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ワタワタ  作者: 更級
1/2

ワタワタ/前編

 

 冬が開けた。

 春夏秋冬の順が正しいならば、冬の次には春が来る。

 春というのは暖かい季節なので、(はだら)はどうにも気分が盛り上がらない。八畳の居間にうつぶせで寝そべって、ため息も出ないほど晴れ晴れとした青空を見上げては顔をしかめている。

 というのも、当然の話。

 斑は、雪女だった。

 かつては北にある雪山で暮らしていた。深雪と樹木に覆われた美しく深い山で、山の神様の神通力によって守られ、年中穏やかな土地だった。数多くの妖怪たちが暮らし、毎日のように宴が行われたりもした。斑もよく宴に参加して、どろどろに疲れては雪の中にもぐって眠ったものである。

 疲れていても、それは幸せな毎日だった。

 そんな日々は、唐突に幕を閉じた。

 山に、人間たちが踏み込んできたのだ。

 人間たちが行った土地開発の被害によってそこに住む動物や妖怪たちが棲み処から追いやられるというのは、そう珍しい話でもない。山林が整地され、人間の為の建物が建築されればそこに妖怪たちが住むことはできないし、妖怪たちの主張など人間の知ったことではないから。

 そうして妖怪は姿を消していく。

 多くは妖怪でいることを諦め、人間になっていくのだ。

 斑の住んでいた山にも、同じことが起きた。

 斑とて妖怪のはしくれだ。人間に踏み込まれた山の末路はいくつも聞いている。だが、だからこそ自分の山を見捨てるわけにはいかなかった。

 この山は故郷だから。

 たくさんの思い出が詰まっている場所だから。

 断固抗争だ。残されたのは山の神様と斑だけだったが、復讐の雪女は固く握った拳を高く振り上げるのだった。そして山の神様は斑の肩を優しく叩き、こう言った。

「なあ斑、おれ人間からホテルの永久お食事券もらっちゃった」

 斑は、訊ねた。

「何と引き換えに、ですか?」

「山」

 お食事券で、汚職事件であった。

 あっけない幕切れに、斑はため息も出ない。

 所詮自分はしがない雪女一人であって、山の神様が向こうに回ってしまった以上はもうどうすることも出来ないし、最早どうこうする気も起きやしない。とはいえ、山の神様を責める気にもなれなかった。結局は、自分も立ち退き料をがっぽりもらって、下界に降りて片田舎のアパートに引っ越したのだから。

 とりあえず、振り上げた拳は山の神様のドタマに振り下ろした。



 あれから、季節が何度巡ったのかも数えていない。

 最初は不安だらけだったが、住めば都の言葉通り、斑は何ヶ月と経たない間に人間の世界に慣れてしまった。近所の人には程々な笑顔を振りまいておけば問題ないし、立ち退き料の底が見える気配はまったくないので、家賃にも衣服にも特に困ってはいない。

 懸念があるとすれば「山の精気」くらいのものだった。

 山に住む妖怪というのは、根を生やした土地から元気の源のようなものを汲み上げて活力にしているのだが、棲み処が自然の少ない土地であったりすると、それが上手く作用しなくて妖怪の力を保てなくなってしまうのだ。

 これがエロゲーなら男性からムフフと搾り取るところなのだが、斑は房中術の類を学んだことなど一度もないのであった。

 ならば、どのようにして精気を取り込んでいるか。

 その秘密は、冷蔵庫の中にあった。

 ぽかぽかと身体を蝕む春の陽気に耐え切れなくなった斑は、突如として唸り声を上げて、畳から身体を引き剥がすようにして起き上がった。危なげな足取りでふらふらと向う先は、どうやら冷蔵庫のようだ。

 キッチンの端っこには500リットルクラスの立派な大型冷蔵庫が鎮座しているのだが、もったいないことに冷蔵室も野菜室もその中身はからっぽである。が、しかし、冷凍室の中だけはいつも満タン御礼なのだった。それこそが秘密の正体である。

 雪のように白い指が冷凍室の扉を開く。

 その中身は、まさに「ぎっしり」といった様相であった。斑は顔中にマイナスの冷気を浴びながら、ほくほくした表情で冷凍室の中に手を突っ込んで、あれでもないこれでもないと漁り始める。

 やがて宝探しのような一時が経ち、冷凍室のアラームは早く扉を閉めろと急かし始める。斑はようやく見つけた目的のブツを手に取って、微笑みながら独り言。

「こんな日は、やっぱバニラに限りますねえ」

 取り出されたのは、スーカーパップというアイスの、バニラ味であった。

 冷凍室のすべてはアイスクリームで満たされていた。

 このアイスこそが斑曰く、山の気の結晶なのだ。

 これを食べれば身体はたちまち山の精気で満ち満ちて、妖気はめぐり活力が溢れて百万馬力、雪女だって春の陽気を乗り越えられるパワーを得られるのだ。とはいうが、大量生産の百円ラクトアイスの一体どこにそんな秘密要素が入り込んでいるのかは甚だ疑問である。

 恐らくは、妖怪が持つ神秘的でロマン溢れるヒミツのチカラによるものに違いない。

 まさかとは思うが、「斑の大好物は冷たくて甘いもの」という事実はきっと関係ないはずで、間違っても、仕事帰りの会社員がビールを呷って放つ「生き返るなあ!」とは全然まったくそれはもう別種の作用なのだ。そうに決まっているのだ。

 そんな秘密のアイスを片手に冷凍室の扉を閉め、慣れた手つきでスーカーパップのふたを開けて、斑はアイスの端っこにお気に入りのアイスクリームスプーンを突き刺した。

 そのまま居間を横切って、縁側に腰を下ろす。2メートル先にはフェンスがあり、フェンスの向こう側では人間達が暮らす町並みが午後の慌しさに蠢いていた。

 五月。

 日曜日。

 午後十二時と半分。

 坂の上のアパートで有閑の雪女が一人、アイスを一口食べるごとにうっとりと目を細めて足をばたばたさせている。まるで休日の時間をゆっくり過ごそうとする人間のように。

 しかし、ゆっくり過ごしたくなる気持ちも分かる。日曜日の住宅街にはどこか耳に心地いい静けさがあって、近くの公園で子供たちがはしゃぐ声も、遠くの線路を電車が走っていく音も、バラエティー番組のBGMも、まどろみの中で聞いているかのようだった。

 これじゃあ眠くもなる。

 斑は「くぁ」とあくびをする。アイスのカップを傍らに置いて両手を後ろにつき、身体を伸ばしながら空を仰いだ。どこかの部屋から天気予報の声が流れてくる。「今日は午後から晴れ、お洗濯日和になるでしょう。それでは、週間予報です」

 確かに、今日はいい天気だ。

 ずずいと広がる晴天はこれでもかというほどに青くて、坂の上にいるせいか雲は思いがけないほど低く見えた。その下では山々が尾根を連ねて壁のようにたたずんでおり、斑はふと、あの山には行ったことがないな、とぼんやり思う。

「もしかしたら、あそこにも妖怪が住んでいるかもしれないんですけどね」

 しかし、行く気にはどうにもなれない。その理由は斑自身もよく分かっている。人間の世界でこうも長く、しかも故郷の山を売って手に入れた金で暮らしている自分には、人間の匂いがあまりにも強く染みついてしまっているのだ。

 そんな自分が顔を見せに行ったところで、いい顔をされるとはとても思えなかった。下手をすれば石を投げられ追い返されてしまうかもしれない。

「そりゃあ、半分以上が人間になった妖怪なんて、どこに行ったって嫌われるに決まってますもんねえ……」

 日曜日の晴天に、憂鬱の雪女が独り言つ。

 その直後、いきなり背後から、

「アイスクリームいらないの? いらないなら食べちゃうけど」

「──えっ? うわ、わわっ!?」

 斑は電気ショックを食らったような反応をした。

 大慌てで振り返ると、ラフな格好をした青年が人懐っこい笑みを浮かべてうんこ座りをしていた。どうやら鍵が開いていたらしく、思いもしなかった斑は五秒前に思いっきり際どい台詞を呟いていたことを思い出して、

「わ、渡君!? もしかして、聞いてました?」

「何を?」

 ──よかった。

「聞いてなかったんなら、いいです。あと、アイスはあげません」

 陽射しに当たりっぱなしだったスーカーパップは半ばバニラジュースと化していたが、斑はまったく気にせずに残っていた分を口の中へと流し込む。べたべたになった口許を手の甲で拭い、ぷはっ、と息をついて再び振り向き、

「どうぞ。アイスはないですけど、席ならありますよ」

 青年は苦笑しながら斑の隣に腰掛け、足を大きく伸ばしてフェンスの向こう側に視線を投げる。青年は渡玉樹わたりたまきという名で、斑がここに越してくる前から隣の部屋に住んでいて、変わり者で、散歩好きで、ここら辺の地理なら猫より詳しい二十二歳の大学生である。

「でも珍しいですね。渡君がこんな時間にわたしの所に来るなんて」

 渡は足元にある雑草をいじくり回しながら、

「ううーん、そうかなあ。ほら、おれって基本的に適当だから。いついつこうするっていうのは特に決めてないしね。はだらんなら大抵は家にいるでしょ? 暇なときなんかはちょうどいい感じで」

 はだらん、とは斑の愛称である。といっても、渡くらいしか呼ばないのだけれど。

「あのですねえ、わたしの部屋は暇つぶしの為にあるんじゃありません。というか渡君、この時間っていつもは森だか山だかの方にいるでしょう? ハイキングコースがあるとかで。だから、わたしの家にいるなんて珍しいって、そういうことです」

「そうだっけ? そうだったかな。うん、そうだったかも」

 ぶちん、という音が渡の足元から聞こえてきた。雑草を一本むしった音である。その雑草は細長くて丈夫で真っ直ぐな茎を持っており、渡はそれをアリの巣に突っ込んでいじくるという、実に幼児的な行為を始める。

「でもほら、はだらんおれがいくら誘ってもついてこないじゃん。──ああ、そうだそうだ思い出した。今日はそれが用件。うん、暇つぶしじゃなくて、そういった用件だったの」

「……今決めましたね?」

「いやいや、まさかそんな」

 渡が操る雑草によって、アリの巣からは続々とアリが出てきていた。渡は次に、置きっぱなしになっていたアイスのカップを手に取って、ほんの少しだけ残っていたアイスの残りを土の上に垂らしてみた。アリが反応してくれるか。渡はじっと様子を窺いながら、

「でも、誘ってもついてこないっていうのは間違ってないでしょ? お買い物行こうとかさ、散歩しようとかさ、そういうのはいつも誘えば一緒に来てくれるのにさ、町の向こうの山っていうと絶対ついてこないんだもん。なんで?」

 斑は言葉に詰まった。

 妖怪に投石されるから嫌だ、とは言えまい。遠いから、というのもちょっと弱い気がする。この渡という青年は生半可な変人じゃないから、遠いのが嫌だなんていったら「おれがおんぶしてあげるから距離は気にしなくていいよ」とでも言いかねない。

 どう言い訳したものか。

 考えに考えて、こう答えた。

「時間が駄目です。山っていうとあっちの、」

 斑はフェンスの向こう、町を越えた先にある山々を指差して、

「上津の方でしょう? 今から出かけたら、完全に日が落ちちゃいますよ」

 墓穴だった。

 渡が目を見開き、歯を見せて十代のように笑ったものだから、斑にはそれがすぐに分かった。こういう笑い方をしたときの渡は大抵がろくでもないことを思いついたときで、その思いつきは大抵が斑の考えられる範疇の外である。

 何をする気かは知りませんけど山なんて行きませんから──斑がせめてそう伝えようとした瞬間、渡はそのタイミングを見透かしていたかのように立ち上がり、斑の方へ振り向いて親指を立て、玄関の方へ颯爽と消えていった。

 何も言わずに、である。

 その無言が残した不気味さといったらない。どんな企みがやって来るのかと斑は身構える。しかし、十秒経っても二十秒経っても沈黙は沈黙のままで、日曜日の静寂はゆっくりと戻ってきた。全身に張り巡らしていた警戒の糸がほぐれ、思わず安堵の息が漏れて、独り言も一緒に漏れた。

「どうやら、助かったみたいですね」


 そんなわけがなかった。


「それじゃあさっさと行こうじゃないか」

 聞きたくなかった声が聞こえてきた。しかし斑に耳をふさいでいる暇はなくて、いきなり背中を押されたかと思うと、今度は右手を取られて強引に外へと引っ張り出された。縁側の袂にはつっかけが置いてあり、斑は何とかそれに足を突っ込んで、裸足でのままでいることは避けたのだが、

「よし。じゃ、走ろうか」

 また墓穴。

 裸足じゃなくなったことで渡の足取りに容赦がなくなった。斑はつんのめったまま走らされているような格好であっという間にアパートの庭から外へ連れ出され、迷路のように入り組んだ住宅地区で右へ左へと引っ張り回されていく。

「ちょっ、と! 待って待って待ってください、ねえちょっと渡君!」

 もちろん聞く耳なんて持ってくれず、町の風景は次々にスライドしていく。見慣れたはずの景色なのに、全速力で駆けるとそれはまるで違う景色に見えた。

 渡がその土地勘を利用して走っていく道順のせいもあろう。普通なら通らないような脇道や抜け道をいくつも使用して、さらには民家の庭を通り過ぎたりもして、斑はどんどん現在位置が曖昧になっていく。

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