残り火
『始まり』は何時だったか……
あの綺麗な容姿に惚れたのか、あの清い心根に惚れたのか。
初めてまみえた時に、心が惹きつけられ。
何年も経って気がついた。
――気がついた時には遅かった。
まさか己が恋に堕ちるとは。
否、堕ちていたとは……
己の想いを知った時には、既に手遅れ。
あの琥珀色の瞳も、甘やかな声音も、細く白い指先も……
何もかもに魅せられ、とうに虜になっていた。
ふと懐かしい香りに歩を止め、顔を上げた。
道の先、緩やかな上り坂の頂上が見える。
更にその先に、茜色に染まり始めた空の下。
黄金色の細かい煌めきが見えた。
まるで呼ばれでもした様に、足の進みが速くなる。
一息に坂を上りきれば、見渡す限り金色の稲穂が広がった。
風に揺られる様は海原のよう、揺れる度にキラキラと光の礫が散っている。
知らず、安堵の吐息がもれていた。
「……帰って来たぞ」
坂の上で立ち止まり。
黄金色の広がりを眺めていた男が、己の両手を見下ろし優しげに囁いた。
「少々遅くなったが、約束通り帰って来たぞ」
両手には、鮮やかな白絹に包まれた小さな箱が収まっている。
男はゆるりと目元を細め、愛しげに手の中の箱を撫でた。
「ここは帝都の騒乱とは無縁だったようだ、変わらず昔のままだ……」
――お前が帰りたいと言った、昔のままだ……
石動国の西の端にある第六州、織家が治める小さな州だ。
元々、九つの部族による連合で生まれた国であり。
今も部族ごとに州を治めている。
織家は力も弱く、政とは縁遠いものだった。
おかげで、数年続いていた次の帝を決める争いとも縁遠かった様だ。
男は小さな笑みをこぼすと、道端に佇む一本の木へと歩み寄る。
それに背を預けると、力が抜けた様にゆるゆると座り込んだ。
懐深く抱く箱と、稲穂の揺れる景色とを交互に見ながら男が囁く。
「もう、良いか?」
すっかり茜色になった陽射しの中、金色だった景色は朱金へと変わる。
その美しさに目を細めつつ、男は腰に下げていた水筒を取り上げた。
「お前は怒るだろうな」
――早過ぎます。
小さな白い面を朱色に染めて、華奢な身体いっぱいに怒りを表し睨む想い人。
その姿がありありと瞼に浮かび、男は喉奥で笑った。
笑いながら水筒の中味を飲み干すと、再び景色を記憶に焼き付け。
視線を手元へ落とす。
茜色の光に染まる白絹が、怒る想い人の姿と重なり。
男の笑みが深くなる。
重くなって来た瞼を落としつつ、吐息の様な囁きが流れた。
「許せ、俺の駄々だ……」
そして、感覚も意識も溶けて行く。
完全に溶けてしまう一歩手前、男の手の中で。
コトリ……
と、まるで頷く様に箱が小さな音を立てるのを、確かに聞いていた。
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