幸せのしっぽ
『幸せって奴にはな、長くて綺麗なしっぽがついてるのさ。
そいつは常に、人の目の前でフラフラしてやがる。
欲しくて掴もうとすれば、するりと逃げて行く。
そしてまた目の前をフラフラ。
人ってぇのはそれを捕まえる為に、足掻いて足掻いて生きて行く。
お前の目の前にも、ちゃあんとしっぽが見えてるぜ?』
――そんな話し、聞いた事ない。
『当たり前だ、俺の持論だからな』
――嘘くせぇ……
――――――――――
――――――
――
幸せのしっぽ。
そんな話しをしたのは、何時だったか……
あれは確か、随分と幼い頃。
そう己の幸せの全てだった、両親を亡くした時。
不器用な祖父が、己を慰めてくれたのだ。
それから二十数年。
己はそのしっぽを掴んだのだ。
決して離さぬ様に、逃さぬ様に抱締めていた筈なのに。
やはりまた、それはするりと逃げてしまった。
「それでも足掻いて…… か……」
男の顔に、苦い笑みが浮かんだ。
冬音が十九を過ぎた頃から、徐々に弱り続けていると感じていたが。
その原因が知れたのは、取り返しのつかぬ事が起きた時。
――流産。
最愛の想い人は身籠っていたのだ、己の子を。
男は突き上げる苦痛に、きつく目を閉じる。
気をつけていた筈だった。
結ばれる事の許されぬ二人、子を望む訳にはいかぬ。
何より、脆い想い人の身体が心配だった。
だと言うに、己の配慮の足りなさに悔やんでも悔やみきれぬ。
しかも誰も気づく事が出来なかった、冬音さえも気づいていなかったやも知れぬ。
元々、月の障りも不安定な為さして気に止めていなかった。
故に想い人の受けた衝撃は、いかばかりか想像もできぬ。
それを境に、坂道を転げ落ちる様に急激に。
想い人の体調は悪くなり、そして二十歳を迎えた頃……
男は細くゆっくりと息をつき、閉ざしていた目を開けると。
進めていた旅支度の、最後の仕上げをする。
道中に使う物と、別の水筒。
それに半分ほど水を注ぎ、一年と少し前から用意していた薬を混ぜる。
ツンと、僅かな異臭が鼻をついた。
固く蓋を閉め軽く振ると、己の腰に下げる。
そして、くるりと部屋を見渡した。
数年、己のものだった部屋。
綺麗に片付けられたここに、もう戻る事はない。
男の視線は最後に、愛用していた机の上に止まる。
そこには、白絹に包まれた小さな箱が一つ。
小さい。
二人分とは思えぬ程に……
男がそっと箱を抱え上げた時、部屋の扉が叩かれ静かに開いた。
「秋…… もう出るのか?」
姿を見せたのは夏月、その苦しそうな顔に男は苦笑をもらす。
「あぁ、一年の筈が少々長引いたからな先に帰らせて貰う」
新たな帝の元、新たな政策を定める期間は一年。
その筈が、思い通りにならなかった一・二州の嫌がらせか。
全て決定した時には、予定を数ヶ月過ぎていた。
「あと一週間もすれば俺と春も帰るんだ、その時では駄目か?」
「約束だからな、早く連れ帰ってやりたい」
愛しげに腕に抱く箱に視線を落とす男から、僅かに目を反らす夏月。
「俺が…… 俺達がお前達の事に……」
言いかけて、夏月は口をつぐむ。
『気づいていたら』どうだと言うのか。
どうにも出来なかったに違いない。
そんな夏月の葛藤を見抜いてか、扉へと歩き出しながら男が笑いかける。
「あまり深く考えるな、らしくないぞ」
軽く叔父であり親友である男の肩を叩くと、すれ違い外へと向かう。
「秋!! 冬との約束……っ」
遠ざかる友の背を、夏月の叫びが追いかけたが。
男は軽く手を上げただけで、歩みを止める事は無かった。
約束。
そう約束を果たす為に帰るのだ。
『六州を守って下さいね』
守ったとも、合併吸収は無くなった。
六州はちゃんと残る。
『どうか私達だけを帰さないで下さいね、秋津様とご一緒に……』
当たり前だ、その約束は前にもしたのだから。
ただ少し遅れてしまった。
『私は幸せですこの瞬間も、秋津様が居てくださるから、だからお願いです……』
「その約束だけは守れん……」
喉奥で笑う男の目前に、黄金色の細かい煌めきが見えた。
まるで呼ばれでもした様に、足の進みが速くなる。
一息に坂を上りきれば、見渡す限り金色の稲穂が広がった。
風に揺られる様は海原のよう、揺れる度にキラキラと光の礫が散っている。
知らず、安堵の吐息がもれていた。
「……帰って来たぞ」
懐かしい記憶のままの、稲穂の群れ。
男はその景色を眺めつつ、道端に佇む一本の木へと歩み寄る。
それに背を預けると、力が抜けた様にゆるゆると座り込んだ。
『お願いです、秋津様も幸せでいて下さい。
ずっと、ずっと、最後の時まで……』
「お前は怒るだろうな」
想い人の伝えたかった事、それは痛いほど理解していた。
だが聞けぬ、それだけは。
この一年と少しで思い知ったのだ、想い人と共にいた日々が。
己の全てだった事を。
すっかり茜色になった日射しの中、金色だった景色は朱金へと変わる。
その美しさに目を細めつつ、男は腰に下げていた水筒を取り上げた。
――早過ぎます。
小さな白い面を朱色に染めて、華奢な身体いっぱいに怒りを表し睨む想い人。
その姿がありありと瞼に浮かび、男は喉奥で笑った。
笑いながら水筒の中味を飲み干すと、僅かな苦味が身体に染み渡って行く。
「許せ、俺の駄々だ……」
そして、感覚も意識も溶けて行く。
微睡みに溶ける、男の脳裏に浮かんだものは何だったのか。
木に凭れ、目覚めぬ眠りに落ちて行く男の口元には。
柔らかな笑みが浮かんでいた。
幸せのしっぽ・本編完。
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