第5章 夢の終わり:一九八三年四月十八日
和子は薄暗い部屋の中に立っていた。楠木社長の社長室だ。和子はこの部屋で楠木が映画への愛を語るのによく何時間でも付き合っていたものだった。顔を上げると、社長机の向こうに窓を背にして立つ楠木がこちらを向いていた。
「和子、次の映画のためにアメリカに行ってもらうことになった」
楠木は目を通していた書類を机の上に投げながら少しぶっきらぼうに言う。背中の後ろの窓から師走の夕陽が差し込み、楠木社長の表情は逆光でよく見えなかった。
「今度の『時をこえる少女』は、春のクランクインまでもうあまり時間はない。冬休みにはみっちり台本を読み込み、役作りをしておいてもらわないといけないが、家に籠ってばかりもつまらないだろう。そこでだ。一つ冬休みの褒美旅行ということにしてアメリカのハリウッドに行ってリハーサルをしてもらうことにした。そう、映画の街、ハリウッドだ。ちゃんとしたスタジオも用意させた。思い切り練習して、そしてオフも思い切りアメリカを堪能するといい」
楠木社長は和子が存在しないかのように一方的にしゃべり続けていた。その時、和子は楠木社長の隣にもう一人男が立っていることに気付いた。カメラマンの鷺沼だった。
「鷺沼はもう勝手知ったる仲だろ」鷺沼をそう紹介する楠木の声が急に遠ざかると共に、鷺沼がニコニコして和子に手を振り、「和子ちゃん、宜しく」と言った。和子も手を振ろうと思ったが、手が動かない。いつの間にかそこは天井の高いだだっ広い空港の中で、周りを荷物を持った様々な国の旅客が忙しなく行き交っていた。
「和子ちゃんはLAは本当に初めて? お父さん、商社の方でこっちで働いてるんでしょ?」
後ろから日本語の声がしたので振り返ると、鷺沼の妻の冽子がいた。――冽子さんはいつも格好良くて素敵な女性だ、と和子は思った。淡い水色のワンピースがよく似合っていて、大きなサングラスをヘアバンドみたいにロングヘアの頭に掛けているのも様になっている。――これじゃあまるで冽子さんがモデルで自分がそのお付きの人みたい。
「ええ、父のいるニューヨークなら何回かあるんですけど、西海岸は本当に初めてなんです」
「そう、じゃあお仕事だけじゃなくて色々とLAも見て回らなきゃね。ディズニーランドなんてどう? もうすぐ東京にもできるけどやっぱり本場を見とかなきゃ」
冽子はサングラスを目元に掛け直しながら優雅に語り掛けてくる。
「いいんですか?」
和子が少し躊躇うと、背後から鷺沼の声がした。
「そうだよ。そのくらい行こうよ。こっちだとあまり人目を気にせず遊べるだろうし」
和子がその言葉に「やった!」と喜んだ瞬間、そこは強烈に明るいスタジオに変わっていた。和子の周りを百台はあるのではないかと思えるほどのカメラが取り囲んでいる。身体が動きにくいなと思ったら、学校の制服を着ていてその下には体中にセンサーが貼り付けられている。目の前のカメラの横には鷺沼がいて、カチンコを持ってスタンバイしていた。
「はい、じゃ、撮影入ります。崖のシーン、テイクファイブ。スタート!」
鷺沼の声と共にスタッフが持っているのやら天井から吊るされたのやらの百台以上のカメラが一斉に回り始める。この崖のシーンは、「時をこえる少女」の中で主人公が過去の一部始終を見るタイムリープに入る重要な場面である。和子は懸命に演じた。
「OK!」モニターに見入っていた鷺沼がそう言ってカットを入れた。和子がホッとしてスタッフから受け取ったタオルで額の汗を拭っていると、鷺沼がカメラの向こうから「和子ちゃん。お客さんだよ」と呼び掛けた。和子が顔を上げると、鷺沼の後ろから思わぬ人が現れた。
「和子ちゃん」
それは塚町だった。LAだとやや異様に思えるような黒い長いコートを着ている。
「塚町君!」和子は驚いて思わずタオルを落とした。「どうしてロサンゼルスへ?」
思いがけない訪問客に、そして誰よりも懐かしい人の登場に和子はちょっとドギマギした。
「僕だって家族との冬休みはあるからね。明けましておめでとう」
塚町はそう言ってニッコリ笑った。昨日、一九八三年の正月が明けたばかりなのだ。
「明けましておめでとう。A Happy New Year!」和子は少しはにかみながら英語を使った。
――それにしても、どうして塚町君もLAに来るってこと言ってくれなかったんだろう?楠木社長は知っているのかな?
「いつまでいるの?」と和子はできるだけ塚町が長くいてくれますようにと祈りながらも冷静を装って訊いた。塚町はスタジオの中を興味深そうに眺めながら答えた。
「一月五日までかな。もちろん君のお仕事の邪魔はしない。今日はちょっと寄っただけだよ」
すると、二人の会話を横で聞いていた鷺沼が意外なことを言いだした。
「和子ちゃん、明日くらいオフにしない? みんなでディズニーランドにでも行こうよ」
それは予定外のことだった。「え、でも……」と和子は少し戸惑った。あまりにも思いがけない話だったからだ。照れ笑いを浮かべながら頷くと、鷺沼はすかさず両手を叩いて言った。
「よし、決まり、と。冽子に言っとくよ。下調べしとけって」
塚町は相変わらず百台以上のカメラが並ぶ光景を不思議そうに眺めている。
「これって『時をこえる少女』の独りリハーサルなんでしょ? 凄い数のカメラですね」
「そうだよ。君もやってみる? あの崖のシーン」鷺沼が嬉しそうに持ちかけた。
「え? いいんですか?」
「いいも何も君だって出演する映画じゃないか。ちょうどいいよ」
鷺沼がそう言って笑った途端、もう塚町と和子はスタジオの真ん中で抱き合って立ったままスタンバイしていた。塚町との共演は別に初めてでもなかったが、和子は塚町の身体の温もりを感じ、急に胸が高まった。天井からライトが射し、またも百台ものカメラが準備に入る。
「崖のシーン、テイクファイブ。アクション!」
和子と塚町は見詰め合い、和子は塚町の瞳に引き込まれていった。
「土曜日の実験室!」塚町が叫ぶ。塚町の綺麗な顎のラインを見て和子は目を閉じる。塚町に抱かれて。塚町の心臓の音を感じて。
でもその幸せは一瞬でしかなかった。気付くと和子はオープンテラスのプールサイドに佇んでいた。太陽はとっくに沈んでいたけど、西の方に僅かな紫色の残光があり、珍しく澄んだ空に星が瞬いていた。通り抜ける夜風は涼しく、寒いくらいだった。
二週間の長丁場だったLAのリハーサルも終わり、今日はハリウッド側のスタッフがフェアウェルパーティを開いてくれているのだ。みんなが口々に“I miss you”と言ってくれるのを聞いて和子は心から来て良かったと思った。言葉も上手く通じないし、日本の撮影スタッフとは全然違う人たちだったけど、この人たちとの二週間は和子にとっては何物にも代え難い思い出となった。みんなプロ意識が高い一方、底抜けに明るく和子を楽しませてくれたものだ。――太っちょの陽気なイタリア系で道化者だが映像編集に関してはその道三十年のGomesさん、分厚い眼鏡をかけてちょっと暗い感じの人だけれどもコンピューターグラフィックスのパイオニアのBobさん、長髪の背の高いクールな感じの人で身体測定専門のKindleさん、そしてこのスーツ姿の……。和子の視線はハタとその人物に釘付けになった。プールサイドにみんなから一人離れてカクテルを飲んでいる端正な顔をしたスーツ姿の白人の男だ。確か最初ここに来たときからずっとスーツ姿でいた男だと記憶しているのだが、誰だか名前が思い出せない。そういえば、その男はみんなの談笑の輪には決して加わらず、いつもにこやかに周りを見ているだけだった。悪く言えば監視しているみたいでもあった。感じが悪かったわけではないけれども。ただ、鷺沼だけは時々その男のところに行って何か話し込んでいた。時には真剣に、時には楽しげに。鷺沼は英語が堪能だから誰とでも話すが、この男との親密さは他のスタッフとは少し違っているように見えた。――何故この男だけ名前も思い出せないのだろう?
その男が急に立ち上がって和子の所に近付いて来た時、和子はドギマギした。ちょうど和子が一人になった一瞬のスキをついて近付いて来たのだ。和子はお手洗いに行くふりをして建物の中に入った。バーカウンターのところで後ろを振り向くと、男もドアのところに立ったまま、中を覗き込んで室内に入ろうかどうか迷っているような様子だった。和子が前に向き直ってお手洗いの方に向おうとした時、視界の隅に男が室内に入ってくるのが映った。
――附いてくる! 和子は少し怖くなって廊下に出ると、そこは真っ暗だった。――お手洗いはこの先じゃなかったっけ? 逡巡する間もなく廊下に革靴の足音が響いた。男の足音に違いなかった。遠くに非常灯の明かりが見える。あそこまでに行けば誰かいるかもしれないと訳もなく思い、和子は歩き始めた。革靴の足音も歩調を合わせる。和子が止まると足音も止まった。それを二、三度繰り返すと、和子は流石に気味悪く思い始めた。――どうしてこの人は自分を附けるんだろう? そもそもここはどこなんだろう? ホテルの建物の中に入っただけなのに、何故こんなに暗くて寂しいのだろう? 何度目かに立ち止まった時、和子は自分の心臓の高鳴りが聞こえてくるように感じた。――後ろを振り返ろうか、どうしようか? 和子はとても怖かったが、少しずつ体を回して後ろを向こうとした。暗闇の先に黒い影が立っていた。――さっきの男だろうか? 更に目を凝らして見極めようとしたその刹那、突然誰かに後ろから口を塞がれる感覚を覚えた。世界はパッと明るくなり、和子は宙に放り出された。
和子が目を開いた時、いつもの白いカーテンがぼんやりと見えた。――病室だ、と和子は思った。カーテンのひだの濃淡が網膜に映っているのだが、凝視しても焦点はなかなか合わなかった。けれども、撃たれた後に運びこまれた病室にまだいることだけは確かだった。
カーテンが細かい皺まで見えるようになって、漸く和子は首を動かして左右を見た。左側に白色の壁を背景に黒い人影が立っている。目をしばたたかせてその人影を見詰めると、やがて知っている人物に像を結んだ。カメラマンの鷺沼だった。
「和子ちゃん、起きた?」和子が目覚めたのに気付いた鷺沼は小声でそっと話し掛けてきた。
「鷺沼さん……」和子はそう言って上半身を起こそうとしたが、まだ反射的な動きに付いていける状態ではなかった。
「ああ、動かなくていい」鷺沼は両手で押さえる仕草で和子にじっとしているように言った。
「和子、鷺沼さん、さっきから来て下さっているのよ」
部屋の隅から別の声が聞こえてきた。母親の紀子だった。彼女は和子が銃撃を受けて以来、ほとんど付きっ切りの看護をしている。どうやら今も部屋の片隅で和子のことを見守っていたらしかった。和子はゆっくりと上半身を起こし、鷺沼の方に首を向けた。
「まだ完全には治っていないんだから無理しないでいいよ。これ。僕と冽子から」
鷺沼はそう言いながら、傍の丸椅子に置いてあった花束を手に取って和子の方に示した。和子はまだ少し頭がぼんやりとしているのを感じながら掠れた声で「ありがとう」と言った。銃撃事件の日以来鷺沼と会うのは初めてだった。そもそも家族以外の面会者がこの部屋に入ることもほとんどなかった。和子は、鷺沼の示した花束を見て、優しい人だなと思った。――一体鷺沼さんはいつからここにいるのだろう? そう思った和子は小声で尋ねた。
「今何時ですか?」
「夕方の五時半を回ったところだよ」鷺沼は腕時計を見ながら答えた。
和子はそもそも自分がいつから眠っていたのか混乱した。――確か昼食後に警察の人が来て色々聴取されたけど、あれは今日のことだったのだろうか、それとも昨日だったのだろうか? 鷺沼の肩越しに見える壁掛けの日捲りカレンダーは四月十八日の月曜日を示していた。
「今日は何日だったかしら?」
鷺沼はそう呟く和子の視線の先を追って振り返り、そこにある日捲りカレンダーの日付を見て一瞬ハッとした様子をみせた。しかし、すぐに平静な顔となり、和子の方に向き直った。
「今日は十八日、四月十八日だよ」
「そう、四月十八日……」
和子は言いかけて口を噤んだ。警察が来たのは今日の昼で、自分は四時間ほど眠っていただけだということは分かった。しかし、言うべき言葉が見付からず、視線が正面の中空を彷徨ったのは別の理由だった。四月十八日は、偶然にも「時をこえる少女」の中で主人公が日捲りカレンダーを捲るの捲らないのといった話のキーとなる日付なのだ。鷺沼もそれに気付いて先ほど少しハッとしたのだろう。何も言わなかったのはおそらく自分に映画や塚町のことを思い出させまいとする彼なりの配慮なのだろうと和子は考えた。病室に少し気まずい時間が流れた。
塚町が銃撃事件直後に死亡したという本当のことを和子が教えられたのは、事件から十日も経った四月九日のことだ。最初、銃撃のショックもある上に塚町の死を知れば和子の精神状態がどうなるかわからないと心配した周囲は、塚町の状況について和子には曖昧にしか伝えていなかったのだ。しかし、和子が少しずつ回復に向かうにしたがっていつまでも隠せないと悟った母親の紀子が、十日後の夕方、静かに塚町の死を和子に告げたのだった。
それから暫く和子の精神状態は文字通り崩壊した。――塚町君が死んだ。私の元から突然消えてしまった。二度と会えない場所へ独り逝ってしまった、あの塚町君が――。塚町を想って思考は彷徨い人のようにグルグル回り、来る日も来る日も涙が止まらなかった。両親や医者ともまともに話すことすらできなくなり、退院予定は大幅に延期された。和子が漸く塚町以外のことも考えられるようになったのはついこの三~四日のことだ。塚町を想って泣いている自分をどこか別の場所で冷静に眺めているもう一人の自分を感じ始め、暗黒の沼底から少しずつ抜け出せるようになってきたのである。それは我ながら奇妙な感覚だったが、「自分の居場所から離れてみる」ことによって自分を取り戻すといった感じだった。和子はまず母親と身の回りの話をできるようになり、次に医者との会話も少しずつ再開できるようになっていた。
鷺沼が面会に来たのも自分が落ち着いてきたことを聞きつけたからだろうが、それでも塚町を想って狂乱状態に陥っていた自分のことは流布されているのだろう、カレンダーの日付一つにせよ、映画や塚町のことを思い出させかねないことに鷺沼がピリピリするのも無理はなかった。鷺沼はベッド脇に立ち和子を優しく見詰めていたが、近くのビルの夕陽の照り返しが部屋の中に差し込んできて、白い病室が黄金色に染まり、鷺沼の頬も動く毎に反射し始めていた。
「あたし……夢を見ていた……」随分長い沈黙を破ったのは和子の方だった。「何だか……凄く長い夢……」和子はぼんやりと正面を向いたまま力ない声で呟いた。
鷺沼は何と言っていいか分からないような顔をしていたが、手に持っていた花束を横の椅子に置き直すと、椅子に腰を下ろし、小さい声で優しく気遣うように尋ねた。
「うなされたりしなかったかい?」
「ううん、大丈夫……むしろ懐かしい夢……アメリカに行ってた時の夢……」
和子はポツリポツリと言葉を吐き出し、次の言葉を探して少し口をつぐんだ。部屋の隅で編み物をしている母親は、耳を澄ませて和子が口にすることを聞いている。
「冬休みのLAの時の?」鷺沼は少し身を乗り出すようにして尋ねた。
「ええ、楠木さんからアメリカ行きを言われて……空港で鷺沼さんや冽子さんらと待ってて……それでスタジオでリハーサルしてて……塚町君も遊びに来て……」
和子が淡々と塚町の名前を口にした時、鷺沼の身体が僅かに硬直するのが見えた。――誰もが塚町君の名前が話に出るのに過敏になっている。和子はそう思った。
和子は途切れ途切れになりながらも夢の内容を鷺沼に語った。それを一通りうんうんと聞いた鷺沼は、暫く沈黙の後「楽しかったね」とだけ答えた。
――楽しかった。そう、楽しかった……。でも――。和子はノロノロと視線を移し、固い表情の鷺沼を見た。ふと先ほどの夢の最後の部分を思い出し、何故か鷺沼に訊きたくなった。
「どうしても……思い出せない人がいるんです……」
「えっ?」鷺沼は怪訝な顔をした。
「確か……最後のパーティのプールサイドにもいた……背の高い……スーツを着た人……」
鷺沼は途切れ途切れ話す和子の顔をじっと見ていた。それは何のことを言っているのか分からないという顔のようでもあり、また何か知っているのに言いたくない顔のようでもあった。鷺沼はやがて頭を振って言った。「背が高くてスーツを着た奴なら何人もいたからな。まあ、みんなスタジオの人だよ。その人がどうかしたの?」
そう訊かれると、和子も答えようはなかった。その人に夢の中で襲われそうになったというのは何となく話す気になれなかった。それは夢のことではあったとしても現実にLAで経験したことでもなかったからだ。それに名前が思い出せないのは別にその人だけでもなかった。
「ううん。いいんです」和子はそう言うと再び正面を向いて黙り込んだ。
鷺沼は軽い溜息を付いて暫く手持無沙汰にしていたが、思い出したように話題を変えて口を開いた。「もうすぐ退院できるって聞いたけど」
「ええ、まあ」
「良かった、良かった。知ってる? アメリカのレーガン大統領なんて七十歳の時撃たれたけど、三週間くらいで退院したんだよ。和子ちゃんは若いんだし。もう大丈夫だよ」
「レーガン……大統領?」
和子は銃撃直後にも執刀医師がレーガン大統領のことを言っていたのを思い出した。あの時は何も考えられなかったが、二年前のやはり春、芸能界に入る前の普通の中学生だった頃にレーガン大統領が狙撃されたという事件があり、テレビで銃撃の瞬間の映像を繰り返し見た記憶があった。――そうか、あのアメリカの大統領も銃撃を受けたんだ。しかも七十歳の時に。
和子の思考は再び彷徨い始める。鷺沼は会話のキャッチボールをしようと話を戻した。
「もうトイレとか自分で動けるようになったんでしょ?」
今度は、和子が答えるより前に、母親の紀子が部屋の隅から口を挟んだ。「ちょっとした体操もできるようになったんです」
鷺沼がニッコリして「そうですか、それは良かった。安心しましたよ」と相槌を打つと、和子はぼそりと呟いた。「だから、警察の人も来たんです……」
鷺沼は再び困ったような顔をした。鷺沼は和子が事件を下手に思い出さないようにと気を付けているらしいのだが、和子の思考は事件に纏わる話題に戻ってしまうのだ。
「何か言ってたかい?」鷺沼は努めて平静を装ったような顔に戻り、「大して興味はないが、話したければ無理には止めないが」という調子で合わせてきた。和子は昼にやってきた刑事のことを思い出していた。事件から数日後にも二〇分程度話を訊かれたことがあったが、今日は一時間程度と予め連絡があり、昼食後に尾道警察署の刑事が二人尋ねてきたのだ。眼光鋭い背の高い若い刑事と穏やかな顔をした中肉中背の中年刑事の組み合わせで、二人は自己紹介の後、最近不穏な動きをするファン、あるいは芸能活動の中で自分や楠木映画製作事務所に深い恨みを抱くような人物がいなかったかどうかという質問をした。熱狂的ファンがいるのは確かだが、和子は今まで身の危険を感じたようなことはなかったし、事務所のトラブルなども気付いたことはなかった。仮にあったとしてもそれは楠木社長マターであり、自分が預かり知るような話ではない。和子がそんなことを淡々と話すのを、二人の刑事は熱心にメモを取っていた。
和子は刑事との遣り取りをポツポツと鷺沼に語るうちに彼らが一つ妙なことに言及したのを思い出した。それは、米国大使館から直接尾道警察署に対し事件についての照会が入ったということで、中年の方の刑事は「使われた銃がコルト・ガバメントという米軍の制式拳銃らしいって報道に反応して情報の提供依頼があってね」と独り言のような説明をした。和子はTVドラマの中でモデルガンを扱ったことはあるが、もとより銃に詳しいわけはない。その銃の名も初耳だった。もっとも、和子は何故かその話についてもう鷺沼に話す気にならなかった。
和子は警察の話を終えると、疲れたように目を閉じた。病院の慮りなのか、事件以来新聞やテレビなどから遠ざけられ、世の中で何が起こっているか分かっていなかった。恐らく塚町が死に、自分が重傷を負った事件が世間的にはそれなりのニュースになっているのだろうということは想像ができたが、どういう風に報道されているのかは皆目見当がつかなかったし、また積極的に知りたいとも思わなかった。――でも……。一つだけ知りたいことがあった。
「鷺沼さん」と和子は口を開いた。「『時をこえる少女』はどうなっちゃうんですか?」
視界の片隅で鷺沼が再び緊張しているのが見て取れる。鷺沼は咳払いをしてから、「実はそれで今日ここに来たんだ」と言った。そして、少し沈黙を挟んだ後、それを口にした。
「映画製作は無期限延期となった」
再び沈黙が流れる。――そう、無期限延期。和子は心の中でその言葉を反芻した。それは実質的な中止のことであり、和子にもそれは分かっていた。心はこの数週間の事態の激動ぶりを受け止められないのだが、頭の方ではどこか冷静さを取り戻していた自分が無理もないことだと囁くのが聞こえた。主演女優と共演の俳優が撮影途中に銃撃を受けて、一方が重傷を負い、もう一方が死亡したのだ。その映画が製作中止になっても普通は仕方ないだろう。
「そうですか。そうですよね」和子は不思議と感情が高ぶることもなく淡々とそう呟いた。
「済まない。LAの時から僕も張り切っていたのにこんなことになるなんて本当に残念だ」
鷺沼は身を震わせながらそう言って頭を下げた。和子は掠れた声で鷺沼に声を掛けた。
「いいんです。別に鷺沼さんが悪いわけでもありませんし。楠木さんがそう決めたことなんでしょ。ひょっとして楠木さんから言われてこちらにいらっしゃったんですか?」
和子がそう訊くと、鷺沼は驚いたように顔を上げ、暫く和子の顔を凝視した。
「そうなんだ。よく分かったね。楠木さんも君のことは凄く気に掛けているんだけれども、何分忙しいだろ。アメリカの仕事でもトラブル……何か買収交渉のトラブルがあって今出張しているところだし。映画無期限延期を君に伝える使者役を僕に頼んできたんだ」
楠木社長が直接言いに来ないことについて鷺沼の口調はやや歯切れが悪かったが、和子はそれをそれとして受け止めた。そして、鷺沼が楠木社長の使者として来たのであれば、自分の使者にもなれるんだろうなと思った。
和子は手元に視線を落とし、少し黙り込んだ。この間から漠然と考えていたことが、映画製作の実質中止を聞いて、今完全にはっきりしたのを感じた。もう疑問の余地もない選択肢であり、意志を表明する時が目の前に来ていた。それは、楠木事務所を辞めることであり、芸能界を引退することであり、そして、日本を去ることだった。和子は少し背筋を伸ばし、鷺沼の方を向いた。鷺沼は無表情に和子に視線を返している。和子は低い声で口を開いた。
「じゃあ、今度は鷺沼さんが楠木さん宛の私の使者になっていただけませんか?」
和子の口調に只ならぬものを感じたのか、鷺沼は居住まいを正し、「何だい?」と言った。
「私、楠木事務所を辞めます。私、アメリカに行きます」
ベッドの右隣でさきほどから編み物をしながら会話を聞いていた母親の紀子が和子の言葉に反応してビクッと動くのが分かった。手の動きが凍り付いたように止まっている。紀子は和子を凝視したまま探るような目をして口を結んでいた。和子は家族も含めこれを今まで誰かに相談したことはなかった。しかし、和子の心の中ではもう決まったことだった。鷺沼は鷺沼で呆気に取られたような顔をして和子の顔を穴のあくほど見詰めている。
「私、父の仕事の関係でニューヨークで生まれたんです。だから、米国籍があるんです。暫く日本を離れたいと思ってるんです。母や父に相談したわけじゃないけど、もう決めました。父は幸い今ニューヨークで仕事をしているので、父のところに行くつもりです」
和子が、低いけれども固い意志を示す口調で話すのを聞いて鷺沼は何かを言おうとしたが、思い直して下を向いた。引き止められるような状況でもないことを悟ったようだった。紀子は紀子で再び手元に視線を落とし、何か噛みしめるようにして何度も頷く仕草をみせている。暫くして鷺沼は顔を上げ、寂しそうに微笑みながら口を開いた。
「僕は事務所の人間でもないし、引き止める権利もない。ただ、本当は『時をこえる少女』を最後まで――君が大学の廊下を去って行くシーンまで――撮りたかったんだが……」
鷺沼は映画の撮影中、たびたびそのエンディングのシーンの話を和子に語って聞かせていたものだった。それはカメラマンとして鷺沼が拘っていたシーンでもあり、イラスト付きで大木監督や和子にも意見を求めるくらいの熱の入れようだったのだ。和子にもそれは分かっていたが、事態はもうそういう話ではなかった。
「ごめんなさい。もう決めちゃったんです」
そう言う和子を見詰めていた鷺沼は小さく溜息を付くと、優しく語り掛けた。
「分かっているよ。楠木さんには僕から一報を入れておくよ。但し、楠木さんには和子ちゃんから直接正式に伝えた方がいいと思うよ。事務所の社員としてというより、礼儀としてね」
「それは分かっています」と和子は即座に答えた。「楠木さんは私にとってこの世界の親同然の方です。身体が回復したらちゃんと挨拶に行きます」
和子はそう言うと、右側の紀子に向かって「お母さん、私そうする。いいよね」と言った。紀子は驚いたように顔を上げ、和子の顔を見詰めた。和子の芸能界入りを全力で支援してきたのは紀子だ。九州から上京し、家探しから学校探し、学業と芸能の両立まで全て和子と二人三脚でこれまで駆け抜けてきたのだ。そうした生活がこんな形で終わりを告げるとは紀子も思いもしなかったろう。紀子は少し目を潤わせながら暫く和子を見詰めていたが、やがて掠れた声で「ええ」とだけ答えた。その顔には、決意とも諦めともつかぬ表情が浮かんでいた。
「和子ちゃんがいなくなると寂しくなるな」鷺沼はそう小さく呟くと椅子に座ったまま黙り込んだ。彼は彼で「時をこえる少女」の撮影に全力投球していたはずだった。全ては二発の銃弾でお終いになったのだった。病室の窓の外はもうすっかり暗くなっていた。
和子は枕に深く背を預け目を閉じた。――人生をリセットしなければならない。この結論は塚町の死を聞かされた時からもう決まっていたことだったに違いなかった。
――でも、あの約束は? 和子はそう自分に訊いてみた。アメリカに行く前にその決着をつけておかなければならない。和子はそう思って深い息を吐いた。楠木社長のところの他に、もう一つ行っておかなければならない場所があった。