しく艶やかで、溌剌とした生気あふれる女性であることに気づくと、エドガーさまの胸中を察して心が鉛のように重くなってゆきました。
つまり、彼としてはこういうつもりだったのです。ラプンツェラも年老いて、流石にお若いエドガーさまのお心までは掴めまい、と。それなら、せめてもの償いの気持ちもこめて、実の母と息子が会うことくらい許してやろうと――リュミエールはエドガーさまがお小さい頃より、セシリアさまから冷たい仕打ちを受けてきたのを知っているのでそう思ったわけですが、自分はただの偽善者であると思い知らされるばかりでした。
リュミエールは持ってきた紙に時候の挨拶やら何やら、持ってまわった文句を並べ立てたあとで、『あなたはエドガーさまが誰か知っていますか?』となるべく平易な言葉を選んで紙の上に書き記しました。ラプンツェラは突然彼の言葉がわかりやすくなったので喜び、『もちろん知っています』と彼からもらった紙に羽根ペンでさらさらと書きました。まだコツがあまりよくつかめないせいか、先頭の文字はかなり滲んでしまいましたが。
そう返事が返ってきて、リュミエールは驚いたのですが、それなら話は早いと思ったその矢先――『エドガーさまは王さまなのだそうです』と、宰相をがっかりさせる言葉が続いたのでした。
(そうか。彼女は連れ去られた自分の息子がよもや王さまになっていようなどとは想像もできなかったのだろう。無理もない。だが真実を話して、彼女のほうから思慮分別のある態度でエドガーさまとは接してもらわねば……)
『ラプンツェラ、あの方は貴女が十六年前に生み落とした息子なのですよ』
ラプンツェラはリュミエールが紙に書いた言葉を理解するのに、三十秒ほどかかりました。そしてショックのあまりソファから立ち上がった拍子に、インク壜をシルクの絨毯の上にこぼしてしまいました。
実をいうとラプンツェラは、エドガーさまの面差しに今は亡き最愛の方の姿――エドワール王子の面影を重ねていたのでした。彼がこの塔にきてくれるようになってから、ラプンツェラはまるで時間の螺子が昔に戻ったようだとさえ感じていたのに、こんなことって……(あんまりだわ)と、ラプンツェラは重い悲しみに打ちひしがれました。
『エドガーさまはあなたに恋をしておいでのご様子。でも忙しいわたしがわざわざ時間を割いて何故ここまでやってきたのか――これでおわかりいただけたでしょうな?』
ラプンツェラにはもはや、言葉もありませんでした。絹のドレスの裾がインクで汚れているのもなんとも思わず、震える手で羽根ペンを握りしめていました。
リュミエールは自分の用向きが片付くと、バルコニーから下の番兵たちに声をかけ、小間使いに上へあがってくるよう命じさせました。さらに彼は最後に、残酷にも――『わたしはもう二度とエドガー・エドワール・ド・エスカルド王にお会いしません。また王さまが来られても面会を拒絶することを誓います』という書類にサインさせました。ラプンツェラはそこに書かれていることの意味を理解はしましたが、ほとんど自動的に勝手に手が動くような感じで「ラプンツェラ・ラッシェラ」と拙い文字でサインしただけでした。
「よろしい」
宰相リュミエールは満足気ににんまりと笑い、インクが乾くのを待ってからその書類を巻いて黒衣の内ポケットにしまいこみました。そして証拠隠滅のために自分がラプンツェラに質問した紙とラプンツェラが自分に答えを書いた紙の両方を暖炉の火の中に捨てたのでした。
ルネはいけ好かない魚類系の顔をした男がきた時から、なんとなく嫌な予感がしていましたし、シルクの絨毯からインクの染みをとろうとしながらも――ラプンツェラが何かエドガーさまのことで消沈なさっているのがはっきりとわかっていました。それで思わずも、リュミエールが王城へ帰ろうとするその後ろ姿に、洗濯の汚水をぶっかけてやったのですが、番兵PもQも「宰相さまになんてことをっ!」などと目の色を変えたりはしませんでした。彼らにもまた、どうせリュミエールはろくでもない用向きでラプンツェラさまに会いにきたに違いないということがわかっていたのです。
リュミエールはあまりのことに言葉さえなかった様子ですが、何しろ少々おつむの足りない唖の娘のしたことですから、大目に見るしかありません。彼は「ぶわーくしゅっ!」と奇妙なくしゃみをひとつすると、ラプンツェラの塔から足早に去ってゆきました。
>>続く……。