梅蕾
帝には正妻が居ない。
それはこの国が、複数の部族の連合で創られたものだから。
帝は各州から一人~二人ほどの女性を、妾として召し上げ子を産ませる。
その皇子の中から、次の帝が選ばれる事になる。
この仕組みだけでは帝都の独裁となり、連合国とは言えなくなってしまう。
よって、もう一つの決まり事があるのだ。
子を産んだ妾の州には、それが男児でも女児でも一つ政に口を出す権利が与えられる。
しかし子は授かりものと言うように、子宝に恵まれなかった妾の州はどうなるのか。
三年、子宝に恵まれなかった妾の州には、帝の皇女から一人を与えられるのだ。
その皇女が嫁ぐまで養い親として、やはり政に一つ口を出す権利が与えられる。
子をなした妾の州が次の帝に変わるまで権利が続くのとは違い、皇女が嫁ぐまでという期間限定ではあるが。
そこは仕方のない事と、割り切れる許容範囲であろう。
「何が養い親だ、妾も皇女を養うのも平たく言えば人質じゃねぇか」
呟いたのは、川辺のなだらかな土手に寝ころび流れる雲を眺めている少年。
季節は春、ほんの一月ほど前まで雪で白くなっていた土手が。
今では一面の鮮やかな緑。
そろそろ昼になろうかという時間帯。
暖かな日射しを浴びながら、そこに寝そべるのは十四になったばかりの少年。
本来ならやるべき事が山積みなのだが、全くやる気が出ず朝からここに逃げて来ていた。
要するにサボりである。
「何故あそこまで張りきれるのか、俺にはさっぱり分からねぇ……」
心地好い風にゆるく目を閉じ。
思い浮かべたのは、今も慌ただしく準備に追われているであろう祖父や叔父達の姿。
何の準備かと言えば、今日着くらしい帝の皇女を迎えるため。
六州からの妾は、懐妊する事なく三年が過ぎてしまったのだ。
ここに預けられる皇女は、現在十二人居る帝の子の中で十二番目。
母たる妾は九州中、最大の権勢を誇る第二州・蓮家の者。
その肩書きは、多少でも権力欲があれば喉から手が出るほど欲しがる事だろう。
だがそれは……
「子としてでは無く、嫁としてならってぇ話しだろうに」
爽やかな春の風に、呆れ混じりの少年の囁きが流れた。
その皇女を養うとなれば、確かに嫁ぐまではその意を借る事ができるやも知れない。
しかしそれは長くて十年程度の事、嫁ぎ先の方がよほど長く意を借れるというもの。
更に、与えられた皇女は六州の妾の子という扱いになる。
それ即ち六州は、その皇女の嫁ぎ先になりえない事を意味している。
「欲が無いと言うか何と言うか……」
少年は叔父でありながら五つしか歳が違わぬため、兄の様に親しい夏月の思い出し。
何とも複雑な笑みを浮かべた。
夏月もそうだがその父、六州の長である奏月までも。
皇女を迎えるとは最大の栄誉と言わんばかりに、出迎えだの部屋の準備だのと。
ここ数日、落ち着けと言いたくなるほど浮かれまくっている。
言っても聞きそうにないが。
六州は政とは縁遠い弱小、その呑気さと素朴さは嫌いでは無い。
嫌いでは無いが、どこか物足りない……
そんな感想に辿り着いたところで、少年は溜め息を吐き出しながら起き上る。
「流石に、そろそろ戻らねぇと不味いか……」
準備と言う名の騒ぎから逃げたのはまだしも、皇女の出迎えまで顔を出さぬのはかなり不味い。
もう一度溜め息をつき、立ち上がろうとした時。
「っ……!!」
少年の背中に何かがぶつかり、驚いて振り返れば。
その何かが支えを失い、仰向けに転がる。
「……人形か?」
どうやら土手の上から転がって来たらしいそれは、仕立ての良い衣服を纏った美しい人形に見えたのだが。
「痛い」
何の気なしに抱上げれば、桜色の小さな唇が開きもれた声音に少年の目は丸くなる。
「……ガキ?」
随分と小さな子供だ、二~三歳ぐらいだろうか。
抱上げられた子供は大きな琥珀色の瞳に涙を溜めて、小さな両手で己の額を一生懸命に撫でている。
「ぶつけたのか?」
少年は座り直すと、子供を膝に座らせ顔を覗き込む。
「ここ痛い」
子供は嫌がるでもなく、大人しく痛む場所を少年に見せる。
なだらかに見えても土手である、緑の若草に隠れているがデコボコしている上に石などもあるだろう。
見事にコロコロ転がって来たらしく、子供の白く小さな額にはうっすらと赤みがさし、ぶつけた様な痕があった。
「瘤にはならねぇだろう…… で、お前幾つだ?」
言ってしまってから、我ながら聞く事が違う気がして少年は顔を顰めたが。
子供の方は気にするでもなく、右手をいっぱいに広げて見せる。
「五歳!」
「ご……っ」
それにしてはかなり小さい。
改めて見慣れぬ子供に驚き、少年は目を丸くする。
「お前、名前は? 俺は秋津だ」
「あきつ…… さま?」
「……秋で良い」
己の名を、子供特有の舌っ足らずな発音で呼ばれ。
何やらこそばゆさを感じた少年は、親しい者達が使う呼び方を教えてしまう。
「お前の名前は?」
重ねて問えば、子供は大きな瞳で真っ直ぐ少年を見上げ小さな口を開く。
「とね」
知らぬ名だ。
見た事も無ければ、聞いた事も無い名前の子供。
少なくともこの辺りの子では無い、ならばこんな小さな子供が一人で見知らぬ場所に居るはずも無い。
「親はどこだ?」
少年は、辺りを軽く見渡しながら問うてみたが誰の姿も見当たらぬ。
視線を戻せば、子供は首を傾げて見上げて来るばかり。
理由は分からぬが、親と一緒では無いのかも知れぬ。
「一緒に居た大人はどこだ?」
「あのね……」
「ん?」
何故か言いよどみ、視線を泳がせる子供。
だがじっと見詰める少年の視線に負けたのか、ぽつぽつと話し出した。
「鳥が見えたの、そうしたらみんな迷子になったの」
「……」
言葉の意味を判じかね、少年の顔が渋くなる。
そのまま悩むこと暫し。
「要するに、お前は鳥を見つけて追いかけたんだな?」
漸く口を開いた少年の言葉に、子供は素直に頷く。
「それは皆がじゃなく、お前が迷子になったんだろうが!」
軽く怒鳴られ目を丸くする子供、しかし怯える様子もなく見上げて来る。
それに深い溜め息を吐き出すと、少年はどうしたものかと頭を悩ませる。
相変わらず人の気配はなく、探しに来る様子も無い。
迷子も問題だが、己も帰らなければかなり不味い事になる。
「仕方ねぇ連れて帰るか」
一人で保護者を探すにも、何処に居るやら見当もつかぬ。
家に行けば子煩悩な輩が沢山いる、皇女の事で慌ただしいが一人二人なら手の空いた者も居るだろう。
そいつ等に押し付けるかと心に決め、少年は動き出す。
まず子供を立たせようと、膝から抱上げハタと気づいた。
「おい、靴はどうした?」
「くつ?」
子供は不思議そうに首を傾げ、次いで己の足に視線を落とす。
「くつも迷子?」
「……」
子供の生真面目な呟きに、少年の肩がガックリと落ちた。
見れば、小さな足に汚れも傷も無い様子。
転がった時にでも脱げたのだろう。
近場を見回してみたが、これも何処へ行ったやら見当たらない。
「面倒臭ぇ……」
渋面で呟くと、少年は子供を片腕に抱いたまま立ち上がる。
動いた不安定さに小さな両手が少年の肩口にしがみつき、大きな琥珀色の瞳が戸惑いに揺れていた。
「先ずは俺の家に行く、保護者も靴も探すのはその後だ」
土手を登りながら向けられた言葉に、子供は花が綻んだ様な笑顔で返した。
何とも愛らしい笑顔。
それを向けられた少年は、思わず見とれると同時に呆れる。
見ず知らずの相手に対し、何という警戒心の無さか。
無邪気と言えば聞こえは良いが、危なっかしい事この上ない。
ニコニコ笑い続ける子供に溜め息が出た頃。
土手の上の道に出た少年は、家の方角から走って来る人影に気づいた。
――見つかったか。
サボっていた事を思い出し、少年の顔はますます渋くなる。
しかし逃げる訳にもいかぬ、仕方なしに人影に向かって歩き出せば。
すぐに姿がはっきりして来る。
「秋ーー!!!!」
更に切迫した叫びが聞こえ、何者か知れた。
「春か…… サボったぐらいで随分な慌てようだな」
「はる?」
少年の呟きに、腕に収まる子供が問いかけて来た。
「睦春、俺の従兄弟だ」
「むつ……」
「……春にしとけ」
そんなやり取りをしていれば、件の睦春が二人に辿り着き。
呼吸を整えようと、膝に手をつき項垂れて肩を揺らしていた。
五つ年上の従兄弟、叔父である夏月と同い年なのだからややこしい。
「何をそんなに……」
流石に尋常ではない慌てぶりに、少年が眉を顰めて問いかけた。
「秋!! 大変なんだ!! 一大事なんだ!! 皇女が……っ」
そこまで捲し立てて顔を上げた睦春は、少年の片腕に収まる子供を見て目と口を丸くすると固まった。
「春?」
「皇…… 冬音さ…… ま……っ」
「何だって?」
睦春の言葉に少年までも固まった、子供だけがそんな二人を興味深そうに見比べている。
「休憩中に皇女が消えたと御付きの一行が、邸に駆け込んで来てだな…… まさか秋、お前が匂引ていたとはーー!!」
「馬鹿言ってんじゃねぇーー!! こいつは迷子だ迷子!!」
睦春のとんでもない叫びを全力で否定しながら、少年は己の迂闊さに胸中で頭を抱える。
何故、気づかなかったのか。
この辺りでは見かけぬ子供、今日着くと言う皇女。
幾ら興味がなく、容貌やら名前やらを聞き流していたとは言え……
しかし皇女たる者が、鳥に釣られてフラフラ迷子になるなど誰も思わぬかも知れぬ。
暫し少年と従兄弟の不毛な問答が続いた後、話しが通じたところで三人は家に向かって歩き出した。
「お前、名前は“とね”と言ってなかったか?」
歩きながらふと思い出した事を問えば、片腕に収まる子供はすんなりと頷く。
「うん、とーね」
「……」
どうやら呂律の回りが悪く、上手く発音できていないらしい。
仏頂面で黙り込む少年とは対照的に、隣を歩く睦春は子供のあどけなさに。
常から下がり気味の目尻を、更に下げて微笑んでいる。
先程、子供を押し付ける相手として思い浮かんだ一人。
それは間違いでは無かったなと、少年は心中で何度も頷いた。
そろそろ家が見える頃。
「あ!」
睦春が声を上げて立ち止まり、少年が訝しげに従兄弟の視線を辿れば。
正面に黒い塊がそびえ立ち、それは素晴らしい速さで大きくなる。
一瞬、何か分からず身構えた少年だったが、続いて聞こえて来る野太い叫びに正体が知れた。
「冬音どのーー!!!!」
己の名を呼ばれ子供はビクリと身を強張らせ、少年の肩を掴む小さな両手に力がこもる。
そんな子供の様子に苦笑を浮かべ、少年と睦春は囁きを交わした。
「まあ、怖いよな…… あれは」
「だよね、気の毒に……」
二人に同情された巨大なものは、全力で走り寄って来る人。
まるで巨大熊の様ながっしりとした長身、頭は見事に禿げ上がりそのくせ逞しい顎回りには無精髭。
体格にみあう厳つい風貌、それだけでも恐ろしいのに。
側に近づき今やはっきりと見える顔は、滝のように涙と鼻水を流しているためなお怖い。
「冬音様!! あぁ良かった!! よくぞご無事で……っ」
とうとう己に向けて大きなごつい両手を伸ばされ、子供は震え上がって少年にしがみつく。
「落ち着けじいさん、ガキが震え上がってるぞ」
「てめ……っ、秋津!! 皇女に対してなんたる呼び方を!!」
腹に響く野太い声、老年でありながら有り余る生命力を感じさせる泣きっぷり。
この人物、第六州の長・奏月である。
病的に子煩悩であるが、この風貌から子供に嫌われるという哀れな人物。
今回も、例外ではない様だ。
奏月に続き、探し回っていたらしい者達が駆けつけ。
子供の姿を目にし安堵したのか、皆一様に腰が抜けた様に崩おれた。
その中の一人が、喚き続ける奏月を宥めにかかる。
「父上、先ずその顔をお拭き下さい、余計に怯えますよ」
さり気なく、容赦のない言葉をかけたのは夏月。
流石は息子と言うべきか……
夏月は、父親を二回りいほど小さくした様な体躯。
同じ厳つい顔ながら、奏月よりはましに見えるのか割と子供に好かれるから不思議だ。
父親を三歩下がらせ、夏月は子供に向き直り両手を伸ばす。
「本当によく無事で、一体なぜお一人など……」
優しげな声音に、子供の強張りが緩まり始め。
頃合いを見計らい、夏月に渡そうと少年が子供を抱き直した時。
「……かどわかし」
もれた小さな声に、その場の一同は凍りついた。
「て、なあに?」
続く問いかけは、たちまち起こった怒号の嵐に飲み込まれ。
再び、匂引容疑をかけられた少年の耳にしか届かなかった。
あまりに間の悪い問いかけ。
わざとなのか天然なのか、悪気を感じさせぬ琥珀色の瞳を覗き込み。
少年から苦い呟きがこぼれる。
「……今聞くなっ」
しかしそれは周りの叫びに紛れ、誰に届くこと無く。
青い空に吸い込まれ、消えて行った。
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