無心
「ぎぃやあぁぁああぁ!?」
「……っ」
複数の男女によるけたたましい絶叫に、少年の苦痛の呻きはかき消された。
春先の麗らかな午後、織家の庭にある立派な枝ぶりの柿木。
その周りで、蜂の巣をつついた様な騒ぎが起きていた。
「いけない、頭をぶつけたかしら?」
「医者、医者を呼べーー!!」
「部屋に運んだ方が……」
「いや、動かすのは不味くないか?」
等々、騒ぐ大人達。
それを聞きながら、木の側で大の字に寝そべった少年は渋い声で呟いてみる。
「……俺は良いのかよ」
やはりこの呟きも、誰かに届く事は無かった。
皇女がやって来て三日。
たったそれだけの間で、この様な騒ぎは日常茶飯事となっていた。
初日はやはり疲れていたのか直ぐ休んでしまい、静かだった子供。
翌日の朝早く、供をして来た者達が帰り。
そこからが目まぐるしい騒ぎの始まり。
蝶が飛んでいると見れば追いかけ、蟻の行列を見ればどこまでも着いて行き。
花の香りに気づけば、元を探しに飛び出して行く子供。
見るもの聞くものの全てが珍しい様で、好奇心のまま飛び回り。
ちょっと目を離せば姿が見えなくなるため、同じ年頃の子供と遊ばせるのは無理と。
二日目の昼には皆が悟ったほど。
仕事があるため四六時中、見ている訳にもいかぬ大人達に代わり。
秋津、夏月、睦春の三人が、皇女のお目付け役を仰せつかったのは昨日の夜。
そして今日も、朝からはしゃぐ子供を宥めたり叱ったり。
しかし一向に落ち着かない子供はほんの少しの隙をついて、とうとう柿木によじ登る始末。
逸早く、秋津がそれに気づいたが時既に遅しで。
駆けつけた時にはもう、少年が見上げる高さまで登っていた。
――それ以上登るな!!
と、叫ぶ間もあればこそ。
足を滑らせたのか小さな身体がグラリと傾ぎ、真っ逆さまに落ちて来る。
「あぶ……っ!!」
ドスン!!
という音を聞きつけ、集まって来た大人達が目にしたのは。
仰向けに倒れた少年と、その腹の上で気を失っている子供。
そして始まる大騒ぎ。
子供を受け止めはしたが、体勢を崩し背中と腰を強かに地面に打ち付けた秋津。
大人達が右往左往する振動で、鈍い痛みが身体中を駆け巡る。
制止する声も出せず、顔を顰めて耐える少年の腹の上で。
小さな身体が身動ぎした。
「……っ、気がついたか?」
子供はポカンとした顔を上げ、ゆるりと周りを見回した後。
少年の渋面を見下ろし、視線を止める。
「……秋さん、地面で寝てたら怒られるよ?」
「誰のせいだ!!」
見当違いの子供の言葉に、怒鳴り返しながら身を起こす秋津。
不機嫌ながらも腹の上の子供が転がり落ちぬよう、支えてやる事は忘れない。
「チビは無事だから落ち着け!!」
更に、狼狽える大人達を叱りつけその場を解散させると。
子供を抱えて立ち上がる。
「痛いところはねぇか?」
歩き出しながら問いかければ、小首を傾げた子供が眉を顰めた。
「ここ痛い」
小さな手が押さえたのは、額の右横辺り。
少年が子供を片腕に抱き直し、空いた手で触れてみれば。
そこは少し熱を持ち、腫れている様だ。
「落ちる時にぶつけたな、瘤になるぞ」
精々怖い顔を作り睨みを効かせる少年、子供は居心地悪そうに俯いてしまう。
「木に登ったら危ないと、行ってあったよな?」
「……ごめんなさい」
「今度やったら尻叩きだ」
少年の言葉に勢い良く顔を上げると、子供は力一杯首を左右に振る。
「もうしないよ?」
よほど嫌なのか。
青くなる子供の必死さに、少年は堪えきれず吹き出した。
「それでこの様か、情けねぇな」
「いっ……っ」
昼の木登り騒ぎの話しを聞き終え、豪快に笑い出した長は。
わざわざ、強かに打ち付けた秋津の背を叩いてやる。
何も無くとも倒されそうな力で叩かれ、背中に痣を作った少年は。
飛び出しそうになった苦痛の悲鳴を、何とか寸でで噛み殺す。
夜も更けて、漸くやんちゃな子供が静かになった時間。
お目付け役の三人と長が、一日の騒ぎを肴に茶飲み話をしていた。
「でも秋は速かったですよ」
「俺達は驚き過ぎて、動けなかったからな」
笑い飛ばす睦春と夏月。
それはそれで情けないだろう、と言う感想は飲み込み。
秋津は別の事を口にした。
「皇女ってぇのは皆あぁなのか? 落ち着きがねぇにも程があるだろう」
「帝都は無駄に整備されてるからな、こんなド田舎じゃあ珍しい物ばかりなんだろうよ」
「……自分で言うか?」
しれっと自虐的な事を言う長に、少年の表情は呆れに変わる。
「まぁ、無邪気で良いじゃないですか」
ニコニコ顔で呑気な事を言う睦春、それにやはり笑顔で頷く夏月。
あれが無邪気で済むのか?
秋津は二人の能天気さに、頭を抱えたくなった。
一向に機嫌の直らない少年に向けて、長が意味あり気な視線を投げる。
「秋津よ、何が気に入らねぇんだ?」
腹の探り合いではまだまだ長に及ばぬ少年は、目を見開く事で図星を露呈する。
「……別に」
ぽつりと呟き黙り込んでしまう秋津、その様子に長は喉奥で笑った。
それから暫し談笑した後、そろそろ休むかとその場は解散となる。
自室へ向かうため一人暗い廊下を進む少年は、何とはなしに長の問いかけを思い出していた。
『何が気に入らねぇんだ?』
別に隠している訳ではない、ただ胸中に沈む違和感を表す言葉を見つけられなかったのだ。
つい溜め息をこぼした時、髪を揺らす風に気づいて立ち止まる。
ここは庭に面した廊下だが、雨戸は全て閉められた筈。
風が通る筈がない。
改めて前方に目を凝らせば、月明かりが射し込む場所を見つけた。
そして見つけた小さな影。
正体に気づいた少年は、うんざりとした様子で項垂れる。
叱りつけ、床に縛りつけてやる。
そう心に誓った少年は、実行に移すべく歩き出す。
淡い月明かりに照らされた、空を見上げる子供の横顔が見えた時。
唐突に理解した。
己の内で燻ぶる違和感の正体を。
泣いていないのだ、この冬音と言う子供は。
本当に珍しく思うのか、大きな瞳を煌めかせ空を眺める姿。
何故、泣かない?
膨れ上がった疑問の重さで、また少年の足が止まった。
己が両親を亡くしたのは、三つの時だった。
その年に起こった災害で、多くの者が命を落としたのだ。
既に、片親となっていた睦春の父親も……
その時を思い返せば、今なお鮮明に思い出す。
底なしの喪失感。
心臓を抉る様な痛み、頭が割れんばかりの息苦しさ。
のし掛かる孤独に抗おうと、声も限りに泣き叫んだ記憶。
幼ければ幼い程、その喪失感と孤独感は耐え難いものであり。
押し寄せる絶望と悲しみに、抗う術もない。
それは死別とは限らず、某かの理由で肉親と引き離されても同じ筈。
だがこの子供は、泣く事もむずがる事もしない。
まだ三日。
引き離された実感が無いのか、すぐに帰れると思っているのか。
平然とした子供に訝しさが募る。
少年は緩く頭を振ると、寝かしつける為また歩き出す。
それに気づかず廊下に座り続ける子供を、背後から勢いよく抱上げた。
「ひゃ……っ」
「こら! 何時まで起きてる気だ?」
驚きながら己を抱上げた者を振り仰ぐ子供、丸く見開かれた大きな瞳に。
少年の怒り顔が映る。
「秋さん…… ちゃんと寝てたよ?」
「寝てたら、こんな所に居ないだろうが」
「おきたから来たの」
「……」
つまり、夜中に目が覚めてしまったので外を見に来たという事か。
数瞬、微妙に判じかねる子供の言葉を吟味し。
理解した少年は、溜め息と共に部屋へ向かって歩き出した。
「とにかくチョロチョロするな、そして寝ろ」
子供を布団に押し込め睨みを効かせる少年、しかしあまり効果が無いらしく。
不満げな返事が返される。
「眠くないよ?」
少年は何度目かの溜め息を吐き出し、仕方なしに提案を持ちかけた。
「じゃあ、眠くなるまで話しでもするか?」
「うん!」
嬉しそうに頷く子供に、少年は苦笑を浮かべる。
「お前、母親に会いたくならねぇのか?」
「はは……って、見たことないよ?」
あっさりとした返答ながら、少年は内容の重さに息を飲む。
母親と、引き離されて育ってきたのか……
「お前の世話をしていた奴は居るだろう、仲良かった奴とか会いたい奴は?」
続く問いかけに、子供は困った様に首を捻る。
「いっぱいいたよ、でもすぐに変わるからわかんない」
「……」
今度こそ、少年は絶句した。
この子供は、寂しがる事や恋しがる事をしないのでは無く。
そんな感情があること自体、知らないのだ。
しかも城の者達によって、故意にそう育てられた節がある。
「……なんで、そんなに直ぐ変わるんだ?」
「顔や名前をおぼえちゃダメって、んー…… あとあと困るから?」
皇女は帝都に留まらない。
こうして州に与えられるにしろ嫁ぐにしろ、必ず他所へ行く事になる。
だから恋しがる事の無いように、誰かに懐く事をさせなかった訳か。
それはある意味、優しさなのかも知れぬ。
人や物に執着しなければ、他所へ移されても馴染みやすく思える。
しかし大切な人や物を持つ身からすれば、とても不幸せに見える。
不幸せと分からぬ事が、何よりも不幸せ……
「秋…… さん?」
仏頂面で黙り込んだ少年を、不思議そうに呼ぶ子供の声は流石に眠気を孕んでいた。
「眠くなったか? 良いから寝ちまえ」
ぎこちない笑みを向け、子供の髪を撫でてやれば。
大きな琥珀色の瞳は、重たげな瞼に隠された。
穏やかな寝息をたて始めた子供を見下ろし、少年は己の心の動きに驚いていた。
教えてやりたい。
そう思ったのだ、柄にもなく。
大切な物を持つ幸せを、親しい者をつくる喜びを。
だが一方で、それは不幸にする事かも知れぬとも思う。
何故なら、皇女は必ずここを出て行くから。
与えられた皇女は六州の子と位置づけられ、決して六州の者に嫁ぐ事は許されない。
それが政治に絡む、絶対の決め事。
必ず出て行くと分かっていて、大切な人や物をつくらせるのは酷な事かも知れぬ。
「それでも……」
藍色に闇に沈む部屋の中、少年の苦い呟きが細い吐息と共に流れて消えた。
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