ワタワタ/後編
雪女の話。の続き。
「──ねえ、ねえ渡君ってば。止まって、止まってくださいって!」
それは何度目の呼びかけだったか。
予想外にも渡は止まった。
しかし、いきなり止まったものだから、斑は勢い余って渡の背中に追突してしまった。鼻っ面をさすりながら顔を上げると、満足げな顔で見下ろしてくる渡と目が合った。こういう顔をしたときも、やっぱり大抵はろくでもないときなのだ。
「ほら。そこ」
渡は、そう言って道路脇を真っ直ぐ指差した。
古びたブロック塀の、すぐ下。
猫の通り道のような抜け穴。
そこに入れという意味か。
「──渡君から先にどうぞ」
「だって、おれが先に行ったらはだらん逃げるでしょ」
「逃げませんよ。というか、もうここがどの辺りなのか分からなくなってますから、逃げたらおうちに帰れなくなってしまいます」
「だろうね。そうなるように進んだから」
殴ってやりたい。
「じゃあ、いいじゃないですか。お先にどうぞ」
「いやいや、はだらんが先にどうぞ」
斑は不服そうな目で渡を見上げる。が、渡はいつまで経っても底の見えない笑みを浮かべていて、言わばポーカーフェイスのようなその表情は、雪女による氷の眼差しを相手にしてなお揺るがない。
それは「有無を言わせない」といった種類の圧力というよりは、「子供の我がまま」といった方が近いような態度であった。けれど、あまり気の強い方でない斑にとっては、それだって十分に抗いがたいものなのだ。
渋りに渋った末に斑は、そこまで言うのなら仕方がないから先に入ってやろうえっへん、という表情を作って、さらに大げさなため息をつきながらしゃがみ込み、塀の下にぽっかりと開いた穴の中を覗いてみた。
穴の向こう側は、いきなり草だった。
そのせいで塀の内側の様子はまったく窺えない。しかし、まさか獣が出るわけでもあるまい。ヘビくらいならいそうなものだけど、先程アイスも食べてきたわけだし、いざとなったら雪女の力を使って雪だるまにでも変えてしまえばいい。
斑は一度顔を上げ、付近に渡以外誰もいないことを確認した。渡は笑って、
「だーいじょーぶだって。誰もいないから」
そうは言うが、こんなところを誰かに見られでもしたら恥ずかしいじゃすまない。斑は頭を一気に穴の中に突っ込んで、五体をねじりながら大急ぎで進んでいく。服を砂まみれにしながら芋虫のように這いずって、なんとか全身が穴から抜けた。
服についた砂を払いながら立ち上がって、草むらを見渡し、
そして、信じられない景色を見た。
「──うそ。何これ」
目の前に広がったのは、真っ白い雪景色だった。
真冬の山のような、雪に覆われた森だった。
斑は白い息をはきながら、ゆっくりと付近を見渡す。
さっきまで自分が住宅地区を走っていたとは思えないほどの、自然溢れる幽寂な森の景観。斑が立っている辺りは腰まで埋まってしまうような深い草の原になっていて、顔を上げると、群生した細い木々がお化けのような影を浮かび上がらせながら奥へ奥へと続いていた。深雪に覆われた森はうっすらとした明るさに包まれており、斑はさらに視線を上げた。
木々の隙間から空を仰ぐ。たった今まで晴れていたはずの空は重たそうな雪雲を被っており、しんしんと積もり続ける雪はすべての音を吸い込んで、森の中では静寂しか聞こえない。
そんな森、その木々の隙間に、斑はぼんやりとした淡い光を見つけた。
陽射しでも月明かりでもなく、炎の照り返しでもなく、ランプの明かりでもない不思議な光。斑はその光をよく知っていた。知っていたからこそ、それを目にした瞬間に全身がきつく強張った。
それは、妖怪たちが宴を報せるときに使う光だった。
「はい到着です。どう、驚いたかな?」
いつの間にか穴を抜けてきていた渡が言った。
淡い光から視線を外さないまま、斑が訊ねた。
「どういうことです?」
「どうって、具体的には?」
猛然と振り返って、
「全部ですよ! ものの数分でこんな山奥に着いたことも、春なのに雪が降ってることも、渡君がこの場所を知ってることも! だって、わざわざこんな場所につれてくるなんて、わたしが何なのか知ってるってことじゃないですか!?」
それでも渡はまったく動じなかった。そんなことは大した問題ではないとでも言いたげな顔で、こんな場所に来てまで少しおどけた調子で、斑の心を見透かした。
「理由なんて後でいいじゃない。大切なのは、はだらんが今どうしたいかってことだよ」
斑は動けなかった。
自分が本当にやりたいことは、心の底では分かっていた。けれど、心の底というやつはいくつもの言い訳や不安で埋まっていて、滅多に顔を出してくれない。そのうえ、積もり積もった不安たちは確かな重さとなって身体にのしかかり、主の身動きを取れなくしてしまうのだ。
動きたいと思っても、一人の力では叶わないときもあるほどに。
「──時間は少ししかないよ、はだらん。きっと、今が一番のチャンスだ」
その声に押されても、斑は動けない。
「それでも、わたしはもう、」
しかし渡は、魔法の言葉を知っていた。
言いかけた斑の言葉を、枷を、たった一言で切り捨てた。
「君はまだ人間じゃない」
真っ直ぐな言葉だった。
渡の姿形をしたこの誰かが、本当は何であるのか。そんなこと、今はどうでもいいような気がした。たとえ自分が限りなく人間に近い妖怪であっても、あるいは完全に人間になってしまっていても、妖怪でありたい気持ちが残っているなら仲間たちの元へ行くべきだったのだ。
分かっていた。
ただ、人間に近づいてしまった自分が、妖怪たちから嫌われてしまいそうで怖かった。お前なんて妖怪じゃない、さっさと人間になってしまえ──そう言われるのが怖かったのだ。
「行っておいで、斑」
斑はうなずく。
渡に背を向けて、草をかき分けながら草むらを進み、雪の上になると途端に慣れた足取りになって、斑は走り出す。淡い光の傍らに着くと、かつて雪山に住んでいた頃そうしていたように、「わたしも宴に入れてくださいな」と笑った。
光の中には、懐かしい宴の光景があった。
何人もの妖怪がいて、それぞれが好きなように時間を楽しんでいる。飲んだり食べたり、博打をしたり力比べをしたり、仲間と雑談をする者もいれば、ただ黙ってその様子を見詰めるだけの者もいた。
斑は天狗にいきなり酒を勧められて、壷ごと呷ったらいたく気に入られた。酒壷を回す博打にも参加して、顔が二つある鬼をパンツ一枚までひん剥いてやった。親妖怪につれてこられた雪の子には、乱暴にしても壊れない雪人形をあげた。
気がつけば、ずっと昔からその宴に参加していたように彼らの中に溶け込んでいた。
そのとき斑は呑み比べをしている席にいたのだが、ふと何かに気付いて立ち上がった。
それから、宴が行われている光の中を、ゆっくりとした足取りで見回り始める。
宴はまさに、かつての故郷を思い出す光景だった。百を超える数の妖怪が集い、それぞれが一番やりたいこと、一番楽しみにしていることに興じていく。ならば皆の顔は笑顔ばかりかといえばそうでもなくて、悔しがったり、怒ったり、哀しんだりしている者もいる。
けれど皆一様に、この宴を楽しんでいることが伝わってくる顔をしていた。
斑は光の中を歩き続けた。
次第に宴の明るさから離れて、再び雪山の寂しげな薄明かりが周囲を包んでいく。やがて斑は足を止めた。淡い光の支配がぎりぎりで届いている、言わば宴の席の隅っことでも言うべき場所だった。
「ありがとうございます。とても楽しかった」
そこに、渡がいた。
「そう。よかった」
斑は遠ざかった宴の席を振り返って、
「あの宴は、あなたの能力で作ったんですね」
「──うん。おれたちはね、君のような妖怪に、こうやって幻を見せるんだ。もちろん長続きはしないけど、一時でも思い出してくれればいいんだ。それが、きっかけになるからね」
渡が指をぱちんと鳴らすと、静かに宴の光が消えた。
次いで辺りの雪景色も、深い森も消えていく。周りの風景は霧に覆われたように薄くなっていって、それに取って代わって、現実の風景がゆらりと戻ってきた。
見慣れた町並みが目に映る。
斑は自宅の縁側に座っていて、渡はフェンスの上に腰掛けた格好で斑を見下ろしていた。
「あなたたちが来てくれて、よかったです」
そのよどみない言葉に、渡は笑みを返した。
いつもとは違う、変な企みも嫌な思いつきもない、ただの笑み。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。それがおれたちの価値だ」
風が吹いた。渡の身体がぐらりと後方に傾いでいき、斑は慌てて声を掛ける。
「あっ、あの、最後に一つ訊いていいですか?」
「うん?」
「どうして、渡君の姿をして現れたんです?」
その質問に、渡はまた笑った。
今度はいつもの渡のような、底の知れない怪しげな笑みだ。
「実を言うとね、普段のおれたちは人の言葉をしゃべることが出来ないんだ。妖怪としての能力を使ってる間しか言葉を話せない。だから、君と会話をする為に、まずはお隣の渡青年の願いを叶えてやったんだ」
「──願い?」
渡は斑を真っ直ぐ指差して、
「“君の為になることをしてあげたい”」
そして今度こそ渡の身体はフェンスの向こう側に倒れた。
その瞬間、今まで渡だったものが、無数の真っ白い綿毛になって空に舞い上がった。その白い綿毛は、ケサラン・パサランと呼ばれるものだった。願い事を叶える力を持ち、風に乗って空を渡る小さな妖怪たち。
幾千ものケサラン・パサランは、最後の力で、最後にこんな言葉を残した。
「人間とも仲良くやるといい。けれど妖怪としての誇りを忘れちゃいけない。我々はいつだって、仲間の誠実な気持ちを蔑んだりはしないさ。そして、自分もそんな妖怪の一員であるってことを、大切にしてくれ」
強い気流に乗って、ケサラン・パサランたちが流れていく。
空を渡る綿毛の大群は、町を越えて山を越えて、願いを叶える為に空の向こうへと消えていく。斑は縁側に腰掛けたまま、ずっとそれを見送った。
太陽が傾いて、空が赤紫に染まっていく。
夜は音もなくやってきて、朝は鳥のさえずりと共にやってくるだろう。
斑は、ふと思う。
──明日、渡君を誘って町の向こうの山に行きましょうか。
そうだそうだそうしよう、と斑は一人でうなずいた。月曜日だから大学がどうのこうのとか言ってきても関係ないし、容赦もしてやらない。だって妖怪はこれまで人間に散々いいようにされてきたのだから、ちょっとくらい仕返ししたって罰は当たるまい。
明日は渡を思う存分引きずり回してやって、それから山の素晴らしさについて耳が腐って落ちるまで語り聞かせてやるのだ。
そうと決まれば、明日が楽しみだ。
夕焼けの縁側に一人座って空を眺め、百計の雪女はくすくすと笑うのだった。