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時をこえる少女  作者: 釋臣翔流
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【前編】 第1章 銃弾:一九八三年三月三〇日

 先ほどまでの風は止み、周囲の竹林の奥深い陰影はまるで一片の写真に切り出したかのように動きを止めていた。夜の冷気は増していたが、まだ震えるというほどではなかった。吉山和子よしやまわこは、上着に乱れがないかもう一度確認すると、隣に佇む塚町一夫の顔をチラリと見遣った。

 遠くの照明に仄かに照らされたその顔はずっと先の方を向いていた。和子がその視線を追った先には、大袈裟な身振り手振りでカメラマンと議論をしている大木監督がいた。その周りを更に七~八人のスタッフが取り囲み、その騒めきは竹林に反響して如何にも撮影ロケという雰囲気を醸し出していた。和子が再び塚町に視線を戻すと目が合い、塚町がニッコリと微笑んだ。

「さっきと同じ感じで歩けばいいよ」

 塚町はそう言って、右手でコートの裾を広げ、覆うように和子の肩を抱き寄せた。

「うん」

 和子は少し戸惑いながらも塚町に身を委ねた。次は和子が塚町に肩を抱かれながら歩くシーンだが、監督やスタッフの動きからして本番のキューが出るのはまだ先である。それなのに塚町はもう和子の肩を抱いたのである。和子は塚町の動作に何か特別な意味があるのではないかと思って少し胸の高まりを覚えた。しかし、塚町はただ黙ってそのままの姿勢で佇んでいた。

 ――これは映画の中のお芝居。和子にももちろんそれは分かっていた。塚町が恋人のように和子の肩を抱いて歩くのも全て演技である。それでも和子にとってこの瞬間は宝物だった。和子は塚町の身体の温もりに包まれながら、何故だか急に満ち足りた気分になった。

「何を考えているの?」突然、塚町が和子に訊いた。向こうの方では、監督、スタッフらが、スタンバイしたままの和子と塚町を無視しているかのようにまだ打ち合わせをしている。

「何も」と和子は嘘をついた。本当は塚町とのこの幸せな時間を噛みしめていたのだが、撮影中にそんなことを言うわけにはいかない。「塚町君は?」と和子は訊き返した。

「この映画のことを考えている」塚町は遠くの監督の方を見遣りながら言った。

「この映画のこと?」

「そう」塚町は言葉を切って少し深呼吸すると続けた。「僕はね、この『時をこえる少女』はきっと大きなヒットになると思うんだ。そして君はもっと大きなスターになる」

 塚町の口調は何故だかいつもと違ってひどく真剣だった。

「いやぁね、塚町君。塚町君こそこちらが見上げるような大スターだわ」

 和子が少し照れてそう言い返すと、塚町は固い口調のまま応じた。

「僕は脇役でしかないよ。でも、それで充分なんだ。楠木さんからもそう言われているしね」

「楠木さん?」

「そう。和子ちゃんのこと頼むって」

 楠木夏樹――。和子の頭に塚町が名を口にした男の顔が浮かんだ。思えばこの男が全ての始まりだった。彼がいなければ、和子と塚町の出会いもなかったからだ。楠木は今年四十五歳。元々は老舗の出版社を経営していたのだが、それに飽き足らず、一九七〇年代後半から映画製作の事務所を別途設立、幅広い人脈を活かして大手系列の枠に囚われない映画作りに乗り出し、「楠木フィルム」旋風を巻き起こしていた映画界の風雲児だ。そして和子は、その「楠木フィルム」の新人オーディションで楠木に見出され、その映画製作事務所に専属することとなった女優だった。既に和子は昨年TVドラマに出演して芸能デビューを果たしていたが、映画の主演は今撮影中の「時をこえる少女」が初めてである。むろん、楠木が企画したもので、その意味で、楠木は和子にとってこの世界の親のような存在といっても過言ではなかった。

 ――楠木さん、この映画の撮影に当たって塚町君に何か言ったのかな? 和子が思いを巡らせていると、塚町は少し間が悪いと感じたのか、言い訳するような口調で言葉を繋いだ。

「正月に僕がロサンゼルスに行く前に楠木さんからそう言われたんだ」

「ロサンゼルス?」

 和子はそう問い返して、暫く忘れていたことを思い出した。今年の冬休み、和子は楠木に命じられ、この映画のカメラマンたちと共に「時をこえる少女」の集中リハーサルのためロサンゼルスのスタジオに二週間ほど籠もったことがあった。その時、塚町もロサンゼルスに遊びに来てスタジオに顔を出したのだ。だが、塚町はその話がしたいわけではなかったようだった。

「もちろん、誰かに言われたから君を支えるんじゃないよ。僕自身、この映画は本当に気に入っているんだ。きっといい作品になるし、いい作品にしようね。約束だよ」

 塚町はそう言うと、和子を見詰め、その肩を抱いた腕にぐっと力を込めた。

 ――塚町君……。和子は塚町の整った顔を見上げ、心の中でそう呼び掛けた。そして、その塚町の想いに応えるためにも、改めてこの初めての主演映画に全力投球しようと思った。

 実際、和子はこの「時をこえる少女」の映画を非常に気に入っていた。広島県尾道市を舞台に、塚町の演じる未来からタイムトラベルしてきた少年と彼女が演じる現代の高校生の少女との淡い恋を描く物語――。大木監督の言う処の大正ロマンチシズムに溢れており、和子からみると、台詞回しや大木監督の演技指導に少々違和感もあったが、そこが却って不思議な魅力を醸し出しているようにも思われた。映画の成功を強く念じているのは和子も同じだった。

「私も約束するわ。この映画をきっといいものにするって」

 和子は塚町の目を見詰め返して強く答えた。こんな撮影の合間に塚町とこの映画について改まって誓い合うなんて思いもよらなかったが、和子にはとても大切な儀式のように思えた。

「さすが和子ちゃんだ」塚町はそういって微笑むと、向こうの方の監督たちの動きに気付いて背筋を伸ばした。「そろそろ始まりそうだよ」


 漸くその機会が来たことが男には分かった。周囲のスタッフの集中度合と逃走経路の確保を考えると、本番中に殺るのが一番であり、遂にその本番が始まろうとしていた。男は柵の隙間から遠くの標的を見定めると、相棒のコルトM1911A1を持つ右手に力を入れた。

 思えば奇妙な任務である。政治家でも役人でもない、年端の行かない中高生の俳優女優の卵を映画の撮影中に狙撃せよ、というのだ。もちろん、男は職業柄、依頼された仕事の意味を問うことはしない主義である。ただ、何らかのアピールか示威目的であろうと推定はしていた。

 この一週間というもの、ドロップで標的の大まかな動静を教えてもらい、変装しながらロケの追っかけをしてチャンスを窺っていたが、特殊工作のプロである男にとっても、映画撮影中に主役の女優と俳優を拳銃で狙撃するのは生易しいことではなかった。ロケ現場には大勢の人がいるし、どこでロケするかの正確な情報まではないため、事前の下見も難しいのだ。

 ところが、今日のロケ現場は、男がこの街に来てから比較的土地勘を身に付けた地区にあり、しかも周囲に隠れ場所の多い竹林が広がるという好条件が揃っていた。男は暗くなればチャンスが巡って来るのではないかと見物人を装って粘っていたところ、撮影中断中に絶好の隠れ場所を発見し、竹林の反対側から人目を盗んでそこに潜入したのである。そして、リハーサル通りに行くとすれば、正面を何も知らない標的が通ることになる。

 男は胸のポケットから指示書に付いていた標的の写真を取り出し、微かに漏れて来るロケの照明に当てて最後の確認をした。この少女と少年が目の前を通る時にぶっ放すのである。

 ――しかし、それにしても――、と男は思った。この任務が始まった時から少し気になっていたことが再び頭を過った。普段は任務決行直前にそんなことを考えることはないのだが。――この少女、生き別れた妹に何と似ていることだろう。特にこの目――。そう思った時、不意に――そして不覚にも――男の頭の中にあのあまりにも辛い八年前の記憶が甦った。

 あの日、街には遠雷のような砲声が断続的に響き、空には灰色の雲を背景に無数のヘリコプターが絶望的な唸りを撒き散らしながら乱舞していた。首都防衛の戦いがこちら側の敗北に終わったのはつい九日ほど前のことで、今や敵は全戦線で最後の総攻撃を開始していた。

 男は唯一の肉親である高校生の妹を午前中のうちに奴等の大使館に何とか押し込んでいた。

「兄さん、必ず戻って来てね。必ずよ」

 職場に戻ることにした男に妹は何度も何度もそう言った。きっと妹も離れ離れになるのが心細かったのだろう。しかし、任務は絶対だった。男は必ず戻って来ることを約束すると共に、万が一自分が戻って来なくとも奴等と一緒に逃げるよう妹に言い聞かせてから任務に戻ったのだった。しかし、男が最後の仕事を終えて街を脱出し、奴等の空母に辿り着いた時、そこに妹の姿はなかった。そして、誰に訊いても何の消息もなかった。確かなことは、妹はヘリに乗らなかったということだけだった。妹が何故ヘリに乗らなかったのか、それは八年経った今でも分からない。生きていれば今頃は二十三才になっているはずだった。

 男は我に返った。スタッフらが何やら本番前の最終確認のような掛け声を投げ合っていた。

 ――平和だ。男は心の中で呟いた。――この国は本当に平和だ。これから男が手を掛けようとしている少年少女は、自分達が経験した血で血を洗う殺し合いなどとは無縁の世界に生まれ育ったのだ。この少女も自分が狙撃されるようなことなど想像したこともないに違いない。

 ――そんな無垢な少女を殺めるのか? 妹に似た目を持つ、あの時と同じくらいの年齢の年端もいかないこの少女を? 自分でも思いがけず、男の心の奥から不意にそんな疑問が湧き上がった。男は慌てて頭を振った。――これは復讐だ。……誰に対して? そう、奴等に対してだ。男はそう思おうとした。――しかし、この少女と奴等との関係は? その疑問は一介の工作員である自分の預かり知る範囲を超えていた。――この少女――在りし日の妹に似たこの少女の命を奪う必要があるのだろうか? 男の中でそんな思いが急に膨れ上がって来た。

 男は標的の方向を窺った。まだ待機中のようである。

 ――いかなる場合でも命令は実行する。男は自分の信条を思い出した。手元の拳銃に視線を落とすと、それは漏れてくる微かな光を仄かに反射して鈍く輝いていた。――しかし、もし狙撃自体が目的なら、少なくとも少女の方は殺さなくてもよい、急所を外せばいい。男はそう思い決めると中腰のまま前方に向き直った。目は決意に輝き、もう迷いは消えていた。

 スタッフが動きを止め、標的もスタンバイしたようだった。愈々劇が始まるのである。


 今日は夜の竹林の坂道を和子と塚町が二人きりで下って行くシーンの撮影である。三十分ほど前、二人が肩を並べて歩くシーンを撮り終えたところで、風が出てきたため撮影は一時中断になっていた。このシーンはもう一つ、塚町が和子の肩をコートで覆うように抱いて二人唄いながら歩くシーンも撮らねばならない。監督の大木は、風が止むのを待つ間もスタッフに照明に関する詳細な指示を出していたが、漸く風も収まり、細かい微調整も終わったようだった。

「本番行きまーす」

 助監督の声が、坂の上にいる和子と塚町の所にも響いてくる。和子と塚町は無言で頷き合うと、スタンバイの位置に付いた。和子の左半身は塚町の身体の温かさをまだ意識していた。

「アクション!」

 キュー出しの掛け声とともに、和子と塚町は身体を寄せたまま暗い小道を歩き出した。左右は暗い静かな竹林で、青い照明の光が幻想的な雰囲気を醸し出していた。和子は塚町と共に映画の鍵でもある童謡を口ずさみ始める。塚町に肩を抱かれ、二人唄いながら歩く――。それはたとえ映画撮影だったとしても和子にとって雲の上を歩くような幸福感があった。演技に集中しなければという思いと、この瞬間が永遠に続いて欲しいという思いが心の中で交錯した。静かな竹林の空間に二人の唄声が響く。

「♪モモクリサンネン、カキハチネン……」

 その時――。突然、パンパンという乾いた音と共に、和子は右胸にハンマーで焼け火箸を打ち込まれたかのような衝撃を感じた。あっという間もなく、身体が支えを失って後ろにのけ反り、バランスを求めて彷徨った視線の先に、塚町の身体がコートごと宙を舞っていた。それはスローモーションのようだった。二人はその何分の一秒かの短い刹那、まるで永遠の時間のように目を合わせた。お互いの生を確かめ合うように。お互いの愛を交わすように――。次の瞬間、和子は、先に仰向けになって地面に崩れ落ちた塚町の身体の上にどうと倒れ込んだ。

「どうした!」

 二人の突然の異様な動作に、監督席から喚き声が聞こえてくる。塚町の上に重なった和子が、痺れる感じのする右手で必死に姿勢を起こそうとし、左手を激痛の走る右胸に当てると、ヌルッとした生暖かい感覚がした。手を目の前に出すと、それは真っ赤に染まっていた。

 ――血……? 突然のことに混乱する間もなく、和子は意識がスーッと遠のく感じがした。

「おい、どうしたんだ、二人とも」

 和子と塚町が折り重なって倒れたのをみたスタッフたちが事態の異常さを悟ってこちらに駆け寄って来た。先ほどまで撮影のために静まり返っていた夜の竹林の小道は今や叫び声が飛び交う騒然とした空間と化し、倒れた和子と塚町の周りに人が集まって来る。

「和子ちゃん……塚町!」

 真っ先に駆け寄って来た助監督の眞田が和子に声を掛け、その下に横たわる塚町を見て更に驚愕の声を上げた。和子も意識が怪しくなりながら、塚町の顔をその目で捉えた。撮影用の青い照明しかない暗闇ではあったが、塚町の顔が既に土気色をしているのは明らかだった。

「塚町君! どうしたの!」和子は自らの苦しさも忘れて思わず声を振り絞った。

 塚町は半目のまま虚ろに和子を見上げ、唇を震わせて何かを言おうとしている。

「救急車だ! 救急車を呼んでくれ!」誰かが周囲に大声で叫んでいる。

「しっかりしろ! 塚町!」眞田が塚町の頭の下に手を入れて介抱しようとしている。塚町の着ていた白いパジャマは今や真っ赤に染まっていた。

「二人とも……撃たれたのか?」眞田が上ずった声で問い掛けるのが聞こえる。

 塚町は和子の腕を掴むと、その顔を見上げながら喘ぐように言葉を絞り出した。

「和子……ちゃん……『時を……こえる……少女』……完成……させようね……」

 その最後の声はもやは唇が微かに動くのみで、塚町の顔からは既に表情が消えていた。

「塚町君! 塚町君!」

 和子自身も叫びながら意識が遠のいていく。――塚町君が死んでいく! 死なせてはいけない! 一緒に映画を完成させるんだもの……。和子は必死でそう思いながら闇の底へ引きずり込まれていった。

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