白百合
開いたままの窓から、流れ込む緩やかな風に男は顔を上げた。
季節は夏の盛り。
国の北に位置する帝都は湿気が少なく、真夏の暑さも吹く風の軽さに和らげられる。
視線を窓に向ければ、一つ目の月が中天に差し掛かろうかという高さ。
月と星明かりの外の闇は色濃く、あちらこちらの部屋の灯りが落とされたのを知る。
そろそろ皆が眠りにつく頃。
「もう、そんな時間か……」
男は椅子に座ったまま伸びをする、目前の机には書類の山。
このところ片付けきれなかった仕事を持ち帰り、自室で遅くまで雑務に追われる日々が続いていた。
それでも何とか目処が立ち、明日は久し振りに休めそうだと。
男の口から安堵の吐息がもれた。
伸びをした流れで椅子の背凭れに寄り掛かり、男は緩く目を閉じる。
夜半の静けさの中、流れる風に乗り草木の揺れる音と虫の音が僅かに聞こえ。
目を閉じたままの男の顔に、苦笑の色が浮かんだ。
「こんな場所にも鳴く虫は居るか…… 逞しいものだ」
隅々まで潔癖なほど整備された帝都の都、それは気高く洗練された美しさを見せているが。
殆どが人工的な美しさ、自然の物は庭園か公園ぐらい。
それさえも計算され尽くした、人の手によるもの。
そんな息苦しそうな都でも、涼しげな音で存在を示す虫達の強かさに恐れ入る。
ふと、風の中に密かな香りが混じったのに気づき男は目を開けた。
それは何とも甘やかな香り。
一体、何処から流れて来るのかと訝しんだ時。
部屋の扉を叩く、小さな音が耳に届いた。
男が扉に視線を向ければ、それはゆるりと開くところ。
そこから濃厚な甘い香りが忍び込み、部屋の中を満たして行く。
酔いそうな香りに男が目を細めた時、開いた扉の隙間から悪戯気に煌めく瞳の白い面が覗く。
「やはりまだお仕事でしたか、要領が悪くなられましたか?」
「ぬかせ、お前はとうに休む時間だろう?」
するりと部屋に入り込んでくる想い人、思わず男の顔が緩んだが。
真夏とは言え夜の風は冷たい、なのに薄物だけで何も羽織らぬ姿に秀眉を寄せた。
叱らねば、と思いはしたものの口から出たのは別の事。
「ほう…… 百合か、何処で見つけた?」
想い人の細い両腕には、この離宮では見かけぬ大輪の百合が数本収まっていた。
純白のそれが濃厚な香りの元。
想い人は窓辺へ歩み寄ると、百合と共に抱えていた花瓶をそこに置き花を飾り始める。
「第九州の橈家から今日届きました、異国の珍しい白百合だとか」
「わざわざ取り寄せて贈って寄越したのか?」
白百合はこの国にもあるが、それとは比べ物にならぬ程の大輪。
驚きと呆れがない交ぜになった男の問いかけに、想い人は笑いながら答える。
「橈家の離宮には温室があるのです、そこに珍しい花が沢山ありました。
この白百合もその一つ。
私が伺った時には、まだ咲いていなくて……
花が見てみたいと言ったのを覚えていらした様で、わざわざ届けて下さったのです」
「随分と気に入られたものだな」
「それが、秋津様のお望みでしょう?」
低く笑う男に、想い人は花を整えながらチラリと視線だけ投げて寄越した。
州統合の噂を聞いたのは、何時の事だったか。
第一州と第二州、権勢を競う二つの州が弱小の州を吸収したがっている。
最も消されそうな州は、第五州と第六州。
そんな噂が出だした頃は、ただの笑い話だった。
今の帝は、州を減らす事を好まなかったから。
しかし、その帝が体調を崩した事で事態は一変する。
次の帝候補の中に、第一州の皇子が居たから。
冗談ではない。
己の生まれ育った場所を、誰かに好き勝手されるなど。
何とか止められないか、もしくは違う皇子を帝に据える手立てはないか。
そんな思いで帝都に上り、慣れぬ駆引きに奔走する毎日。
外で聞くのと中で見るのとはやはり違うもの、第一州の皇子の即位が絶対に思えていたが。
そうでは無く、斬り込む隙は微妙だが確かにある。
次は我が身と、統合を危惧する州が存外多かったのだ。
そんなどっち付かずの不安をつつき、第五州の皇子を推させるのは可能だと踏んだ。
第五州の皇子は最年長、その点からも世継ぎと推す大義名分がある。
だがその為には、第九州の力が必須であった。
巨大な鉱山を持ち、異国との貿易で急激に力をつけてきた第九州。
第一・第二州は成り上がり者と軽んじているのが救い、それなら此方が遠慮なく抱き込ませてもらう。
その為の武器が、最愛の想い人……
「この白百合は、お気に召しませんでしたか?」
うっかりと物思いに落ちていた男の意識を、まろやかな声音が呼び戻す。
顔を上げれば、椅子に座る己を見下ろす様に想い人の澄んだ微笑みが向けられていた。
顔を上げたものの、黙ったままの男を訝しんだのか。
何かを確かめる様に、細い指が遠慮がちに男の頬に触れる。
――六州を無くしたくないのは、私も同じです。
皇女の輿入れと言う武器をちらつかせ、外交を任せると言った時の想い人の応え。
不意に思い出した言葉と、触れる指先の感触に男はゆるりと目を細めた。
このさとい想い人は、己の思惑など全てお見通しであろう。
分かっていながら、道具として使おうとする己に変わらぬ笑みを向けてくれる。
心を捕えて離さぬ真っ直ぐな眼差しも、そのまま……
強いな、と思う。
ふとした事で、後ろ向きな自虐に落ち惑い続ける弱い己に比べ。
脆く儚げな姿とは裏腹な、想い人の何という心根の強さか……
男は感嘆の吐息をもらすと、触れる手を掴み軽く引いた。
華奢な想い人の身体は、それだけで己の胸元に落ちて来る。
そのまま膝上に柔らかく抱上げ、驚きですくむ細い身体を腕の中へ閉じ込める。
柔らかな髪に頬を寄せ、仄かな朱色を見せる想い人の耳元で。
男が低く呟いた。
「白百合か…… 悪くは無いが、生憎と愛でる花は一つと決めている」
「……え?」
驚きと混乱を滲ませた琥珀色の瞳が、間近で見上げて来る。
それに男は口の端を軽く上げて見せた。
「俺が愛でるのは、朱色に染まる冬の花のみ」
「……っ」
一瞬の間をおいて、想い人の肌がみるみる赤く染まり。
男は声を上げて笑う。
何事にもさとく、そつなく振る舞う想い人。
しかし色恋の事となれば簡単に狼狽えを見せ、その幼さと愛らしさに男は笑うしかない。
「あ、明日にでも第九州の離宮へお礼に伺わなければ……」
狼狽えて違う話題を持ち出す想い人、男は更に懐深くへとその身を抱え込み。
また耳元へ唇を寄せた。
「明後日で良い」
「でも、早めにお礼を……」
「つれない奴め、明日は休みだ」
「……」
男の言わんとするところを察してしまい、絶句して固まる想い人。
暫しの後、ゆっくりと男の目を見上げる。
その琥珀色の瞳に拒絶の色が無い事に、男の顔は優しげに緩む。
「今宵は酔わせて貰うぞ」
部屋に満たされた甘やかな香りに、男の囁きが混じり溶けて行った。
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