3
ぁああっぶねええええええええええ!!!!
……と、声を大にして叫びたい。少女こと俺──木瀬椎名は大真面目にそう思っていた。
(一体なんなんだ、あの化け物は──!)
<世界を巡る旅扉>の内側にある亜空間にへたりこみながら、盛大にため息をつく。
視線が合っただけで手足の末端が冷え、脳が痺れるあの感覚。対峙したのは数十分にも満たないが、暫く味わいたくないと思わせられるには充分な時間である。
話を聞いた限りなら、最低でも五百年は君臨し続けていそうな魔界の王だ。さぞ老獪な化け物だろうと想像していたが、その実態は人形の如き絶世の美青年だった。
瞳孔が縦に刻まれた、血に染まったような紅の虹彩。闇色の髪を背に流し、そこから突き出るのは、禍々しくとぐろを巻いた双対の角。重厚な金の装飾が、シンプルな黒衣によく映える。
いっそ神々しくさえあるその貌が、見る者の恐怖をより煽るのだ。目の前にいきなり現れて、首に一発入れられたときにはもう……あれだ。タマがヒュンってやつだ。
結論。出来れば二度とお目にかかりたくない、以上である。
「ったく、どうすんだよ…これから」
大体“魔王退治”など、最初から望むところではなかった。俺は元々、この世の存在ですらないのだから。
前世の記憶は残っている。自分が日本生まれの日本育ちで、今年二十四歳になる事。碌でなしの親のせいで底抜けの貧乏だった事。そして、弟と妹を食わせるため、叔母のやってる個人飲食店で幼い頃からこき使われていた事。
未練と呼べる未練がこれっぽっちも見当たらない中、唯一の気がかりと言えばまだ幼い弟と妹だが、それは叔母が何とかしてくれる。そう言う約束だ。
彼女はまぁ、流石俺の親の兄妹とでも言えばいいのだろうか。まるで悪魔か何かとカン違うまでの人使いの荒さで、口も悪けりゃ態度も悪い。
けれど、店は常連客でいつも繁盛していたし、弟も妹も懐いていた。根っからの悪人じゃないのだ。信頼できる。
あとは、強いて言えば自分の死因だが、また何か馬鹿をやった弾みとかそんな感じだろう。何しろ覚えていないのだ、悩んだって仕方ない。以上、考察終わり。
とまぁこの雑な性格のお陰で、自分の置かれた不可解な現状に苦しむことはなかった。つまり、あれだ。転生って奴だ。ネット上じゃゴロゴロ転がっている話である───ただし。
俺が転生したこの女性の身は、ヒトではない。
その正体は自分でもまだよく解っていない。焦ってはいなかった。きっと自分がこれから悠久の時を生きるのだと、どこかで理解していたからかもしれない。
なればこそ。これから歩むであろう永遠に等しい時間を、魔王の逆襲に怯えながら暮らす謂われなどないのである。勿論、自分でしでかした事ではあるのだが。
「あーくそ。まじ許さん、“奴ら”次会ったらシバく…」
魔王の残虐非道たる所業を、二十四時間営業でこんこんと語られ、少しでも拒否の姿勢を見せれば強請りに脅迫に泣き落とし。「貴女様にしか出来ないのです!」「どうか我々をお助けください!お慈悲を!!」「助けると思ってどうかああ!!」…神経がすり減ったねアレは。
しかし、こっちに転生した時助けてもらった恩もあり、最終的に俺が折れる形で渋々承諾したのだ。その瞬間、めちゃくちゃ良い笑顔で魔王城に強制転送させられ、今に至る。いや、もうちょっと何かあったよな?なかったの?まじで?
正直言いたい事は山のようにあるが、二ヶ月前突如としてこの世界に投げ出された自分を、親身になって面倒見てくれた“奴ら”。暴走気味ではあれど頑なに強い正義感と、異種族にも手を差し伸べる優しき性根を持つ、自分の友人達。そんな彼らの唯一の願いを、俺は託されたのだ。
そして今、それは果たされた。
討伐こそ出来なかったが、根城を崩落させることに成功した(やり過ぎたと感じているのは内緒だ)。これが後々、恐怖の象徴であった魔王の威厳に、大きな傷跡を残すことになるのは明白である。
この吉報は彼らの耳にもすぐ届くだろう。自分はその崩壊に巻き込まれて死んだとでも思ってくれればいい。──これが、“奴ら”に対する俺の精一杯の恩返しなのだ。
「いやぁ、お見事ですわ姐さん!何とも優柔不断かつ利己的な判断!よっ、このエゴイスト!お見逸れしますぅ~」
「オイこら。誰が出てきて言いつった。潰すぞ」
<世界を巡る旅扉>は、亜空間を介することにより空間と空間を行き来するという、俺が独自に開発した移動系魔法である。
対魔王戦の逃亡手段として、一ヶ月半費やした傑作だ。事実上、開発者である自分にしか特定できぬはずの座標地点。そこにぽんっ、と陽気な音を立てて軽々と現れた男は、馴れ馴れしく俺の肩に手を置いた。
「えっ、潰すってちょっと、どこをですの?下品なんやからぁうちの姐さんは~!」
「……」
「あ、ジョ、ジョークですやん!そんな険しい顔せんと、えっ嘘──ぎゃあああ!」
電磁波と炎をブッキングし、超高温度を産み出した指先を、俺は無言で男の額に押しつける。
「ちょ、それあかん!びりっびりきよるわ!あれぇ可笑しいな!ボクの魔法攻撃無効化は!!?」
「知らん。てか問題ないだろ。オマエそもそも骸骨だし」
そんな殺生な!身も蓋もなさすぎるわぁ!と男──黒いボロ衣を身に纏い、大鎌を構えた骸骨──死神は、泣きそうになりながらそう訴えた。
「とか言いつつ高速再生かよ。どんだけだよこのチート野郎」
「望んでこう産まれたんとちゃいますぅ~!ちゅーか、姐さんに言われたないわ!その技、さっき魔王はんが放ちよった奴ですよね!?」
「……黙秘権を行使する」
「きゃー!どろぼーよ!」
死神の妙なテンションに閉口しつつ、シイナはぴょんっと立ち上がった。
(…つかこいつ、なんで外で起こったこと知ってんだよ。しかもこの口振りだと、“奴ら”の事も分かってそうだよな)
この亜空間を使用するとき、毎回ふらりと現れる死神。特に害意はなさそうなので放ってはいるが、謎の多い奴である。
「行ってまうんでっか?外は危険なんでっしゃろ?」
「まぁな。だからってこんな辛気臭いところに、いつまでも居られねぇよ」
「カラカラカラ!流石は姐さん!我が儘やなぁ!」
ケタケタと黒衣を纏った骨が笑う。いつ見ても奇っ怪な現象だと、シイナは心の内で思った。
「ほなら、またお会いするときを楽しみにしときますよって。さいなら~」
「おう。もう出てくんな」
オマエのフォルムって地味に心臓に悪いから。そんな捨て台詞を残して、シイナは入ってきた方とは反対側の扉に向かって歩き出す。
カラカラカラカラ。空っぽな笑い声が、まるで追ってくるようにずっと響いていた。