吉崎新之助
前夜の興奮冷めやらぬ翌日の朝、家老全員と各組の組頭が呼び出され、書面を読み上げるのではなく藩主自らの口で牧野を斬ったことが述べられた。これに真っ向から噛み付いたのは、時の筆頭家老――畑中甚平だった。
この畑中こそが、年貢を重くするなどの政策を打ち出し、牧野に命令していた張本人である。
この畑中と言う男、藩主からの直々の詰問に対し、牧野を使い人を集めたことをあっさり認め、なぜ斬ったのか? と逆に藩主に食って掛かってきたのだ。藩主から検分の吟味を都合よく曲げたことを問いただされると、そ知らぬ顔で牧野の独断だと言い切った。自身は潔白の身であると。これに憤慨したのが、次席家老であり検分を統括する責を負った男――吉崎新之助であった。
もともと検分には、代官役の者が数人おり、自身の管轄の農村を取り仕切っていた。しかし、1人の代官約が何者かに斬られ――下手人は未だ捕まらず――その分の空きが出た。他の代官も高齢だったため、これを機に一新することを畑中が取り決めた。しかし、これに真っ向から反対したのが、吉崎新之助その人である。
農地の検分は経験と信用が大事だと解き、一新するにしても「先ずは古参の代官の下で経験を積むのが先だ」と述べたのである。そうでなければ、農民の放散に繋がり、延いては藩の財政危機を招くと粘り強く説いてみせた。しかし、時の筆頭家老畑中家は、何人もの名家老を輩出し、三男坊にすら他藩の大名から婿の口がかかるほどの名門であった。禄高は藩内随一の1000石。武家屋町に立つ屋敷には数十人の奉公人を養い、広さは200坪を超えるほど。
対する吉崎家は、代々御側用人を勤める家系で禄高は200石。現在の藩主が着任したとき、藩士の模範になるようにと執政に加わることを命じられ、当時は次席家老を勤めていた。現在の禄高は300石。藩内では2番目の権力者であるが、畑中家とは身分が違う。
当然のように吉崎の物言いは黙殺され、強引に代官一新案が可決されてしまう。この時、表裏かかわらず強烈な圧力があり、吉崎は身動きが取れなくなってしまった。
しかし、そこは藩主直々に取り立ててもらった男。
器は折り紙つきだった。
人を使い藩主に事のあらましを伝えると、藩主の命を待たず各農村の豪農達を集め、現在の作物の状況から新代官の動向まで逐一報告させた。
ある秋の日、検分も終わりに差し掛かっているであろう頃、吉崎の元に待望の報告書が届けられた。早速厳重な封を解き、食い入るように見入った。
そこに書かれていた内容は、とても容認できるようなものではなかった。
吉崎の行動は早かった。報告書が届いた夜の丑三つ時(午前2時頃)、吉崎は静かに屋敷を出た。頭上にかかる半月の恩恵で提灯は持たず、二名の家士を引き連れて足早に武家屋敷から遠ざかる。
吉崎には一つだけ気になることがあった。それは、作物の出来である。いかに畑中の智謀が見え透いているとはいえ、検分に長年携わってきたものとして、一度自分の目で出来を確認しておきたかったのである。
草木も眠ると言われる時刻に控えめに叩かれた戸。二度ほど叩いた後、ほのかに火の匂いが漂ってきた。不機嫌そうに戸を開けた農民の男—―庄一は、頬かむりをした武士3人に腰を抜かしそうになる。何事かと視線を彷徨わせていると、おもむろに先頭の武士が頬かむりを取った。
「夜分に済まぬ。火急の用ゆえ許されよ」
「ややっ!」
目の前で頭を下げる自国の家老。庄一はひっくり返りそうになるのを何とか堪え、慌てて家の内に通す。玄関を上がり家内を叩き起こそうとしたが、吉崎がすっと口に人差し指を添えたゆえ止める。
「すまん。内密に頼む。米の出来を見たい。見たらすぐ帰るゆえ」
この一言であらましを理解した庄一は、頷きを返し裏口を指差す。そのまま庄一は先立って歩き、静かに裏口を開け外に出る。少し歩いたところに収穫された稲が立てかけられていた。庄一を追い抜き、足早に稲に駆け寄る家老、後方にとどまり周囲を見回す護衛二人。
「火をお持ちしましょうか?」
食い入るように稲穂の膨らみを見つめる家老に問いかける。
「よい。月明かりで充分じゃ」
先ほどからの言動と護衛の目の配りなどから、かなり切迫した状況にあるのは理解していた。庄一の額に玉のような汗が浮かぶ。
「今日脱穀した米もありますが、ご覧になりますか?」
「・・・・・・いいや、もうよい。」
声を潜め尋ねてくる庄一を重苦しい声で制す。その迫力に怯み無言で佇んでいると、それに気づいた家老が苦い顔で頷く。
「突然済まぬ。今日のことはくれぐれも内密に頼む」
頬かむりをしながら頼む家老に慌てて頷き、怒気を振りまきながら歩み去る家老を呆然と見送る。不意に初冬の風が庄一の頬を撫でる。まるで、藩内の今後の波乱を暗示するような突風に、庄一は心底身震いするのであった。