番外編・弐 『微熱』
※ 帝都に上って一年後ぐらいのお話。
.
「あんたが居ながら、何故こんなに遅くなる」
今や六州の長として、貫録もつき始めた夏月に対し。
不機嫌も露に食って掛かる男は、彼の甥であり親友である秋津。
「や、済まん、相手は第一州の灰家だ、引き止めるのを無下に断る訳にも……」
長の歯切れの悪い言い訳を、男は剣呑な眼光で一刀両断にする。
「それを何とかする為に、春で無くあんたが行ったんだろうが!」
「……面目無い」
項垂れる長を一瞥すると、男は不機嫌なまま歩き出し。
すれ違いざま言葉を投げた。
「これで寝込む様な事になったら…… 覚えとけよ?」
「……っ」
押し殺した声音の迫力に、長がギシリと固まる気配を男は背中で感じていた。
帝が体調を崩されて二年が経つ。
改善の兆しは見えず、とうとう起きる事さえ出来ぬ様になったとか。
それに伴い、次期帝争いも活発化していた。
本来ならあまり関わる事ない第六州であるが、今回は傍観している訳にもいかず。
帝都に上り、動き始めたのは去年の事。
政治的な策謀は、秋津の仕事。
人脈作りは、六州の養い子である冬音が引き受けていた。
何しろ可憐な容貌に素直な心根、更に蓮家の血を引く皇女となれば。
訪ねて来られて、嫌な顔をする者は先ず居ない。
今日もその事で、灰家が使う離宮へ赴いた長と想い人。
春とは言え、まだ雪も残り昼夜の寒暖の差も激しい時期。
身体の弱い想い人が体調を崩さぬように、まだ暖かい日のあるうちに戻れと言い含めてあったのだが。
帰って来たのは、すっかり日も落ち二つ目の月が昇り始めた頃。
案の定、想い人の身体は冷え込みについて行けず。
軽い発熱に、琥珀色の瞳を潤ませていた。
本格的に上がらぬ様にと、慌てて想い人をベッドへ押し込めたのがつい先程。
その後すぐに、長に苦情を言うため部屋を変えた訳だが。
あのやんちゃな想い人が、微熱程度で大人しくしているとも思えず。
男は半分の苦情で引き返して来た。
静かに部屋の扉を開ければ、珍しい事に想い人は布団にくるまったまま。
「珍しい事もあるものだ、お前が素直に言う事を聞くとは」
男の言葉にクスリと笑い、想い人は悪戯気な瞳を向ける。
「だって、すぐにお戻りになると思いましたから」
――戻らないと思えば、起き出すつもりだった訳か。
男はベッドの側に椅子を引寄せ腰掛けると。
想い人の額に掌をあて、反す手の甲で頬を撫でた。
ベッド脇に灯された仄かな灯りで、撫でられる心地好さに細まった瞳が煌めく。
「これ、秋津様の癖ですね」
「暇さえあれば、熱を出す奴が居るからな」
からかいを含んだ男の言葉に、想い人は不満げに頬を膨らませた。
「冬、もう第一州に愛想をふる必要はない」
低い男の声に、想い人は軽く目を丸くする。
「どの皇子を担ぐか決めたのですか?」
「決めた、だがその話しは明日だ。
それよりも、浚われはしなかったか?」
「え?」
言葉の意味を判じかね、小首を傾げる想い人。
男は僅かに口の端を持ち上げると、長い指で想い人の唇を優しくなぞる。
「こうやって、触れさせてないだろうな?」
「そんな事……っ」
ある訳が無い。
そう続く筈の音は、触れる指先の感覚で喉奥に詰まった。
「灰家の狸は好色と聞く、さぞお前を欲しがっただろう?」
男の指先が頬に移り、ゆっくりと線を辿り顎に触れた頃。
漸く想い人の口から音がもれた。
「全て秋津様のものですから、他の誰かなど……」
「この嘘つきめ」
「嘘では……っ」
想い人の否定の言葉は、男の唇によって封じ込められる。
徐々に深くなる口付けに酔い、想い人の細い腕がすがるように男の首に絡みつき。
男の腕が、華奢な背を抱き寄せる。
「冬、具合はどうだ?」
部屋の扉を開けて入ろうとした夏月の耳に、大きく鈍い音が響いた。
驚いて音の元を見やれば、ベッドの中とその横で。
それぞれ額を押さえて身を二つに折り、震える二人の姿。
「俺はそろそろ城に戻るからと、言いに来たんだが……」
不思議そうに尋ねる夏月の視線の先で、秋津は蹲ったまま動けず。
冬音は両手で口元を押さえて涙ぐみ、真っ赤になっているのは熱の為か羞恥の為か。
「どうしたんだ? お前達」
驚きから呆れに変わった夏月の問いかけに、漸く男の声が答えを返した。
「っ、熱を、計ろうと……っ」
かろうじて嘘は出る。
「それでぶつけたのか?
もう子供では無いのだから、額で計る事は無いだろう」
まさか、唇を契っていたとは言える筈も無い。
「まあ良い…… 冬、今日は休んで熱を下げるんだぞ?」
「っ、は…… いっ」
いまだ真っ赤な顔のまま、何とか頷いて見せる想い人。
それに満足して頷くと、夏月は部屋を後にする。
足音が遠退き静けさが降りた頃、震える声で想い人が呟いた。
「秋津様の嘘つき……っ」
「お前な、夏に本当を言えと言うかっ」
「気配に気づかなかったのですか? 秋津様らしくもない」
むくれる想い人の耳元に唇を寄せ、男は低く囁く。
「お前に酔わされて、それどころでは無かった」
更に雪の肌を赤に染め、固まる想い人。
熱が上がりそうだと囁く男の密かな笑い声が、部屋の中に流れていた。
.