第14章 日本からの手紙
彼女が眠りから目覚めた時、既に窓からは朝の穏やかな陽光が差し込み、部屋一面がキラキラと美しく反射していた。ニューヨークの冬は厳しいが、今日の陽射しはその長い冬が終わったことを告げているかのようだった。キッチンテーブルの隅の加湿器が相変わらずカタカタと音を立て、微かなシトラスの香りとともに白い蒸気を空中に吐き出していた。
――ああ、もう朝になってしまったんだ……。
彼女は横になっていたソファから少し顔を上げて時間を確認しようとしたが、キッチンカウンターの上の置時計の前に昨晩帰って来た時に置いた籠があってよく見えなかった。
――七時半くらいかしら?陽の光の具合からそのくらいの時刻に思えた。再度少し首の角度を変えて置時計を見ようとしたが、やはり見えない。――あの籠の幅、結構あるんだわ……。彼女はそんなことをぼんやりと考えながら、伸ばしていた首を再びソファの肘掛けに横たえる。しかし、その目はまだ置時計の方を見ていた。いや、正確には顔と置時計の間にあるキッチンテーブルの上に見える白いそれを釘で打ち付けられたかのように見据えていたのだった。
――手紙。彼女は心の中で呟いた。これが、この手紙こそが、昨夜から彼女の心を激しく掻き乱していた元凶だった。余りの動揺にソファに身を横たえ、目を閉じて耐えているうちに防衛本能なのかついそのまま眠り込んでしまったらしい。郵便受けにあった不吉な白い封筒、何気なく裏返した時に飛び込んできた差出人の名前、部屋に戻って中の手紙を読み進んで行くうちに襲って来た、忘れていた過去と新たな驚愕……。昨夜の一連の経過が一瞬心に甦った。
――あの人、どうして今更私に連絡なんか……? 彼女は心の中で舌打ちした。――それに何故私の住所を知っているのかしら? 彼女は再び目を閉じて横になったままゆっくりと慎重に反芻を始めた。――「あの映画の映像が見付かった」? 私はそれを忘れるために今までここで強く楽しく生きてきたというのに……。「あの映画をリメイク」ですって? 今更? 彼女は右手を額に当てて心を落ち着かせた。――「この映像を見て君に恋するようになった高校生がいます」? 「彼らが僕の島に来てロケをしていた映画が何と……」ですって?
昨晩頭を傾げながら何度も読み返して覚えてしまったフレーズが再び心に浮かんでくる。
――何を言っているんだか……。あの人も大概頭がおかしくなったのかしら……? もう長いこと会ってないけど……。そんなバカことに協力なんてできるわけが……。大体、誰がそんな映像を保管してたっていうのかしら? まさかあのLAの時の……?
彼女はそこまで思うと目を開いて天井を睨んだ。
――しかも、旅行券を送り付けるなんて……。私がお金に困っているみたいじゃない!
彼の「実弾付き」の提案が疎ましかった。しかし、一方で彼の示したその場所そのものには心惹かれないでもない自分がいることも認めざるを得なかった。
――愛媛県松山市ねえ……。どんな所なのか知らないけど、多分コンクリートジャングルのこことは違うんだろうなぁ。故郷の長崎に似ているのかしら……。
彼女は窓の外に視線を移した。陽の光が少し角度を変え、向かいのビルの屋上の窓ガラスの反射光が直接彼女の目に飛び込んで来た。
――多分、海が見えるみかん畑が続く、のどかで穏やかな所なんだろうな……。
不意に彼女の頭の中にあの国の山や海の風景が甦って来た。それは何十年も頭に浮かべたことすらなかった光景だったのに、何故かひどくリアルで音や匂いまで感じられるほどだった。
――自分も嘗てそんな光景に安らぎを感じていたんだろうか? コンクリートジャングルが好きと自分に言い聞かせ、そういう街で銃を引っ提げパトカーに乗り込む時の全能感が堪らなかった時だってあったというのに? 本当はのどかなみかん畑の里山や潮騒響く豊かな海辺が好きだったのだろうか? 彼女は突然襲ってきた郷愁に我ながら戸惑った。
――バカ言わないで! 突然、心の中でもう一人の自分が強く否定するが如く叫ぶ。――「良かったらここに見学においでになりませんか」ですって? 冗談言わないで頂戴! 私はここでやることが一杯あるんだし、今更三十年前の映画の復活に協力するのなんて真っ平。私が承知もしていない映像を使うなんて気持ち悪いにもほどがあるわ!
そして、思考は彼女の一番辛い部分に差し掛かる。
――それに……彼……彼との約束は……あれはもうどうしようもないことのはず――。彼女はそう心の中で呟くと、再び目を閉じた。――やはり思い出すべきではなかったんだわ。
静かな部屋の中に響く加湿器の音を聞きながら彼女は何度も何度も強くそう自分に言い聞かせた。目尻からスーッと一筋の涙が零れて行くのを感じたが、彼女はそれを拭わなかった。
再び彼女が目を開いた時、外からの陽光は既に昼を告げる角度に変わっていた。
「考えるに値するようなことですらないわね」
彼女は小さくそう呟くと、のろのろとソファから体を起こした。