第6話
エドガー王子は可哀想な子供でした。彼が八歳の時にブライエンバッハ王が亡くなりますと、八歳にして王に即位し、お母上のセシリアさまが摂政の座に就いたのでした。その元で宰相のリュミエールは思うがままに政治的手腕を振るい、時の権力者として栄耀栄華を極めたと言われています。
エドガー王子はお小さい頃より母上さまとは離れてご生活しておいででしたし、彼女は莫大なお金をかけて王城のそばに壮麗な離宮を建造しておりましたから、普段はもっぱらそちらのほうにいるのです。いくら息子といえどもなんの知らせもなしにお母上とは会うことさえ叶いませんでしたし、時には従者を使いに走らせても「今日は加減が悪い」と言われて会えないこともしばしばでした。
エドガー王子は父の愛も母の愛も知らずに育ち、その上小さな頃から『王』という重責まで肩に背負わされて――自分が本当にしたいと思ったことなど一度もしたことがないくらいでした。いえ、そもそも自分が本当は何をしたいのかさえまだその頃はまるでわかっていませんでしたし、ただ周囲の人間が言うとおり、まわりの人間が期待するとおりに振るまうことだけを心がけてきました。
エドガー王のご趣味といえば、ただひとつ狩猟くらいなもので、しかもそれは彼の敬愛する母が大変嫌っている趣味なのでした。彼が狩猟へ出かけようとするたびに、「野蛮極まりない」と言っては蔑むようにエドガーさまのことを睨んでくるのです。ですから、エドガー王もそのことでは大変悩まれて、十四歳の時にとうとう猟へいくことを自分に禁じてしまいます。でも狩猟へいかなくなっても相変わらず母上が冷たい態度であることに気づくと――もうセシリアさまの愛など一切求めないことに決めたのでした。そしてエドガー王は十六歳になる頃から再び貴族の若者たちを引き連れて狩猟へ出かけるようになり、そのたびに大物を仕留めてお帰りになられたのでした。
ある時、エドガーさまがオオジカを追いかけて王城の裏手にある森を馬に乗って駆けていると、ずっと遠くのほうに石造りの塔が見えました。エドガーさまはこの時結局オオジカを見失ってしまったのですが、代わりに大層面白いものを発見したと感じて――その日はウズラとイノシシだけを獲物として捕らえると、上機嫌で城のほうへ戻られたのでした。
次の日、エドガーさまは再び森の奥へと足を踏み入れると、馬に乗ってきのう見た石造りの塔へ向かいました。きのう狩猟をともにした貴族の若者たちの話によりますと、それは彼の父上であるエドワールさまの、天文観測台でしょうとのことでしたので――エドガーさまは肖像画でしか知らない父上のことをもっと知りたくて、急いでその塔へと馬を向かわせたのでした。
「きっとお父さまはあそこで、天文学の勉強をなさっておいでだったのだろう。僕も王立大学院へ入学したら、天文学を専攻しようと思ってるんだけど――母上は星の動きなど学んでも国の役には立たないなんて言われるし……」
エドガーさまはその昔リシャール先生とさる密偵が死体として見つかった湖のほとりを通りかかりますと、なんとはなしにとても悲しい気持ちになってきました。石造りの塔までは距離的にあともう少しでしたが、そこへいったところで結局、何か父上のことを忍べるものがあるわけでもないだろうと思ったのです。エドワール王の天体望遠鏡なら、王立大学院のほうに寄付されて、そちらで使われておりますし、何もないがらんとした石の塔までいっても、虚しい気持ちで王城へ引き返してくることになるかもしれない――エドガーさまはなんだかあの石造りの塔が自分のがらんどうの心の象徴みたく思えてきて、なんとはなしに足が重くなってきました。王城の大厩舎から出てくる時は冒険心で胸がはち切れんばかりであったにも関わらず、です。
けれども、塔の上のバルコニーにちらと女の人の姿が見えた時、彼の心は一転しました。
(……人がいる!それも女の人だ!)
エドガー王は興奮した喜びに包まれて、森の茂みを一気に駆け抜けると、目指す石の塔へとようやく辿り着きました。
「どうどう!」
王が栗毛の馬を止めると、ラプンツェラの塔の入口を守っている番兵PとQは、顔色を変えてエドガー王の元へと足を屈めました。
「王さまにおかれましては、本日もご機嫌麗しく……」
ふたりは声を合わせて慌てたようにそう口上を述べようとしたわけですが、
「何故おまえたちにわたしの機嫌が麗しいとわかるのだ?」
王はにべもなくそう皮肉げに笑っただけでした。番兵PとQは顔を見合わせてうろたえるばかりです。
「まあ、それはよい。もしかしたらわたしの機嫌がこれから麗しくなるかもしれぬのでな。それもおまえたちの返答次第によって」
PとQは一体どうしてエドガーさまはこの場所のことをお知りになったのだろうと、冷や汗が流れるのを感じるほどでした。最悪の場合、王の御機嫌だけでなく、宰相リュミエールさまの御機嫌さえ損ねることになるかもしれず、そうなると自分たちは首になるか、もっと悪ければあるいは……。
「何を黙っておる。わたしはここへ来る前に、この塔のバルコニーにあるご婦人が姿を現したのを見た。一体彼女は何者なのだ?何故このような場所にいる?ここは王の土地、すなわちわたしの土地であることはおまえたちも知っておろう。隠し立てするとためにならぬぞ」
まったく王さまのおっしゃるとおりでした。しかもその上自分たち番兵はこの王さまを守るためにこそ存在しているようなものなのです。番兵PとQは親友同士ということもあり、互いに頷きあうと、意を決しました。
「ここには王さまのおっしゃるとおり、あるご婦人が暮らしておいでです。そして我らの役目は彼女を守ることであります。しかしながらこのご婦人の身分に関しては我々も何も知らされておりませんし、また宰相リュミエールさまからは、決して誰をも近づけてはならないとの厳命が下っております」
「うむ。よくわかった。ふたりとも御苦労である。引き続き警護を続けよ」
王は馬からお下りになられると、番兵Qに馬の手綱を渡し、自分は塔の入口に入っていかれました。そこでエドガー王と出会ったルネは驚き、手に持っていた金だらいを床に落としてしまったくらいでした。それは彼女が王さまの顔を知っていたからではなく――事実彼女は彼が誰なのかさえ知りませんでした――あんまり彼の容貌が優れているので、まごついてしまったせいでした。
「おい、女。ここから上へいくにはどうしたらよい?階段はどこにあるのだ?」
ルネは手をXに組み、首を振り続けましたが、エドガーさまは彼女が唖であるとは理解せず、さらに詰め寄りました。
「さあ、早く教えるのだ。宰相のリュミエールがなんと言おうとこの国で――しかもわたしの領地で知らぬことがあるなどというのは絶対に許せぬ」
エドガーさまはそう凄みましたが、ルネは怯えたようにしゃがみこんで震えるばかりでした。彼は溜息を着くと、自分で階段の在処を探そうとしましたが、ここには調理室と食堂、それに奥のほうに番兵とルネが休むための部屋があるきりでした。他に浴室と便器の置いてある小さな部屋がありましたが、それ以外にはどこにも階段などありません。
エドガーさまは大変頭のよい方でいらっしゃいましたから、手を顎にあてて目を閉じ、暫くの間考えごとをなさいました。調理室に食堂、奥の間、小間使いの寝室らしき部屋、浴室、便所……そこですぐにピンときたのです。
彼は食堂の食器戸棚を仔細に調べ、すぐにそれが蝶番でうまい具合に開けられるようになっているのを発見したのでした。
「なるほどな。誰がこんな手のこんだ真似をしたのかは知らないが、なかなかよく考えてあるものだ」
そして王さまはこうまでして宰相のリュミエールが隠したい女性とは何者だろうと考えました。もしやあの堅物で、女嫌いとしても有名なリュミエールがこっそり愛人を囲っているとか?もしそうなら――自分はここで奴のよい弱味を握ることができる……エドガーさまは螺旋階段を上っていきながら、そんなことをお考えになっていました。
そして、とうとう鉄製のドアの前まできた時、エドガーさまは思わず喉をごくりと鳴らしていらっしゃいました。でも何度ノックしても返事がないので、ドアの取っ手に手を伸ばすと、そっと中の様子を窺いました。
「ピチィ、ピチィ、チチチチ……」
途端、バルコニーのほうから鳥の鳴き声と、その羽ばたきの音が聞こえてきました。室内には大理石の暖炉が中央にあり、奥は寝室になっているようでした。繻子のソファに螺鈿の卓、飾り棚に衣裳戸棚、サイドボード、化粧テーブル、ビューロー、チェスト、コモード……などなど、それらはエドガー王が今現在お使いになっている自室の物とも引けをとらぬほど、精緻な細工を施したものばかりでした。
エドガー王は驚きとともに部屋中をぐるりと眺め、最後に謎の婦人がいると思われるバルコニーのカーテンを引きました。そして彼がそこで見た人は――王さまがかつて見たこともなかったほど、美しい女性でした。
この時、ラプンツェラは三十四歳でしたが、俗世間の風に当たらずにずっとこの塔に幽閉されていたせいでしょうか、二十四といっても通用するような若さと美しさを保っていました。それに、彼女の顔の表情のおどおどとした悲しそうな何かが――ー層強くエドガー王のお心を捕らえずにはいなかったのです。
「……怖がらなくてもよい。わたしはそなたを、ここから解放する者だ。さあ、こっちへきてわたしと話をしよう。何故そなたがこんなところで暮らしているのか、その訳をわたしは知りたい」
ラプンツェラがエドガー王の手におずおずと自分の手を伸ばすと、彼は挨拶がわりにラプンツェラの手の甲に軽く口接けました。彼女はもう何年もそんなことをされていなかったので、ますますまごつきましたが、この若く凛々しい貴公子が一体なんのために自分に会いにきたのか――その理由を知るのが怖くてたまらなかったせいでもあります。何しろもうかれこれ十五年以上もラプンツェラはこの塔に放ったらかしにされており、ルネ以外の誰かにあったことなど、ただの一度もなかったのですから。
ふたりは繻子のソファに腰掛けると、互いを探りあうようにちらと眼差しを交わしあいました。エドガーさまはラプンツェラの男なら誰もがうっとりするような美貌に見とれていたのですが、それでいながらあんまりじろじろ眺めるとご婦人に失礼だとの心遣いから――彼女のことをちらちら盗み見ることしかできなかったのでした。
ラプンツェラはテーブルの上から石板を手にとりますと、そこに『あなたはだれ?』と石筆で書きこみました。エドガーさまはその時下で会った小間使いの娘のことを思いだし、おそらく彼女も今目の前にいる美しい人も耳が聞こえないのだと直感しました。そこで、傷だらけの石板の上に『僕の名前はエドガー。君の名前は?』と素早く書きこんだのでした。
『わたしの名前はラプンツェラ』
エドガーさまは「ラプンツェラ」と声にだして発音すると、その言葉の響きを楽しむように暫しの間瞳を閉じておられました。
『ラプンツェラちゃんか。君にぴったりの、可愛い名前だね。ところで君は何故こんな風変わりなところにいるの?』
するとラプンツェラは悲しそうに首を振りながら、
『わからない』
と石板に書きました。
「わからないって……」
エドガーさまにはまったくさっぱり訳がわかりませんでした。このように美しい人を秘密の塔に隠しておくからには――何か理由なり目的なりが必ずあるはずでした。エドガーさまがすぐに頭に思い浮かべた理由は次のふたつ。彼女がやんごとなき方の秘密の愛人であるか、あるいは彼女自身が何か罪を犯してこの塔に幽閉されているかのいずれかだろうと考えたのです。
『ここへは、時々誰か人がきたりするの?』
エドガーさまは消去法によって答えを得たく思い、そのようにラプンツェラに訊ねました。ところが、
『いいえ、誰も。ルネ以外は誰もきません』
『ルネってだれ?』
『わたしの身のまわりのことを色々してくれる人です。彼女はとても優しいのです』
エドガーさまは予想していた答えが得られず、大変頭を悩まされることになりました。このことはいかに頭脳明晰な彼といえども、なかなか解けぬ難問であるように思われましたし、何よりこれほど美しく清純そのものであるかのような女性が何か罪を犯したなどとは――エドガーさまには想像もできないことでした。第一、よくよく考えてみれば王の領地内で愛人を囲うなど、そのようなことが露見した日には宰相リュミエールといえどもただですむようなことではありません。
(となると、このことがわたしに知れたとしても、あの男には何か言い逃れることができる口実があるわけだ。何か、それならば仕方がないとわたしが納得するように理由が……)
エドガーさまは暫しの間目を閉じ、顎に手をやって考えごとをなさいました。ラプンツェラがこのように豪華な家具類や調度類に囲まれた部屋で暮らしているということは、それはそのまま彼女の身分の高さを示しています。先ほど調理室のテーブルの上には鶉の卵や血抜きをした鴨、種々の野菜や果物などが置いてありましたが、ああしたものは必ず、王城にある食料貯蔵庫から運ばれた食材に違いありません。その他にも、ラプンツェラの生活に入り用なものを運ぶ係の人間がいるはずですし、そうまでして彼女のことを生かしておくからにはそれ相応の理由があるはずでした。
(そうなると、一番考えられるのは父上かお祖父さまの愛人だったということか?あるいはお祖父さまの愛人が子を生み、それが彼女だったとは考えられないだろうか……もしそうなら、自分と今目の前にいるこの人は、血が繋がっているということになる)
そしてエドガーさまはふと、あることにお気づきになられたのでした。王家の間に飾られている、ある女性の肖像画にラプンツェラがとてもよく似た面差しをしている、ということに。そこで彼は(間違いない)と、頭のよい方が往々にしてそうであるように自分の推理を絶対のものとして確信しました。
(ラプンツェラはたぶん、お祖父さまの愛人の娘であるに違いない。僕のお父上は二十九歳という若さで亡くなっておられるし、よしんば彼女がお父上の愛妾であったとしても、ただそれだけの理由でこんなところに幽閉しておくはずがないではないか。さらには彼女がお父上の愛人の子だなどということは、年齢的にいってまず考えられない!)
「ラプンツェラ」
エドガーさまはあらためてラプンツェラと向き直りますと、彼女のほっそりとした白い手をとり、彼女の深い色をした青い瞳に真っすぐな眼差しを注ぎました。
「僕が必ず、君をこの不自由な生活から助けだしてあげる。そしてこの先も何不自由のない生活を保証してあげられたらって、そう思うんだ。いずれにしても、僕は決して君を悪いようにはしないよ。それだけは神に誓ってもいい」
エドガーさまは十字を切ると、ラプンツェラの薔薇色をした頬にそっと口接けました。そして名残惜しそうに彼女の手を離し、その日はそのまま石の塔の螺旋階段を下りることにしたのです。
>>続く……。