番外編・肆 『夜明け前』
※ 帝都に上る数ヶ月前のお話。
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邸を震わせる轟音。
突然の豪雨により、激しく屋根を叩く雨音。
その音の激しさに、浅い眠りに落ちていた男の意識が覚醒する。
細く目を開ければ一面の闇。
まだ夜なのか、雨雲に陽が遮られているのか。
おそらく両方だろう。
「……煩ぇ」
男の呟きが聞こえでもした様に、突然の雨音は始まりと同じく唐突に弱くなる。
それに安堵の吐息をもらし、男は闇に慣れた目を己の腕に向けた。
闇に浮かび上がる、青みを帯びた白。
淡く輝くような姿をみとめ、男の口の端が僅かに緩む。
腕に収まるのは、あどけない寝顔を見せる想い人。
激しい雨音に気づく事なく、穏やかな寝息を立てていた。
不意に男の眉が顰められ、想い人の身体を更に抱き込み。
そっと白い肩に唇を寄せる。
すると、己と同じ体温が伝わり安堵した。
想い人が落ちた後、その身を清めてやりはしたが夜着を着せかけもせず。
己も寝入ってしまうとは、何と迂闊なことか。
朝夕の冷え込みが、それなりに厳しいこの時期。
想い人の身体を冷やしては事である。
そんな事を思い、男は笑いだしたい衝動にかられたが。
何とか堪えて肩を揺らす。
己がこれほど誰かを思いやるなど、そんな自分が居た事に驚いた。
己の造作が優れていると、子供から少年となる頃には気づいていた。
それが武器になる事も。
絡みついて来る女達の視線。
ちょっとその気を見せれば、面白い様にこの手に落ちて来る。
欲を吐き出す相手に、困った事など一度も無い。
己の思うように振る舞って、文句を言われた事も無い。
故に、相手を思いやる事などした事が無い。
それが、今はどうだ。
秘かに焦がれ続けた積年の想い、漸く想い人を手に入れた。
その身も心も……
共寝をするようになって、まだ日は浅い。
脆い想い人の身体に少しも負担にならぬよう、決して情欲に溺れる事はしない。
例え身体を繋げずとも、ただ寄り添って眠るだけで満足できる己が居る。
こんな想いがあるなど、知らなかった。
男の肩の揺れが仇となったか、想い人の長い睫毛が震え華奢な身体が身動ぐ。
細い手が男の胸元を彷徨い、小さく開いた口から消え入りそうな囁きがもれた。
「秋…… さん?」
「起こしたか…… まだ夜だ寝ていろ」
「雨……?」
薄く開いた琥珀色の瞳が、男の顔をぼんやりと映す。
いまだ聞こえる雨音。
「あぁ、今日は寝坊しても大丈夫だぞ」
笑いを含んだ囁きと共に、男の熱い吐息が首筋を滑り。
想い人はビクリと身を竦ませる。
胸元に寄せられた指先の震えを感じ、男は喉奥で笑った。
「そう怯えるな、一緒に寝るだけだ」
「怯えてる訳では……」
徐々にか細くなり消えて行く囁き、俯いた想い人の小さな耳は夜目に分かるほど赤く染まっている。
それに男は苦笑を浮かべた。
どうしようもなく込み上げる愛しさ、そのやり場に困るとは。
何と幸福で、甘美な悩みか……
男は包み込むように、華奢な身体を胸元に引寄せると。
その髪に顔を埋め、優しげに囁いた。
「お休み」
「お休み…… なさい……」
腕の中の想い人が、小さく返す声を聞きながら。
男は満足げに微笑み、目を閉じる。
静かに響く雨音……
初秋の夜はまだ明けない。
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