カオス 〜混沌、あるいは紺の運動着?〜
うどんとブルマで初投稿です。
ゆっくりと、息を吸い込む。
額から滲み出た汗が、前髪をぴったり張り付かせている。冷房の効いた部屋の空気とは裏腹に、高まりゆく興奮で息は荒く。
──しかし、それも仕方のないことだろう。
俺の目の前には純白の柔肌。麗しの乙女のすがた。これほどの圧倒的な美を前にして、胸を躍らせない方が難しいというものだ。
熱い血潮が俺に叫ぶ。この真っ白い雪のように輝く官能的な肌にむしゃぶりつきたい、思うがままに蹂躙したい、と。この高ぶりを、情熱を、愛をぶつけたい、と。
部屋には俺と目の前の彼女以外、誰もいない。当然だ。今から行うのは、二人きりの神聖な愛の営みなのだから。
ごくりと音を立てて、生唾を飲み込む。初めてではない。けれど、何度繰り返すことでも緊張はする。ゆえに強張った身体を解すように、汁に輝く彼女に口付ける。
ほんのりとした塩気と、ふわりと香る匂い。
我慢できずに音を立てて汁を啜る。美味い。塩気だけじゃない、深いコクと甘みが染み渡る。
ああ……なんて。
なんて、美味しいんだ、君は……!
「……先輩、いい加減に気持ち悪いこと言いながら食べるのやめてくれませんか?」
──無粋な声が、俺を現実に引き戻した。
俺は黙り、そして黙ったままうどんを啜り続ける。嘆かわしい現実から目を背けるように。美しい唯一無二の芸術に没頭するように。
「先輩?」
さっきまで、小ぢんまりとしたうどん処【ゆう】の店内には俺と彼女以外に誰もいなかったはずだ。少し前にカウンターに繋がる調理場に居た親父さんも、今は奥に仕込んだ麺を取りに行っているところ。しかし、いつ入ってきたのかは知らないが、俺の目の前には店名の由来である人物、麻谷悠が俺にじっとりした視線を向けていた。
「……先輩、なんで黙るんです?」
負けじと俺もムッと顰めたツラを作って、彼女を見返してやる。それから、沈黙を破って一言だけ。
「俺はうどんにしか興味ないぞ」
うどん屋の娘はそれを聞いて目を大きく丸く見開いて、それから大きな溜息をついた。長く艶やかな黒髪が流れ込むのは控えめな胸の丘陵。お世辞にも豊穣とは言えず、発展途上といった風情だ。ともあれ、肩から前に落ちた髪を房ごと拾い上げた彼女は、それを後ろに直しながら、
「知ってますよ、そんなことは」
と言った。彼女のその仕草はちょっと苛立った時にいつもやる癖だ。俺はちょっとばかり反省する。うどんをツケで食わせてもらっている身の上だ、機嫌ぐらいは取らないとな。
「……ま、まあ。数あるうどんの中でも、この店のが一番美味いけどな」
悠は少しだけ黙って、それから自慢げに微笑んで、主張の足りない胸を張って言った。
「当たり前ですっ。うちの自慢の釜揚げですから」
そう、釜揚げうどん──。
なんと甘美な響きだろうか。釜揚げ。ビバ釜揚げ。うどんを茹で、そして茹で汁と共に椀に満たす。たったそれだけだ。何の工夫も、ひねりも感じられない。しかし、だからこそ麺そのものの、本来の味が何よりも強く感じられる食べ方なのだ。添えられた汁は本出汁よりもあっさりとしているが、深いコクに特徴のある飛魚出汁。うどんの味を邪魔せず、引き立てるのに最高の配役だ。
素晴らしい。これこそが芸術。これこそが美。彼女を形作るのは麺と汁だけ。それらが完全に調和して、甘みと深みの奇跡を──
「……でも、いくら先輩がうちのうどんを気に入ってくれてるからって、その、うどんを彼女って呼ぶのはやめたほうがいいです」
その言葉にはっとさせられる。また自分の、いやうどんの世界にのめり込んでしまっていた。
「……もしかして、声に出してたか?」
「気付いてなかったんですか? さっきだって、はじめに言ったじゃないですか。気持ち悪いこと言いながら食べるのやめてください、って」
呆れたような顔で言う彼女に、俺は流石に反省せざるを得なくなった。妄想を声に出すのはかなり重症だと聞いたことがあるような。いや、しかし俺のこの気持ちは本物だ。苦し紛れに反論する。
「だが、俺はうどんを愛している」
またさっきの顔。けれど髪はそのままだ。
「もう。知ってますって、言ったじゃないですかっ。先輩の言いたいことはわかりましたから、うどんはうどんとして……その、愛してあげてください」
ふむ、確かにそうかもしれない。うどんを女性に見立てるのは、うどんに対して真摯ではないのかもしれない。
またもやはっとさせられてしまった。俺が悠の弁に考え込まされていると、
「それじゃ、おかわり茹でてきます」
そう言って、彼女はささっとエプロンをかけて調理場に下がってしまった。冷房の効いた部屋なのに、去り際に見た彼女の頬は、心なしか上気していたような気もする。
そんなに実家のうどんを褒められて嬉しかったのか。しかし美味いものを美味いと讃えずにどうしよう。俺は当然のことを言ったまで、その結果娘が増長しようが、知ったことではないのだ。
……美味いうどんが食えればそれだけで幸せだ。
そう思った俺は、おかわりが茹で上がるのを前にして、残ったうどんを平らげるべく、コシのあるうどんと最高の幸せを噛みしめるのだった。
◯
店名からお分かりの通り、うどん処【ゆう】はまだ一代目の若い暖簾だ。長崎の有名な店で働いていた親父さんが、結婚して女の子を授かったことをきっかけに上京し、長年の夢だった自分の店を新しく持ったのが【ゆう】らしい。飛魚は元いた店の店長からいいのを紹介してもらっていると聞いた。あの美味さにも頷ける。
店主の雄一さんは寡黙な人柄で、滅多に客と話したりしない。近所付き合いも深いわけではなく、宣伝も口コミも心許ないために【ゆう】は未だに食べログにページすらない不人気店の立場に甘んじている。
だが俺は初めて【ゆう】のうどんを食べた時、感動した。掛け値なしに、本当に心が動かされたのだ。こんなに美味しいうどんは食べたことがない、俺はその日の夜、興奮して眠れなかったことを覚えている。
それから、当然俺は毎日のように通い詰める常連客となり、今となっては、あまりの美味さに払えない分までツケでうどんを食べるダメな客にまで成り果ててしまった。
結果、俺は早朝に店の諸々の仕込みを手伝い、そのバイト代によってツケを支払う約束をしたのだ。それでも足りずに超過した分のうどん代は容赦なく、どんどんツケに嵩んでいっているのだが。
「おはようございます!」
裏の通用口から調理場に入っていつものように声をかける。返事が返ってこないのもいつものことだ。雄一さんは黙ってうどん粉の調合をしている。薄力小麦粉と中力小麦粉の分量比こそが【ゆう】のモチモチうどんの真髄なのだ。
俺は雄一さんがいつも通りなのを確認すると、日課になった野菜の下処理を始める。半人前の俺には洗いから皮剥き、それから適度な大きさに切るところまでが任されていた。
しばらくネギを刻んでいると、珍しく雄一さんが俺を見て、顔でこちらへ来るよう指図する。何事かと俺が近寄ると、雄一さんは俺の背中を押して、のし台の前に立たせた。
「……雄一さん?」
俺が訝っていると、水回しまでは済ませてあるどろどろのうどん粉が入ったボウルが目の前に置かれた。
「やってみろ」
「……俺がですか!?」
驚いた。雄一さんは仕事に対して途轍もなく厳しい人だからだ。俺のような半人前に、店で何よりも大事なうどんを打たせるなんて。どういう風の吹き回しだろう。
「……いいからやれ」
それ以上は何も言わずに、雄一さんは出汁の仕込みの方に行ってしまった。俺は立ち尽くす。
「…………よし」
だが、突っ立っていても仕方がない。どのみち俺は任された仕事を全力でやるだけだ。
ありったけの力を込めて生地を伸ばす。水回しによって水分が広がった生地は、しかし未だに乾いたひび割れの部分が多い。それを念入りに混ぜて、延ばして柔らかくする。何度もなんども繰り返す。
しばらく夢中に捏ねていると、雄一さんが俺の後ろに立って見ていることに気がつかなかった。
雄一さんは俺の手と、捏ねあがった生地の塊を黙って見ていた。そして、もう一度俺の背中を押してのし台の前から退かせる。
しばらく俺の捏ねた生地を触っていた雄一さんは、それをボウルに入れて流しに置いてしまった。そして静かな口調で言い放つ。
「これは、うちじゃ出せない」
それから、それ以上は一言も話さずに、もう一度生地を作り直す作業を始めてしまった。
俺は打ち拉がれるような、いやうどんだけにとか上手いこと言うつもりはなく純粋に、ショックを受けてしまい、とぼとぼと野菜の下処理に戻るのだった。
「お疲れ様でした……」
延々と野菜の皮を剥くこと一時間、そろそろ太陽が昇ったかという頃になって今日の仕込みは終わった。俺がいつも通り裏口から出ようとすると、カウンターの方から優子さんが手招きしている。
うどんを寝かせている雄一さんの後ろを通って、カウンターから店内に入った。
「お疲れ様ぁ、明人くん」
「ありがとうございます、優子さん」
優子さんは雄一さんの奥さん。つまりは悠の母親ということになる。雄一さんの元いた店の娘さんだったというから、雄一さんと上京した理由にも勘ぐってしまうというものだ。それはともかく、雄一さんと仲良くなった理由がなんとなくわかるような、ほわほわとした口調で、お喋りが好きで、すごく優しい人で、いつも俺は親切にしてもらっていた。
「ねえ。今日、あの人が捏ねやらせたでしょ」
「……はい。でも俺、全然ダメで……」
俺は結構落ち込んでいた。せっかく任せてもらえた仕事だったのに、上手くやれなかったのだから。また萎れた顔をしていると、優子さんは言う。
「初めてなんだから上手くできなくて当然よぉ。むしろ、ちゃんと説明してあげなかったあの人の方が悪いと思う。黙ってやらせて黙ってダメだぁなんて、酷いわよねぇ」
「そんな……まあ……はい……」
「でもね、明人くんには勘違いしないで欲しいの」
俺はその言葉にうなだれていた頭を上げる。
「……どういうことですか?」
「あの人はあの人なりに、明人くんを認めてるってことよ。そうじゃなきゃ、あの人が他人にうどんを捏ねさせたりなんかしないわぁ。そうでしょ?」
それは確かに、俺も思ったことだ。
「きっとあの人は、明人くんをうちの二代目に育てるつもりなのねぇ」
「俺を……ですか?」
恐れ多い、なんて感情よりも実感が湧かない戸惑いの方が先立つ。俺が【ゆう】の二代目。そんなの、誰よりも俺が想像できない。
だが、自分が店主になればしたいことだけは、ひとつはっきりと思い浮かぶ。それは、今の不当な客の少なさをなんとかして、この店を人気店にすること。こんなに美味しいうどんなのに、ほとんど知られていないなんておかしいのだ。絶対に。
「そうよぉ。私も、そうなってくれればいいなぁって思ってるわぁ。……多分、あの子もね?」
あの子。そう言われて、忘れていたことを思い出す。俺がここの二代目になるということは、俺が悠と──
「そんな、まさか! いっつもあいつは俺のこと呆れた目で見てるし……俺だってただの、うどん好きのダメな先輩でしかないし……!」
言ってて悲しくなってきた。俺がますますうなだれても、優子さんは変わらない優しい笑顔で言う。
「明人くんは、悠のこと嫌い?」
「いや……そんなまさか……嫌いなわけない、ですけど……悠が、どう思ってるかは……」
そこまで言うと、優子さんはいたずらっぽく笑って、
「……明人くんの溜まりに溜まったうどん代のツケだって、うちのお婿さんになれば事実上、ちゃらになるのよぉ?」
「それは……!」
「うそうそ、冗談よお。……ま、あんまり気負わなくてもいいけど、ちょっと考えてみて?」
そう言って微笑むと、優子さんは二階に上がって行った。【ゆう】の二階は優子さんたちの居住スペースになっているのだ。ともあれ──
「考える、って言われてもなあ……」
悠の気持ちは考えても仕方ないとして、俺の気持ちすら、俺にはわからない。ひとまずは、自分の気持ちを整理するところから始めるべきだな、と。とりあえず結論して、俺はのんびりと【ゆう】を出た。
頬を撫でるほのかに温かい朝のそよ風は、初夏らしく、少しだけ湿っていた。
◯
「なんだこれ……こんなもの……こんなもの……!」
ざわざわ。ざわざわ。騒がしくなるのも当然だ。誰よりデカい声で誰より騒いでいる俺がいるのだから。
「こんなもの、うどんとは認めんぞおぉ──っっ!」
食堂に響き渡る大音量で叫ぶと、既に他の生徒たちは冷静さを取り戻し、学食の列はいつも通りの様相を呈していた。一週間に一度はこうして叫んでいれば、流石に慣れられるというものか。
しかし──それにしても酷い。
うどんと呼ぶにはあまりにも、ただでろでろな麺、甘みも深みもない無粋な本出汁、やたらとぶち込まれた薬味。大三元役満のクソうどん。いや、何度も言うがこんなものはうどんですらない!
嘆きの叫びの余韻に浸っていると、これまたいつも通りのことだが、悠が飛んできた。
「……先輩っ! ちょっと、学食のうどんを悪く言うのはやめてください……って、はぁ、はぁ、いつも言ってるじゃないですかぁっ!」
うどん屋の娘は、うどん屋の娘らしくもなく、いつもクソうどんの肩を持つのである。実に解せない。
ゆえに俺はでろでろ(これからこのうどんまがいの小麦粉の塊をそう呼ぶことにする)を箸で持ち上げて悠に事実を言い放つ。
「だが、このでろでろより【ゆう】のうどんの方が軽く見積もって十億倍は美味い」
「…………っ」
走ってきたせいか、また悠の顔には鮮やかに朱が差している。息も荒く、俺はとりあえず悠のために取っておいた水のコップを差し出してやる。
「……ぁ。はぁ、ありがとうございます……」
おずおずと結露に濡れるコップを受け取ると、彼女は少しずつ水を飲む。俺が隣の椅子を引いてやると、お礼を言うように目配せをしてから、そっと席に着いた。
こく、こくと喉を鳴らして水を飲んでいた悠は、ようやく少し落ち着いたのか、コップから口を離して話を再開する。
「……ぷは。ふう、はぁ……先輩、見てくださいっ。学食の調理員のおばさんたち、先輩がここのうどんを手酷く罵倒するたびに、あんなにきっっっつい目で先輩のこと睨んでるんです!」
「それがどうした。俺はうどんと自分に正直な男だ」
「別に嘘を言えとは言ってませんよっ! ……ただ、正直な感想をそんなにおっきな声で叫ばないでくださいって、言ってるんですっ!」
「むぅ……」
確かに、悠の言うことも正論ではある。現に俺は高校一年と少しの間、学食を八回も出入り禁止になっている。実は今日も、ようやく八回目の出入り禁止を解除されてから、初めてのうどんチャレンジだった。
そう、うどんチャレンジ──。
話は俺が入学して、初めての学食開放日に遡る。血管の代わりにうどんが全身を張り巡っているのではないかとまことしやかに噂されるほどの生粋のうどん好き新入生だった俺は、期待を胸に学食へ、うどんを食べに来たのだ。それが、悲劇の幕開けになるとはつゆ知らず。
期待を込めて啜ったうどんは、うどんですらなく、ただのでろでろだったのだ──!
俺は叫んだ。あらん限りの声で叫んだ。
こんなものをうどんと呼んでいいのか! うどんとはもっと、コシがあって甘みがあって、何より夢があるものじゃないのか……!
……それが、俺の初めての学食出入り禁止。そしてそれこそが、俺と学食のおばさんたちとの、長い戦いの火蓋を切ることになるのだった。
「……もう、先輩。ちゃんとわかってますっ?」
「ああ。それから俺は何度出入り禁止になっても、何度でもうどんを食べ、悪し様に罵り続けている。世にも口汚く悪辣に、な……」
「……なんでそんなに誇らしげなんです」
そうだ、その初めての出入り禁止の時。マズすぎるでろでろの前に突っ伏して涙を流していた俺に、声をかけてくれたのが悠だった。彼女に連れられて入ったうどん処こそが、今では通い詰める【ゆう】なのだ。
あの出会いがなければ【ゆう】の絶品うどんに出会えなかったかと思えば、学食のでろでろにも多少は感謝してやっても……。いや、やっぱり許せん。
「だが、俺といえどただ罵りたくて罵っているわけではない。これも本当は、学食のおばさんたちへの期待のためなんだよ……」
「先輩……?」
うどんチャレンジの真意。それは本当に、期待のために他ならないのだ。
「俺がここのうどんを罵らなくて、誰がここのうどんを罵る……マズいうどんにはマズいと言ってやらねばならない。何故なら、そうしなければマズいと気付けないからだ……。俺が悪者になってでも、マズいうどんを見直すきっかけができれば……俺はそれだけで幸せなんだ」
「先、輩……」
悠は口を両手で押さえて、目を大きく見開いている。俺が一年もの間、ひたすらマズいでろでろを理由もなく食っているとでも思っていたのか。
「マズく作られてしまったうどんは、誰にも食べてもらえない。そんなの……悲しすぎるだろ?」
食べられるために作られたはずのうどんなのに、誰にも食べてもらえない。誰にも、美味しいと言ってもらえない。その悲しみを──俺は、俺自身がうどんではないから、わかってやれない。
「うどんには、罪なんかないんだから……」
その苦しみを噛み締めて、零す。うどんへの愛、そして悲哀を。
しばらくの間黙りこくる俺と悠は、先輩後輩という枠を超えて、もはやうどんを愛するただの二人の同志だった。
またひとつのうどんチャレンジを失敗した俺、いや俺たちが静かに目を伏せていると。
──調理員のおばさんがひとり、黙ってテーブルに近付いて、一杯のかけうどんを置いた。俺は思わず声を高くする。
「おばさん……!」
「……お代はいいよ。食べてちょうだい」
俺も悠も、思わず目に涙を潤ませた。おばさんも、またひとりの同志だったのだ。たとえどんなにでろでろでも、あれは愛のでろでろだったのだ……!
「先輩っ!」
「……ああ!」
シンプルなかけうどん。茹でたうどんに本出汁の効いた汁がかかっている。
きっと、おばさんの渾身の一杯なのだろう。俺は心して、うどんを前にする。
「いただきます……!」
箸で一本を持ち上げて、勢いよく啜った──。
「……ま」
「ま?」
「ま、ま、ま……」
「…………先輩?」
慣れ親しんだうどんの感触。いや、これはむしろ。
「ま…………」
俺は、俺は……。
「マズい…………」
「先輩…………」
俺と悠は、涙を流すことしかできなかった。
ただ、二人で、天を仰いでいた。
◯
酷い目に遭った。
結局あの後、食べ切るに堪えなかったでろでろ二杯をまるまる残して膳を返すと、おばさんはものすごい形相になって俺に一ヶ月の食堂出入り禁止を申し渡した。出入り禁止解除からもう一度出入り禁止になるまでの最速記録更新。なんと一日である。酷い。
店の手伝いがあるから、と先に帰ってしまった悠を見送って、俺はとぼとぼと帰途につく。
俺の口は、でろでろうどんにほとほと嫌気がさしている。さっさと【ゆう】で釜揚げを食い直さなければ。まったく、あの絶品うどんを口直しに食べるとは。もったいないにもほどがある。
学校から家への道より馴染んでしまった学校から店への道を歩きながら、恋い焦がれる【ゆう】のうどんを夢想した。生娘のように初心で白く、弾力のある肌に滑る薄味の汁。考えただけで興奮する。
我慢ならない! 早くあのうどんを食べたい!
【ゆう】に向けて足を早めようとした時──
「……なんだ、アレは」
地面に落ちている、紺色の塊。見覚えのあるようなないような、しかしそれが本当にそのものならば、こんなところに落ちていていいものではないような。
いや、煩わしい前置きはこの辺にしておこう。目の前に落ちているものは、恐らく……
「ブルマだ」
ブルマ。それは女子用の運動着。思わず拾い上げて広げてみる。ブルマだ。ブルマ以外ではない。ブルマでしかない。ブルマである蓋然性が高い。
何故、こんなところにブルマがある?
ここは小学生の通学路でもなんでもないはずだ。あるいは通学路であったとしても、今時体操服にブルマを採用している小学校など聞いたことがない。
ブルマを握り締めて立ち尽くす高校二年男子。我ながらヤバい絵面だとは思う。ふとブルマから目を離しあたりに視線を這わせると──
「また、ブルマだ」
ブルマ。それは女子用の運動着。またもや拾っては広げてみる。ブルマだ。以下略。
何故、こんなとこ以下略。
流石に二枚もブルマが落ちているのはおかしくないだろうか。俺がじわじわと事件性を感じて歩き始めると、足元にまた紺色の影。
「ブルマだよな」
ちょっとした疑念すら生まれてきた。これは本当にブルマなのだろうか。ともすれば俺にブルマに見えているだけで、余人にはありふれた小石でしかない、などということは。
いや、ないない。流石に俺はブルマを幻視するほどの変態倒錯者ではなかったはずだ。念のため広げたブルマをもう一度見てみる。うん、興奮しない。
当たり前だろ。ため息をついてブルマをくしゃっと握ると、今度は目の前の街路樹が立派に携えた枝に、三枚目のブルマが引っかかってぶら下がっていた。
「ブルマ、ブルマ……」
ゲシュタルト崩壊によってもはやブルマとは何かすら曖昧になりつつある俺は、三枚のブルマの処理に困る。何かの事件なら警察に連絡したほうがいいのか、それとも市役所? 近隣の学校?
うなされたように歩き回る間も、足元には容赦なくブルマが転がっている。ブルマ。ブルマ。ブルマって何だ? ここは何処で、俺は誰なんだ。
そろそろ拾ったブルマの数が両手の指じゃ足りなくなってきたというところで、俺は鈴の鳴るような声にはっと意識を取り戻した。
「ブルマ、好きなの?」
純白の長い髪。あるいは病的なほどに、白く透き通った肌を覆い隠しているのは、慣れ親しんだ綿の生地だ。背も低く未成熟な身体を守るのは一般的な小学校の体操服。胸に貼られた大きな名札には、女の子らしい大きな字で「うい」とだけ書かれている。しかし、下に履いているのは見慣れない、いや、さっきまでは見慣れなかったもの。そう、短くカットされた足下の輝くような白を強調する、紺色のブルマ。筆者は正常です。
「いや、好きじゃないが……落ちてたんだ」
俺はうなされたような頭で、なんとか返事をする。目の前にいたのは女の子だった。周りはいつの間にか見覚えのない景色で、どうやら道に迷ってしまったらしい。ブルマを拾って迷子になったとか、お母さんに知られたら大声で泣かれそうで恐ろしい。お母さんごめん、別に俺はブルマが好きなわけじゃ、
「じゃあ、なんでそんなにブルマ拾ったの?」
「……なんでだろう」
正直なところ、自分にもわからなかった。ブルマというものが何なのかすらも、今の俺にはあやふやで、誰かにブルマとは何か叫び質したい気持ちだった。いや通報されそうだからやらないが。
「ブルマはね、女性用の運動着なの」
俺の思考を読んだかのような声に驚いて顔を上げると、赤みがかった瞳が俺を見つめている。
「ブルマの起源は、十九世紀も半ばの女性運動家らに端を発するわ。はじめは女性用下着として考案されたのよ」
俺があっけにとられて黙ったままでいると、彼女は興奮したように続ける。
「コルセットで腰をきつく締めるような、当時の旧弊な拘束型衣服だった女性用下着に反抗して、自由で動きやすい革新的な下着として生まれたのが、世界で初めてのブルマだったってこと。わかる?」
いや、どうして俺はブルマを十数枚抱えたまま、ブルマの歴史についてご高説賜らなければならないのだろう。首を傾げていると、トドメとばかりに彼女が煽り立てる。
「そして、その女性解放運動のおかげで生まれた奇跡の女性用下着が、運動着として改良されたのが、今で言う……というか、今あなたがたくさん持ってるブルマなの!」
とうとうわからなくなってきた。人間って、人生ってなんだろう。
いや待て、早まるな俺。それはともかく、ブルマが何故落ちていたのか、この女の子は知っているかもしれない。ブルマの在り処は小学生に訊け、と昔の偉い人が言っていたとか言っていなかったとか。
「なあ、どうしてこんなにブルマが落ちている」
「そりゃあ、私が撒いたからに決まってるよ! ブルマは自然発生しないんだよ? まあ、したら嬉しいけどさ」
いや……そんなことも知らないの? みたいな顔して言われても。両手を左右に広げてホワット? みたいな仕草で言われても。
「お前が犯人か……!」
ブルマ狂に初めて遭遇してしまった。こういう場合はどこに連絡すればいいのだろう。警察か市役所か、ともあれ、間違いなく近隣の学校ではない気がする。
「……なんでブルマなんか撒いたんだ」
「好きだから!」
ばっと顔を寄せられて即答された。意味不明だ。ブルマが好きだということは百歩いや千歩譲って認めるとしても、何故ブルマを撒く。履くならまだしも、大量にばら撒く意味がわからない。子供のいたずらにしてはあまりにも悪質だ。だって、俺のようなブルマを大量所持した変態を生み出してしまうんだぞ。いや俺は変態じゃない!
「ブルマを撒いておけば、同じくブルマを愛する同志が拾って、辿ってきてくれるかもしれないでしょ?」
そう言うと、彼女は鈴を転がしたような声で愉快そうに笑った。上機嫌にくるりとターンまで披露してくれる。背中が見えて、初めて赤いランドセルに気がついた。
「……小学生だよな?」
おずおずとそう尋ねると、女の子はぴたっと身体を静止して、俺をじっと見つめながら、とんでもないアホなことを、得意げに言い放ったのである。
「──私は、ブルマの神です」
黄昏色に染まるブルマ。小さな公園のブランコに座る俺は、落ちる日を見つめながらブルマを広げたり、畳んだりしていた。もはや自暴自棄である。というのも──
「ここはどこなんだ……」
ブルマを拾っていたら迷子になった俺は、未だに帰途を見つけられずにいた。何よりおかしいのは、スマホの通信すら繋がらないことだ。普段はこんなこと有り得ないし、下町といえどもここは東京だ。まさか電波の通じない場所ということはあるまい。
「ブルマ・ジャミングだよ?」
「なんだよそれ!!!」
頭が痛くなってきた。ブルマ神様はさっきから俺が迷い歩くのに付きまとって、にこにこ笑って「私のブルマ結界からは出られないよ」だの「ブルマを信じる心が足りない」だの適当なことを言うのである。
そろそろ疲弊しきった俺はヤケになって尋ねる。
「ブルマ神様……どうすりゃ俺は家に帰れるんだよ……もう……ブルマは、ブルマだけは……こりごりだ……」
そうぼやくと、ブルマ神様は仕方なさそうにため息をついて、それから薄い胸を張って答えた。
「ブルマを百八枚集めなさい!」
「は…………?」
思わず足元に積まれたブルマを見る。確か、さっきから拾い続けてる分で八十枚くらいになっているはずだった。流石に拾いすぎかとも思うが、道をブルマまみれにしておくのもどうかと思い、拾っては集めていたものだ。これ以上落ちているというのか。それより集めてどうしろというのか!
「──百八のブルマを集めた者には、ブルマの神たる私が直々にどんな願いでも叶えてあげましょう」
百八のブルマ。ブルマを集めれば願いが叶う……?
俺は俯いて考え込みつつ、集めて畳んでちょっとしたタワーみたいに積まれているブルマを数えながら。
「龍の玉にしたって手間がかかりすぎじゃないか?」
「もう結構集まってんじゃん! あとちょっとぐらい頑張れよ!!」
俺はかなり大きなため息をつく。だがまあ、電波だって一時的な障害という可能性もあるし……
「ちょっとくらいは、小学生の遊びに付き合ってやってもいいか……」
億劫に立ち上がって、俺はブルマを探し回る変態高校生に見事、成り果てることになった。最悪だ。
「ブルマ……ブルマ……どこに……ブルマ……」
日は落ちて久しく、手元を照らすのは心許ない街灯の弱々しい灯のみとなっていた。真っ暗な夜道の中、血眼になってブルマを探す。今までに見つけたブルマは百七枚。あとたった一枚のブルマで、集まるんだ。とうとう俺は百八のブルマを集められるんだ……!
もはや家に帰る、スマホの電波を確かめるなどということは俺の頭になかった。俺はブルマを集めるという目的だけに支配されていたのだ。今の俺は、一人の人間である以前にブルマ・コレクターなのだ。諦めるわけにはいかない。
鬱蒼と茂る草むらの中を手探りで探していく。嫌というほど触って覚えたブルマの感触。柔らかな布地の触り心地だけを求めて、ひたすらに暗闇を突き進む。
しばらく前からブルマ神様の姿は見えなくなっていたが、それすらも俺には気にならなくなっていた。
服は汚れて身体はもうヘトヘトでも、ブルマを見つける意思だけは失わない。ブルマへの想いだけが、今の俺を動かしている……!
ブルマ! ブルマ! ブルマ! ブルマ!
その時、俺の耳に飛び込んできたのは、心地よい声だった。鈴のような、聞き覚えのある声。
「……あなたは……ブルマを愛する者になりました……もう既に……あなたと私は同志……」
「ブルマ神様…………!!」
もはや覚束ない視界の中に、光を放つ真っ白い髪がぼんやりと輝いている。なんて美しいんだ。
「……それでは……ブルマを愛する心を手に入れたあなたに……最後にお聞きします……あなたが探しているのは……この……金のブルマですか……? それとも……この銀のブルマですか……?」
女神の両手には、どこからともなく黄金に輝くブルマと、白銀に煌めくブルマが現れた。俺は息を呑む。こんなにも……こんなにも美しかったのか、ブルマ……!
その時俺の頭には、唐突に欲望が恐ろしい鎌首を持ち上げたのだ。喉から手が出るほど欲しい、あの金銀のブルマ。だが、俺は──
「いいえ、ブルマ神様──俺が探しているのは、そのどちらでもありません。俺が欲しいのは……俺が欲しいのは……ッ! 普通の、ごく一般的な、紺色のただのブルマです……ッッ!!」
そう叫ぶと、女神様はいっそう輝きを増してにっこりと微笑んだ。真っ赤な目が美しい。
「……正直な人ですね……あなたは……」
あまりの神々しさに涙すら溢れてくる。目の前のブルマ神様は、二つのブルマを掲げる。眩い光が公園の茂みを照らしていた。
「……正直者のあなたには……幸せが訪れるでしょう……」
「それじゃあ……!!」
金のブルマと銀のブルマ。二つの輝きが強くなる。俺はブルマから、目が離せなくなり──
「ってーーーーーい!!!!」
彼女は、ブルマを、遠くの茂みの中に放り投げた。
「おいいいいいいいいいいい!!!」
二つのブルマは唐突に輝きを失い、投げられた場所の区別はつかなくなる。
「いやお前! 今のは正直者に全部あげる流れだっただろ!! 金銀と普通のを総取りってお決まりだっただろ!!!」
あまりの悔しさに喚き立てると小学生も負けじとやかましく騒ぎ始める。
「ほら!! そんな欲深いこと考えてるじゃん! そんな汚れた心の人にブルマはあげられません! 私のブルマを見習ってもっと綺麗な心を持ちなよ!」
「……っっこいつうぅぅぅ!!」
俺はとにかく走った。草に足を取られて転んでもくじけずに。流れる涙にも構わずに。
……それから、俺がもう一枚の金のブルマを見つけるまでに、一時間と少しの時間を要した。
どんなに執着して探して、集めていたものだとしても、それを見つけてコンプリートしてしまった時点で興味のおおかたは失われてしまうものである。つまりコレクターの趣味のほとんどは、集めること自体にあり、集めた後にはないのだ。無論、集めた品を眺めることに楽しみを見出すコレクターは少なくないとも思うが、少なくとも俺にブルマを眺めて楽しむ趣味はなかった。
端的に言って、百八のブルマを積んだ俺は、完全に虚無の極地へと至ってしまっていた。
「ねえ……なんでそんな死んだ目してんの?」
「俺にも……わからん……」
俺は公園の滑り台から滑り降りたっきり、そのまま砂場に座り込んでいた。ぴくりとも動く気力がない。
「まあいいや。とりあえず約束だし、百八枚のブルマを集めたご褒美に、なんでもひとつ願いを叶えてあげるけど……どうする?」
俺は掠れた声で家に帰りたいと言おうとする。けれど、頭の中に唐突に蘇ったのは、三文字の言葉だったのだ。今までどうして忘れていたのかわからない、そのひとつの大切なモノ──
「…………うどん」
「なに?」
「俺は……うどんが……食べたい……っ!!」
ぼろぼろとアホみたいに涙が溢れてくる。思えば俺はもう限界だったのだ。学食のでろでろに苦しめられた挙句に、このブルマ。あまりにも辛い仕打ちに、俺の心も身体も悲鳴をあげていたのだ。
「うどん……?」
俺は砂場にぶっ倒れ、朦朧とした意識に幕を下ろそうとしていた。こんなところで死ぬのか、ツケだってまだ残ってるのに。悠とのことだって……。
「あれ、あれ? 大丈夫? 生きてる!?」
もう、ブルマ小学生の声も、ぼんやりとくぐもっていて、よく聞こえない。
こんなことなら、もっと早く悠に気持ちを伝えるべきだったのだ。ブルマ地獄に放り込まれて死ぬ前に。ダメな俺をたしなめながら、それでも面倒を見て、ずっとそばに居てくれた悠への気持ちなんか、考えるまでもなかったのだ。
「ちょっと! 死なないでよー!!」
最後にひとつ、一番大きな心残りは……。
死ぬ前に、【ゆう】のうどんが食べたかった──。
◯
目が覚めた。
「知ってる天井だ……」
というか俺の部屋だった。
いつの間に帰ってきたのかは知らないが、公園にぶっ倒れていたはずの俺は、自分の部屋のベッドの上でぐっすり快眠を貪っていた。目が覚めてみれば、身体の疲労も随分と取れている。
まさか、ブルマ地獄自体が夢だったのか?
身体を起き上がらせようとして、俺の手が何かをきつく握りしめていることに気がつく。広げてみれば、
「ブルマだ」
それも、金色の。どうやらアレは夢じゃなかったらしい。金のブルマを大事にたたみ直すとベッドの上に置いて、俺は軋む身体を持ち上げて、なんとか起き上がった。
窓からは眩しい朝日が差し込んでいる。
「朝だ……」
昨日の阿鼻叫喚ブルマ地獄なんか嘘みたいに、やって来たのは普通に朝だった。
結局、あの小学生は何者だったんだ?
ともあれ、遅刻気味だったため朝飯の用意をしている暇はなくて、辛うじて昼の塩おにぎりだけ用意して走って家を出る。腹は減っているが仕方ない。
いつしか一緒に登校しようと誘い合わせずとも、待ち合わせるようになっていた場所にも悠の姿はない。当然だ、遅刻ギリギリなのだから。
だが俺は今、誰の顔よりも悠の顔が見たかった。俺らしくもなく、今の俺はうどんより、悠の方が恋しいのかもしれなかった。
ギリギリで教室に走り込み、席に滑り込むようにして始業のチャイムを聴く。危なかった。
ほっとした途端に、寝足りなかったのか猛烈な眠気がやって来て、俺は唐突に突っ伏して二度寝を敢行したのであった。
気付けば昼休み。四限まで寝通してしまった。学食に向かおうとして思い出す。そういえば俺は昨日、九度目の学食出入り禁止になっていたのだ。
ぐぎゅるるる。
「腹減った……」
持ってきたのは塩むすびがたったの二つ。男子高校生の空腹には些かどころか、かなり心許ない量だ。だが、せめて腹の足しぐらいにはなるであろう学食のでろでろを食べに行くことすら、今の俺にはできないのだ。なんたる無力感……。
仕方なく、ひとつ目の塩むすびを寂しくかじろうとすると、小さな声が俺を呼んでいる。
「……先輩! 先輩!」
まさか、と思って振り返ると、教室の後ろのドアから覗き込んでいる、慣れ親しんだ後輩の姿。悠だ。一番見たかった姿に勇んで腰を上げる。
急いで近付いて声をかけようとすると、悠は恥ずかしそうに頬を赤らめて、ひとつの包みを渡してきた。
「あの、二年生の階に来るの恥ずかしいので……もう戻りますね。これどうぞっ」
それだけ言い残すと、悠は急いで階段を降りていった。包みを開けてみる。
そこには、桜色の弁当箱。
「悠…………!」
添えられた手紙には、愛しい後輩の、見慣れた几帳面な文字が並べられていた。
『先輩へ。学食を出入り禁止になった先輩が、意地になってお昼を抜こうとするんじゃないかと思って、お節介かと思いましたが、お弁当を作りました。いいえ、ほんとは前から、先輩のお弁当を作ってあげたいと思ってたんですが、いいきっかけだと思って。残念ながら、中身はうどんではないですけど。だから、その、昨日は先輩も落ち込んでいて、いらっしゃらなかったのかもしれないですが、今日の放課後は、ぜひ【ゆう】にいらしてくださいね。悠』
「ったく……俺は学食出禁くらいで……落ち込むようなタマじゃねえよ……っ」
手作りらしい悠のお弁当は、卵焼きも、生姜焼きも、ポテトサラダも、みんなみんな美味しかった。
俺のせいで、少しだけ塩辛かったけど。
──ようやく退屈な授業が終わった。
急いで下駄箱に向かうと、そわそわした様子の悠が待ってくれていた。声をかける。
「すまん、遅くなった!」
「……いえ、先輩。大丈夫です」
俺に気がつくといっそう落ち着きなく見えて、俺はちょっと心配になる。けれど、そういえば伝えなければならないことがあるのだった。
「──あの、さ。悠……」
「は、はいっ!?」
悠はびっくりして顔を真っ赤にしている。驚かせてしまったか。だが、ちゃんと伝えないと。
「えっと、なんだ……」
「な、なな、なんですかっ……?」
「…………弁当、ありがとな。美味かった」
「ぁ……はあ、いえっ、どういたしまして……」
悠はちょっと拍子抜けした顔でお礼を聞いていた。俺がきちんと伝えられて、深呼吸していると、悠もそれに合わせて何故だか深呼吸する。なんでこんなに慌ててるんだ?
「じゃ、行くか」
「……はい、先輩」
下駄箱を出て、今度こそいつもの店への道を歩く。昨日と違って二人だ。二人きり、である。なんとなく気まずくなって、俺も悠も上手く話せなかった。ともすれば、俺の心境の変化があったせいで、何かしら俺の態度が変わってしまっているのかもしれなかった。それを感じ取って、悠は話しかけるのを控えているのだろうか。
ともあれ、気まずい。悠との間では滅多になかった緊張感だ。いつだって俺がバカをやって、それをみた悠が呆れて……そんなことばっかりだったから。
だが、こんな気まずさに参ってしまっていては、これから悠に、その、告白しようなんていう時、俺はどうすればいいんだ──
「あ、あのっ、先輩……っ!」
「な、なんだ!?」
突然声をかけられて、びっくりして声が裏返ってしまった。かなり恥ずかしい。
俺が顔に血が上って熱くなるのを感じていると、何やら悠の頬も、心なしかのぼせて朱に染まっているようだった。
「……その、私、先輩に言わなきゃ、言いたいことがあるんです……っ」
「そ……そうか、ふむ」
それだけの言葉をぶっきらぼうに応酬すると、二人は結局黙り込んでしまう。
なんたる無様か。うどんのことを語る時はあれほど饒舌に滑り出す舌が、悠の前では形無しだ。俺はこんなにもシャイな奴だったか?
付かず離れず、並んで歩きながらも、沈黙。その停滞は、しかしひとりの少女によって破られた。
「──やっほー! ブルマ、履いてる?」
「履いてねえよ!!」
思わず咄嗟にツッコミを入れて、それからその小さな姿に気がつく。長く真っ白い透き通った髪に、体操服には「うい」の文字。そしてとどめには、細くて未成熟な白い足を引き立てる紺色の、彼女にとってのとっておきのオートクチュール──ブルマ!
まさしく目の前にいたのは、あのブルマ神様だったのである。実在したのか……。
「あの、先輩? この子は……」
そうこう言っているうちに悠が明らかに戸惑った顔をしていた。そりゃ小学生と息のあった漫才をする高校生を見たらみんなこういう顔するか。
「昨日たまたま知り合った小学生で、いや俺もよく知らんのだが……!」
「えー? ひどいなあ、私とあなたはブルマへの愛について語り合った仲じゃん! せっかく、身体に直接たっぷりと、ブルマを教えてあげたのに……ね?」
「おまっ、妙な言い方をするな! 百八枚もブルマ探させただけだろ!!」
ブルマ女はニヤニヤといやらしい顔をしてねっとり法螺を吹いていた。必死で否定しても、
「え……あの……先輩……?」
悠は、ちょっと死んだ目になりつつあった。
「いや、違うんだ悠!! 俺はこいつにこき使われてただけなんだよ!!」
「あらあらまあまあ! こき使われただなんて、いやらしいこと言うんだねー!」
「違っ…………!!」
俺がなんとかして弁解して誤解を解こうと、恐る恐る悠の方へと振り返ると──
「先、輩……………………」
完全に、目が死んでしまっていた。
「いやーごめんね! ほんとは昨日、ちょっとやりすぎたことを謝りたくって来たの」
流石にヤバい雰囲気を察知した俺とブルマは、協力して悠に昨日のことを説明して(落とし物を探してもらっていた、とか口裏を合わせた)説得し、ようやく目のハイライトを取り戻すことができた。ハイライトって、大事だよな……。
「一応、お詫びも兼ねて昨日のご褒美はまだ権利を残してあるんだけど……使う?」
俺だけに聞こえるように小さな声で尋ねてくる。だが俺は、今はそんなことを考えている余裕はなかったのだ。
「……とりあえず、全部うどん食ってから考える!」
そう決めると、俺は悠に目配せする。悠も同じことを考えていたようで、ちょっと照れながらだが見返してくれた。
「よし、今日は初めての客もいることだし、最高の【ゆう】のうどんを好きになってもらおうな!」
「…………はい、先輩っ!」
俺と後輩が一致団結する中、当の本人だけがなんだか戸惑った顔をしているのだった。
「え、私? 私?」
◯
「はい! 釜揚げ二丁、お待ちどお様ですっ!」
エプロンをした悠がいつものように膳を運んで来てくれる。その上には、二つの釜揚げうどんが載せられている。俺と、それからブルマ様の分だ。
「これが……うどん?」
「そうだ、釜揚げうどん! うどんの中でも特にシンプルな作り方でな、だからこそ素材の味が最も──」
「もう、先輩っ?」
悠が苦笑いしながら俺を制止する。またやってしまったのか。うどんのことになるとすぐ熱くなるのは、俺の悪癖だな……。
「……ああ、そうだな。とりあえず食べてみな」
「う、うん……」
そう言うと、ブルマ様は丼からうどんを一本掬い上げて、汁に少し浸した。それから、口に運んで、勢いよくちゅるりと啜る。
「…………!」
悠と顔を見合わせて、にやりと笑った。ブルマ様の目は見るからに輝いている。これは、もう虜になった目だろう。俺自身がそうだからわかるのだ。
「おいしい〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!!」
「えへへ……ありがとうございますっ」
いくら初対面でも、自分の店のうどんを美味しいと言われては、悠も嬉しさを隠せないようだ。かく言う俺も嬉しくて嬉しくて、さっきからニヤつくのを我慢できない。
「……先輩もほらっ、食べてください?」
「おう、いただきます」
悠に促されて、俺も我慢していたうどんを思うがままに啜る。やはり、この味──
「美味い………………っっ!!」
「お粗末様です……ふふっ」
一心不乱に食べるブルマ様と俺は、満腹になってテーブルに突っ伏すまで、釜揚げうどんをお代わりし続けたのだった。
「ねえ、結局、願い事はどうするの?」
二人とも食事を終えて、悠が食器を片付けてくれ、皿洗いをしにキッチンに向かっている間、ブルマ様は俺に向かって改めて尋ねる。
願い事。そういえばそんなこともあった。というかブルマ神様は本当に神様なんだろうか? 暗闇で神々しく輝いたり、公園で倒れた俺が知らぬ間に自室に運ばれていたり、いろいろあったせいで信じ込んでしまっていたが、うどんを食べて感動する神様って、どうなんだ。やっぱり【ゆう】のうどんがそれほどまでの逸品ということなのだろうか。
「ねーがーいーごーと!」
「そうだな……」
催促されて、俺はようやく考える。俺は何がしたいのか。何を求めるのか。駄目元だとしても、願い事を言ってみるのだけは悪くない。
恋い焦がれていた【ゆう】のうどんを腹一杯食べた俺が、今一番したいこと。それは──
「……この店を、一番の人気店にしたい」
「ここのうどんを?」
「ああ……そうだ。俺が愛するこの【ゆう】のうどんを、もっとたくさんの人に味わってほしいんだ……」
そう言うと、ブルマ様は嬉しそうににへらっと笑ってから、優しい目で店を見回した。
「いい……願い事だね。わかったよ。その願い、このブルマ神様が叶えてあげる!」
「はは……本当に叶えてくれるのか?」
俺が苦笑いしていると、自信満々の顔のブルマ様は「もっちろんだよ!」と力説する。
「ほら……お客さんだよ!」
疑いながらも、店外へ続くドアを窺うと、本当に店に入ってくるお客さん。それも一人や二人じゃない。結構な人数が集まってきている。
「すいません、なんかブルマ拾ってたら、ここに来たんですけど……お腹空いちゃって。あのお、このうどん屋さんってやってますかー?」
まさか、あのブルマ様はまたブルマを撒いたのか? そう尋ねるためにブルマ様の方へ振り返ったつもりの俺は、しかしそこに誰も見つけることができなかった。店内には俺一人。俺は思わず店員でもないのに返事をする。
「もちろんです! ご注文は?」
お客さんの声につられてキッチンから出てきた悠もすごく驚いた顔をしている。慌てて雄一さんを呼びにキッチンに戻っていく。
唐突に訪れたたくさんのお客さんのおかげで騒がしくなったはずの店内に、あの聞きなれた鈴のような笑い声が、響いているような気がした。
◯
あの時のブルマ好きの小学生がどこに消えてしまったのかはわからないままだが、ブルマ様は本当にブルマの神様だったのかもしれない、と最近になって思うようになった。
それからの【ゆう】は、本当にアホなことだが、ブルマを拾って集まった初めての客からの口コミと、俺の作った宣伝ウェブページが少しでも働いてくれたのか、文句無しの人気店に仲間入りしたのだ。じわじわとリピーターが増えて、あの素晴らしいうどんの魅力をたくさんの人が知ってくれたかと思うと、俺もとんでもなく嬉しかったものだ。
雄一さんも優子さんも、今では毎日忙しく仕事をしている。売り上げは何倍にも増えたが、労働だってそれに見合う分だけ激しくなったのだ。優子さんなんかは「昔の方が静かでよかったわぁ」なんて、苦笑いしながら言っているくらいだ。雄一さんは相変わらず、毎日黙々と自分に厳しく仕事をこなしている。
悠も、高校を卒業して店の仕事を継いでからは、人気店の従業員として毎日あくせく働いていた。在学中から店の手伝いをするのが好きだと言っていた彼女は本格的に店員になってからも、毎日忙しくも楽しい毎日を送っているらしい。
かく言う俺は──もう、うどん処【ゆう】の常連客ではなくなってしまった。
◯
ようやく仕事にひと段落ついて、キッチンから裏口へ出て行く。外はもはや真っ暗で、夕日はとうに沈んでしまっていた。
突然のブルマ来客のおかげで閑古鳥がさっぱり飛び去ってしまった【ゆう】は、深刻な人出不足に陥ったのだ。よって俺は半ば強制的に皿洗い件ウェイターとして臨時雇用され、麻谷家全員+俺という総勢四名の心許ないシフトが組まれた。無論のこと、休み時間などは予定されていない。結構キツかった。
とは言っても【ゆう】が賑わっていることは、俺としてはすごく嬉しいことだ。俺の愛するうどんの味を他のお客さんにも知ってもらえるのだから。
ともあれ、俺は労働の喜びを噛み締めつつ、あくせくとうどんを運び、丼を洗い続けたのである。お疲れ様でした。
「はあ…………疲れた」
ため息をついてそうぼやいていると、通用口からもう一人、出てくる人影があった。街灯の乏しい光量では顔も上手く確認できない。
「…………先輩、ですか?」
「ああ、悠か」
慣れ親しんだ後輩だとわかってほっとする。それと同時に、忙しさにかまけて忘れていた気まずさが蘇ってきた。そうだ、俺はきちんと気持ちを伝えなければならないんだ。
深呼吸して、声に出す。
「あのっ!」
「あのっ!」
──同時、だった。
「……悠から話してくれ」
「いや、先輩からお願いしますっ」
しばらくの沈黙。そして、二人で苦笑いする。
「……それじゃあ、私から話しますね」
俺はごくりと唾を飲み込む。
「私が、明人先輩と初めて会った日のこと、先輩は覚えてますか?」
「……ああ、覚えてるよ」
忘れるはずがない。でろでろと出会った日でもあるのだから。……いや、まだ俺は自分に誤魔化しをしているのか。
「私、言いました。先輩に、一番美味しいうどんを食べさせてあげます、って」
「うん。本当に……一番美味しいうどんを食べさせてくれたよな、悠は」
「えへへ、ありがとうございますっ」
暗闇で表情がわからなくても、声でわかるくらいに照れ臭そうに笑って、彼女は続ける。
「私は、先輩にうちのうどんを初めて食べてもらった時に、ああ、幸せだなあ、って思ったんです」
「そりゃ……なんでだ?」
俺がうどんを食べて幸せになるならともかく、悠がどうしてそう感じるんだ。俺が純粋に気になって尋ねると、彼女はちょっと深呼吸をして、それから話し始める。
「私、先輩が美味しそうに──本当に美味しそうに、うどんを食べてくれるのが、好きなんです。先輩が幸せそうにしてるのを見るのが、すごく好きなんです。そのことに気が付いてから、私は、ずっと考えてきました。この気持ちがなんなのか、私は何がしたいのか」
息を呑む。これは、これはまるで──
「最近になって、ようやくわかったんです。私は……」
暗闇の中で、彼女の表情は見えない。けれど、見えなくてよかった、と思った。見えてしまっていたら、きっと俺は目をそらしてしまう。
彼女はじっと俺を見据えて、決心したように息をひとつ吐き出して、それから──告白した。
「私は、先輩が好きです」
その一瞬から、俺は魔法にかけられてしまったように、息ができなくなって、喉がカラカラに乾いて、顔が熱くて、胸が苦しくて、死んでしまいそうになる。目の前の悠は、それでも俺を見つめたまま。お前は苦しくないのか。いや……ずっと、ずっとこの痛みに耐えてきたのか。
苦しい。呼吸を何度もなんども失敗して、ようやく深呼吸する。
想いを、伝えてくれた人がいる。なら、俺だってきちんと自分の気持ちを伝えなければ──
「悠……」
「…………はい」
彼女の声は幾分か震えて、覚悟を決めているように聞こえた。俺の返事を待ってくれている。そう思うと拳に力がこもった。
深く息を吸って、精一杯、声にする。
「俺はずっと、自分の好きなことばっかり考えて、アホばっかりやってきたダメな奴だ。成績だって良くないし、態度だって悪い。学食も出禁だしな」
そう言っておどけると悠は少しだけ笑ってくれた。けれど、本心からの笑みでないことはわかっている。
「けどさ、悠はいっつも、俺のそばに居てくれた。俺はそれが嬉しくて嬉しくて……本当は俺は、悠と一緒に居られるだけで、よかったんだよ。それなのに、素直になれないで、いつもバカやって、お前に見てもらいたかったんだ……迷惑かけて、ごめん。でも、俺にはお前が必要なんだ」
息継ぎをして、最後に一番の想いを込めて──
「好きだよ、悠……大好きだ」
やっと、伝えられた。自分のことでいっぱいになってしまっていた俺は、ようやく悠の様子を窺う。
彼女は、息を詰まらせて──
「────先輩っ!」
ぎゅうっと、抱き締めてくる。驚いたけれど、俺はしっかり抱き締め返す。もう離したくないから。ずっとそばに居てほしいから。
「先輩……っ、嬉しいですっ! 私、私……っ!!」
俺は黙って彼女を抱き締めて、震える身体を静めてやる必要があった。いいや、俺だってそうしていたかったんだ。ただ、抱き締めていたかった。
──そして俺たちは、恋人になった。
◯
俺はもう【ゆう】の常連客なんかじゃない。
悠よりも一足先に高校を卒業した俺は、悠が在学する残り一年の間、雄一さんに料理人としての心得やうどんを打つ技術など、俺が二代目になるために足りなかったものをとことん教わっていた。雄一さんは想像通りスパルタ教育で、できないことがあれば延々とそれをやらされるし、アドバイスだって滅多にしてくれなかった。けれど、そういう時は優子さんがこっそり教えてくれた。忘れていたが、彼女だってうどん屋の娘だったのだ。
そして悠の卒業を迎えて、晴れて俺はうどん処【ゆう】の二代目になった。とは言っても、今のところは名前だけの二代目であって、何をするにしても雄一さんに確認して、教わって、仕事をしなければならないのだが。
それでも、俺の毎日はとても充実している。何故なら……そばに悠が居てくれるから。愛しているうどんを、愛している人と一緒に作っていける。これほどの幸せは、きっと他にないだろう。
まだまだ、先に何があるかはわからないけれど、悠と一緒なら、俺と悠の二人なら──
きっと、なんだってできるだろう。
幸せな毎日は、どこまでも続いていく。
────────────fin.
三題噺「うどん、ブルマ、ギャグ」をテーマに書きましたが想像以上に捗りました。後輩キャラ出したからかな。すごく好きなんです後輩が。ともあれお読みいただきありがとうございました。今回は少し長く、お疲れ様でした。それではまた。




