ふりかけとおぼっちゃん おぼっちゃんの初恋
『ふりかけの気持ち』の煌視点の話です。
※流血、自傷行為、自殺未遂等の表現がありますので、苦手な方はご注意ください。
幼い頃、俺は医者の息子なのに病院が嫌いだった。
無機質な機械音、暗い顔の患者、どこを見ても真っ白な場所、薬の匂い。
だけど、一人の女の子のおかげで好きになれた。
母と二人で当直医の父に着替えを持って行ったある日、その女の子と出会った。
四つか五つくらい年上の女の子は家族が入院していたんだろう。
購買から何かを買って帰る途中で、お菓子を一つ落とした。
十円玉くらいの小さなお菓子を落としたことに女の子は気づかない。
母から女の子には優しくするように、と口酸っぱくいわれていたから、俺はお菓子を渡すために母に一言いってから追いかけた。
「おい、そこのお前、止まるのだよ!」
女の子にはすぐに追いついた。
「ん?あたしになにかよう?」
女の子が立ち止まって振り返ると、肩を越す艶やかな黒髪が揺れた。
「これを落としたぞ」
女の子の前に手を突き出す。
手の上にはさきほどのお菓子が載っている。
「あ!さっき買ったチロルチョコ!これを渡すためにわざわざ追いかけてくれたの?」
女の子は眠そうに見える垂れ目を瞬かせ、首を傾げた。
落としたお菓子はチロルチョコというらしい。
これほど小さなチョコレートが売っているものなのか。
「そうだ」
「ありがとう!君も家族が入院してるの?」
少女はなんの気なしにそんなことを聞いて来た。
「違う。俺の父は医者だ」
俺は大げさに反応し、首を激しく横に振った。
「へえ、お父さんがお医者さんなんだ!すごいね!」
少女は手放しで父を称賛した。
だが、俺は素直に喜べなかった。
「何もすごくはないのだよ。どんなに優れた医者でも全ての患者を救うことは出来ない」
父が担当した患者の家族が詰め寄っているのを見たことがあった。
泣きながら父を責める姿に俺は胸が締めつけられた。
父は病院でも一、二を争うほど腕のいい立派な医者だが、それに胡坐をかくような人ではない。
むしろ、もっと多くの人を救うために寝る時間も家に帰る時間も医療に奉げるような人、だと母から聞いている。
実際に父が働く姿を垣間見て、俺もそう思った。
だが、そんな父でさえも救えない患者はいる。
「でもでも!皆を助けることができなくても、君のお父さんのおかげでたくさんの人が救われていると思うよ。だってお医者さんがいなかったら病気になった時に誰が助けてくれるの?それにね、もし助けられなくても最後に苦しくないように楽に天国へ行けるようにしてくれるのもお医者なんだよ」
俺は一体、父の何を見てきたんだろう。
この女の子のいう通りではないか。
父も全ての患者を救えなかった。
だが、いつも一人でも多くの患者を救い、死に向かう患者には安からに眠れるように手を尽くしていた。
「だからあたしはお医者さんってすごいと思うよ」
ナイチンゲールのような慈悲に溢れた女の子の笑顔に一目で心を奪われた。
「お前の名前は何というのだ?」
この機会を逃したら一生聞けないような気がした。
だから俺は女の子に名前を尋ねた。
「都環紫だよ。君の名前はなんていうの?」
「俺は明道院煌だ」
はっきりと聞き取りやすいように俺は名乗った。
ただ自分の名前を名乗るだけなのに、今までにないほど緊張した。
「すごくかっこいい名前だね。なら……“こうちゃん”って呼ぶね」
新鮮だった。
父と母は呼び捨て、、幼稚園では苗字で呼ばれる。
友人であってもあだ名なんかで呼ばれることはない。
呼ぶあっているのは学校でも有名な二人だけだ。
距離が縮まった気がして、胸が暖かくなった。
何だか照れくさくて、誤魔化すように咳払いを一つした。
「……好きにしろ。お前はなんと呼べばいい?」
「みんなあたしのこと、“ゆかちゃん”って呼ぶよ」
紫は少し考えた後、そういった。
“ゆかり”だから、“ゆかちゃん”か。
「ゆかちゃん、だな?わかった。次会う時からはそう呼ぶのだよ」
あだ名で呼んだことなどない俺はすぐに紫のあだ名で呼ぶことは出来なかった。
だが、紫はそれが不満だったようだ。
「えー?せっかく友達になれたのに今からじゃないの?」
頬を膨らませ、唇を尖らせる。
紫は怒っているつもりなのだろうが、少し幼く見えて可愛らしかった。
「ゆ、ゆかちゃん……」
俺はなぜだか恥ずかしくなり、顔を伏せた。
「なあに、こうちゃん?」
優しい声で俺のあだ名を呼ぶものだから、ますます顔があげられなくなった。
今の俺の顔は人に見せられないほど緩んでいるだろう。
「何でもない。ただ呼べといったから呼んだだけなのだよ」
なぜだか素直になれずにそっけない言葉を返してしまった。
だが紫が怒ることはない。
「そっか。あ!あたしそろそろ帰らないとお父さんが心配して探しにきちゃう」
長く立ち話をしてしまった。
それ以上、紫を引き留めることは出来ない。
「そうか。気をつけて帰るのだよ」
「うん。こうちゃん、バイバイー!またねー!」
紫は笑顔でそういうとどこかへ駆けて行く。
「うむ。またな」
紫にまたそっけなく返してしまったが、紫は怒らなかった。
それからという物、俺は病院で紫を見かける度に声をかけて、つまらない世間話をした。
紫はいつでも足を止めて俺の話を笑顔で聞いてくれた。
なぜか周りの大人達はそんな俺達を暖かい目で見ていた。
それから数ヶ月後に父が過労で亡くなった。
他人に厳しく、それ以上に自分に厳しかった父は、一つのことに夢中になると、周りが見えなくなる不器用な人だった。
父のおかげで救われた人は数多く、患者にも他の医者看護師からも慕われていた。
そんな父は今でも俺の誇りだ。
父を亡くして悲しむ俺を慰めたのは紫だった。
「こうちゃんのお父さんが遠くに行っちゃったけど、こうちゃんのことずっと見てるよ。だからね、寂しいけど大丈夫なんだよ」
そういって、紫は小さな体で俺をぎゅっと抱きしめてくれた。
後に聞いた話だが、その言葉は彼女の母親が残してしまう紫へ贈った物だったそうだ。
彼女の母親が亡くなったのはその数日後だった。
泣いた後の赤い目で笑う強がりな紫は痛々しかった。
だから俺が支えになってやりたいと思った。
「俺が大人になったら結婚してやるのだよ!」
口から出た言葉は突飛で、自分でも信じられない物だった。
「じゃあそれまで待ってるね」
それでも紫は笑って頷いてくれた。
大人になったら忘れてしまう子供の約束だが、当時の俺は本気だった。
だから彼女に相応しい人になるために、自分を磨いた。
それからしばらく紫と会うことはなかった。
数年後、俺達は病院で再会した。
父が亡くなるより前から、同じ病院で母は看護師として勤めていて、その日はたまたま急に夜勤に変更なり、着替えを持っていったのだ。
当時の俺は中学生で、紫は高校生。
艶やだった黒髪は明るい茶色に染められ、艶がなかった。
眠そうな垂れ目は光を飲み込んだように暗く淀み、痩せこけた顔は生気がない。
棒のような手足は折れてしまわないか心配になる。
季節は夏なのに長袖の制服を着ていた。
それだけで嫌な予感がした。
ふいに風が舞い、彼女の膝下まであるスカートがめくれる。
だが、俺がいやらしい気持ちになることはなかった。
スカートの下の足は傷だらけだった。
切り傷や擦り傷、打撲、色々な傷があった。
治りかけの物もあれば、今出来たような傷もある。
俺は母に紫のことを聞いた。
普段は患者のことを全く話さない母が話してくれたことは当時の俺には衝撃的だった。
生みの母が亡くなり、悲しむ間もなく再婚したことで家庭環境が変わり、精神的に不安定になり、精神病にかかったそうだ。
特に今は危険な状態が続いている。
精神的な病気の患者が危険な状態とは、つまり自殺の可能性すらあるということだ。
俺は不安になり、病院中を隈なく探した。
紫は一階の購買近くの椅子でフルーツジュースを飲んでいた。
「ゆかちゃん!」
俺は思わず叫んだ。
嬉しさと安堵が一気にやってきて、大きな溜め息を一つ吐いた。
「あんた、誰?」
冷たい声と視線に、呼吸さえも忘れた。
紫は今なんといったのだ?
「俺のことを覚えていないのか?」
紫と別れて数年が経っていたが、俺は二人で過ごした日々を昨日のことのように覚えている。
だから紫も同じだと思っていた。
「はあ?あんたみたいな人知らないし。うざいからもう話しかけないでくれる?」
俺の淡い期待は粉々に打ち砕かれた。
紫にとって俺と過ごした日々は忘れられる程度の物だった。
落胆する俺の横をすり抜け、紫は立ち去ろうとする。
「待つのだよ!まだ話は終わっていない!」
紫の腕を掴んで、引き止めた。
「しつこい!追いかけるなら他の女にしてよ」
だが、紫は俺を睨みつけて、腕を振り払う。
そのまま俺の知らない紫はどこかへと歩き去っていった。
冷たくされても俺は紫に会いに行った。
母から話を聞き、彼女を一人にすることが怖かったのだ。
最初はかなり嫌がられたのだが、回数を重ねるごとに諦めたのか、今では何もいわない。
今日は病室で本を読んでいた。
「ねえ、あんたはどうしてあたしがここにいるか知ってる?」
紫は本から目を離さずにそういった。
「病気にかかってるからではないのか?」
病院にいる者は程度は違えど、何かしらの病気に罹っている。
紫もまたその一人であった。
「そうよね。ふつーはそう思う。でもね違う。あたしはただ厄介払いされたのよ」
穏やかではない話に俺は眉をひそめた。
「小六くらいかなー。お父さんと明さんっていう人が結婚したの。お母さんが死んで一ヶ月も経ってなかったのにねー。だからあたしは最初明さんとその娘のひかりを受け入れられなかった。自分で出来ることは自分でして、物理的にも精神的にも出来るだけ距離をとって避け続けた」
それは俺と紫が出会ったばかりの頃だ。
まだまだ子供だった彼女が、新しい母親と妹を受け入れられなかったのもしかたないことだろう。
紫は母親のことが本当に好きだったのだ。
「でもね、ずっとそれじゃだめだと思った。だってさー、お父さんが二人と一緒にいて幸せそうに笑うんだもん。あたしがその足引っ張っちゃダメだなって、思った。遅くなっちゃったけど二人とも仲良くしようとしたんだ。ちゃんと家族になろうと思ったんだ」
軽い口調で話すが、紫にとって相当な葛藤があったのだろう。
だが、彼女はそれを一人で乗り越えた。
幼い頃から強い子だったのだろう。
「それもすぐにぜーんぶ無駄になった。二人ともあたしのこと嫌いだったんだー。初めてあった日からずーっと嫌いだったんだって。だからね、仲良くなんてなれなかった。あたしは仲良くなれないならそれでもよかった。お父さんとお兄ちゃん達の前でだけ仲の良い雰囲気を作ってくれたらよかった。皆の前だけ幸せな家族の振りをしてくれればよかった。それなのに二人はあたしを殺そうとしたの」
「殺そうとした?」
「あたしがいかに悪い子がお父さんやお兄ちゃんにいって、あたしの居場所を消していったの。あたしの居場所は簡単に消えていったよ。家にも学校にも近所にもあたしの居場所はなくて、皆があたしは嘘つきで、怒ったらすぐに暴力を振るからって、邪魔者、厄介者扱い。全部嘘なのにねー」
一月前には当たり前だったものが急に全て消えたような感覚だったのだろうか。
俺だったら耐えられない。
「誰もお前を庇ってくれる奴は、守ってくれるやつはいなかったのか?」
「そんな人がいたらあたしはここにいなかったよ。あの人達と同じになりたくないからあたしが傷つけるのはあたしだけ。あたしは誰も傷つけない」
紫が着ている病衣の裾から真新しい包帯が見えた。
その下にある傷は昨日、彼女自身がつけたものだ。
「違う。お前は自分を傷つけることで他人を傷つけている」
紫の傷が増える度に俺は胸の奥が苦しくなる。
「あたしが傷つくことで誰かが傷つく?そんなわけないじゃん。あんたバカじゃないの?それとも知らないだけ?」
「なんだと!知らないとはどういう意味なのだよ!?」
「そのままの意味だよー?例えばさーあたしのこの顔の傷。誰がつけたか知ってるー?」
紫は髪を左に流し、隠していた傷跡を見せた。
縦に伸びるそれはは薄いが、肉を抉ったような跡が残っている。
「知るわけないかー。まあ当然だね。だってこの傷は明さんがつけたんだもん。中学に入ったばかりのころだったかな?ひかりが割った花瓶をあたしのせいにされて、本当のことをしたら花瓶の上に突き飛ばされたんだあ。あれすごく痛かった。床も血塗れになっちゃたしね。それでも怒られたのはあたしだけだった。そーいえばあの頃からすでにあたしは殺されてたな。誰もあたしのいうことを信じてくれなかったし。誰も傷の心配すらしてくれなかったから」
紫はいつも通りだった。
なのにどうしてか、俺には泣いているように見えた。
「あはは!何その顔!同情でもしてくれてんの?ぜーんぶ嘘なのに?」
紫は顔を上げて、俺を見て笑った。
昔の無邪気な笑顔とは違う、無理して作った痛々しい笑顔だ。
「嘘、なのか?」
「そう、嘘。なのに信じちゃってさー。あんたって馬鹿だねー。精神異常者のいうことを真に受けるなんて。どんだけお人よしなの?それともあんたの周りにはいい人しかいなかったの?幸せ者だね」
紫は強かった。
だが、強すぎて我慢しすぎて歪んでしまった。
人を信じられなくなった彼女は自分を傷つけて人を遠ざけることで、自分を守ろうとしている。
いっそ泣いてすがってくれれば助けられるのに、今までの環境がそれを許さなかったから彼女はそれすらできない。
「ねえ、もう二度と会いに来ないで。あんたみたいな人を見てると苛々するし」
もう何度目になるかわからないほどいわれた拒絶の言葉。
だがその程度で諦めるのなら、ここにはいない。
「それは……出来ないのだよ」
「そう。ならいいや」
紫は読んでいた本を閉じて、側にある棚の上に置き、引き出しから鋏を取り出した。
何をするつもりか理解する前に彼女が行動に移す。
自分の気管に向けて鋏を突き刺そうとした。
「何をする!止めるのだよ!」
俺はとっさに紫の手を掴み、それを止めさせた。
「あたしはあんたに会いたくないけど、あんたはあたしに会いたいんでしょ?なら絶対に会えない場所に行く。お母さんにだって会えるし、名案でしょ?」
紫の筋力が落ちていてよかった。
俺は彼女から鋏を奪い、手に届かない場所へ置いた。
紫が不満しかない顔で俺を睨む。
「……わかったのだよ。お前とは会わない。その代わりに一つ約束してくれないか?」
「約束?あんたが本当に会わないなら守ってあげてもいいよ。それで何をさせたいの?」
「自殺だけはするな」
「それは無理な約束でしょ。自殺しようと思わなくても、うっかり自傷行為をやりすぎて死ぬなんてこともありえるし」
紫ははっきりといった。
「……それでも自殺だけはしないでくれ」
「あんたが約束を守るならあたしも約束を守ってあげる」
「わかった。それでいいのだよ」
「じゃあ、さよならこうちゃん」
彼女は数年前のように『またね』とはいわなかった。
俺は無言で病室を出る。
紫の茨のような心に触れることも覚悟もない、無力で半端な自分が悔しかった。
彼女が欲しがっている者が何かわからない、俺は何もしてやれない。
それから俺は逃げるように勉強に励んだ。
一日でも早く彼女のことを忘れたかった。
それから数年経って彼女が出来た。
名前は都環ひかり。
彼女と同じ苗字だったが、顔立ちも雰囲気も全く違っていたから彼女のいっていた妹と別人だと思った。
告白したのは都環ひかりからだ。
客観的に見ても都環ひかりは可愛かった。
ゆるく巻かれた髪は手触りがよさそうで、時よりバニラのような甘い香りがした。
華奢な体は庇護欲をそそられ、笑った顔は満開の花のように美しかった。
だが、都環ひかりと付き合った時間は一か月にも満たなかった。
都環ひかりが他の男と仲良く腕を組んで歩いているのを見てしまったのだ。
俺とはそんなことをしなかったのに。
喫茶店で問い詰めてみるとそれまでの態度が嘘のように一変した。
浮気をしたことを全く反省せず、むしろ俺を責め、一方的に別れを告げられた。
全部、都環ひかりの演技だった。
俺にいった言葉も、見せた笑顔も全て演技だと知り、ショックだった。
喫茶店の前でぼんやりと立ち尽くしていた俺に声をかけてきた男がいた。
「大丈夫ですか?」
数年ぶりに見た同級生の佐藤良平は相変わらずの寒がりで厚着をしていたが、以前の人を拒絶するような雰囲気が和らいでいた。
彼もこの数年で変わったのだろう。
彼のお勧めの居酒屋で飲むことになった。
酒を飲んだのは初めてで加減がわからなかった。
佐藤の制止を無視して、俺は飲み続ける。
「もう十時だね。明日は休みだと思うけどそろそろ帰らない?」
「まだ飲み足りないのだよ」
佐藤は呆れたように溜め息を吐いた。
散々愚痴を聞かせて、飲みに付き合わされてうんざりしたのだろう。
佐藤の携帯が鳴った。
彼らしい初期設定の無機質な着信音だ。
「はい、佐藤です。……え?本当ですか?あー……今ですか?友人と飲んでいるのですが……分かりました。五分程度遅くなります」
電話を切った佐藤が申し訳なさそうに俺を見た。
「僕から誘っておいてごめん。急用が出来たから今から帰るよ」
「こんな時間からか?」
「そうだね。明道院くんも帰らない?」
「俺はもう少し後で帰るのだよ」
「わかった。料金はここに置いておくよ。ここら辺は夜になると治安が悪くなるからあまり遅くならないうちに帰った方がいいよ」
「わかった」
佐藤はそういって、後ろ髪を引かれるように帰っていった。
そんなに俺は危ないように見えたのだろうか。
気がつくとカウンターに腕を伏せて、眠っていた。
「うわあ、サイアクー。あたしの場所なのに。あ、おっさん!ビールと今夜のおすすめちょうだい」
聞き覚えのある声が隣に座った。
顔を見たいのだが、酔った体は思ったように動かない。
「あれ?寝てなかったんだー?ならさっさと退いてくれる?そこあたしの特等席」
女は俺の耳に口を寄せて、そんなことをいってきた。
唐突に縮まった距離に心臓が跳ね、顔に熱が集まり、顔があげられなくなる。
「さっきまで友達と飲んでたんだけど酔いつぶれちまってな。ずっとそこにいるんだ」
店主が困ったように笑って、何かが隣に置かれる音がした。
「ふうん。友達に置いていかれたんだ。カワイソー」
女は好き勝手なことをいって、酒を一気に煽る。
酒を飲む音がなめかしく聞こえ、無意識に俺は唾を飲んだ。
どうやら俺は相当酔っているようだった。
女は俺の動揺など気にもせず、気ままに店主と話す。
「わーい!おっさんのぶり大根チョー好き!あたしと結婚してー!」
聞こえた来た言葉は俺の心を抉った。
別人かもしれないのだが、忘れられなかった彼女が求婚していた。
俺ではない人に。
「おっさんよりもいい人なんていないよー。気前が良くて優しくて料理上手とかずるい」
女が甘えた声を出す度に苛々した。
そんな男に甘えるなら俺に甘えてくれ。
気づけば、俺は女の腕を引いていた。
「ん?何?やっとどいてくれるの?」
女は俺の行動の意味がわからず、聞いてくる。
当然だろう。
俺も自分の行動の意味がわからなかった。
「……ほんとにあの男が好きなのか?」
意味のわからないまま、俺の口は言葉を発していく。
「さっきいってただろ。好きとか結婚してだとか」
恥を忍んで内心を吐露すれば、女は爆笑した。
「なぜ笑う?」
顔を上げれば懐かしい顔が目の前にあった。
髪の色は以前よりも暗くなっていたが、生気のない表情は相変わらずだった。
「あー、久々に笑ったー。なに勘違いしてんの?本気なわけないじゃん。冗談だよ、冗談。おっさんの料理も性格も好きだけど、結婚できるわけないし」
最後の言葉は消え入りそうなほど小さい。
自嘲するような言葉に悲しくなった俺は泣きそうになった。
彼女はいつまで自分を傷つけ続ければいいんだろう。
俺はいつになったら彼女を救えるようになれるんだろうか。
いや、彼女から逃げた俺がそんなことを考えるのはおこがましいことだ。
「だから女は信用ならないのだよ。簡単に笑顔で好きだと嘘を吐ける」
都環ひかりの顔が浮かび、俺も自嘲するような声になった。
「本当に好きならそんなこといえないよー。だって拒絶されたら立ち直れないじゃん?」
彼女がむっとした口調で俺にいい返してきた。
強い意志を感じる言葉に俺は驚いて、彼女の顔を見た。
不満そうな顔が俺を見返した。
「お前にも本当に好きな奴がいたのか?」
一瞬だけ眉が吊り上ったが、すぐににやりと口の端を吊り上げた。
少し嫌な予感がした。
「うん。いるよー?」
「本当か?そいつはどんなやつだ?」
「君」
「は?」
いわれた言葉が信じられずに馬鹿のように口を空けてしまった。
彼女はおかしそうに笑った。
「だーかーら。あたしが好きなのは……」
といいかけて、何かに気づいたように口を閉じた。
次にいった言葉に俺は脱力する。
「……名前なんだっけ?」
彼女に名前を聞かれるのはこれでもう三度目になる。
どれだけ名前を覚えることが苦手なのだろうか。
「なぜお前に名前を教えなくてはいけないのだよ」
俺は落胆し、口を閉じた。
もしかしたら覚えているが、わざとぼけたふりをしていると思っていたが、楽観視しすぎていたようだ。
「あー。庶民には名前を教えられないくらい高貴な人だったんですかー?失礼な口を聞いて申し訳ありませんねー。もう聞きませーん」
わざとらしい態度と嫌味につい、いい返してしまった。
「……明道院煌なのだよ」
どうせまた忘れるのだろう。
その度に俺は傷ついているのを彼女は知らない。
「みょうじょう……?」
「明道院なのだよ!」
とぼけた顔で間違える彼女に腹が立った。
少しだけ首を傾げた姿が可愛らしいと思ったのは気のせいだ。
「ぜーんぜん漢字が想像出来なーい」
彼女は残りのビールを飲み干して、からからと笑う。
酔った頭じゃ難しいことは考えられないのは彼女も同じようだ。
「これが俺の名前なのだよ!」
俺はポケットから最新型のスマホを取り出し、文字を打ちこむと彼女に突きつける。
近すぎて見えなかったのか、頭を少し後ろに引いた。
ディスプレイに表示された名前に目を細めていた。
「うわー、すごいキラキラネーム。それにお金持ちのおぼっちゃんみたい。あー、ならこうちゃんって呼ぶー」
「やめろ」
金持ち扱いされるのは嫌いだ。
確かに父が医者で家計には余裕があったが、亡くなってからは母が必死に働いてくれたおかげで暮らしていけたのだ。
「なんで?こうちゃんってあだ名、チョー可愛いじゃん。嫌ならこうちゃまって呼ぶよ?」
「うるさい。黙るのだよ」
「こうちゃまはわがままだな」
彼女は笑って店主にビールの追加を頼む。
「お前……俺を馬鹿にしているだろう?」
ぎろりと睨んでも、彼女は怖がる素振りすら見せない。
店主から受け取ったビールをおいしそうに飲む。
そして、少し真面目な顔で彼女はいった。
「からかってるけど馬鹿にはしてないよー。こうちゃんは短気だねえ。そんなんじゃ女の子は逃げちゃうよ」
「お前には関係ないのだよ!」
図星を刺されたような気がして俺は机に拳を叩きつけた。
俺は逃げられる前に逃げた。
彼女は驚いたように目を瞬かせた。
やりすぎてしまったようだ。
「あれー?もしかして図星?だから酔いつぶれたんだー?フラれちゃってカワイソー」
少しだけ怒ったような声で彼女は俺を詰った。
それで彼女の気が済むのなら、いくらでも詰られても構わない。
でももう二度と彼女との距離が縮まることはないのだろう。
「お姉さんが慰めてあげるから話してみ?吐いたら楽になれるよー」
彼女はおどけた口調でそんなことをいってのける。
俺にはできなかったことをさらりとやってのけた。
「年下の女に慰められるほど落ち込んではいないのだよ」
自分の器の狭さを自覚し、嘘を吐いてまで彼女を突っぱねた。
すると彼女はなぜか飲んでいたビールでむせていた。
一人で何をしているのだ。
彼女は何度も咳をして、ようやく落ち着いて声を発した。
少し苦しそうだが、すぐに収まるだろう。
「何も知らない、二度と会うかもわからない他人だからいえることもあるよー」
その言葉が今までで一番突き刺さった。
彼女はもう一度俺と会う気がないのだと嫌でもわかってしまった。
「……彼女に浮気されたのだよ」
そういった声はゆっくりと消え入りそうなほど小さかった。
彼女の妹の都環ひかりの話をしたのはただの気まぐれか。
それとも自棄になっていたのか。
酔っていた頭ではわからなかった。
途中で一度だけ彼女の顔が強張った。
妹だと気付かれたのかも知れない。
だが、俺にはどうでもよかった。
こうして彼女ともう二度と話すことが出来ないのなら、いっそ死んでしまいたかった。
どうして今さら気づいてしまったのだろう。
俺は初めて会った日からずっと彼女が好きだった。
彼女に拒絶された時、諦めずにもっと足掻けばよかった。
後悔するが全てがもう遅い。
「悔しいんならそんな酷い女なんて忘れて幸せになっちゃえば?泣くのは今日だけにして、明日から笑ってやればいいじゃん?相手はどんだけこうちゃんが傷ついたのか知らないし、多分知るつもりもないんだし?そんな女のせいでこうちゃんが不幸になるの、あたしは悔しい」
俺は暗い顔をしていたのだろう。
勘違いした彼女は低い低い声だった。
なぜお前がそんな顔をする?
「なぜお前が悔しがる?」
「えー?だってぇ話聞いちゃったからもう無関係じゃないじゃん?チョー関係者でしょ?第一印象は最悪だったけど話してみればこうちゃんは面白いからねー。好きになっちゃった」
友達としてだよ?
と彼女は笑った。
俺に笑いかけてくれた。
歓喜で泣きそうになるのを必死に堪えた。
「……変な女なのだよ」
「こうちゃん、ひどーい。まあ、自覚あるけど。でもさー、いい経験になったと思うよ!これで次からは絶対に騙されないねー」
よかったねー、と彼女はもう一度笑った。
俺は緩みそうになる顔に力を入れて、誤魔化した。
「今日はおごってあげるから飲んで騒いで忘れちゃおう!」
彼女は追加でビールを頼んで、俺に飲ませた。
俺がまた酔いつぶれて寝るまで、そう時間はかからなかった。
近くから聞こえた物音に目が覚めた。
使い慣れたはずのベットから見知らぬ他人の匂いがした。
なぜだ?
そういえば昨日の夜から記憶が曖昧だ。
最近見たドラマにこういう展開はなかったか?
確かこの先は見知らぬ女が隣で寝てい……。
「おはよう」
聞こえた声に心臓が跳ねた。
布団の中からゆっくりと体を起こし、声の方を見た。
やはり彼女がいた。
ならここは彼女の部屋だ。
動揺を押し隠して、話をした。
だが、俺の考えていたことはなく、同じベットで寝てすらいなかった。
少しだけ残念に思い、自己嫌悪した。
気持ちを繋ぐ前に体だけでも繋がりたいと考えるなど、俺はいつからそんな最低な男に成り下がったのだろうか。
それに女性は体を冷やしてはいけないのに冷たい床で寝かせていた。
一体、俺は何をしているんだ。
彼女は俺を責めることはせずに、笑って食事を勧めてくれた。
机の上の料理はどれも美味しそうに見える。
俺は卵焼きへ手をつけて、その味に俺は驚かされた。
口の中でとろけるように柔らかく、市販の物よりも少し甘い優しい味付けだ。
俺が余計なことをいったせいか、彼女は目を細めた。
慌てて首を横に振り、謝罪の意を示す。
彼女のことを侮辱するつもりはなかった。
他の料理も美味しくて、いつもよりも箸が進んだ。
彼女もそれに気づいたのだろう。
「えっと……おかわりいる?味噌汁とご飯しかなくて、ご飯は冷凍だから少し時間かかるけど」
「……頼むのだよ」
俺は遠慮しながらも彼女に汁椀と茶碗を差し出した。
「りょーかい。ちょっと待ってー」
彼女は嬉しそうに笑って茶碗と汁椀を受け取って部屋を出て、数分で戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
そういうと彼女はことさら嬉しそうに笑った。
きっと感謝の言葉をいわれ慣れていないのだろう。
悲しみを食事と一緒にかきこんだ。
さすがにずっと視線を感じては食べずらい。
「さっきからなんだ?そんなに見られると食べにくいのだよ」
顔を上げ、彼女を見返した。
彼女は少しだけバツの悪い顔をして、自分の食事に視線を戻した。
俺の半分ほどの量しかないが、それで足りるのだろうか。
あまりの小食ぶりに心配になった。
もっと食べないと倒れてしまうのではないか?
なんと彼女は卵焼きが二切れ残ってる皿を俺の前に置いた。
ただでさえ少ないのに、これ以上減らすなどとんでもない。
だが彼女はこれ以上食べられないという。
そういうことならもらってもいいだろう。
食事を粗末に扱う物ではない。
自分にいいわけし、彼女からそれを受け取った。
顔が熱いのは気のせいだ。
「どんどんお食べー」
彼女の幸せそうに笑う顔が祖母に似ている。
素直にそういうと、老人を真似たしゃがれた声を出した。
あまりに老人に似ていて、俺は味噌汁を吹いた。
悪戯が成功した子供のような彼女が憎らしくて、じろりと睨んだ。
穏やかな朝食の時間もすぐに終わった。
「御馳走様でした」
俺は両手を合わせて、感謝をこめて彼女に深く頭を下げた。
「お粗末様でした」
彼女は俺の食器を自分が使ったのと重ね持ち、立ち上がる。
「食事を作ってもらったのだ。せめて皿洗いくらいするのだよ」
「いいから、いいから。こうちゃんは座ってて。これは後で洗うから大丈夫」
立ち上がりかけた俺を先制して、彼女は、部屋を出てすぐに戻ってきた。
「まず、聞きたいことはなに?」
俺の正面に座って、少し気まずそうに向きあった。
今まで何をしていた?
どうして一人暮らしをしている?
今、何をしているのか?
聞きたいことは山ほどあり、何から聞けばいいのかわからない程だ。
少し考え、俺は口を開いた。
「……お前の名前は何というのだ?」
彼女はそうきたか、といわんばかりの顔をした。
やはり彼女は俺のことを忘れていたのだ。
「あたしの名前は山田花子。はなちゃんって、呼んでくれる?」
「嘘をつくな。お前は居酒屋の店主にゆ」
「名前なんてどうでもいいじゃん。こうちゃんは昨日のことどこまで覚えてる?」
彼女は俺の言葉を途中で遮った。
それまで穏やかだった雰囲気が緩やかに剣呑な物へと変わる。
よほど俺に本名を知られたくないらしい。
それでも彼女は昨日の説明してくれた。
飲み代を払うといっても彼女は受け取らない。
酔いつぶれ、一泊させてもらっただけでも十分なのだが、彼女は譲らなかった。
もう一度名前を尋ねると、彼女の目が細められた。
「なんでこうちゃんに教えないといけないわけ?ちょっと優しくしたくらいで勘違いしないでくれる?あたし達は一晩だけの関係でしょ?そんなんだから振られるんだよ」
温度を感じない声だった。
普段の俺なら怒りが湧いただろう。
だが、今の俺は違った。
彼女の瞳の奥にわずかな恐怖が見えたからだ。
きっと彼女は俺を怒らせてまで、帰らせたかったのだろう。
俺との約束を忘れているはずだが、拒絶されるのはなぜだ?
そう思うが、避けられている事実がある以上この場にいることが出来なかった。
今までの彼女の言動からきっともう二度と会ってくれないだろう。
好きだと自覚した今、彼女の言動の一つが胸に突き刺すような痛みを与える。
「……世話になったのだよ」
俺はコートとバックを持って家から出て行った。
彼女の部屋を出て、ぼんやりとした頭で家路へと向かう。
頭に浮かぶのは最後に見た彼女のは今にも泣きそうな傷ついた顔だった。
時間を見ようとポケットに入れている携帯を探した。
バッグの中を探してみたが、見つからない。
もしかしたら彼女の部屋に忘れたのかもしれない。
俺は大義名分を元に彼女の部屋へと踵を返し、全力で走った。
インターフォンを鳴らしても彼女は出てこない。
おかしい。俺が部屋を出てから十分も経っていないはずだ。
嫌な予感がし、俺は扉を壊す勢いで開けた。
「なにをしている!?」
机の影で彼女が血塗れで倒れていた。
彼女を抱き上げて脈を確認する。
弱弱しいが確かに生きていた。
安堵している暇はなかった。
床に落ちていた俺の携帯電話を拾うと救急車を呼んだ。
その間、俺は近くにあったタオルで左腕を縛り、止血する。
大学の講義が初めて活かされた。
彼女は救急車で病院へ運ばれ、入院することになった。
幸いなことに二、三日安静にしていれば退院できるそうだ。
目覚めた時に彼女が嫌がると思い、家族には連絡しなかった。
だが、『後数分遅ければ危なかった』と医者から聞かされ、俺は背筋が凍った。
彼女は死ぬつもりだったのだろうか。
本当は俺のことを覚えていて、約束を破ったから死のうとしたのではないか。
確証のない不安と後悔ばかりが浮かび、落ち着かない。
購買で紙コップと水を買い、彼女のベットの側にパイプ椅子を置き、何をするでもなく座っていた。
彼女の顔はベットよりも白く、もう二度と目覚めないような気さえする。
自分の携帯電話の鳴る音に意識が現実に引き戻された。
そこでようやく彼女の頬に手を伸ばしていたことに気づき、慌てて身を引き、携帯電話の電源を切った。
特定の場所を除置いては病院内での使用が禁止されているが、色々あったせいで電源を切るのを忘れていた。
俺は一体、何をしようとしたんだ!
これ以上何か失態を犯せば、嫌われるだろう!
無意識の行為に顔に熱が集まっていく。
赤くなっているだろう顔を隠しながら、病室から談話室へと移動した。
談話室は通話が許可されている。
電源を入れ、かけ直す。
相手は母で、俺の帰りが遅いことを心配する物だった。
今まで一度も誰かの家に泊まったがないからだろう。
酔いつぶれたために連絡もしなかった。
彼女のことをぼかしながら、何もないと嘘を吐いた。
だが、すぐにばれた。
彼女がいたこともばれていて、勘違いされた上に今日も帰ってこなくていいといわれてしまった。
もう別れたのだが……。
いいわけする暇もなく、電話を切られた。
納得いかないが、おかげで冷静になれた。
再び携帯電話の電源を切り、病室へと戻った。
扉越しに彼女の病室から人の声が聞こえた。
扉が開けて中に入ると医者と彼女が話していて、俺に気づくと二人の視線が俺に集まる。
医者と仲がいいように見えたから、元主治医なのかもしれない。
「もう起きて大丈夫なのか?」
まだ白い彼女の顔を覗きこむ。
彼女はまた俺のことを忘れているようで、不思議そうな顔で見上げてきた。
「お二人は知り合いですか?」
俺が不審そうな顔をしながら、医者が俺と彼女の両方に聞く。
「ちょっとした知り合いです」
誤解されているようだったから先に答えた。
「都環さん、覚えてますか?」
医者が彼女に確認を求めた。
彼女は俺の顔をじっと見て、思い出そうとしているようだった。
俺は冷めた気持ちでそれを見返した。
どうせお前はまた思い出さないのだろう?
「あ!こうちゃんかー!」
ようやく思い出した、という顔で彼女は笑った。
それだけで嬉しくなってしまう俺は単純なのだろう。
「……まさか忘れられているとは思わなかったのだよ」
本音を隠して、渋い顔で額を押さえた。
そうでもしなければまた彼女に触れたくなる。
「ごめんねー。あたし、覚えるより忘れるの得意だからさ」
罰の悪そうな顔でそんなことをいってのける。
「知っているのだよ」
『その程度の存在だ』といわれた気がして、浮かれていた気持ちが一気に落ち込んだ。
「仲がいいのですね」
医者はおかしそうに笑った。
その目が酷く優しくて意味が分からなかった。
「先生、点滴が終わったら帰っていいですかー?明日バイトなんですよ」
「ダメです。明道院さんがいなかったら危なかったんですよ。せめて一日だけでも体を休めてください」
医者ははっきりと断った。
当然だ。どれだけの血を流したと思っているのだ。
「えー。それは困りますー。あたしが休んだら皆困るんですよ」
「ダメです」
少し間があって彼女はいった。
「父に連絡しました?」
小さな弱弱しい声だった。
「まだです」
医者がそういうと、彼女の顔がくしゃりと歪んで、見る見るうちに目元に溜まった涙が一筋落ちた。
「ほんとに帰っちゃダメですか?明日本当に仕事なんです。入ったばかりだから休むわけにはいかないんですよ。お願いします。お金なら払いますから、あたしの家に帰らせて……」
彼女は子どものようにすすり泣き始めた。
泣くところを見たのは初めてで、どうしていいのわからない。
ただ胸が苦しい。
「都環さん、今夜だけです。ずっとここにいるわけではありませんよ。ご家族にも連絡致しません」
優しい声でなだめるように医者は彼女の頭を撫でた。
「……わかりました」
項垂れるように彼女は頷いた。
帰れないと諦めたのだろう。
「そろそろ私は失礼します。何かあったら枕元のナースコールでお呼びくださいね」
医者は一礼して、病室を出て行った。
後に残されたのは俺と彼女だけ。
気まずくなった雰囲気に何と声をかけていいのかわからずに黙り込むしかできない。
「見苦しいとこを見せたねー。こうちゃんはなんでここにいるの?」
彼女は強引に涙を拭いて、顔を上げた。
赤くなった目で無理に笑う姿は痛々しくて見ていられない。
だが、目を逸らせば彼女が傷つくことが容易に想像できたから、俺は向き合った。
「忘れ物をして戻ったらお前が血塗れで倒れていたのだよ。俺が帰った後に何があった?」
「大丈夫。強盗じゃないよ。全部自分でやったの。あれやると頭がすっきりするんだー。後片付けが大変なんだけどね」
「俺が聞きたいのはそういうことではないのだよ。いつもやっているのか?」
彼女ははぐらかそうとしたが、俺は許さなかった。
俺がどれだけ心配したか、怖かったか。
きっと彼女は気づかないんだろう。
気づいても気づかなかったふりをして、忘れるんだろう。
俺は忘れたくないし、忘れられたくもない。
「していないよ。多くても月に一回くらいかな?それにさくっと二、三回やる程度。今回はちょっと多くてこうちゃんに迷惑をかけちゃった。ほんとにごめんね?」
彼女は本当に申し訳なさそうに謝るが、反省はしてなかった。
「俺は怒っていないのだよ。それとこれはお前の財布と携帯と家の鍵だ」
嘘だ。本当は怒っている。
謝るくらいなら自分を傷つけるのをやめてくれ、と怒鳴りつけたい。
それが出来るなら彼女は最初からしない。
本音を笑顔で隠した彼女は俺からそれらを受け取った。
「よかったー。あ、こうちゃんにお願いがあるんだけど?購買でフルーツ系のジュース買ってきてくれない?ついでにお菓子も適当に」
「人使いが荒い奴なのだな」
図々しくも可愛らしいお願いに二つ返事を返してしまう。
「ごめん、ごめん。今、頼れるのこうちゃんしかいないからさー。はい、お金」
「それくらい奢るのだよ」
五千円を渡されたが、きっぱりと断った。
昨日から迷惑をかけたのだ。
これくらいは奢る。
すぐに俺は病室を後にした。
購買から帰ってきた俺が見たのは空になったベットだった。
机の上には三万円が置いてあった。
入院費のつもりだろう。
枕元のナースコールを押し、やって来た看護師に事情を説明し、院内を探してもらった。
どこに行ったのか察しはついている。
おそらく彼女は家に帰ったのだろう。
あんな血を流した体で、出歩くなんて正気とは思えない。
それほどまでに病院が嫌いなのか?
どんな状態になっても家族に知られたくないのか?
もし帰る途中でお前が倒れていたら、俺はどれほど悲しめばいいのだよ!
十分ほどで彼女の家に着いた。
こんなに全速力で走ったのは子供の頃以来で、中々息が整わない。
「帰っているのだろ!返事をしてくれ!」
俺は扉に向かって叫んだ。
他人の目など気にならなかった。
何度呼びかけても扉は開かなかった。
「……本当にいないのか?どこに行ったのだよ!」
そこまでいって気づいた。
本当に家に帰っているとは限らないではないか。
“死ぬつもりはなかった”と彼女はいっていない。
「まさか死んでいるんじゃないだろうな!?」
恐ろしい可能性に気づき、慌ててその場を後にする。
思い当たる場所などなく、町中を走り回った。
病院にも連絡したが、見つからなかったそうだ。
警察に頼ることも考えたが、母に否定された。
焦りだけが募り、日が暮れ、夜が明けても彼女は見つけられなかった。
もしかしたら家に戻っているのかもしれない。
一縷の希望を胸に彼女の家に向かった。
遠くから彼女の家のカーテンが閉まっているのが見えた。
俺が家を出る前にも、一度目に来た時には開いていた。
つまり彼女は俺が探し回っている間に家に帰ってきていたのだ。
「……よかった」
安堵から全身の力が抜けて、その場にしゃがみこんでしまう。
家に行って怒るつもりだったが、まだ朝早い。
夕方頃にまた訪れようと思い、その場を後にした。
しかし、その日以来彼女に会うことはなかった。
次の日から俺は彼女の家に毎日のように行った。
だが、避けられているのか、実際に会うことはない。
あれだけの血を流していたのだ。
まだ体調は元に戻っていないだろう。
せめてもと、薬の代わりに貧血用のサプリや健康食品を買っては、ノートの切れ端を一緒に入れたビニール袋をドアノブにかけて帰った。
余計なお世話なのかもしれない。
だが、心配だったし、お世話になった。
恩を返すにも俺にはそれくらいしかできない。
幸いにも袋は俺が行く頃にはいつも回収されていた。
今日で十五回目になる。
彼女はどういう気持ちで受け取っているのだろうか。
聞きたいが会えないから聞けない。
ノートの切れ端に書いた言葉はつまらない物ばかりだ。
誰かに向けて手紙を書いたことなど一度もなく、何を書けばいいのかわからず、気の利いた言葉などないそっけない物になってしまう。
「いつになったらお前に会えるのだろうか」
固く閉じた扉の前でポツリと独り言が漏れた。
扉の先から人の気配はない。
俺は溜め息を一つ吐いて、帰途につく。
今や何をしてても考えるのは、彼女のことばかりだ。
あの日、彼女の泣き顔が忘れられず、ふとした拍子に頭に浮かぶ。
彼女はずっとああして自分を我慢していたのだろうか?
泣いて、笑って、怒って、不機嫌になる。
彼女の表情は一秒たりとも同じではないと思えるほど変わる。
それは彼女の精神が不安だからだろうか。
だが、俺はそんな彼女が面白くて、愛おしいと思う。
“助けて”と彼女がいうのなら俺は迷いなく助ける。
いや彼女がそれを望まなくても手を伸ばしてしまうだろう。
昔、彼女が俺に手を差し伸べてくれたように。
それから何日が経っただろ。
再会して一ヶ月近くが過ぎても俺と彼女の変なやり取りは続いていた。
それでも彼女は俺を避け続けた。
今日は大学の講義が長引いた上に、教授から雑用を頼まれて帰りが遅くなってしまった。
薬局でいつもの物を買い、彼女の家に向かう。
途中で聞き覚えのある声がして、振り返ると彼女とよく似た背格好の女が笑いながら歩いていた。
声をかけるか悩んだが、気のせいだと思うことにした。
だが、彼女のドアノブには昨日のビニール袋がぶら下がっていた。
偶然、俺が彼女よりも早く来たのかもしれない。
そう思いたかったが、嫌な予感がした。
今日のビニール袋を上にかけて、俺は来た道を戻った。
女が進んだ先には確か……自殺の名所となっている立ち入り禁止のビルがある。
詳しい場所は知らないが、そのビルの屋上から何人も飛び降り自殺を行っているそうだ。
夜空を見上げながら女の姿を探す。
一つのビルで包帯が風に吹かれて揺れていた。
嫌な予感が当たってしまった。
俺の存在に気づく前に引き止めなくては。
立ち入り禁止のロープを潜り、階段を駆け上った。
朽ちかけた屋上の扉を開けると、彼女が低い手すりを乗り越えて、後ろ手に手すりを掴んでわずかな縁に立っていた。
少し赤く滲んだ左腕の包帯がひらひらと夜に舞っている。
俺は足音を消して彼女に近づいて行く。
後数十メートルで彼女に手が届く。
「あーらら、残念」
何の感情のない声で彼女はそういって、俺の目の前で両手を離して、前へ体を倒した。
俺は自分でも驚くような速さで残りの距離を詰め、彼女の左腕を掴んだ。
「なんでここにいるのー?」
呑気な声が目の前から聞こえた。
反対に俺は完全に息が上がっている。
あと数秒遅かったら彼女は死んでいただろう。
遅れて冷や汗がどっと出てきた。
「それは俺のセリフなのだよ。ここがどんな場所か知っているのか?」
低い手すりを間に挟み、俺達は向かい合っていた。
「知ってるよー。むしろーこの状況で知らないわけないじゃん。それより腕を離してくれない?チョー痛いんだけど?」
いつかと同じように彼女は俺を拒絶する。
その時、俺は彼女から逃げた。
きっと俺は彼女と向き合うことが怖かったのだろう。
また拒絶されるのが怖かった。
「嫌だ。絶対に放さないのだよ」
だが今はそれよりも怖いことがあると知った。
手に感じる熱は不安定でいつなくなるかわからない。
無意識に俺は左腕を握る手に力をこめる。
「なんであたしを引き止めるの?こうちゃんには関係ないでしょ?」
確かに関係ない。全部、俺のわがままだ。
「まだお前にお礼をしていないのだよ!」
「お礼ってこうちゃんはたくさん栄養食品をくれたじゃん。それでもう十分だよ」
あの程度のことはお前がくれたものに比べたらお礼にもならない。
「俺はあの日、居酒屋でお前に救われたのだよ!」
「それは勘違いだよ。あの日、こうちゃんの近くにあたししかいなくて、ちょーっとだけ優しくされたから勘違いしちゃったんだよ。ほら釣り堀?効果ってやつ?だからあの日にあたしがいなくてもこうちゃんなら誰かに慰めてもらったはずだよ。例えば先に帰った友達とかさー」
釣り堀?なぜこのタイミングでその言葉が出てくるのだ。
いやこの口調は素で間違えているのか。
「吊り橋といいたいのか?意味が全く違うぞ。お前だったから俺は救われた。お前の言葉だけが俺を慰めたのだよ!お前がいなかったらその場所に立っていたのは俺だった……」
あの日、俺は確かに絶望していた。
お前はそのくらいでって笑うかもしれない。
だが、お前に会えなかったら俺は今でも絶望したままだっただろう。
「こうちゃんは自殺するような弱い人じゃないよ」
彼女は酷く優しい声で俺を突き放した。
「……お前が俺を信頼できないのはわかったのだよ」
「信頼も何もないよ。だって今からあたしは死ぬんだし」
彼女は当然のようにいう。
今さらだが俺との約束を完全に忘れているようだ。
「俺に幸せになれとお前はいったのだよ。だったらお前だって幸せになってもいいだろう?」
どうしてそこまで俺を信用してくれないのだろう。
こんなにお前を助けたいと思っているのに。
「あたしは幸せになんてなりたくない」
今、彼女はどんな気持ちでそういったのだろうか。
幸せになりたくないと思う人間がどうして幸せになれというのだ。
お前は昔から嘘が下手だ。
「俺がお前を幸せにしたいんだ」
そうだ。他でもない俺がお前を幸せにしたい。
それくらいお前が好きなんだ。
「ずっとこうちゃんを騙してたのに?」
彼女は悪女のような声で俺に問いかけた。
騙していた?何のことだ?
「騙していただと……?どういう意味だ?」
「あたしは五股した上にあんたを振った最低な女の姉なんだよ」
腕が動揺で震える。
そうだった。
俺は都環ひかりと付き合っていた。
だがなぜお前がそれを知っている?
酔って勢いで名前もいったのか?
「……お前はどういうつもりで俺に近づいた?」
「理由なんて好奇心と暇潰しだよ。妹のことを何も知らないで、付き合って馬鹿みたいに遊ばれて捨てられた男を見たかったの」
すぐに嘘だとわかった。
ただ嘘をいってまで俺を遠ざけようとしたことがショックで掴む手の力が抜けた。
彼女の治りかけの傷はとっくに開いていて、流れる血が潤滑剤になって、全力で降った彼女の左腕は俺の手をするりと抜けた。
勢いが強かったからか、体は反転し、背中から地面に向かって落ちていく。
「ゆかちゃん!」
俺は動揺して、彼女の昔のあだ名を読んでしまった。
彼女の目が驚きで見開かれる。
「こう……ちゃん?」
彼女の、紫の目がはっきりと俺を見てそう呼んだ。
俺は柵から身を乗り出して叫ぶ。
「手を出せ!」
俺の言葉に紫は反射的に右手を伸ばす。
その手を俺は必死に握りしめた。
「……くっ!」
紫は軽い。
だが片手だけで持ち上げるほど軽いわけではない。
せいぜい落ちないように支えるだけだ。
「離して」
顔を歪めた彼女が感情を押し殺したような口調でそういった。
「嫌なのだよ。絶対に離さないといっただろう!」
泣きそうな顔をしているお前を突き放せるわけがない。
「やめて……もうやめてよ!このままじゃ、こうちゃんも死んじゃうじゃん!こうちゃんが死んだらどれだけの人が悲しむと思ってんの!?あたしのことなんて見捨てればいいじゃん!なんであたしを助けようとするのよ!」
泣きそうな声で紫は俺に怒鳴った。
いつか聞いたような声だ。
それの答えは一つしかない。
「俺がお前を好きだからだ!」
彼女は顔を俯けた。
俺からは頭しか見えなくなる。
「……いつから?」
「八歳の頃からなのだよ。居酒屋で再会するまで自覚はなかったが」
十年以上も気づかなかった片思い。
もしかしたら一生気がつかなかったかもしれない。
彼女は何かが壊れたような乾いた笑い声を上げた。
「ごめんね。あたしは今までこうちゃんのこと忘れてた。だけど手紙と健康食品をくれたこと嬉しかったよ。優しくされて嬉しかった」
彼女がゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた顔は本当に嬉しそうに笑っていた。
「ねえ、こうちゃん。あたし、こうちゃんに助けてっていってもいい?」
ずっと欲しかった言葉。
やっと紫と向き合えた。
いや向き合うことを許された。
「もちろんなのだよ」
俺は紫へ優しく笑いかけた。
もう何があっても紫から逃げない。
紫が逃げた時はまた追いかけて、こうして手を掴んで引き止める。
まずは、一生をかけて幸せになりたくないと嘘を吐いた彼女を幸せにするとしよう。
煌は思い込みの激しい優等生です(笑)
ちなみに医大生です。
二人のその後に意外(?)なあの人達が登場します。