06 困惑の王太子殿下
深夜。眠っているところを侍女のネリッサに起こされた。静かに服を着替えてロキスタを待っていると、控えめなノックが聞こえた。
入ってきたのはオーラブだった。
「あれ、ロキスタ様ではないんですか」
するとオーラブはむっとして、ぐいぐいと彼女の腕を引っ張っていった。廊下を歩きながら、エリーザは痛い、と何度も小声で言った。
「殿下っ……!」
すると階段の踊り場で、オーラブがぴたりと止まった。あまりに早足で歩いて、エリーザは息があがっている。ネリッサは追いつけなかったようだ。
「そんなに……」
「え?」
ぽつりと呟いたオーラブが何と言ったか聞こえず、エリーザは聞き返した。オーラブは強く握っていた手を少し緩め、背を見せたまま、喋った。
「そんなに、ロキの方がいいのか?」
静かな空間に響く声。聞いたことがないくらい落ち着いた、しっとりした声だった。
「いえ……ただ、ロキスタ様がお迎えにということでしたので、驚いて……。殿下、わざわざありがとうございます」
努めて明るく聞こえるように言った。もしかしたら王太子殿下は何かに怒っていらっしゃるのかもしれない、そう思うと怖かった。
少し何かを考え、オーラブはまた歩き出した。今度はエリーザの歩幅に合わせるようにして歩く。だが、彼はそれ以降は舞踏室に着くまで無言だった。
舞踏室にはすでにロキスタが待っていた。ネリッサもようやく追い付き、隅の方で息を切らしている。
「聞いたところによりますと、ティファナ=オ=リュデリッツ嬢とリュデリッツ公爵が舞踏会の準備をなさっているとか。近いうちに案内の手紙が来ると思いますが」
ロキスタが言うと、オーラブはその令嬢の名前に嫌そうな顔をした。エリーザもあまり良い顔は出来ない。
「ティファナ=オ=リュデリッツ……か。公爵家だからな、出席はせねばなるまい」
面倒くさそうにオーラブが言う。しかし、近いうちにとなれば、もしかしたらエリーザが出席せねばならないかもしれない。
「では、時間が惜しいですから始めますか。ワルツは……当然出来ますよね。どの程度か見させていただきます」
そう言ってロキスタはエリーザに手を差し伸べた。エリーザが手をとろうとすると、彼女の腕をオーラブが握った。エリーザもロキスタもきょとんとする。
「殿下、手をとらねばダンスは始まりませんよ」
ロキスタが言うと、オーラブはエリーザをぐいっと引き寄せた。
「構わない。どうせ相手は俺だから、俺がする方がいいだろう。どの程度か『見る』んだろ?」
呆気にとられていたが、ロキスタはにやっと笑った。唇が僅かに動く。エリーザには何と言ったか分からなかったが、オーラブには読み取れた。
―――ガキだな。自分で言っておきながら。
彼は確かにそう言った。だがオーラブは何も言わず、エリーザの手をとりなおした。
「うーん、ステップは大丈夫ですよ。ただ、体が堅いんだと思います。もっと力を抜いて、そう、もっと。緊張しすぎですよ」
ロキスタがエリーザに指示を飛ばす。彼女も必死でそれに従った。
なんとか様になった頃、ロキスタがオーラブの手をとった。
「最近椅子に座ってばかりでお体が固まっていらっしゃるのですか。あなたもガチガチでしたよ」
そんなことあるか、とオーラブが文句を言う。すると宰相は自分の腰にオーラブの手を当てさせ、女役のステップを踏んだ。オーラブは男役のステップで、まだ体が堅いとロキスタに言われている。
「でもな、ロキ」
なんでしょう、とロキスタが答える。それでも二人はステップを止めない。エリーザとネリッサは半ばそれに見とれていた。
「俺はお前みたいなデカブツな女は見たことないし、相手にもしない」
途端にロキスタはオーラブのこめかみを、両側から拳でぐりぐりと押した。オーラブが悲鳴をあげる。
たしかにロキスタは背が高い。オーラブもそこそこ高い方なのだが、彼より頭一つほど大きかった。かといってムキムキではない。ひょろっとした柳でもない。すらっとした、しなやかな体だ。鍛え上げられた猟犬のようだ。
「せっかく睡眠時間を削ってあなたまでも指導して差し上げようという忠臣に、なんという言い草ですか?眠くて加減が出来なくて、このままあなたの頭を割るかもしれませんねえ」
彼はずっとこめかみを押し続けていた。
「ごめんなさい。もうしません、宰相閣下」
痛みに涙を滲ませ、オーラブが言った。ようやく宰相の手が離れる。その次に王太子の目に入ったのは、俯くエリーザの姿だった。
どうした、と慌てて声をかける。体調でも悪いのかと訊ねる。すると、俯いたまま、彼女は答えた。
「あの……ご迷惑、ですよね。今だってお二方は疲れていらっしゃるのに……」
ダンスなら昼間部屋にいる間に、ネリッサにでも教えてもらいますと彼女が言った。すると、オーラブが微笑んだ。
「本当に迷惑なら、最初からこんなこと言わない。俺がいいって言ってるんだ」
でも、とエリーザが口を開きかけると、ロキスタも微笑んだ。
「迷惑であれば、私も引き受けたりはしませんよ」
少しうるんだ瞳を向け、エリーザはにこっと笑った。ではあともう一度だけやってから終わりますか、とロキスタが促す。
再びオーラブはエリーザの手をとり、ロキスタが拍子を刻んだ。
「だいぶ上手くなりましたよ。大丈夫です、自信を持って」
励ますロキスタの言葉に、オーラブが続けた。
「そうだぞ。王太子妃を謗ることは、この俺を謗るに等しいことだからな。ダンスを失敗したくらいで非難する輩は、足を折ってやるから」
冗談ですよね、とエリーザが聞くと、オーラブは無言で目を反らした。
……真面目にこれですか、王太子殿下!?