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時をこえる少女  作者: 釋臣翔流
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第2章 浜辺にて:二〇一五年七月

 太陽は冴え渡った西空の方にかなり傾いていたが、まだギラギラとした容赦ない日差しを地上に浴びせていた。中空にぽっかりと浮かぶ上弦の月のせいだろうか、岩場に砕ける潮騒の音と雨のように降り注ぐセミの声、それと遠くの砂浜からの夏の喧噪が、実際はひどくやかましいはずなのに、何故か「静寂」という形容の方が相応しい心地良いハーモニーを紡いでいた。

 竹内真人は、潮が洗う波打ち際の岩の上に立って穏やかな海を眺めていた。沖合の岩礁のような小島とその先にある大きな島までは濃い青葉の色彩があったが、更にその向こうは空と雲と海が白く渾然一体に広がっており、その中を遠く豆粒のような船が静かに進んでいた。

 ――海……島……空……雲……太陽……月……。真人は、頬を撫でる心地よい微風とそこに含まれる爽やかな磯の香りを楽しみながら、視線の先の対象を一つ一つ心の中で確かめて行った。――それぞれは独立した存在なのに、なぜこんなに調和して美しい風景なんだろう?

「あのう、監督、撮影の準備できましたけど」

背後から一年生が声を掛けてきた。真人が我に返って振り返ると、カメラや照明、音声の係はそれぞれ配置に付いており、役者である海野瞳と森翔太も、真人たちのいる岩場の上の切り立った岩崖によじ登ってスタンバイしていた。いつもは映画部部長兼監督として誰よりも本番前の準備に目を光らせる真人だったが、瀬戸内海の多島景に目を奪われ、準備に走り回るみんなに背を向けて、台本とメガホンを持ったまましばし海に見入ってしまったようだ。

「ごめん。じゃあ、始めようか」

真人はそう言うと、ゆっくりカメラの方に歩み寄った。未来から来た少年が岩場で植物採集をしているところに主人公の女の子がやってきて一緒に崖から飛び降りタイムリープする、映画の山場となる重要シーンである。真人は慎重に最終確認を始めた。部員全員の目が自分に注がれる。―やっぱりこの瞬間が好きだ、と真人は思った。スタッフも役者も一つのシーンを作り上げるために精神を集中し、全てを司る監督である自分がいつキュー出しをするかを今か今かと待っているこの瞬間。それはちょっとした全能感を味わえる高揚の瞬間であった。

 岩崖の上を走る海沿いの道に通行人らしき男性がいて、撮影を見物しているのか、ガードレールに両手を掛けてこちらを見下ろしているのが見えた。真人はカメラに映らないか一瞬気になったが、恐らく大丈夫だろうと判断し、改めて目の前のキュー出しに集中した。

「アクション!」

メガホンに口を当てて真人が叫び、一年生がカメラの前でカチンコを鳴らすと、崖の中段にある小さなスペースに立った瞳と翔太が演技を始めた。下の岩場にいる真人からは一五メートルくらいの距離だ。真人は二人の演技をじっと見上げながら、先ほどまでのリハーサルで注意したことが修正されているかどうかをチェックしつつ、上の道路から見下ろすアングルで撮影しているカメラの映像についても、手元のモニターを横目で覗き込みながら確認していく。

「土曜日の実験室!」

翔太がこのシーン最後のセリフを叫ぶ。翔太が制服姿の瞳を崖から突き落とそうとし、翔太も崖から飛び降りるふりをする。真人の狙い通りの演技となったところでシーンが終了した。

「カット!」

 真人は再びメガホンを口に当てて叫び、隣に立つ一年生助監督に、左手でOKサインを送った。助監督はすぐ大声で「ハイ、OKでーす!」と叫び、真人のサインを全員に伝えた。

「お疲れ様」「はい、お疲れ様」

 岩場にスタッフ同士の労いの挨拶が飛び交う。これで今日予定されていた午後のシーンは全て終了である。崖に上っていた瞳と翔太も岩場に下りてきた。

「どうだった?」顔を紅潮させた瞳が真人に駆け寄りながら言った。暑さのピークは過ぎたとはいえ気温はまだ優に三十度を超えており、流石にブレザーの制服姿での撮影は過酷だった。

「良かったよ。セリフも間違わなかったし」

「当たり前じゃない。セリフとちって撮り直しなんてもう嫌よ。喉もカラカラなんだから」

 瞳が顔の前で両手をヒラヒラさせて風を煽りながらぼやくと、気の利いた一年生の後輩が「お疲れ様でした」と言って冷たいペットボトルの水を差し出した。

「あら、ありがとう」と瞳はブレザーを脱ぎながら水を受け取る。

 瞳がそれをうまそうに飲んでいる間に、カメラ担当と話していた翔太もやってきた。

「翔太、お疲れさん」真人が声を掛けると、翔太は少し心配そうな顔をして真人に言った。

「さっきから道路の上にいるあのおっさんさ、ヒヤヒヤしたよ」

「おっさん?」

「崖の上の道路にいるおっさんだよ。見物するのはいいけど、カメラに入りそうでさ」

 翔太はそう言って、小さな手振りで崖の上の道路を指さした。そこには、ついさっき最後のシーンを撮る前に真人も撮影の邪魔にならないかどうかが一瞬気になった男性がまだ佇んでいた。真人たち一行が機材の片付けなどでガヤガヤしている岩場を見下ろしているようである。

「あの人、やけに熱心に私たちを見てたわよね」傍で聞いていた瞳も、水を飲み終えると話に加わった。「ちょっと変わってて、私がセリフ言う時、人差指立てて確認するみたいに振ったりしてさ、『あんた監督か?』って言いそうになっちゃったわよ」

 瞳は幾分声を潜めながら、道路の方に背を向け小さい手振りを入れて言う。

「そうそう、なんか納得するように頷いたりとかさ」と翔太。

「いくつくらいの人?」真人は少し興味を持って訊いた。

「どうだろ、六十歳くらいかな。ちょっと派手な服装でさ、地元の人って感じじゃないね」

「あたしのことスカウトしに来たのかな」

 瞳が軽口を叩くのを「馬鹿」といなしながら、真人はもう一度道路の上の男に目をやった。距離があるのではっきりとは分からないが、青っぽいアロハシャツのような服装である。確かに地元の人という感じの人物ではない。相変わらず岩場にいる真人たち一行を眺めていた。

「まあいいよ。さあ、片付けにかかろう」

 気にすることもないと思った真人はそう言って地面の鞄を拾い上げた。


 真人たちが通う東京・松ノ木高校の映画部員総勢十六名が、ここ愛媛県松山市沖に浮かぶ興居島で撮影合宿を始めてから一週間が経とうとしていた。七月上旬のこと、秋の文化祭に出品する映画の候補を検討していた真人を中心とする二年生幹部が、代々様々な資料がぶち込まれてきた部室クロゼット奥のダンボール箱を物色していた際、役者係の瞳が一冊の映画の台本と丁寧に丸められたポスターを見付けたのが全ての始まりだった。それは使われた形跡のない真っ新のもので、表題は「時をこえる少女」とあった。中身は、ある日突然、時空を超える超能力を身に付けてしまった女子高生と、その超能力をもたらした未来から来た少年との淡い恋愛を描いた純粋かつちょっぴり切ない物語で、SFというより純文学のような趣があった。

 真人があれこれ調べ、どうやらそれが三十年以上も前に製作されかけたものの、出演者が銃撃事件で死傷し製作放棄された映画の台本らしいということが分かったのは期末試験が終わってからだった。映画を主演するはずだったのは吉山和子という当時僅か十五歳の女優で、映画撮影中に共演者の塚町一夫という俳優と共に謎の銃撃事件に遭い、重傷を負って芸能界を引退したというのだ。因みに塚町一夫はその事件で死亡している。ポスターに映っていた少女はその吉山和子当人で、銃撃事件の前に作成されたプロモーション用のものらしかった。ただ、何故そんな映画の台本やポスターが松ノ木高校映画部の部室にあったのかは、映画部顧問教師の青木が学生時代に収集した映画グッズに紛れていたものであろうと推定される以上のことは結局分からずじまいだった。

 真人はこの「時をこえる少女」を読んで妙に魅かれるものを感じた。元々は同名の原作の小説があるのだが、それが一九六〇年代に書かれたものだったせいか、台本の設定や台詞回しはベタに淡い切ない物語で、映画化が試みられた三十年前の一九八〇年代においてすら既にアナクロだったのではないかと思われた。しかし、実験的な映画製作にやや飽きていた真人にとってはむしろ新鮮に感じられたのだ。また、謎の銃撃事件により製作中止となったいわくつきの映画のリメイクというのも文化祭でアピールになるような気がした。そして何よりも、銃撃事件で重傷を負ったという吉山和子なる女優に妙に惹きつけられた。動画サイトなどに残る数少ない映像を見ると、不思議な透明感を湛えており、当時においてすら普通のアイドルや女優とは少し趣が違うタイプだったように思われたのだ。また、彼女の歌う同名の主題歌も――映画が陽の目を見ず、彼女自身も芸能界を引退したにもかかわらず、既にレコーディングされていたという理由でレコード会社が半ば強引に単独リリースし、同情も集まって当時大ヒットしたという――その可憐な美しい声は聞けば聞くほど真人の胸を打った。この曲はネット上で未だに根強い人気があるようで、吉山和子は「美しい歌声を残して消えた悲劇のアイドル女優」として一つ二つ前の世代には長く語り継がれている存在なのだという。

 真人はこの映画を台本にあるような地方都市を舞台に撮ってみたいと思い、青木に相談すると、青木の実家がある愛媛県松山市沖の興居島での合宿ロケを薦めてくれたことから、急遽夏休みを利用した今回の撮影が決まったのである。

 結果的にそのロケ地選択は正解だった。四国と陸続きで繋がっていないこの島は、交通量も少なく自由に撮影ができた。悪く言えば寂れていて松山市中心部に比べこれといった名所旧跡もないため観光客も少なく、画面の背景に余計な人が入る心配もなかった。また、青木邸での寝泊りも最高だった。一六人が母屋の大広間と隣接した倉庫に分かれて雑魚寝をするのは毎日がキャンプみたいで楽しかったし、宿泊代はゼロ、自炊代を各自持ち寄るだけの負担だった。

 機材や荷物を纏め終え、宿泊先の青木邸に移動する準備ができると、リュックを背負った瞳が真人の隣に来て「あと少しね」と言った。最初コンビニもない不便さに不平を言っていた瞳だったが、感慨深げにそう言うところをみると、彼女もこの島が気に入ってきたらしい。

「そうだね。残りの夏休みも居座っちゃおうかな」

 真人が冗談を返すと、瞳は「私は遠慮しておく。やっぱり不便だもん」と言って笑った。

 一年生部員は既に移動を始めていた。真人と瞳もそれぞれ荷物を抱えて岩場の上にある道路へ移動を開始した。真人と瞳の「執行部」はしんがりである。

 堤防を乗り越え海岸通りに出ると、真人は先ほどまで撮影していた岩場の方を一望した。だだっ広い岩場の上にはもはや人気もなく、薄暗くなってきた中、ただ打ち寄せる波の音とセミの鳴き声だけが響いていた。他の部員達は海岸通りを先に行っており、真人たちも堤防沿いを歩き始める。瞳は撮影の疲れからか口数が少なかった。

「失礼ですが、君たちどこから来ているのですか?」

 不意に後ろから呼び止める声がした。真人と瞳が振り向くと、青いアロハシャツ姿の中背の男が立っていた。精悍ながら刻まれた皺から相応の年齢であることが分かる色黒の顔に穏やかな笑みを浮かべている。先ほど瞳や翔太たちが話していた見物人の男だった。真人と瞳が顔を見合わせちょっと口ごもっていると、微笑んだままゆっくり近付いて更に話し掛けてきた。

「君たちの言葉遣いからすると、東京の方からでも来たのかな?」

 真人は男の言葉に苦笑した。地元の小学生から同じことを言われたことがあったからだ。

「やっぱり言葉の違い分かりますか?」と真人は頭を掻きながら言った。

「そりゃ分かるよ。ここら辺の高校生は『何々じゃん』なんて言い方はしないからね」

 そう言う男の方もほとんど言葉は訛っていなかった。服装からして地元で農家をやっているようにも見えず、業界人のような独特の雰囲気があった。

「ところで、君ら映画の撮影をしているんだよね?」

 男は機材を抱えて前の方を歩く部員たちを見遣りながら話題を変えた。

「ええ、まあ……僕達、東京の高校で映画部やっているんです」

 真人が正直にそう答えると、男はフムフムという顔をして自分で自分に言うように呟いた。

「ヘェー、今時映画部なんてものがある高校があるんだ」

 そして、すぐにわけあり気にニヤリとすると、「で、どんな映画を撮ってるの?」と訊いてきた。それはまるで全てを見透かしているかのような悪戯っぽい言い振りだったので、どう答えようかと真人が逡巡していると、今まで黙って聞いていた瞳が横から口を挟んだ。

「秋の文化祭に出す映画を撮ってます」

 それは、素っ気なくきっぱりあしらうような言い方で、瞳は「さ、行こう」と小声で囁くと、真人を肘で突いて立ち去るのを促した。男の格好はこの田舎の島ではむしろ怪しいとさえ言える類のものであり、瞳が警戒するのも無理はなかった。しかし、男はそれに構わず、またなるほどというように頷く仕草を何度もしながら、独り言のように呟いた。

「文化祭ね。文化祭に『時をこえる少女』も悪くない」

 歩き始めかけた真人と瞳の二人は驚いて思わず足を止めた。男が真人たちの撮っている映画の名前を言い当てたからだ。

「あれ? 分かっちゃいました?」真人は少し照れながらそう言いつつ、再度男の顔を確認した。――このおじさん、そんな映画を観るようなタイプなんだろうか? 真人の頭をそんな疑問が過った時、男はチノパンのポケットから煙草とライターを取り出しながら笑って答えた。

「そりゃ『土曜日の実験室』なんて言うんだからね。あの映画ではキーワードだろう?」

 それから、男は一本口に咥えてから火を点け、最初の一口を美味そうに吸い込むと、道の先に見える山の方を眺めながらフーッと煙を吐き出した。暗くなった浜辺の空に煙が立ち上っていく。正面の海は真人たちの撮影していた岩場に続く砂浜だったが、海水浴客は夕闇迫るなかもう疎らになっており、海からの風は随分涼しくなっていた。真人は男に少し興味を持った。――実際には製作されていない映画なのに、何故「あの映画」などと言えるのだろうか?

「失礼ですが、『時をこえる少女』のことをご存知なんですか?」

 真人が尋ねると、男はそれには直接答えず、再び不思議そうに独り呟いた。

「でも、君たちは何で岩場で植物採集するシーンなんかを思いついたのかなぁ」

「それは……」と言いかけて真人は言葉に詰まってしまった。「時をこえる少女」には原作があるが、そこには岩場で植物採集をする場面などないのである。瞳は余計なこと言わずに早く行こうよと言わんばかりの少し冷めた目をしているが、真人は正直に話を続けた。

「昔の古い台本に沿って作っているんです。そこにはそういう岩場のシーンがあるので……」

 真人がそう言った瞬間、男の表情が固まり、煙草を吸おうとした手が止まった。

「昔の台本?」男は真人の言葉の何かにひどく驚いたみたいで、探るような声を上げた。

「そうです。三十年くらい前の……」

「三十年前? そんな古い台本どこで手に入れたんだ? 君、今持っている?」

 男は急に詮索気味に訊き、吸い始めたばかりの煙草を足元の水たまりに投げ捨てた。さっきまでの微笑が消え真面目な表情に変わっている。真人が日頃この古い台本を大事にしているのをからかっていた瞳は、後ろから真人に「お見せすれば?」と他人事のように囁いた。

 真人は戸惑いつつ、撮影用の複製本ではない、部室で見つけたオリジナルの台本を鞄から取り出すと、「これです」と言って男に差し出した。男はそれを見るとあっという顔をし、手に受け取ってその表紙をしばし穴の開くほど見詰めた。そして、更に険しい顔をするとおもむろに中をめくり始めた。目次、出演者をチェックし、一ページ一ページ指で追っていく。それがあまりに熱心なので真人と瞳は思わず顔を見合わせた。もう夕陽は沈み、辺りは夕闇が濃くなり始めていた。映画部の部員たちはずっと先に行っている。男は数分掛けてじっくり中身を見終わり、表紙と裏表紙を再度確認すると、真人に返しながら謎のような独り言を吐いた。

「まあ、通し番号の管理なんてなかったから一冊や二冊流出してもおかしくはないな……」

 真人は返してもらった台本を鞄に大事にしまい、これが映画部のダンボール箱の奥底に眠っていたことを説明しようとした瞬間、男はそれを遮るようにして妙なことを尋ねた。

「君たちは吉山和子を知っているか?」

 真人は話の脈絡がよく分からず、再び隣の瞳と顔を見合わせた。「時をこえる少女」といい、吉山和子といい、こんなおじさんが口にするのは如何にも変だった。ただ、真人はこの映画について色々調べていたこともあり、初めて話が合う人に出会ったような気がして答えた。

「知っていますよ。この映画を撮影していた最中に銃撃事件に遭って引退した女優ですよね」

 男は、真人の答えに頷きながらにチラッと瞳を見遣って、「吉山和子ね……」と再びその女優の名を呟いた。そして、真剣な表情を少し緩めると茶化すように言った。

「そうすると、そちらのお嬢さんが、君ら版の吉山和子ってことかな」

 その時、ずっと遠く先を歩いている翔太が「おーい、先に行ってるぞ」と呼び掛けてきた。

「後で追っかける!」真人も翔太に怒鳴り返す。

 男はそんな真人を興味深そうに眺めていたが、ふと話題を変えて訊いてきた。

「ところで、君たちいつまでこの島にいるんだい?」

「あと、四日くらいです。まだちょっと撮影が残っているんで……」

 向き直った真人がそう答えると、男は「そう」と呟き、真人たちが歩いていたのと同じ方向にゆっくりと歩き始めた。真人たちも自然とその後を追い、三人で暫く黙って道を歩いた。それは少し気詰りするような妙な時間だった。やがて、男が意外なことを言い始めた。

「僕は鷺沼って者だけれども、良かったら君らの撮影を少し見学させてくれないか。この島に住んでいるから撮影スポットなら色々アドバイスや便宜を図って上げられるかもしれない」

 それは男からの初めての自己紹介でもあったが、思わぬ申し出に真人と瞳は戸惑った。

「おじさん、あの、何やってらっしゃる方なんですか?」

 瞳が間を置いて、まだ完全には警戒を解かず無邪気を装いながら尋ねた。鷺沼と名乗った男は見透かすように笑いながら答えた。

「僕は別に怪しい者じゃないさ。何をやってるかと言われればプータローだけどね。まあ、女房を亡くしたあと東京での仕事も引退して、実家のある田舎で悠悠自適ってところかな」

「地元の方ってことですか?」

「そう言えなくもない。もっとも実家に戻ったのはここ二年くらいだけどね」

「そうなんですか。道理でずっとこの島に住んでいる方のようには見えないと思いました。おじさんのような服の方、この島の人っぽくないですから」

 瞳も少し警戒感を緩め、ちょっと砕けた口調で話すようになった。

 そうこうしているうちに、道の分岐点に差し掛かった。日は既にとっぷり暮れている。

「君達、どこに泊まってるんだい?」

 鷺沼は街灯の明かりの下に立ち止まると、辺りを見回して訊いてきた。真人が映画部の顧問の先生の実家がたまたまこの島にあってそこにお世話になっている旨を説明すると、鷺沼はこの辺りのことは全て知っているかのように「ああ、あそこね」と呟いた。そして、海沿いの道の先にある丘を指さして付け加えた。「僕の家は海沿いの向こうだよ」

 暗くなった空には島の山が黒く浮かび、その麓に民家の明かりがポツポツと点っていた。

「今日はこれで失礼するけど、明日は君たちどうするの?」

 鷺沼は漸く暇乞いを口にすると共に、真人たちに次の日の予定を尋ねた。

「明日は映画のタイムリープのパートを撮る予定です。さっきの崖のシーンの続きです」

「何時頃から始めるの?」

「六時くらいに出発しようと思っていますが……」

「分かった。じゃ、明日朝六時に青木さんちに顔を出すよ。いい映画ができるといいね」

 鷺沼は左手を軽く挙げて会釈すると、頭を下げる真人と瞳に背を向け、海沿いの道を歩き始めた。まだ夕陽の残光が上空を高く照らしていたが、街灯がほとんどない興居島の夜は暗く、鷺沼の背中はたちまち闇の中に小さくなる。その後ろ姿を見詰めながら瞳がポツリと呟いた。

「何か変わった人ね。言葉が地元の人っぽくなかったし。服装もチョイ悪おやじみたいだし。私、あの人昨日も私たちの撮影を見ていたような気がする」

「そうなの? 俺は全然気付かなかったけど」

「ねえ、結局私たち撮影見学OKって言ったのかしら?」

 瞳が真人の方を向いて先ほどの遣り取りについて尋ねた。真人は空を見上げながら答えた。

「明確には言ってないような気がするけど……明日の朝来るつもりみたいだね」

「そうね」瞳はそう相槌を打つと宿泊先の青木邸のある山道の方に向きを変えて歩き始め、真人もそれにしたがった。坂を上る途中、瞳は独り言のように「まあいいか。便宜とか言ってたから、みかん畑とかに入って撮影するのも話つけてくれるかもしれないしね」と言った。

 セミの鳴き声もすっかり止んで、辺りは月光が支配する静かな夜に変わりつつあった。瞳も今日一日の撮影に疲れたのかもう口を利かなかった。

 ――変わった人だったな。歩きながら真人は思った。服装の派手さ以上に少し何かが引っ掛かった。それは吉山和子に妙に拘ったことだった。自分も吉山和子という女優の存在が少し気になったことがこの映画プロジェクトを始めた切っ掛けである。

 ――あの男、何かあるな。真人は妙な予感を抱きつつ、瞳と暗い夜道を上って行った。

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