番外編・伍 『家族』
※ 睦春と光流の回想ぽいお話。
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もしも。
もしもあの時……
そう考えてしまうのは、愛情からだと痛感する日々。
どうにもならぬ。
それも痛いほど感じていた。
もしもあの時、と幾ら考えようと時が戻る事はない。
もしもあの時、気づいたとしても。
その時の己は、今思う答えを出せるのだろうか?
どうにもならぬ。
例えどの様な道筋を辿ろうと、必ず思う事になるだろう。
もしもあの時、と……
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白々とした光、気の早い鳥の鳴き声が響く。
そんな織家の中庭を、睦春はフラフラと歩いていた。
気持ち悪い。
飲み過ぎだ。
長であり、叔父であり、親友である夏月。
二人で夜通し飲んでいたのだ、とんでもない提案のせいで。
白熱した議論の末、酒の勢いも相まって己の宣言した事が。
今更ながら、ずっしりとのし掛かって来る。
えらい事を言ってしまった。
溜め息と共に歩みを止め、緩く頭を振る睦春。
鈍い痛みに顔を顰めた。
まだ日は明けきらぬと言うに、じわりじわりと足元から暑さが這い上がって来るようだ。
季節は夏の盛り。
二日酔いであろう頭の痛みと暑さ、気持ち悪さに拍車が掛かる。
――冷たい水で顔を洗おう。
その為に中庭に来たのだ。
石動国は潔癖な帝都の影響か、上下水道は他国に比べ随分と発達している。
西の端、この小さな六州にまで行き渡るほど。
しかし良質な地下水が豊富な五・六州では、井戸も併用していた。
この織家でも、中庭に井戸が一つ残されており割と重宝している。
何より、真夏でも水が冷たく有難い。
酔いの残るフラつく身体を宥めつつ、井戸へ向かって再び歩き出せば。
目当ての場所から涼しげな水音。
俯き加減だった顔を上げ、視線を向ければ。
諸肌脱いで豪快に身体を拭う、逞しい男の背中が見える。
途端、睦春は二日酔いも忘れて吹き出した。
「秋、凄いなそれ」
笑い転げながら掛けられた声に、水浴びをしていた男が怪訝な顔で振り返る。
「何がだ?」
どう見ても、秋津の様子は里からの朝帰り。
睦春の声音にからかいの色が滲む。
「何ってその背中、凄い引き傷だ」
「……っ」
言われて、驚いた様に息を飲む男。
それに睦春こそが驚いて、言葉を続ける。
「気づいてなかったのか? よほど良い目を見たようだな」
背に触れて初めて気づいた様子の秋津は、ニヤニヤと近づいて来る相手に仏頂面を向けた。
「そうでもねぇさ」
「その傷で言っても説得力無いぞ、今日は秋の武勇伝で盛り上げれそうだな」
「話すほどの事はねぇ」
渋い友の顔を楽しんでいた睦春だが、また鈍く痛みを感じ頭を抱える。
「……っ、飲み過ぎだ」
頭を緩く振ることで流れた視線が、ある部屋の戸に止まり。
睦春は怪訝な声をもらした。
「冬がまだ起きて無いとは…… 具合でも悪いのかな?」
睦春の為に、水を汲み上げていた秋津の手が一瞬止まる。
元気な時には誰よりも早く起き出す冬音、なのに戸が閉め切られたままなのを訝しむ睦春。
今にも様子を見に行きそうなのを、秋津の声が引き止める。
「あいつは…… 少し熱がある様だから今日は休めと言ってある」
「なるほど」
秋津が使っていた桶に、新たな水が満たされ。
顔を洗う事を優先した睦春には。
冬音の部屋の戸へ、秋津の愛しげな視線が流れた事に気づけなかった。
「その様子じゃ朝まで飲んでたのか? あの話しで」
昨夜、日が変わる少し前まで二人の話しに秋津も加わっていたのだ。
内容は冬音を第一州へ嫁がせろとせっつく、町の代表達を如何に黙らせるか。
「そうなんだが、途中から話しがねじ曲がってだな……」
「は?」
顔を拭いながら、固まってしまった睦春。
訝しげに見詰めていれば、勢い良く秋津へ向き直り。
その腕を掴むと、必死のていで言い募る。
「光先生の身の振りの話しになって、それで、お、俺が結婚を申し込む事に……っ」
「……え?」
悪い事は重なるもの。
奏月が他界して直ぐ、善司も倒れ帰らぬ人となってしまった。
個人としても、医者としても光流の受けた衝撃は計り知れぬ。
医者なればこそ、救えなかった事が重くのし掛かっているだろう。
気丈に振る舞ってはいるが、気落ちした様子は否めず。
頼りにしている者達から、不安の声が長に届いていた。
曰く、光流が流れを辞め帝都に帰ってしまうのではないか。
実家は地位もある開業医、自身も医者である事から。
帝都で戸籍を復活させるのも容易であろう、故に寂しさから帰ってしまうのではと。
町の者達が危惧しているのだ。
夏月も睦春も、少なからず同じ危惧を抱いていた。
医者の当てに困る身からすれば、六州に留まって貰いたい。
確実なのは、六州の戸籍を持たせる事。
その方法として、手っ取り早いのは婚姻である。
「それで、誰か良い男を…… て話しになって」
「酔った勢いで、自分が名乗りを上げた訳か」
話しの顛末を聞き、秋津は目眩を覚えた。
あのさとい医者がそんな思惑に乗るはずが無い、かえって不興をかうだけに思える。
「こんな事なら、もっと早く言えば良かった」
――何だと?
思わず秋津の頭が真っ白になる、今の睦春の言葉はつまり……
「ちょっと待て、お前は本気であのヤブに惚れてたのか?」
真っ正直に問いかければ、睦春は真っ赤に茹で上がりながらも。
力強く頷いて見せる。
――蓼食う虫も好き好き。
瞬間、秋津の脳裏にそんな言葉が流れたが。
口に出すのは流石に堪えた。
「あんな話しをした後だと、信じて貰えるか……」
下心が後ろめたくなった訳だ。
秋津は一つ溜め息をつくと、睦春の目を真っ直ぐ捕える。
「お前は夏と話したから、求婚する訳じゃねぇんだろ?
だったら堂々と言えば良いさ、お前の本心を真っ直ぐにな。
そうすればあのヤブも馬鹿じゃねぇ、ちゃんと受け止めるさ」
暫し瞬きも忘れ、柔らかい友の目を見詰めていた睦春は。
やがて緩く微笑むと、再び力強く頷いた。
この夏の日の朝。
後に睦春は、何度も思い出す。
苦い思い出として。
この時の秋津の言葉は、どんな思いから出たのか。
背中の傷跡。
気づく要素は、幾らでもあったのだ。
だと言うのに、酔いと己の事で一杯で気づかなかった。
もしもこの時……
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「どうにもならんさ」
「……やっぱりそうかな」
「あの頃のお前達なら、二人を別れさせようとしたろうさ」
「……」
妻の言葉に、睦春は言葉を無くす。
新たな帝の世が始まり二年。
あれほど恐れていたのが嘘の様に、六州は落ち着きを取り戻していた。
ほっとする時が増えれば、心に浮かぶのは最愛の家族だった二人……
いや、三人の事。
何時もの診察室で、ぽっかりと手の空いた昼下がり。
たまに光流と二人、思い返す事が多くなった。
「しかしそれで気づかんとは、情けないねぇ」
「無理だろう、光は気づいてたのか?」
「あぁ、知ってたさ」
「えっ!?」
あっさりした妻の物言いに、睦春は目を丸くする。
「あたしは医者だぞ、あの子をずっと見て来たんだ当たり前だろう?
それに女と言うのはね、男を知れば身体が変わる。
すぐに分かるさ」
そう言うものなのか。
何となく、睦春の方が赤面してしまう。
そんな夫に声を上げて笑った時、奥からけたたましい泣き声が響いて来た。
「おや、起きたようだね」
「大変だ!」
何が大変なのやら。
慌てて駆け出す子煩悩な夫を見送り、光流は苦笑を浮かべる。
もしもあの時。
己も思う事がある。
冬音も帝都へ行くと決まった時、己も同行していたらと。
光流の手が机の引き出しを開け、中から一通の手紙を取り出した。
それは冬音からのも。
己との約束を守っているかの返事、その中の一行に目が止まる。
『私のかかりつけ医は、光先生だけです』
知らず光流の目元が緩み、泣きたくなる様なこそばゆい感情が湧き上がる。
もし己が側に居たなら、残してやれたやも知れぬ。
二人の証を。
思えば、沢山の家族に囲まれて居ながら。
肝心な父、母、子と言う関係と縁の薄かった二人。
叶わぬ事と分かっていても、きっと作りたかったに違いない。
そんな家族を。
妊娠、出産。
とても冬音の身体で耐えきれるとは思えない、しかし知れば望んだだろう。
産みたいと。
今の己なら、迷わずその願いを叶える為に力を尽くすだろう。
宿る命の愛しさを知った、今の己なら。
だがもしその時ならば。どしただろうか?
冬音の身を優先したに違いない。
どうにもならぬ。
そうなればまた後に思うのだ、もしもあの時と……
光流は、緩く溜め息を吐き出した。
情が深ければ深い程、どの様な道筋を辿ろうと必ず思うのだ。
もしもあの時、こうしていたらと。
それは愛しい記憶と共に、一生続くのだ。
「忘れるものか」
ずっと、ずっと抱えて行くのだ。
大切な家族の記憶を、心の宝物として。
「先生! 家のじいさんがっ」
「はいよ、直ぐ行くから落ち着け!」
不意に駆け込んで来た客の叫びが、光流を物思いから引き戻す。
そしてまた、慌ただしく忙しい日常が続いて行くのだ。
これからも、ずっと……
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