序章
映画「時をかける少女」に捧ぐ
夕闇迫るなか、少年はもう誰もいない学校の暗い廊下を一人歩いていた。パタパタという自分のスリッパの足音がシンと静まった廊下の壁に響き、まるでリズムを取るかのようで妙に心地良かった。日中は中庭に咲き誇る花の色の反射や壁に貼られた様々な掲示物で色彩豊かな印象のある廊下だが、この時間になると無機質なモノクロームの世界に変化しつつあった。
少年が向かっていたのは、高校生活のうちの多くの時間を過ごした思い出の部室である。卒業証書の入った筒を両手で胸の前に確りと握り締めて廊下の突き当りを右に曲がると、果たしてその先にその部屋の入り口の扉がひっそりとした佇まいを見せていた。薄暗い廊下の中、扉の上の看板の文字はもう判別が付かない。少年は一瞬立ち止まり、卒業証書の筒を右手に持ち換えると、そこへ向かってゆっくりと近付き扉の前に立った。少年は看板を見上げ、辛うじて読める「映画部」という文字を小声で読み上げると、左手で静かに入り口の引き戸を開けた。
三年間親しんだ、本と汗が混じってすえたような懐かしい匂いが一気に押し寄せ、少年の鼻孔を擽ってくる。在学中は慣れ切っていた匂いだったが、卒業を迎えた今、この匂いには全ての思い出を詰め込んだ新たな感慨があった。足を踏み入れると、八畳程度のその部屋は廊下より僅かに明るい程度であった。正面の窓際に置かれた大きなテーブルの上には雑誌や本、写真集、DVD等が乱雑に積まれ、所々山崩れを起こしている。左側に並ぶクロゼットの扉には映画ポスターがベタベタ貼られ、恐らく中はテーブルの上以上にグチャグチャに違いなかった。
少年はクロゼットとは反対側の壁に視線を移した。こちらも一面に様々な映画のポスターが貼られている。少年はそのうちの窓際にある一つの映画ポスターに視線を定めた。それは前と変わらぬ位置に整然と貼られていた。何も知らない人が見ればそれは他の様々なポスターや写真に紛れて何の変哲もないポスターにしか見えないものだったろう。しかし、それは少年にとってこの薄暗い部屋の中で全てを圧倒するかのように燦然と光り輝いていた。
少年はゆっくりポスターに近付き、その前に立った。ポスターの真ん中には、半身像で立つ制服姿の少女が、僅かに体を斜めにして無表情にこちらを見詰めている。向かって左側からの照明が少女の全身に微妙な陰影を付けるとともに、左右の目の調和を狂わせており、陰鬱ともいうべき雰囲気を醸し出している。かといって少女にか弱げな風情はない。むしろ、無表情であるが故にその眼光と真一文字に結んだ口は却って強固な意志を感じさせる。十代の少女の一瞬の輝きを放ちながら、遥か彼方、三十年先、いや千年先まで見通しているかのように。
――彼女は何を語ろうとしていたのだろう? 少年は少女像をじっと見詰めながら思った。――いいや。この時彼女は結局何も語らなかった。何も語らないまま、美しい歌声だけを残して突然表舞台から姿を消してしまったのだ。そして、人々はいつしかその少女がかつて光り輝いていたことを、いやそもそも存在していたことさえも忘れ去ってしまった。それでも……そう、それでも彼女は生きていたのだ。ずっと、何十年も。暗い闇の中で。この写真と同じ目で、未来を見据えて。いつか人々の前に戻って来る日を待って。そして、そのことを考えると少年は頂に持ち上げられるような高揚感に駆られるのだった。同時に何とも言えない心地よい幸福感にも。――何故なら、僕は帰って来たこの少女を愛し、彼女が再び光輝くことに全てを捧げたのだから。やがて、少年の心の中にある思いが蘇ってきた。それは少年が少女の復活を完成させた時、強烈に意識した思いで、言葉で定義するとすればこういう思いだった。
「美しい物語は、それがどんなに醜い薄汚れた現実から生み出されたものだとしても、それ自体はその現実から完全に独立した輝きを放つ」
少年が一年前に心血注いで作り上げたのは正にそんな物語だった。そして、その中で少女は永遠に輝き続けるだろう。その完成に至るまでのあらゆる醜い汚れた現実を超越して――。
夕闇が深まるなか、少年はポスターに顔を向けたまま静かに目を閉じた。深い海の底のような闇の中から、一年前のあの丘の道の光景がぼんやりと浮かんでくる。あれは確かあの島で撮影していた四月初旬の昼下がりのことだった。微かに霞んだ空から暖かい日差しが降り注ぎ、島全体が春の到来を喜んでいるかのような陽気をもたらしていた。島の山肌いたるところに広がるみかん畑では青々とした葉っぱが陽光を照らして輝いており、どこかで鶯が恋のさえずりを繰り返しているのが聞こえていたものだ。少年はそんな明るさ溢れる風景画のような島の小高い丘の道を、買ったばかりのペットボトルを何本も両手に下げて彼女と一緒に上っていた。二人のほかには全く人気がなく、道の先の峠の向こうからは潮の香を含んだ風が心地よく吹き下ろし、彼女のウェーブの掛かった長い髪を揺らしていた。
もう今となっては、何故あの時彼女とその道を歩いていたのかははっきりと覚えていない。ペットボトルを下げていたから、島の反対側の店に買い出しに行った帰りのことだろうと思われるけれども、どうして自転車で行かなかったのかはもう記憶になかった。でも不思議と、その時急に彼女が駆けっこをしようと言い出したのだけは鮮やかに思い出すことができる。
「ねえ、この道の先の峠の所まで駆けっこしない?」
彼女は白い清楚なワンピースを着ていて、長い髪を垂らしたままちょっと意地悪そうな微笑みを顔に浮かべてそう言ったのだ。その顔には年月が刻んだはずの皺も見当たらず、そう、まるであのポスターの少女の肌のようだった。
「え? 勘弁してくださいよ。僕、走るの苦手だし、それにペットボトル持ってるんですよ」
突然の挑戦に対し少年が戸惑いながら抗議すると、彼女は頬を膨らませて言ったものだ。
「若いのにそんなおじさんみたいなこと言わないの。峠をこえる所まで駆けっこしてね、そして二人でその向こうの海を見るの」
少年は青春映画みたいなことをしようと言う彼女の提案にドギマギして何か言おうとした。
「『峠をこえる少女』になっちゃいますね」
口をついて出てきた言葉は自分でも何と下らないんだろうと思うような駄洒落でしかなかった。そして、それは言い訳にもなっておらず、彼女も決して許してはくれなかった。
「誤魔化さないの。いい? あの峠をこえるところまでよ」
彼女は白のワンピースとよく似合うやはり白い厚底のサンダルを履いていて、とても駆けっこをしやすい格好とは言えなかったが、早くも走り始めるための前傾姿勢を取り始めた。
「峠をこえてからかけることにしませんか」少年は最後の抵抗をした。二リットルのペットボトルを四本も持っていたから、せめて駆けっこは峠をこえた下り坂からにしたかったのだ。
「かけてからこえるか、こえてからかけるか? それが問題だ。荷物を持つ身としては――」
シェークスピアの「ハムレット」をもじった言い回しに僅かな望みを託してそう言う少年に向かい、彼女は侮蔑の笑みを微かに含んだ一瞥を与えた。しかし、正面に向き直った時は既に真顔に変わり、その目は峠の先を見据えていた。そして、「行くわよ。よーい」と言って前傾姿勢を固めると、「ドン!」と叫んで走り始めた。サンダル足もなんのその、もたもたしている少年をおいてあっという間に軽やかに先に駆けて行く。
実際には峠までの距離は五〇メートルもなかったに違いない。しかし、坂が急だったせいもあってひどく遠くに感じられたその峠まで少年が漸くあと十メートルでゴールできるかという時、先に着いて峠の上でこちらを向いて佇んでいた彼女が急にクルリと向こう側を向き、その先に広がる空に向かって、「ヤッホー」と叫んだ。
少年はやっと峠に着くと荷物を地面に置いて息を整えた。峠の天辺は先ほどの登坂よりも向かい風が強く、春の陽気と運動によって少し汗ばんだ体を冷やしてくれる。それはとても心地よいひと時だった。目の前を緩やかに下っていく道の左右はみかん畑で、その先には海岸沿いの道が左右に伸び、更に向こうには白い波頭の輝く海が静かに広がっていた。
――何て美しい光景だろう。少年がそう思った時、彼女が不意に口を開いた。
「私ね、今、日本を好きになってもいいかなって思っているの」
少年はドキッとして彼女の横顔を振り向いた。彼女は長い髪を潮風に揺らしながら涼やかな微笑を浮かべて海の方を見詰めていた。彼女の背後のみかん畑ではみかんの葉がやはり風に吹かれてキラキラ光っていた。
少年はおずおずと尋ねた。「好きじゃなかったんですか?」
「好きじゃなかったわ」彼女は口元の笑みを消し、きっぱりと言い切った。そして十秒ほど何か考えるように前を向いて立っていたが、やがて空を見上げると再び微笑みを浮かべながら付け加えた。「アメリカには三十年も住んでいたものね。それも日本から逃げ出してね」
――ああ、それを話すのですか、と少年は思った。それについて少年も興味がなかったわけではない。むしろ、本当は知りたくてしょうがないくらいだった。しかし、少年はこの彼女との二人きりの幸福な時間に敢えてその話題には触れたくなかった。
「行きましょうか」
少年はペットボトルの袋を拾い上げると、彼女を促した。彼女は少年のそんな心中を知ってか知らずか、相変わらず海の方を眺めながら、突然妙なことを訊いてきた。
「ねえ、アメリカの文明の本質を知ってる?」
「アメリカの文明の本質……ですか? 随分難しい話ですね」
「そうかしら? でも知っておいて損はないわ」
そう言うと彼女は少し言葉を切ってから今度は低く掠れた声で囁いた。「力よ」
「力?」と少年は訊き返した。
「そう、力。そしてね、その具体的な象徴が……」彼女はそこで間を置くとおもむろに少年の方に向いて言葉を続けた。「……『銃』と『車』なの。分かる?」と。
――ああ、やっぱりその話なんですか。少年は心の中で呻いた。沈黙を守る以外に何ができるだろう。少年が戸惑いながら口を噤むなか彼女は一人語り続けた。
「アメリカ人が最も好きな二つのアイテム。だから私もアメリカでその二つに思い存分親しんだわ。徹底的にね。そういう意味では普通の日本人からは相当かけ離れちゃったかもね」
彼女はそう言うと後ろ手を組んでゆっくり歩き始めた。少年があとを追って足を進めると、彼女は空を仰ぎ、そして目を閉じて春の空気を全身で感じるように両手を広げ、歩きながらくるりと一回転して言った。「でも、今日は感じる。日本の良さを。日本のこの平和な自然を」
少年はその言葉を聞いて改めて周りを見回した。島の小高い山一面にみかん畑が広がり、正面には午後の陽射しを受けて瀬戸内海の穏やかな波が煌めいている。遠く散水機が稼働するリズムを背景に雲雀のさえずりが聞こえていた。――日本人なら誰しも原風景だと感じるだろう平和な光景――。少年がそう感じた時、彼女は立ち止まって眩しそうに再び海の方を見遣ると呟いた。
「私ね、三十年以上前、日本を離れる直前にも彼のお墓参りをしたの」
追い付いた少年はその言葉にハッとしたが、彼女はそれに構わず遠くを見たまま話し続けた。
「彼ね、あまりに若くして死んじゃって……とても真新しいお墓で、ああ、こんな石の下に永久に入っちゃったんだなって、凄くショックだったのをまだ覚えてる」
彼女はそう言って風で煽られた髪を掻き上げた。
「彼との約束……でも、あの時の私にはもうとても無理だった。だからお墓の前で彼に謝ったわ。『ごめんなさい。約束守れなくて。何もかも捨てて逃げ出しちゃって』って」
少年は淡々と静かに話す彼女の横顔を見遣った。彼女は言葉を切ると海の方を睨んだまま何かを抑えるように唇を噛んでいた。爽やかな春の潮風が彼女の髪を揺らして通り過ぎて行く。彼女は暫くそうして佇んでいたが、やがてフッと息を吐くと言葉を続けた。
「この前、彼のお墓に三十三年ぶりに行った時、正直に彼に話したわ。今回はどうしたらいいんだろうって。そしたら、彼、『君が好きなようにすればいい』って言ってくれたの。私には確かに彼がそう言ってくれたように感じたの」
そして彼女はゆっくり少年の方を向き、潤んだ眼差しを射るように投げて再び口を開いた。
「私、今とても嬉しいの。彼との約束を果たせるから。約束を果たす決心がついたから」
それが何を意味するか少年は一瞬分からなかった。彼女は何かとても重要なことを自分に告げようとしているのだということは認識できた。しかし、肝心の内容が吉なのか凶なのかを理解することができなかったのだ。少年が口を開いてそれを尋ねようか尋ねまいかとした時、彼女は再び海の方に向き直ると、今度ははっきりと付け加えた。
「この映画、あなたたちが好きなように撮ったらいいわ」
それはもう疑問の余地のない言葉であった。少年は一気に心の中に喜びが広がるのを感じながら声を呑み込んだ。彼女はもうそれ以上何も言わず、穏やかな顔をしたまま海を見詰めるだけだった。海からは爽やかな風が絶えず吹き寄せ、相変わらず彼女の長い髪を揺らしていた。その彼女の頭の遥か先、どこまでも続く春の空を背景に、トンビが天使のようにゆっくりと旋回するのが見えた。潮騒の微かなざわめきが二人を静かに包む中、少年はいつまでも彼女の傍に寄り添いたいと願い続けた。
あの島での穏やかな春の昼下がり、彼女の承諾はこうしてもたらされたのだった。