第3章 目覚め:一九八三年三月三一日
和子は闇の中を長い間漂っていた。それは、星もない暗黒の宇宙空間に浮いているような感覚で、上もなければ下もなくそして音もない世界だった。ここは一体どこなのか、いつから漂っているのか、自分が何故ここにいるのか、思い出そうとする気力も湧かず、宇宙の塵のように無意味にそこにフワフワと存在しているだけだった。ただ、一寸先も見えない漆黒の闇に包まれているというのに不思議な安堵感はあった。それは、何かとてつもなく恐ろしいことから逃げてきて漸く心配しなくていいところまで来たという感覚だった。
どのくらいその暗い空間を彷徨っていただろうか。和子は周りの闇が徐々に引き始めたのに気付いた。頭の天辺から足のつま先まで脱力したまま目を開いていると、暗黒の雲はゆっくり薄れ、その後ろから白い空が見えて来た。今度はまるでとてつもなく大きく明るい、内壁が白色の球の中に浮かんでいるような感じである。和子がぼんやりと周囲の変化を眺めていたその刹那、体全体が白い光に包まれたかと思うとふわりと不意に引き上げられる感覚がした。
自分は眠っていたに違いないと和子は思った。先ほどまでと違い、浮いているのではなく横たわっているリアルな感覚があった。しかし、なかなか目を開けることができない。どうにかして漸く重い瞼を開けると、まだ目の焦点は合わず、周りはさっきの白い球の中のような真っ白な世界だった。また彷徨の続きなのかと思いながらも正面をボーっと見詰めていると、どうやらそれが天井のレールから吊り下がっている白いカーテンであるらしいことが分かった。
――部屋のカーテンって白かったっけ……? 和子は心の中でおぼろげに考えた。そして、いや違う、と気付いた。ここは自分の部屋ではなかった。家のカーテンはピンク色だったし、部屋の真ん中にレールを引いて間仕切りしているカーテンもなかった。そこは見たこともないような部屋で、自分はその真ん中にこれまた白い毛布に覆われて横たわっていたのだった。
「和子」
不意に自分を呼ぶ声がした。聞き覚えのある声、そう、母親の紀子の声だった。どこから聞こえてきたんだろうと思った瞬間、視界の隅が動き、突然目の前に人の顔のようなものが覆いかぶさるように迫ってきた。「分かる? お母さんよ」再び同じ声がそこから聞こえてくる。
直ぐに焦点は合わなかったものの、和子にはそれが紀子の顔であることは認識できた。しかし、その顔は声と共に左側にスッと引き、あとは声にならないような嗚咽が聞こえてきた。
「お母さん……どうしたの……?」
目覚めると見知らぬ部屋にいて、そこに母親の顔が現れ、泣き声が聞こえてきたので、和子は混乱してそう呟いた。額の奥の方をズーンという鈍痛のような感覚が占領している。体を起こそうと上体に力を入れたが、右半身を中心に違和感を覚え、身体も容易に動かなかった。
「無理しないで下さいね。そのまま、そのまま」
視界の右隅に今度は全く見知らぬ白い服の女性が映り、そう言った。看護婦の格好である。
「ここはどこ?」和子は思わず口にしながらも、だんだんと周囲の状況が呑み込めてきた。自分はどうやら病室のベッドに横たわっていて、今目が覚めたところらしい。母親はベッドの左隣に、看護婦は右隣にいてそれぞれ自分を見守っていたようだ。
――病室? 一体……? 和子には訳が分からなかった。――一体自分は今どこにいて何をしているんだろう? 何故お母さんが看護婦と一緒にいるのだろうか?
「私、どうしたのかしら」和子は動かない身体と戦いながら呟いた。
すると、左側の紀子が泣きそうな声で途切れ途切れ答えた。「……誰かがね……撮影中にあなたと塚町さんを……銃で撃ったの……あなたは大怪我をして……手術を受けていたのよ……」
その言葉の最後はもう言葉になっておらず、紀子は声を押し殺して泣き出した。和子の頭の中で紀子の発した言葉はなかなか意味のある言葉として繋がらなかった。
――誰かが……撮影中に……私と塚町君を……銃で撃った……撃った?
その意味を理解した瞬間、和子の頭の中に突然あの光景が蘇った。塚町と夜の竹林の小道を歩くシーン、焼け火箸を差し込まれたような激しい衝撃、体をのけ反らせて宙を舞う塚町、真っ赤な血に染まった自分の手、「撃たれたのか?」という誰かの声、土気色の顔をして横たわった塚町の「『時を……こえる……少女』……完成……させようね……」という喘ぐような声――。その時の光景を一片のショートムービーのように脳裏に思い出した瞬間、塚町は一体どうなったんだろう、という当たり前過ぎる疑問が雷のように和子の身体を突き抜けた。
「塚町君は?」和子が口にした声は自分でも変だと思うくらい上ずっていた。手を口に当てて肩を震わせていた紀子の身体がゼンマイが切れたからくり人形のようにピタリと静止した。
「お母さん、塚町君はどうしたの?」
震える声で重ねて訊く和子に、紀子は暫くそのままの格好で押し黙っていたが、やがて低い声で答えた。「塚町さんは……別の病院にいるわ」
「別の……? じゃ、無事なのね、塚町君」
紀子はごくりと唾を飲みこむ音を立てると黙って頷いた。和子が最後に見た塚町はまるで死んで行くような顔をしていた。でも、塚町は大丈夫だったというのだ。和子は思わず自分の傷のことも忘れて安堵の声を洩らした。「良かった……無事だったんだ……塚町君……」
「でも、塚町さんも……動けないの……。和子と同じように……撃たれたから……」
紀子は放心したような顔をしながら途切れ途切れにそう言った。――塚町君も自分と同じように撃たれた……何故? 和子にその理不尽さが襲い掛かって来た。――そもそもなんでこんなことになっているのだろう? 誰かが私たちを撃ったって? 何故?
「どうして?」心に浮かぶ疑問がそのまま声になる。「私と塚町君を撃つって、どうして?」
紀子は椅子の背もたれに放心したように体を預けたまま力なく頭を振り、一言「分からない」とだけ言った。和子も混乱のまま言葉に詰まっていると、左隣で和子と紀子の遣り取りの様子を窺いながら佇んでいた看護婦が口を挟んだ。
「吉山さん、目覚めたばかりで何も分からないでしょうけど、ここは尾道中央病院で、吉山さんは九時間近い大手術を受けて、その後眠ってらしたのよ。でも、もう大丈夫だからね」
穏やかな声で、染み入るような優しい口調だった。
――尾道中央病院……九時間の……大手術? 和子は自分の身に起こったことを聞かされて戸惑った。――今、麻酔から目覚めたというところなのだろうか……?
「今、何時ですか?」と和子は訊いた。
「三月三十一日の夜九時を回ったところですよ」
看護婦は相変わらず優しく答えた。あの撮影は三月三十日の夜の十一時頃だったはずなので、九時間の手術のあと、更に十時間以上眠っていたらしい。
看護婦はベッドの隣においてある計器を暫くチェックすると、「では先生お呼びしてきますね」と言って病室を出ていった。残された和子と紀子は暫く同じ姿勢のまま押し黙っていた。やがて紀子がポツリと「お父さんも明日には戻って来るわ」と呟いた。先ほどの放心したような表情から無理に笑みを作り幾分自分自身を元気付けるような表情に変わっていた。
「お父さんが?」
「ええ。和子が撃たれたって電話が入って母さん動転しちゃったんだけど、お父さんにだけはすぐ連絡したの……。これから飛行機に乗るところってさっき連絡があったわ」
和子の父親・哲夫は商社マンでニューヨークに単身赴任している。和子が銃撃を受けたという一報を受けた紀子は、すぐニューヨークで仕事中の哲夫に電話を入れたらしい。当日の飛行機はもう取れず、現地時間の翌日の便を取ったのだろう。哲夫は優しい父親だったが、紀子と違って和子の芸能界入りにはあまりいい顔はしていなかった。――一体こんなことになってお父さんはどう思うだろうか? 和子がそう思って黙り込むのを気遣うように紀子は続けた。
「さっきまで楠木さんも来てらしたのよ。必要なことは何でも言って下さいって。どうしても外せない用事があるとかで今日のところは一旦お帰りになったけど……」
和子が楠木フィルムのオーディションに受かって以来、楠木映画製作事務所と和子の間を実質的に仕切っていたのは紀子である。そういう意味では、和子の労働条件や労働契約の詰めをしていたのは紀子であり、紀子と楠木はお互いよく知っていた。
「映画って……どうなるの?」楠木の名前を聞いて和子は尋ねた。頭はまだ混乱していたが、映画製作に命を懸けているような男の楠木がさっきまでここにいたことを聞くと、自然な疑問として頭に浮かんだ。しかし、紀子も「今は何とも……」と呟くばかりだった。――主演女優と共演者が重傷を負った場合、映画がどうなるかってというと――。
その時、病室のドアが開き、白衣の医師が先ほどの看護婦を従えて入ってきた。小太りで頭が禿げ上がった五十代とみられる医師で、小柄ながら見る者を安心させるような風情があった。「宜しいですか?」と和子と紀子に声を掛けると、ゆっくりベッドの脇を回って来る。
「はい」と紀子は医師に頭を下げた。医師は紀子に向かい、落ち着いた声を掛けた。
「手術の後にも説明しましたが、意識も戻ったし、もう大丈夫ですよ。安心して下さい」
そして、今度は和子に向かって、「気分はどうですか」と尋ねた。
その問いかけは砂漠に撒く水のように意味もなく和子の意識に染み込んだ。どうですもこうですもなかった。一体何がどうなっているのかさっぱり分からないことばかりである。和子は一杯の気持ちになって言葉を発することができず、自然と涙が溢れてきた。
「うん、うん、いいんだよ。楽にしたままで。少し診させて下さいね」
医師も和子の気持ちを忖度して無理に会話をしようとはせず、暫く目を診たり、脈を測ったり、計器類の数字をチェックしたりして、看護婦に何か指示を出した。一通りのメディカルチェックを終えると、医師は少し改まり、「少し怪我の話をしますね。あまり難しい怖い話はしませんが」と前置きして和子と紀子に向き直った。
「和子さんは銃撃を受けたわけですが、弾は右胸の肩の方を前から貫通しており、右肺の血管が一部破壊されて出血性ショックを起こしました。でも、止血と輸血の上、手術で縫合していますのでもう命の危険はありません。右肺の一部が損傷しているので、暫くは呼吸が苦しいと思うこともありますが、お若いですからほぼ完治しますよ。ほら、二年前にレーガン大統領が撃たれた時だって、あんなおじいさんなのに回復しているでしょう?」
医師は少し言葉を切ると、丸い顔を一層丸くしてニッコリとした。
「骨については、幸い肋骨、胸骨ともにダメージはありませんでした。ご心配は皮膚の傷かと思いますが、特に背中の射出口はやや大きく組織がダメージを受けています。縫合はしましたが、残念ながら傷痕は残ると思います。できるだけ目立たないようにはしますが」
和子は紀子と共に淡々と聞いていた。医師は親切な口調で話してくれていたが、何故か自分の身体ではなく、学校の理科実験室でカエルの解剖について説明を受けているような感覚があった。唯一、身体に感じるリアルな不自由さだけが、説明と自分の身体を結び付けていた。
「いずれにせよ、もう大丈夫です。お若いですし、それに日本中が回復をお祈りしていますしね。私も娘が大ファンでね、まさか自分がこういう執刀をするとは思っていませんでしたが」
医師は和子と紀子を交互に見遣りつつ、やや婉曲な言い方で和子が芸能人であることに言及して説明を切り上げた。そして、和子に向かってもう一度微笑むと、紀子に「お母様、ちょっと宜しいですか?」と声を掛け、深刻な顔付の紀子を連れて部屋の外に出て行った。
あとに残された和子は何を考えられずぼんやりと虚空を見詰めていた。和子の右隣では、先ほどの看護婦が計器を見ながら何やら手元のカルテに書き込んでいる。
「痛みとかがひどくなったら言ってね」と看護婦が作業を終えて優しく話し掛けてきた。和子は初めて意識的に看護婦の方に目を向けた。四十歳前前後のベテランぽい顔の看護婦だった。
「はい」と和子は答えた。
「和子ちゃんは若いんだからきっと直ぐに治るわよ」
看護婦は「和子ちゃん」という言葉を使ってそう言った。それは別段馴れ馴れしいという感じではなく、和子自身、テレビや映画の現場でそう言われることに慣れていることもあって嫌な感じはしなかった。ただ、特に答える言葉が思い付かずそのまま黙っていると、和子が気を悪くしたとでも勘違いしたのか、看護婦も黙々と作業に戻り、もう敢えて話し掛けては来なかった。やがて、作業が終わったのか、看護婦は会釈をして病室を出て行った。
和子は病室に独りとなった。何もかも現実感がなかった。さっき目覚めたばかりだというのに、和子はひどい疲れを覚え始めていた。まだ麻酔が効いているのか、頭痛がするし、自分達が銃撃に遭ったという信じ難い事実が心をハイジャックしているように感じられる。
――塚町君に会いたい。和子は不意に痛切にそう思った。――塚町君は一体どうなっているんだろうか? 彼も、今どこかの病院で同じように寝ているんだろうか? 塚町君……。
和子は心の中で塚町の名を呼んで目を閉じた。初恋、それは初恋だった。映画の中の話ではない。現実の塚町に恋をしており、それは今の和子の全てだったのだ。――それなのにどうしてこんなことになってしまったのだろう? 頭はひどく混乱し、何故か不吉な予感に熱い涙が溢れて白い頬を濡らした。