第7章 合衆国大統領:一九八四年三月三十日
その日、West Rye高校には朝から最高度の緊張感が漂っていた。
普段比較的ラフな格好をしている先生がスーツ姿で授業をしていたし、平素はだらしない格好の男子ですら、パリッとしたシャツにズボンという清潔感溢れる服装を身に纏っていた。そして何よりいつもと違っていたのは、校門に人の出入りをいちいちチェックする教師が立ち、一部の生徒には容赦なく声を掛け、優しい口調ながらも荷物検査まで強要したことだった。
無理もなかった。生徒たちが――いや教師もだったが――本日、アメリカ合衆国大統領がこの学校を訪問すると知らされたのはつい昨日のことだった。慌てふためいた教師陣ができたことといえば、突貫の校内清掃と翌日の生徒の服装に関する細々とした注意くらいだった。それでも多分彼らにとっては戦争のようなものだった。
和子はそんなアメリカ人たちの慌てふためいた様子を半ば傍観者のように眺めていた。日本からこのニューヨークの高校に転校してきてから九ヶ月が経とうとしていたが、言葉の壁もあり、和子はまだこの学校に溶け込めているという実感を持てていなかった。それでも、和子には孤立や鬱屈しているといった感覚はなかった。むしろ言葉や文化の違いもあって超然としていられるのが楽なくらいだった。何故ならこの学校には他に日本人はおらず、和子の過去を詳しく知る者も、彼女を好奇の目で見る者もいなかったからである。ここでの圧倒的多数派は郊外の裕福な地域に住む白人家庭の生徒で、自分の出自と社会的階層に無自覚といえるほどの絶対的自信を持ち、極東の島国から突然やって来た彼女に特段の関心を持つ者などいなかった。彼女にとっては、異邦人に対するその無関心こそが安住の地で、適度に心地良かった。日本の生活から一変し、言葉も苦労はしていたものの、好奇の目に晒され、銃撃に脅えなければならない日本に比べれば何倍もマシであった。銃規制の厳しい日本で銃撃され、銃天国のアメリカに安住するというのは皮肉ではあったが、和子にとってはそれが偽らざる現実だった。
朝のホームルームでは、教師のドロシー・バウターが今日の大統領訪問について改めて細々した注意を始めていた。――日本だと天皇が学校に来訪されるみたいなものか……。緊張したバウター先生の顔や周囲の生徒たちの表情を見ながら、和子はそんなことを考えていた。
「……それと、レーガン大統領は教育分野において国際的な視野を広げることに大きな関心を持っておられます。したがいまして、この学校でも外国から来て学ぶ生徒と特に親しく言葉を交わしたいとおっしゃっているんです。このクラスですと、日本からきたワコ・ヨシヤマとイスラエルからきているジョシュワ・フィッシュマンですね。あなたたちは大統領のスピーチが終わった後、生徒代表の一人として大統領と個別に挨拶するグループに入ってもらいます」
第三者だったはずの和子は、バウター先生が突然自分の名前に言及したことにハッとした。――大統領が外国から来て学ぶ生徒と個別に挨拶? この自分も? 確かに日本から来たのは事実だけど一応米国籍だって持っているというのに? 他人事だった騒ぎにいきなり巻き込まれた感じである。――昨日の段階ではそんな話はなかったはずなのに……。
「……お二人は簡単にどこの国から来てどんな風に勉強しているかなどの自己紹介をしてもらいますので、予め挨拶を考えておくようにお願いするわ」
ドロシーが話し終えると、クラスの生徒たちは一斉に、和子ともう一人のジョシュワの方に驚きと幾分かの羨望が混じった目を向けた。
「はい、先生……」和子は周囲の生徒の目を意識する間もなく反射的に答えたものの、ハテと思った。――「教育分野において国際的な視野を広げることに大きな関心」? もちろん、渡米して九ヶ月しか経っていない和子がアメリカ政治を語ることなどはできないのだが、父親が家でたまに話すレーガン大統領の人物像とはイメージが少し違うような気がしたのだ。
「ヘイ、ワコ!」
後の席のバレリーが小さな声で呼び掛けてきた。バレリーは栗色のセミロングの髪がよく似合う丸顔の可愛い子だ。和子にあまり警戒感を持たせない範囲内で日本のことにも興味を持って色々訊いてくるタイプで、このクラスの中では比較的よく話す仲になっていた。
「私の家はママもパパもレーガン大統領の悪口ばかり言っているから、私もあんまり好きじゃないんだけど、それでも合衆国大統領と個別に挨拶できるなんて羨ましいわ」
バレリーはそう言ってウィンクした。その話し振りからすると、民主党支持の一家ということらしい。和子は返す言葉もなく曖昧に微笑むしかなかった。どうやら、やはりアメリカ人にとって合衆国大統領に会うことができるというのは大変なことのようである。和子は今まで考えたこともない政治の世界が急に身近に感じられ始めた。
午後の授業が終わると、全生徒は体育館兼講堂に集合するよう全校放送での指示が流れた。和子はクラスメートの流れに添って、講堂の方に移動した。
講堂には既に椅子が並べられ、学年別に席が分かれていた。ただ、和子たち外国人生徒は大統領のスピーチ終了後に前に出やすいよう、一番右側の列が割り当てられていた。講堂の前の方には学校のブラスバンドがスタンバイしていた。生徒たちはザワザワしながらもそれぞれの席の前に立ち、大統領の到着を待った。会場が徐々に静かになり、ブラスバンドが「星条旗よ永遠なれ」の演奏を始めた。間もなくレーガン大統領が入ってくるはずだった。
やがて講堂の檀上に向かって左側の袖から四~五人のSPと思しき一群のスーツ姿の男達が物々しく現れた。「星条旗よ永遠なれ」が盛り上がるタイミングで、SPの後から背の高いやはりスーツ姿の男性が現れた。レーガン大統領その人であった。和子にとっても直に見るのは初めてである。割れるような拍手のなか、レーガン大統領は手を上げ笑顔を振りまきながら演壇に向かう。テレビでよく見る仕草そのものである。和子は何故だが突然とても誇らしい気持ちになった。米国籍は持っているものの、今まで特に自分をアメリカ人と思ったことはなかった。しかし、今「星条旗よ永遠なれ」を聞きながら大統領の登場を間近で目にすると、この偉大な国家の一員であることに身が震えるほどの感動を覚えたのである。
レーガン大統領はゆっくり演壇に近付き、満面の笑みを湛えて生徒の方を向くと両手を振った。一段と大きい拍手が巻き起こる。それに応えるように大統領が演壇の前に立った時「星条旗よ永遠なれ」の演奏が終わった。一瞬の間を楽しむかのように大統領は演壇から着席する生徒の方を見回す。生徒もレーガン大統領がどんな言葉を口にするのか固唾を呑んで見守った。
“Good afternoon and thank you very much, my fellow West Rye Students”
大統領がその人懐っこい陽気な甘い声で校名を含めた挨拶をすると、民主党支持が多いはずだったこの高校の生徒たちも一瞬にして魅了された。再び万雷の拍手が起こる。和子も思わず声に魅せられ、拍手をしていた。――そういえばこの人、俳優もやっていたんだっけ?
レーガン大統領は二〇分程度、メモも見ずに勤勉や努力の大切さを語り、そして何よりも自由の尊さを世界中と仲良くすることの重要さとともに自分の言葉で語った。それは文字として読んだとしたら陳腐な内容だったかもしれない。しかし、その時、その場でレーガン大統領が語ったことを聞いた者はきっと深く共感し、政治的信条はともかくとしてレーガン大統領を好きになったことだろう。それくらい人間としての魅力に溢れていたのだ。和子も英語を完全に理解できたわけではなかったが、突然レーガン大統領のことが大好きになったような気がした。
スピーチが終わると、校長がマイクを取り、「これからレーガン大統領が外国からこの学校に学ぶ仲間と交歓します」と言った。
和子はたった今自分を感銘させたレーガン大統領と自分が愈々対面することになるのに軽い興奮を覚えた。――アメリカ人だってそんな機会は滅多にあるものではないだろう! バウター先生が誘導係となって右側に並ぶ生徒を誘導し、演壇の前に一列に立たせた。レーガン大統領はゆっくりと演壇を降り、SPに囲まれながら向かって左の端の方に歩いて行く。和子は少し緊張しながら一緒に並ぶ他の外国人生徒たちと共にレーガン大統領の動きを見守った。
その時、SPの一人が和子の方を見遣りながら大統領に耳打ちをするような仕草を見せた。和子がおやと思った瞬間、レーガン大統領も和子の方をちらりと見た。一瞬自分のことを話しているのかと思ってドキッとしたが、直ぐに大統領は左端の最初の生徒と話し始めた。さっき右側に並んでいる時に数えていたのだが、和子は十三番目だった。日常会話については英語でも何とかなるという感覚は出てきていたが、相手が大統領となると話は別である。――上手く自己紹介できるだろうか。それに応じるレーガン大統領の言葉を聞き取れるだろうか。相手が何と言っているか分からなくても”Excuse me?”などと訊き返すわけにはいかないのだ。
あれこれ考えているうちに、大統領はどんどん迫ってくる。和子がもう一度発言内容を確認しているうちにとうとう和子の前に来た。――さあ、日本から来た高校生として合衆国大統領の前で恥ずかしくないようにしよう。和子はそう思って口を開いた。まず出身を述べ、続いて言葉や文化の違いはあるけれどもアメリカの自由な環境の中で自分の可能性を信じて頑張って勉強している、というような趣旨の話を訥々とした英語で奏上する。話しながら、和子はコチコチになっている自分を発見した。――これは映画の撮影よりも緊張するかもしれない!
和子が話し終えると、今度は大統領が声を掛けてくる段取りである。背の高いレーガン大統領はテレビでもよく見るあの魅力的な笑顔を和子に向けてじっと見下ろしていた。和子は逆に見上げながら、緊張の一方で、大統領が発するであろう言葉を必死で追い掛けるべく両耳に神経を集中させた。大統領はおもむろに口を開いた。
“I got shot, too, you know, three years ago. But look at me. I survived and got even stronger. So you trust in yourself and break a leg…..”
和子が発せられた言葉を音としてそのまま脳に録音していく作業を何とか終えると、レーガン大統領は笑顔で大きな手を差し伸べてきた。和子も右手を差し伸べ、二人は固い握手を交わした。大統領の大きな温かい掌を感じつつ和子は夢中で笑顔を返した。レーガン大統領はウィンクを投げると、右隣のジョシュワの前に移る。大統領は、イスラエル出身であることを自己紹介するジョシュワに、何歳までイスラエルにいたのかを訊き、スピーチ同様、勤勉さと克己心の重要性を語り、握手を交わして更にその次に移っていく。
和子はその姿を目で追いながら、改めて自分の番は終わったとホッとして、自分が音として機械的に認識したレーガン大統領の言葉を反芻し、漸くその意味を振り返り始めた。
――”I got shot, too” ”I survived”……それが彼女の耳が認識した英語であった。――一体何のことを言っているのだろう、何の……? その意味を悟った瞬間、和子の頭に突如恐ろしい光景がフラッシュバックのように蘇った。あの夜の竹林での光景……血まみれの自分の手……土気色の顔で横たわる塚町……。
式典はまだ続いていたが、ちょうど一年前の惨劇の記憶が発作のように和子に襲い掛かってきた。立っているのさえやっとになったその時――思いもかけず和子の頭の中に全く別の映像が飛び込んできた。それはまるで大統領自身があの竹林のことを言ったのではないとカットインしてきたかのようだった。手を上げて周囲に笑顔を振りまきながら歩くレーガン大統領が、突然乾いた銃声と共に大きく揺らぎ、警護の者が交錯するなか人垣が揉み合う――。当時日本でもテレビで繰り返し放映された暗殺未遂事件の映像で、和子も何回も見たものだった。――そう、レーガン大統領も銃撃を受けていた! 私が銃撃を受ける二年も前に! あれも確か三月だった! そして彼も生き延びたのだ! 私が銃撃を受けた時、何人の人が「あの高齢のレーガン大統領も銃撃から生還したんだから」と言って励ましてくれたことだろう!
和子は動悸を覚えた。そして、外国人生徒との挨拶を続けている遠くの大統領を横目で追いつつ考え込んだ。――何故自分が撃たれたなどということを私に話すのだろう? しかも、「私も銃撃を受けた」だなんて。大統領は私が日本で銃撃されたことを知っているんだろうか?
大統領は漸く一通り外国人生徒との個別挨拶を終えたようだった。”Thank you”と言い、満面の笑顔で手を振ると、それを合図とするかのようにブラスバンドが見送りの曲を演奏し始めた。大統領は満場の拍手に見送られつつSP達に囲まれて会場を後にする。それを前の列で見詰めつつ、和子は大統領の元に走り寄って今何と言ったのかもう一度問い質したい衝動を覚えた。――他の人にも同じことを言っていたんだろうか? 否、自分の前後の生徒にはアメリカは自由と希望の国で勤勉さがどうの克己心がどうのとありきたりのことを言っていたはずだ。なのに自分にだけはあの大統領暗殺未遂事件のことを言うとは――。
大統領一行が見えなくなり、拍手が止んでも、ブラスバンドの演奏は暫く続けられた。やがて大統領車が学校から出発したであろうタイミングに漸く演奏が終わり、特段の指示もなく解散となった。周りの生徒がガヤガヤと動き始める中、和子はまだ硬直して先ほどの大統領の言葉を考えていた。後ろから肩を叩く者がおり、振り返るとそれはバレリーであった。
「どうだった? 握手した? 何かしゃべったの?」
バレリーは興味津々という顔で目を輝かせながら和子に尋ねた。和子はまだ衝撃から立ち直れずぼーっと視線を返した先のバレリーの顔も焦点を結ばなかった。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
和子の様子に気付いたバレリーは心配そうに和子の顔を覗き込んだ。
「ええ」和子は額に手を当てながら答えた。「緊張して少し疲れたみたい。でももう大丈夫。さあ、今日はもうこれで終わりね」
和子は漸くバレリーと肩を並べてのろのろと講堂の出口に向かって歩き出した。大統領の言葉を頭の中で繰り返しながら――。”I got shot, too, you know, three years ago. But look at me. I survived and got even stronger. So you trust in yourself and break a leg…..”