優しく、そして強引に
前作「困ったように、嬉しそうに」の裏話的続編、『彼』視点です。
前作の彼のイメージが多分がらりと変わりますのでご注意を。
読んだことがない方はまずは前作からどうぞ。
「……あぁ、ちゃんと待ってたな。…………イイコだ」
コートも脱がぬまま、弾かれたように椅子から立ち上がって出迎えてくれた彼女の頬を、するりと指の腹で撫で上げる。
そのまま頬の輪郭に沿って顎を捉えようとした指は、しかし一歩大きく後退されたことでむなしく空を切った。
「あの、ルームキー、預かってましたから。これがないと、緒方さん、困るんじゃないかと思って」
「そんなもの、フロントに言ってマスターキーで開けさせればいいだけの話だろ?ここはオートロックなんだ、扉が開けば後はさして困らない」
「…………あ」
「思い当たらなかった、って顔だな。……まぁいい」
手早く脱いだコートをハンガーに掛け、大きく一歩踏み出して距離を縮めると、彼女は怯えたようにびくりと身を竦ませる。
(取って食いはしない……と言ってやるのは簡単なんだがな……)
ルームキーを渡しして『部屋で待ってろ』と誘ったのは自分の方。
色々言い訳をしていても、男の部屋に入って待つというのがどういう意味か、彼女だってわからないはずがない。
なのにそんな怯えた小動物のような反応をされると、どうにも扱いに困ってしまう。
彼は、軽く逡巡した後
「シャワー、浴びてくる」
ポン、と軽く彼女の頭を叩くと、進行方向を変えてシャワールームへ続く扉に手をかけた。
目を閉じ、顔を上げ、ざぁっと勢い良く降り注ぐお湯を一身に浴びる。
扉の向こうの音は、ここからではよく聞こえない。
彼女はまだそこにいるだろうか、それとも……暗に『逃げるなら今のうちだぞ』と猶予を与えたことで、自分の部屋へ戻ってしまっただろうか。
猶予なんて与えなければ良かった、だが嫌がる彼女を無理やり抱くのは彼としても本位ではない。
(我慢が利かない若造ならともかく……この年で焦ってどうする。じっくりゆっくり近づいて、囲い込んで、離れられないようにして、そして)
なんだ、結局行き着く先は一緒か。と彼は自嘲する。
若かろうがいい年だろうが、焦ろうが焦るまいが、がっつこうがじっくり囲う込もうが、なんだかんだ言っても逃すつもりなど最初からないのだと、そう改めて気づいてしまった。
彼女を意識した、あの日からずっと。
彼の率いる広域捜査課とは、その名の通り県境を挟んだ事件の捜査を取り仕切り、担当の所轄同士がいらぬ縄張り争いで捜査を停滞させないように、時に陣頭に立って捜査する部署である。
上層部にそれほど重要視されている部署ではないため、メンバーは緒方を除いて10人と意外に少ない。
県境を挟む事件は多いわけでもないので、普段はメンバー全員のんびりと過去の報告書をめくったりディスカッションをしていたりするのだが、この日は4人が非番、1人が怪我のため入院、4人がそれぞれ二手に分かれて神奈川県警と千葉県警に出張中……つまり緒方とあと一人しか残っていなかった。
そんな中での、極秘の捜査依頼。
足早に戻ってきた緒方は、いかにも不本意ですといった表情で残っていた古株の部下に「任務だ」と告げた。
「はぁ。……で、行くのは俺ですか、課長ですか?」
「俺が行く。お前は留守番を頼む」
「ってことは、面倒な依頼だったってことですね」
「まぁ、な」
刑事部長直々に依頼されたのは、現在部下2人が担当している神奈川県警と警視庁が合同捜査にあたっている事件において、重要参考人として名前が浮上したとある大物政治家を一晩見張れ、というもの。
本来そういった張り込みなどは現場の刑事の仕事なのだが、今回の場合は相手が相手だということ、本来任務につくはずの公安部がこの日ばかりは動けないことが重なって、キャリアである緒方が指名されたのだろう。
緒方は今晩、それとわからぬようにターゲットに張り付き、翌朝を迎えるまでその行動を見張る。
そのための偽装工作として彼は、担当所轄の何も知らないだろう女性職員を同行するつもりだった。
それを部下に話すと、彼は書類をめくって担当の所轄を確認し、そして
「ああ……この所轄なら、いい人材がいますよ。強行犯係の内勤役、とでも言えばいいのかな。ほら、課長も連絡取ったことあるでしょう?」
「もしかして碓氷巡査のことか?」
「そうです。彼女なら滅多に現場に出ないからプロには見えないだろうし、けど強行犯係だからそれなりに訓練も積んでるはずです。今回の任務にうってつけじゃないですか?」
「……そうだな……」
連絡取りましょうか?と携帯を取り出した部下に、緒方は任せると頷いた。
「おっ、お待たせしました!」
「……格好は合格だが、そんなに緊張してたら持たないぞ?」
「わかってはいるんですけど……その、現場に出る機会なんてそれほどないので」
待ち合わせ場所に現れたのは、フォーマルなデザインの紺のスーツに身を包んだ、20代半ばほどの小柄な女性だった。
彼女は所属する強行犯係の中でも内勤担当という変り種で、その仕事は他部署との連絡係や報告書の作成、時には捜査本部との連携に資料作成、事件現場までの案内係までこなす内勤のエキスパート的な存在である。
今回の事件も内容は簡単に聞かされているそうだが、現場の捜査に関わっていないためターゲットに面は割れていない。
「まずは後援会と称したパーティにもぐりこむ。君は俺のパートナーとして同行してもらうが、もしターゲットが接触してきたら臨機応変に対応してくれ。……かなり女にだらしない、という噂だからな」
「は、はぁ……」
つまり、セクハラ行為をされても過敏に反応するなということだ。
緒方の言いたいことがだいたい理解できたらしく、彼女は若干不安そうにわかりましたと頷く。
(理解力はある方か。多少警戒心に疑問が残るが、今回はその方が素人さんぽくていいだろうしな)
明らかに『警察官です』と主張しているようなタイプ、もしくは場慣れしすぎていて逆に浮いてしまうタイプは潜入捜査には向かない。
彼女のように警戒心の薄そうな、だがある程度の賢さは感じられるタイプの方が、今回のような政治家の後援会場にもぐりこむにはむしろ最適だろう。
バカでは浮く、賢すぎても警戒される、その点彼女は文句なく合格だ。
外見も、美人過ぎずもっさり地味でもない、中の上くらいというところがまたいい。
「さて、では一晩よろしく頼む」
「りっ、了解です!」
ピン、と背筋を伸ばして声を張り上げる香織に、だからそこまで緊張しなくても、と緒方は小さく苦笑した。
会場に向かう車内で、緒方は香織にターゲットである政治家の今夜一晩の予定を簡単に語った。
まずは今から向かう若手政治家の後援会場に出席、応援演説を披露してある程度顔を売ったところで今度は高級料亭で会合、最後に都内某所のマンションに移動して、そこで一晩を過ごす。
「都内のマンション……ターゲットの自宅、ではないですよね?」
「そうだろうな。しかも夜遅くに訪ねるんだ、顔見知り程度というわけでもない」
「……はぁ」
かつて選挙事務所でアルバイトしていた女性が殺された。
その重要参考人にされていると知らないわけがない大物政治家はしかし、堂々と愛人の家を訪れそこで過ごすことにしたらしい。
そもそも自分が捕まることなどない、と端から安心しきっているのか……それともそう見せかけるつもりなのか。
意図はわからないが、緒方の言うように『女にだらしない』というのは本当のことであるようだ。
「いくつになっても男の人ってどうしようもないですね……」
「耳が痛いな」
「いえ、緒方さんのことを言っているわけでは」
「碓氷……俺も男だってことを少し思い知っとくか?」
助手席と運転席。
カチリと合わされた視線は外されることなく、誘うように挑むように見つめる緒方の視線を香織はどう受け取っていいかわからないようで、見た目にわかるほどうろたえている。
(男に免疫がないのはまぁいいが……つけこみやすいタイプだな。面白い)
湧いてきたのは興味。
それは『仕事仲間』としてではなく、彼女に対して初めて抱いた『個人』としての感情だった。
困り果ててしまった彼女から視線を外さないまま、笑みを苦笑に切り替える緒方。
「……信号、青だぞ」
「あ、はい!」
「だからそんなに気負うな。疲れるぞ」
まぁ疲れさせているのは俺なんだが、と彼は内心だけでそう付け加えた。
「ひとまず、朝までここで待機だな」
「朝まで、ですか」
「明日の朝……何時になるかはターゲット次第だが、彼が自宅に戻るかもしくは事務所に顔を出す、そうなった時点で公安部と交代して終了だ」
『ターゲット次第』という部分にあえて含みを持たせる。
香織もそこに気づいたようだが、スルーすることにしたのか……それともただ疲れているだけか、無言で明かりの消えたマンションを見上げている。
ここへ来る前、最初の会場において彼女はターゲットの餌食になってしまった。
その見た目からコンパニオンだと判断したのだろう、彼は香織にお酌をさせたり食べ物を取りに行かせたり、挙句誘うように背中を撫で上げたりしていた。
緒方に言われたように、彼女はそのセクハラを嫌がる素振りこそ見せなかったが、あまり執着されないようにと何も感じていない風を装ったため、余計に神経が疲れてしまったらしい。
車に乗り込んだ時ぐったりとシートに凭れていた姿に、緒方も思わず「お疲れさん」と労ってしまったほどだ。
(疲れた男は色気二割増……と言ったのは誰だったか……)
ただしイケメンに限る、とその後についていたはずだが、緒方はそこまで覚えてはいない。
ただ、隣でいささか疲れた顔をしている『女』にも、それは当てはまるかもしれないな、と若干不埒なことを考えてしまっている。
ちらり、と視線を横に向けると、疲れがちではあるがどこかそわそわと落ち着きなさそうな香織が目に入り、彼の中の見えない欲求が少しずつ増してくる。
「………落ち着かないか?」
「え?……えぇと」
「安心しろ、というのもおかしな話だが……俺も落ち着かない」
「緒方さんも、ですか?」
「ああ。しかも隣がお前だ、さっきから心拍数の上昇が半端じゃない」
あえて呼びかけを『君』から『お前』に切り替える。
どう反応していいか躊躇っている香織に向かって手を伸ばし、無造作に片手を掴んだ。
つられて顔を上げた彼女にわかるように、『上司』でも『仲間』でもなく『男』の顔で薄く微笑む。
「ほら…………わかるか?」
少し顎を上げ、掴んだ手を自分の喉元に持っていく。
ぴくぴくと動く喉仏から指三本分、頚動脈と思われる箇所で緒方の手が止まった。
上から掴んでいた手をずらし、指を重ね合わせるように首筋に触れさせる。
僅かに力を込めると、トクトクと速い脈動が感じ取れたのだろう、香織の指がビクリと強張った。
「俺の命は今、お前の手の中だ」
「……張り込み中にそんなブラックな冗談、やめてください」
手を引かれ、意外にもあっさりと緒方はそれを手放した。
が、見下ろすような瞳はそのまま、視線を窓の外に向ける彼女を追って細まる。
「俺が……なんの意味もなくこんなことを言うと思うか?」
掠れた囁きは、大人の男のそれ。
挑発に乗るまいと抵抗し香織の表情が歪むが、彼はそれすら面白いと言いたげに低く哂った。
「こんな機会は滅多にないからな」
「し、仕事中ですから、っ」
「やつも今頃、中でお楽しみ中だろう。……少しくらい俺達も楽しんだって、バチは当たらないさ」
明らかな意図を持って耳元で囁く誘惑の声、抵抗したくても車外に出ることはできず眉根を寄せて堪えるしかできない香織はしかし
「…………ま、ギリギリ及第点をやってもいいかな」
「……はい?」
呼吸一つ分の間に雰囲気を豹変させた緒方の言葉に、視線を戻した。
(あのまま落としてやるのは簡単だが、それじゃ俺が面白くない)
もっと楽しませろ、もっと俺を翻弄してみせろ、もっと俺を夢中にさせてみろ。
そう思ってしまう段階で既に彼の方が先に落とされてしまっているのだが、彼はそれを自覚しつつも綺麗に覆い隠し、いつも通りの仕事仕様の顔に戻った。
「もしかして……私、試されてました?」
「お前があまりに気負いすぎていたからな。だが碓氷……及第点はやるがもう少し男慣れしておけ。あの程度のセクハラに反応するようじゃ、警察社会で生き残れないぞ」
「……すみま、せん」
彼女は言い返すことなく、唇を噛む。
その柔らかそうなそれに噛み付きたくなる衝動を抑え込み、彼は視線をマンションへと戻した。
「もうじき、夜が明けるな」
「…………はい」
向けた視線の先、空がラベンダー色に染まりつつあった。
日が昇りきる前のまだ薄暗い時間帯に、ターゲットはマンションから出てきた。
ゆっくりと距離をとってその後をつけ、彼の車が事務所に入るのを見届けてから待っていたらしい公安の刑事に任務を引き継ぐ。
そうしてやっと、彼らの長い夜は終わりを告げたのだった。
やれやれ、と息をついてハンドルに凭れる香織を見て、緒方はコンコンと外から窓ガラスをノックした。
「碓氷は助手席だ。泊まりは初めてだろう、戻るまで少し寝ておけよ」
「いえ、緒方さんにお任せして寝るわけには……」
「いいから。とにかく運転は代われ。危なっかしい」
「……はい」
よいしょ、と広い車内を助手席側に移動してシートに凭れる香織。
呆れたようにそれを見届けた後、彼も運転席に乗り込んだ。
ふわり、と微かに香るのは一瞬前までそこにいた『女』の匂い。
彼女もきっと、数分前までそこにいた『男』の匂いに気づいたのだろう、表情が微妙に強張っている。
(あぁ…………可愛い。取って食ってしまいたい)
それは至極簡単なことだ。
このままこの車をどこぞのホテルに回して、うとうととまどろんでいる彼女を抱えて篭ってしまえばいい。
彼女が彼に好意のようなものを持っていることはわかっている、それが異性としての好意なのかどうかまではまだ判断がつかないが、それでも明らかな熱を持って誘惑した時の反応からして、全くの圏外だということもなさそうだ。
ならば……食ってしまおうか?
彼にしては珍しく躊躇っている間に車は彼女の所属する所轄の駐車場に滑り込んでいて、彼は己の自制心に苦笑しつつも助手席の可愛い小動物を起こしにかかる。
「おい、碓氷」
「……んぅ……」
「寝るな、起きろ。起きないとセクハラするぞ」
どんな脅し文句だ、とここに部下がいたなら一斉に突っ込まれているだろう言葉を囁くも、彼女は目を覚まさない。
「いいんだな?俺は忠告したぞ」
それは単なる言い訳だ。
ただ彼は単純に…………触れたかったのだ、彼女に。
覆いかぶさるようにして軽く唇を触れ合わせ、離れ際にその鼻をきゅっとつまんでやる。
びっくりしたように飛び起きた彼女を見て、彼は何事もなかったかのように『仕事中』の顔で笑ってみせた。
シャワールームから出ると、彼女はまだそこにいた。
素肌の上にバスローブ一枚、濡れた髪をゆるりと撫で上げて現れた緒方を見た彼女が慌てたように赤面しつつ立ち上がる、が。
「遅い。猶予は充分に与えたはずだ」
「え、……あ」
「待っていたのが答えだと、そう判断するぞ。……もう、待たない」
「ふぅっ、んん……」
あの時のように軽く、ではなく最初から噛み付くように唇を合わせる。
ぬるりと舌をねじ込み、彼女の縮こまっているそれを見つけて突き、絡めとって舌先で舐め上げ、そうやって口内を蹂躙するうちに小柄な身体は抵抗をやめ、ぐったりと凭れてきた。
「前に、男慣れしろと言ったと思うが…………俺が、慣れさせてやる」
我ながら強引すぎるな、と自覚しつつも彼は彼女を溺れさせた。
そして彼自身も、躊躇いなく溺れた。
これで『彼女』を手に入れたと思っていたのは『彼』だけ。
この後何度誘っても彼女が彼の誘いに応じることはなく、予定を聞いてもわからないとの答えが返ってくるばかり。
これはおかしいどうしたことかと、彼が恥を忍んで事情を知っている唯一の部下に相談を持ちかけ…………。
「はぁ……あんた、バカですか。告白もなんもかんもすっとばして身体だけ奪っても、ああいうタイプは遊ばれたと勘違いするのがオチですよ」
とあきれ果てたように言われて初めて己が告白すらしていなかったことに気づき、慌てて挽回を図ろうとあれこれ模索し始めるのだが。
それはまた、別の話。