01 連れ去られた令嬢
「おはようございます、アメリア様。お目覚めの時間でございます」
王宮の一室で、黒髪の侍女がカーテンを開けながら声をかける。柔らかな朝の光が差し込む。その明るさに彼女は目を細めた。そして、静かなままのベッドの方へ顔を向ける。
「アメリア様……?」
失礼します、と断ってから、彼女は枕元へ行った。次の瞬間、彼女は憐れなまでに蒼白な顔をした。
「だ、誰かーっ!アメリア様がーっ!!」
アンハルト子爵領の広い野原に、一人の娘がいた。名をエリーザ=フォン=アンハルトという。子爵の一人娘だ。彼女は手に花で作られた冠を持っていた。
「まったく、マーリンったら何してるのかしら」
彼女はひたすら家に閉じ籠るのも飽きて、今日は久しぶりに散歩に出かけたところだった。馬車を降り、侍女のマーリンだけを連れて息抜きにぶらぶらしていたのだ。たまにはこんなのも悪くはない。別に一日中閉じ籠るのが嫌いなわけではない。仮にも貴族令嬢とあらば、簡単に外出も出来ないし、何より過保護な親がべったりなのだ。いい加減子離れしてほしいほどに。
ひと休みした丘にエリーザは残り、マーリンは近くの川に水を汲みに行ったところだった。しかし、少しばかり遅い気がする。まあ彼女のことだから、川の魚に見とれてぼうっとしていたなんてこともある。迷子にはなっていないだろう。
栗色の前髪がさらさらと風に揺れる。下級貴族であれ、この髪の美しさと翡翠の瞳の愛らしさは両親の宝だといつも言われていた。
あまりに午後の陽気が気持ちよくて、少しうとうとしかけた時、なんだかひどくがやがやしてきた。ふと目を開けると、目の前に見知らぬ男がいた。金の髪、青い瞳。艶やかな顔立ち。不躾にも、彼女を舐めるように見ている。
「あ、あの……」
恥ずかしさと恐ろしさで声が出ない。そんなエリーザを安心させるように微笑むと、彼は後ろに向かって言った。
「ヘッセン殿、こちらです」
すると、かなり遠くから馬に乗った貴族の男が近付いてきた。馬から降り、エリーザの方へ歩み寄る。彼もまた金の髪に青い瞳だ。しかし最初の男ほどは艶やかな顔立ちではなく、どちらかというと大人びた雰囲気が漂う。
彼はエリーザの顔を見ると、頷いた後、彼女の前に跪いた。
「あの……何を……!?」
そんなエリーザの言葉すら気に止めず、彼は言った。
「王太子妃殿下、宮殿にお戻りください」
「……はい?」
エリーザはきょとんとしたまま彼を見た。しかしヘッセンと呼ばれた男は馬車を手早く用意させ、彼女に乗るように促した。
「いや!あの!違うんです!」
焦って手を振るエリーザに、ヘッセンは困ったような表情を見せた。
「言い訳は聞きませんからね。毎回捜すこちらの身にもなってください。早急に宮殿にお戻りあるようにとの王太子殿下からの仰せです。まったく……なんでこんな田舎にわざわざお逃げになるんです」
彼はエリーザを馬車に押し込み、外から鍵を掛けた。
「違うっ……ほんとに、私は王太子妃なんかじゃ……!」
それにもヘッセンは困惑顔で返事をした。
「お辛いのはわかりますが、とりあえず戻りましょう。王太子殿下がお待ちですので」
そう言うと彼は馬車を出した。ガラガラという音と共に、懐かしい風景が飛び去る。
ああ、何がなんだか分からない……。王太子妃殿下?何のこと?それに、マーリンが、両親がどんなに心配することか……。これって、完璧な誘拐じゃあないの……。
馬車から飛び降りることも叶わず、エリーザはため息をついた。
辺りが真っ暗になり、もはや日付も変わったであろうという頃に着いた所には立派な宮殿が建っていた。馬車は宮殿の裏口にこっそりとつけられ、エリーザは降ろされた。すると、黒髪の侍女らしき人物が駆け寄ってきた。
「アメリア様!ああ、ご無事で……どんなに心配いたしましたことか!」
「いや、あの、だからっ……!」
間違われていることよりも、宮殿の大きさに圧倒されそうになり、エリーザはしどろもどろになった。
「まああ、こんな粗末なお召し物に!さあ、王太子妃殿下、お召し替えいたしましょう。もう遅いですが、王太子殿下がお待ちです。どうぞお会いになってさしあげてください」
粗末な……!?この普段着を、今この私といくらも変わらない年齢の娘は粗末だと……!
エリーザは目眩を覚えた。そして彼女はそのまま人形のように一室へ連れていかれた。それからその娘にドレスを剥ぎ取られた上に丁寧に体を洗われ、真新しく上質な、さりとて派手ではないドレスを着せられ、簡単に髪を結った後、野原で出会ったヘッセンという男に引き渡された。
「あの、ヘッセン様!」
廊下を歩く途中、エリーザは思いきって声をかけた。すると彼はぴたりと止まり、疑惑に満ちた顔つきになった。
「いけません、アメリア様。私に敬称などつけてはいけません。あなたはもはやプロヴィンド伯爵の身分から、王后陛下に次いで二番目に地位の高いお方になったのですから。どんなことがあろうとも、自信をお持ちください」
「で、ですから!私は人違いだと何度も―――」
彼はエリーザの声を無視して、扉をノックした。中から若い男の返事がする。
「王太子殿下がご心配しておられます。ご挨拶なさってください」
そう言われて押し込まれた部屋には、椅子に座ってカップを片手に持った、焦げ茶の艶やかな髪にダークグレーの瞳の美しい青年がいた。しかし彼はエリーザを見ると、カップを取り落とした。薄茶色の液体が絨毯に染み込む。ふわっとした心地よい薫りは紅茶だろう。
それにしても、もったいない……高そうな茶葉に、高そうな絨毯に……。
そう思っていると、心なしか青ざめた青年が、はっきりと言った。
「……それ、誰だ!?」
エリーザが耳にした最初の王太子殿下の言葉はそれだった。