1.開幕
────退屈だ。
五百前から変わらず、彼の頭に浮かぶのはそればかりだった。勇者と不可侵協定など結んでいなければ、もう少しマシな毎日を送れただろうか。
しかし、そんな後悔も時すでに遅し。唯一自分と拮抗、もしくはそれ以上の力を持った相手との闘いの日々はもう過ぎ去り。
混沌に満ちたこの魔界にすら、平和と言う名の退屈な病魔が蔓延し始めている。最早これは腐敗だ。
そして、どっぷりとその和平に浸かり、この数百年間ずっと怠惰に暮らしてきた“彼”。今や古の条約を破り人間界を襲い、かつての宿敵と刃を交える事にすら、意味を見出だせなくなっていた。
今更そんな事をしても、かの激戦時代に感じた高揚と興奮は二度と味わえない。直感的にそう理解していたからだ。
(……つまらぬ)
彼は生まれたその瞬間から、最凶の名を欲しいままにしてきた。
名だたる古参の高等魔族ですら、生まれて間もない自分にかすり傷を負わせる事すら叶わず。その余りの魔王としての器に、自我のない魔物でさえ彼に近づこうという愚か者はいなかった。
しかし困った事に、彼の渇きを唯一癒すのは破壊と暴力。
それも一方的な蹂躙や殺戮では意味がない。腹の底から滾るような、互いの力を認め合える何かとの、熾烈を極めた死闘であった。
これまでの事例で見れば、勇者との戦争は間違いなくそれに近かったと言える。だが、足りない。満たされない…。
(ああ、そうだったな…思い出した)
自分が不可侵などと言う甘ったるい協定に乗った訳を、彼は数百年ぶりに思い出した。飽和状態、とでも言うのだろうか。
生まれて初めて感じていた高揚は、ある時点から遂に、降下の一途を辿るようになったのだ。今思えば、あそこが勇者との闘いの限界点だったのだろう。
もし彼と勇者が本気で互いを殺す気でぶつかり合えば、その余波は天を貫き、大地を揺るがし、天災にも似た爪痕をこの地に齎した筈だ。無論彼は強くそれを望み、しかし、勇者は頑なにそれを避けた。かの人間には守るものが、背負うものが多過ぎた。
そうこうしている内に戦火だけが悪戯に拡がり、決定的な決着はつかないまま互いに一進一退。延々と膠着状態が続いていた。このまま続けても意味はない、そう結論付くのに時間はかからなかったように思う。
もとより勝敗などどうでもよかった彼は、人間側から提案された条約文に、ろくに目も通さず調印したのだ。人間如きがここまで楽しませてくれるとは、魔王たる彼ですら予想外だった。
しかし、それだけだ────それだけのことだ。
彼の牙城である魔王城は、ほぼ廃城と化している。
強欲であった先代魔王は側近や召し使い、衛兵から料理人、果てには庭番まで抱え、城を自らの威厳を示す一種のステータスとして利用していたようだが、彼には必要ない。
魔王たる威厳など、彼のその凶悪なまでの魔力量だけで十分と言うものだからだ。十分すぎて、子飼いの使役悪魔ですら下手に寄り付けない。彼の身体から無意識に滲み出る魔力の分子が、近付く輩を弱き者から順に灰に帰してしまうからである。
彼の魔素に満ちたこの城は、もはや生物の生息出来る環境ではなくなっていた。
「……だれだ?」
だからこそ。この五百年間全く感じなかったからこそ、彼はその些細すぎる違和感に気付いた。
ありえない。この廃屋に、何者かの気配など。
「出てこい」
彼の魔力は他にとって害となる。いわば危険極まりない毒ガスに満ちた城内を、平気でうろつけるという事は、つまり。魔王である彼の魔素を取り込んでも、自分のものと中和できる程力のある、何か。
「……」
返事はない。もとより期待などしていなかった。
(何百年だ?)五百年。そう、彼は五百年待った。再び強者と合間見える、この瞬間を。
いつもと変わらず退屈に殺される筈だった毎日に、突然終止符が打たれる。今日という日が彼にとって瞬く間に特別な日となった。逸る鼓動。
(はははは……自分の心臓が動いているなど、五百年ぶりに気が付いたわ!)
五百年間、玉座から全く動いていなかったなど、一体誰が信じられただろう。俊敏に彼は動いた。
紅く染まった瞳に、鋭く亀裂をいれたような漆黒の瞳孔。つい先程まで死んでいたそこに、爛々とした輝きを灯して。
「出てこぬならば此方から赴くまでよ」
食前の前戯、それもまた一興。
魔界の主は自らの獲物を求め、今、動き出す。