秘密
そろそろ邸が見える頃。
近くなるにつれ男の足は遅くなり、終いには止まってしまった。
仏頂面を上に向ければ、痛い程の真夏の陽射しが突き刺さって来る。
夏の盛りも、終りに近づいている筈の昼下がり。
人気の無い土手の道、川の流れる音と蝉時雨の中に男の溜め息が混ざる。
秋津が他州との商売の為の、荷運びの護衛の仕事について五年。
始めの頃はあちこち見て回るのが楽しくとも、心のどこかで早く帰りたいと思ったもの。
もう直ぐ邸に着くとなれば、やはり嬉しさが込み上げた記憶。
それが何時からか、気の重いものへとすり替わってしまった。
帰りたくない訳ではない、帰りたい気持ちは変わらない。
ならば何故、足が止まるのか。
男は立ち止まったまま前方を睨み付け、己の胸中を探る。
陽射しの熱に、額に浮かぶ汗が一筋流れ落ちた頃。
男の顔は苦痛に歪む。
本当は探るまでも無く、己は答えを知っているのだ。
ただ認めたくは無く、気づきたくも無いだけ。
会うのが、顔を見るのが恐ろしい等と……
前方を見据えていた男の目が、何かを堪える様にきつく閉ざされた。
細い吐息をもらし目を開ければ、前方の陽炎の中に人影が揺れた。
男は姿を確認しようと、目を細めつつ歩き出す。
程なくして、相手から陽気な声がかけられた。
「よう色男、随分と久し振りじゃないかえ?」
「ヤブ医者かよ…… 家に用だったのか?」
邸の方角からやって来たのは、流れの医者でありながら居座り続けて六年目の光流。
「あぁ、月一の診察を嫌がる嬢ちゃんに灸をすえて来たところさ。
十四にもなって医者嫌いとは、困ったもんだ」
カラカラと笑う女の言葉に、男は大袈裟に溜め息をついて見せる。
「医者が嫌いじゃなくて、あんたが嫌いじゃないのか?」
「相変わらず無礼な奴だ」
挑発的に口の端を上げる男、女は鼻を鳴らしたが。
何かを思い出したように悪戯気な笑みを浮かべると、男の目を真っ直ぐに捕えた。
「最近は滅多に帰って来ないと、邸の者達がぼやいていたが…… どういう訳だい?」
「回る州が多いからな、戻るのが面倒なだけだ」
「ふん? あちこちの里で白粉の強敵相手に連勝らしいじゃないか、ここまで噂が轟いてるよ」
男は思いがけない不意打ちを食らい、目を見開き絶句した。
里とは色街の事。
この国では合法ではあるが、他の職種よりも厳しい条件が定められている。
違法では無いが、悪所と見られるのは仕方のない事で。
必然的に、店を構えるのが町や里から離れた場所になる。
人里離れた場所という言い回しから、里と呼ばれる様になったようだ。
「流石に若いねぇ、色男」
してやったりとニタリと笑う女を見下ろし、男の顔は渋くなる。
「……誰がそんな話しをっ」
「お前も二十三だろう? そろそろ愛方を見つけて腰を据えたらどうだい」
からかいの笑みを崩さぬ女に、漸く余裕を取り戻した男が仕返しを口にする。
「三十路近くでまだ独り身のあんたが先じゃねぇのか?
あぁ、包丁を持たせても酒の肴しか作れん女じゃ無理か」
「つくづく無礼な奴だ」
女は豪快に笑い男の肩を一つ叩くと、さっさと歩み去って行く。
軽く振り返り、その背中を見送った男は。
深い溜め息を吐き出し、何かを思い切るように顔を前方に戻すと。
今度こそ、邸に向かって歩き出した。
陽射しの眩しさに、俯き加減で歩いていた男は。
バシャ……
と、涼しげな水音に顔を上げた。
慣れ親しんだ門前に、打ち水をする小柄な姿を視界に捕え。
男の心臓がドクリと跳ねる。
此方に気づいたのか、顔を上げたその者は艶やかな笑みを浮かべ。
嬉しげに駆け寄って来る。
「秋さん! お帰りなさい」
その弾む声音に、男の息が止まった。
「冬…… ただいま、そこでヤブに会ったぞ、診察をサボったらしいな?」
「元気だから、診てもらう必要ないと思うのです」
久し振りだと言うに、開口一番に発せられた男の言葉に。
少女は頬を膨らませて睨む。
その様子を喉奥で笑う男は右手を伸ばし、少女の額に触れ返す手の甲で膨れる頬を撫でる。
「……熱はねぇな」
「ありません!」
床に縛られるのを嫌がり、どれほど熱が出ようと決して口にしない少女。
おかげで会う度に、こうして熱を計る事がすっかり男の身に馴染んでいた。
「お爺さまが怒ってますよ、全然帰って来ないって」
「真面目に仕事してるってぇのに、怒られてたまるか」
男は笑い飛ばすと、少女の頭を軽く撫でてから邸の中へと歩き出す。
打ち水の途中な為、その場に止まった少女の視線が背中に熱い。
――いつも通りに。
無意識に、そう繰り返し己に言い聞かせている事に気づき。
男は秀眉を寄せた。
会うのが恐ろしかった、顔を見たくないとさえ思った。
しかしこうして向き合えば、どうしようもなく会いたかったのだと思い知らされる。
制御の効かぬ想い……
男の口から、苦しげな吐息がもれた。
「やっと帰ったか、糸の切れた凧じゃあるまいに」
居間に顔を出せば、凄みのある声で威嚇され男は渋面を作る。
「……まだくたばってなかったのかよ、まるで妖怪だな」
既に九十は過ぎた筈なのに、長の変わらぬ存在感に悪態をつくと。
男は部屋の入口近くに腰を下ろした。
「久し振りに顔を合わせていの一番がその台詞とは、随分じゃねぇか?」
「ただいま戻りました」
「相変わらず可愛げがねぇな、秋津よ」
豪快に笑う長の言葉に、男は苦笑で応えた。
「皇女に打ち水をさせるとは、他の州が聞いたら腰を抜かすぞ」
「何言ってやがる、普通の子供と変わらず家族として育てるべきと言ったのは、お前だろうが?」
「まさか、本気でそうするとはな……」
昔、確かに己が言ったのだ。
何ものにも執着を見せない子供に、大切な人や物を与えてやるには。
その方が良いと。
あの頃、己が危惧したのは冬音の感情のみだった。
必ず出て行くのに、ここに大切なものを持てば辛くなるのではと……
しかし今、全く予想外の感情に苛まれているのは己の方だった。
必ず出て行く、それに耐えられないの少女では無くむしろ……
「おい秋津、逃げてちゃあ答えは出ねぇぞ。
正しい答えを出したいなら、誤魔化さず認めるのが先だぜ?」
己の葛藤を見抜いているのかいないのか、意味あり気な長の言葉に息を飲む。
無表情を装う男を見据え、長は笑いながら言葉を続ける。
「里通いは程々にしとけ、てこった」
「……誰がばら撒いてんだ? その話」
苦い声で呻く男、長はそれには答えず喉奥で笑っていた。
今も昔もとにかく手が掛かる、そういう子ほど可愛いとよく聞くが。
子煩悩な輩達に囲まれて育った割に、お世辞にも子供好きとは言えぬ己が。
世話を焼いて来たのだから、事実かも知れない。
確かに好ましいと思っていた、だからこそ可愛がって来た。
しかしそれは家族として、妹に抱くような感情だった筈。
それがある日唐突に、色を変えていた事に気づいてしまった。
好ましく思うのは、家族としてではなく“女”としてなのだと。
一体、何時からそう感じていたのやら幾ら考えても答えは出ない。
自室の前の縁側、暑さのため開け放たれたままの雨戸。
遮る物も無くそこに腰掛けた男に、中天を過ぎた一つ目の月明かりが降り注いでいる。
どうもがいても、捻じ伏せる事の出来ぬ胸中のざわめきに。
寝付けぬ男は溜め息をついた。
本当は里にでも出掛けようかと思っていた、だが長に釘を刺された事で躊躇してしまった。
――いや、違う。
男は無意識に、ゆるく首を振る。
里の女達は手強い、だから気が紛れる。
男は一夜の夢を求めて里へ行くが、閨が叶うかは女次第。
男が強引に事を求めれば、たちまち役所に突き出されてしまう。
女達は鍛えた手練手管で身をかわし、男達はあの手この手で口説き落とす。
どちらかと言えば、そんな駆引きを楽しむ場所。
本来なら泥々とした修羅場になりそうだが、男女の間に“商売”の二文字が入れば。
後腐れの無いお遊びになる。
そんな手強い女達でも、秋津は負けた事が無かった。
おかげで、欲を吐き出す相手に困る事はない。
女を落とす遊びに興じれば、忘れていられる……
まだ子供、それどころか決して手に入らぬ相手。
そんな女を焦がれてどうする。
何度も己に言い聞かせ、心の奥底に封じ込め消し去りたかった。
ここへ帰る時、それが出来ていると思っていた。
しかし一目見た途端、消した筈の思いは種火となって燻っていただけと思い知らされる。
そんな心をもてあまし、気晴らしに行こうとしたのを押し止めたのは。
長の言葉では無く、己の本心
――違う!!
と、痛いほど心が叫ぶのだ。
瞳の色、髪の一筋、指先の仕草、抱く為に口説く女達は皆。
何処かに少女の面影を宿す者ばかり。
――代わりなど居ない!!
と、心が悲鳴を上げ男はきつく目を閉じた。
「秋さん?」
不意の呼び掛けに、物思いに落ちていた男はギシリと固まる。
何とか動揺を押し殺し、ゆっくりと声の主へと振り返った。
「冬、まだ起きてたのか?」
月明かりを背負う男の表情は見えず、少女は小首を傾げて見せる。
「寝てましたけど、目が覚めたの」
「だからって、フラフラ歩き回るな」
言葉と共に男のくぐもった笑いが聞こえ、安堵したように笑みを浮かべた少女が問いかけた。
「秋さんは出掛けなかったの?」
「帰って来たばかりだぞ、行くとこはねぇさ」
「里へは行かなかったの?」
「……」
まさか少女にまで言われるとは思ってもみず、脱力した男の肩が落ちる。
「……誰がばら撒いてるか知らんが、行かねぇよ」
男の一歩後方に座った少女、その白い面は月明かりに照らされ淡く輝いて見えた。
気の抜けた様な男の言葉に、少女は花の顔を僅かに伏せる。
「里には、綺麗な方が沢山いるのでしょう?」
常と変らぬ声音ながら、少女の呟きに男は息を飲んだ。
今の言葉に、ほんの僅かだが悋気が含まれていなかったか?
思わず確かめる様に、まじまじと少女の顔を覗き込む男。
押さえ付けている胸中のざわめきが、漏れ出そうと暴れ始める。
「冬? お前……」
堪えきれずにこぼれた男の呟き、確認したいと心が喚いていた。
しかし少女は悪戯気な笑みを浮かべ、男の目を真っ直ぐに見詰めているだけ。
――気のせいか?
そう結論付けて、男は途端に馬鹿ばかしさを感じた。
何と都合の良い疑問を持ったものか、少女にとって己は家族であり兄なのだ。
悋気を持つなどあり得ない。
「馬鹿言ってねぇで部屋へ戻れ、そしてさっさと寝ろ」
男は誤魔化すように少女の頭に右手を伸ばし、少し乱暴気味に撫でながら立ち上がる。
「眠くないのに」
男に促され渋々と立ち上がった少女は、不満げに頬を膨らませた。
「とにかくチョロチョロするな、そして寝ろ」
男はそう言って少女を部屋へ帰らせ、己も自室に入り戸を閉めた。
月明かりの遮られた暗闇の中、ギシリと奥歯を噛み締める音がする。
男は戸を閉めたまま立ち尽くし、きつく握った右の拳を震わせていた。
まだ十四、もう十四……
まだあどけなく幼さを残す少女は、純粋な心根もそのままだ。
己が抱いている様な、生々しい感情とは縁遠い。
まだ十四、もう十四……
あと数年もすれば、降るように輿入れ話がやって来るだろう。
それは即ち、あと数年で少女はここを出て行くという事。
その時、己はどうするのか。
その時、今のこの想いを捨て去ることが出来ているだろうか。
まだ十四、もう十四……
少女の髪に触れた右手、残る感触の熱さに握り込む力は強くなる。
時が止まった様に佇み続ける男、やがてその握り締めた拳から。
指の間を伝い赤い滴が一筋、流れ落ちて行った。
.