99. 剛の拳
「ちっ……そうそう進まんぜ、こりゃ」
「……っ」
武装馬車の御者台にて、ベルグレッテは焦りを押し殺していた。
壊れた車輪の修理を終えていたアントニスの武装馬車に乗せてもらい、クレアリアたちを追っている最中である。――が。
前方には、大通りにひしめいた馬車や人々。
ただでさえ賑わう真昼の王都。非日常の事態が発生したことによって、道は大混雑を極めていた。
こんなとき、通信の不得手な自分がもどかしい。
ベルグレッテの技量では、どこにいるか分からない人間に連絡を取ることはできないのだ。
神詠術の向き不向きというものは個人差が大きく、努力ではどうにもならないことも存在する。
一般に広く浸透している通信といえどその奥は深く、またベルグレッテの才覚とも相性が悪かった。
「そっちの脇道に入るしかねぇか……!」
アントニスは巧みに手綱を操り、狭い道へと強引に馬車を乗り入れる。
比較的人も少ない道を、馬車は勢いに乗って走り始めた。
「痛ッ……」
「え、どうかしましたか?」
突然顔をしかめたアントニスに、ベルグレッテは驚いた。石でも跳ねたのかと思ったが、違うようだ。
屈強な御者は馬車を走らせながら、左手で右の二の腕をさする。そこにあるのは、大きな古傷だ。大きく抉られたような傷跡。
「その傷……痛むんですか?」
「いや、こりゃぁもう随分と古いもんでよ。今更、痛むようなこたぁねえはずなんだが……」
武勇を重んじるレインディールには、「傷は男の勲章」という言葉もある。
やはりアントニスも典型的なレインディール気質の男なのか、どこか誇らしげに語り始めた。
「俺はこう見えても、若い頃は戦いに明け暮れてなぁ……色んな奴、色んな怨魔と戦ったもんよ」
「は、はい」
しまった、とベルグレッテは思った。これは長くなりそうだ。
――しかし、武勇伝を語るかと思われたアントニスは表情を曇らせる。
「そんな中で、俺の負った一番大きな傷がコレなんだ。現役を退く切っ掛けになった傷でもある」
確かに、ひどく大きな傷だ。神詠術によるものではないだろう。剣か、斧か。怨魔の一撃か。
「でもよ、ケガが酷くて現役を退いた訳じゃねえんだ。折れちまったのは、心の方だな」
「え……」
意外な発言に、ベルグレッテは隣で馬車を駆るアントニスへと顔を向ける。
「この傷を付けたのは、十も年下の若造でよ。しかも同じ風使い。そのうえ、詠術士としては俺より明らかに劣ってた。そんな奴が――」
アントニスはどこか、清々しいほどの表情をしていた。
「拳で、この傷を付けやがったんだ。ホンットに強え野郎でよぉ、今頃はどこで何やってんだかな。名前は確か――ディーマルドって言ったなぁ」
凶悪な唸りを伴った右拳が、黒い残像となってアルディア王の顔面を狙った。
王が左の拳でそれを受け流した瞬間――重苦しい音が響き、ディーマルドの身体が浮き上がる。
「……、ふ……!」
刹那に十センチ近くも浮き上がったディーマルドは、息を吐き出しながらよろめいて後退した。
膝蹴り。
拳を受け流しながら繰り出しされたアルディア王の左膝が、カウンター気味にディーマルドの脇腹を捉え、勢いを即座に断ち切っていた。
「……ふむ」
アルディア王は、ディーマルドの拳を受け流した自身の左拳を見下ろす。
受けた手の甲の皮がズルリとめくれ上がり、赤い血を滴らせていた。
一瞬の交差に、民衆たちから歓声が沸き上がる。
(速え……)
流護は心中でそう感想を漏らす。
どちらもが、速い。二人とも長身で大柄な体格をしているにもかかわらず、軽量級のような体捌きをしていた。そこはグリムクロウズの人間であるがゆえ、見た目ほどの体重がないのだろうが、それを考慮しても二人は速い。
アルディア王の膝蹴りの威力。腹当てを巻いているはずのディーマルドだが、それでもダメージは充分。腹当てがなければ、肋骨をへし折っていただろう。
対する、ディーマルドの黒いガントレットによる拳打。アルディア王は見事に受け流したが、それでも左手を文字通りの意味で削り取るかのような威力。直撃すれば、人間の命など容易に散らすはずだ。
神詠術の撃ち合いが基本となるはずの、詠術士同士の闘い。
しかしこの二人は、体術のみであっても敵を打倒し得る技量を有している。
――強い。双方共に。
空手家の端くれである少年は思わず、背筋をぶるりと震わせた。
「おっと……そういやぁ、まだ決めてなかったな」
薄笑みをたたえたまま、アルディア王は思い出したとばかりに語りかける。
「この勝負……何を以って決着とするんだ?」
脇腹を押さえたディーマルドは、胃液混じりの唾を吐き捨てて答えた。
「決まってんだろ。どっちか片方……いや、てめぇが死んだ時点で決着だ!」
拳士が疾る。
怒号と共に鋭く間合いを詰める――はずのディーマルドは、王の手前、二メートルほども離れた位置で右拳を振りかぶった。
(は? 何やってんだ、ありゃ――)
当たる訳がない。拳どころか、剣だって届かない間合い――と、流護が思った瞬間。
「お!?」
アルディア王の巨体が、ガクンと揺れた。
足裏を引きずりながら、まるで綱引きで引っ張られるみたいに、その大きな身体がディーマルドのほうへと吸い寄せられる。
「あいつ、風使いか!」
誰かが叫んだ瞬間、
「ハァッ!」
磁石のようにディーマルドの間合いへと引きつけられたアルディア王の顔面に、狙い澄ました黒の拳が炸裂した。
王の顔がぐるんと横殴りに弾け、ビチャッと音を立てて赤い飛沫を散らす。
(死――)
流護の脳裏によぎる、その一文字。
あの物々しい金属のガントレットは、もはや棍棒と大差ない。あんなもので顔を打ち抜かれれば、一撃で――
そこで今度は、ディーマルドの身体がガクンと傾いた。
「!?」
打ち抜いて伸び切った状態となったディーマルドの右腕。
その腕を顎の下で挟み込んだアルディア王が、口の端から血を流しながらニヤリと笑う。
王は顎と首に力を込めて、挟んだディーマルドの右腕を思い切り引っ張った。その様はまるで、獲物に食らいついた巨大獣。
「ぐっ!」
体勢を崩されて引き寄せられながらも、ディーマルドは身を固め、襲い来るはずの一撃に備える。
流護も思わず想像した。超至近距離。拳か膝か神詠術か。何が来ようと、自分もディーマルドと同じく身を固めて防御するだろう。
アルディア王は縮こまった相手の腰に両腕を回し、ガッチリと掴み込む。
「ハ――ァッ!」
気合い一閃、そのまま後ろに倒れ込みながらディーマルドを放り投げた。放物線を描いた金髪の拳士は、大きく宙を舞って石畳へと叩きつけられる。
「が、っは……、!」
拳士は数度バウンドしながら石の大地を転がった。
観客たちの歓声が爆発する。
「う、裏投げ……」
まさかこの世界でそんな技が飛び出すと思っていなかった流護は、ただ呆然と呟く。
「相変わらず無茶をなさる……」
流護の近くで観戦していた老人が、安堵の溜息をついた。
両腕を突き上げて民衆に応える王と、うつ伏せに倒れて動けないディーマルド。
プロレスじみた光景だったが、あの男のダメージは深刻なはずだ。下はマットではない。舗装されたアスファルトですらない。ゴツゴツとした粗い石畳。
身体の小さな流護も、路上でケンカする際に最も留意していた点だ。『投げ技だけは喰らってはならない』と。
(それにしても――)
流護は内心で戦慄していた。
――この王は、心得ている。
これは、『魅せる』ための闘いだ。強き王の姿を。逆らった者の末路を。
荒事に詳しくない民衆たちが見ても分かる、誰が見ても理解できる、圧倒的な王の強さ。
力を誇示するための、観客を意識した闘い。
殺そうと向かってくる相手に対してそれを実行する、その技量。
倒れたディーマルドは動かない。
本来ならばこれで決着だろう。しかし――
「さぁーてと。ケンカならこれで終ぇなんだがな。だが……相手の死を以って決着とする決闘だったっけかなァ、これは」
アルディア王は悠々とした足取りで、うつ伏せに倒れたディーマルドへと歩み寄る。
そう。これは、殺し合い。
王があと数歩で倒れた男の下へ到達する――その瞬間。
ディーマルドの身体が糸で吊り上げられたように不自然な動作で――しかし一瞬にして浮き上がり、
「シッ――!」
黒い尾を引いた右拳が、アルディア王の顔へ叩き込まれた。
流護はゲームで見覚えのある人型戦闘ロボットを思い出す。
ディーマルドは倒れた状態から風を駆使してホバリングするように起き上がり、その勢いのまま右拳を叩きつけていた。
打ち抜いた拳の勢いに従い、アルディア王の顔がぐるんと横を向く。鮮血が飛び散る。顔が横に弾けるほどの、鉄の拳による一撃。即死したっておかしくはない。民衆たちからも悲鳴が上がる。
しかし確かな一撃を決めたはずのディーマルドは、かすかに目を見開いた。
流護もそこで気付いた。気付いて、ゾッと肌が粟立った。
(……『それ』ができるのかよ……!)
こんな鉄製の拳を受けて、なぜアルディア王は倒れないのか。
格闘技の世界には、拳が当たる瞬間、首を捻ってその威力を殺すという超高等技術が存在する。
(スリッピング・アウェー……!)
動画でしか見たことがない。
避けることが上手いとされる流護ですら、到底成し得ない芸当だった。
瞬間、ディーマルドの顎下が爆ぜた。
「――、……――ッ!?」
男の長身がスロットリールみたいに空中で縦回転を起こす。
しかし咄嗟に風を吹かせ、辛くも倒れず着地した。
「……、が……は!」
拳士は直撃を回避していた。凄まじいまでの反応速度。それでもかすめた一撃に膝が言うことを聞かず、石畳へ手をついた。大地に、ぽつぽつと赤い雫が落ちる。
右足を突き出して立っているアルディア王を認識して、ディーマルドはここでようやく馬鹿げた速度と威力の前蹴りが飛んできたのだと理解したようだった。
「ん~、いいねェ……死んだフリからの奇襲、直撃すれば死にかねねぇゴッツい凶器……『殺し合い』はこうでなきゃなァ」
一国を背負っているその男は――『殺し合い』という事態に巻き込まれることなど絶対にあってはならない立場にいるその王は、口の端から血を流して笑う。そしてまた――野性的なその顔に、鮮血がひどく似合っていた。それこそが本来の姿であるかのように。
――と。
アルディア王の顔から、ふと笑みが消える。
「よぉ」
片膝をついて荒い息を吐くディーマルドを見下ろしながら、巨躯の王は問いかけていた。
「続けるかい」
流護の耳に届いたのは、周囲の喧騒にかき消されそうな声。
今しがた「殺し合い」と口にしておきながらの、その問いかけ。響いてきた巨王の声音は、どこか悲しみを帯びているようにも聞こえた。
黒拳の男は、荒い息と共に返す。
「当たり前……だろうがよ……」
「だよなァ」
答えの分かっている問い。返ってくる答えがあらかじめ分かっていて、それでもあえて問うたような。その固い意志を、確認したかのような。
ディーマルドがゆらりと立ち上がる。
「……待たせたな」
「なぁに」
拳士が地を蹴って応えた。
双方の距離、約三歩半。
届かない間合いで、ディーマルドは手繰り寄せるように左拳を横へ薙ぐ。縮こまった左フックのような軌道。
同時、詠唱を終えていたのか――術を解き放った。
「風よ!」
爆発した。
「うっ、わ!」
「きゃああぁっ!?」
円周状に広がった烈風に煽られて、観戦していた人々から悲鳴が上がる。流護も思わず顔を手で庇った。
しかし、ただの風。
ディーマルドが振るった左拳から発生したのは、敵を刻む風の刃でも、打撃力すら伴う風の塊でもない。飽くまでもにわかな突風。
拳打でもない。術を発動するための動作。
だが。
「おぉ!?」
至近距離、真正面から風の直撃を受けたアルディア王は、大きくその巨躯をぐらつかせた。そして追い風の余波に乗ったディーマルドが、鋭く右足を踏み込む。
同時――、体勢を崩した王に向かって繰り出される、直線の一撃。左の黒い閃光。
(――当たる!)
様々な格闘技を見てきた流護の目から見ても申し分ない、ディーマルドの左ストレート。
『双拳武術』と呼ばれる格闘術。さすがに流護の知る近代ボクシングと比較すれば技術や精度は劣るが、弛まぬ鍛練に裏打ちされた拳。黒鉄の甲による一撃は、この上ない逆転の一矢だった。
完全に体勢を崩したアルディア王は、今度こそスリッピング・アウェーでいなすこともできない。
ばぎん、と嫌な音が響き渡った。
「……、ってェ~……」
王は笑う。
「……な、に」
ディーマルドは目を剥く。
あろうことか、アルディア王は黒鉄の拳を左手のひらで受け止めていた。その太い指の数本が、異様な方向へとねじれている。
「い~い拳だ。速え、痛え、クッソ痛ぇ。けどまぁ」
アルディア王はディーマルドの拳を掴んだまま腰を落とし、屈み込むような体勢を取った。
「――この程度じゃ、命はやれねぇな」
直後。
おかしな音だった。ボンッという、爆発音にも似た。
アルディア王がその巨躯を屈み込ませた状態から伸び上がるように放った、豪快にすぎる右のアッパー。ディーマルドの腹へと直撃した剛打は、その長躯を五メートル以上もの高みへと打ち上げていた。
「――――――は?」
流護は思わず間抜けな声を漏らしてしまった。
――当たり前だ。人間があんなに飛ぶか。ボールじゃねえんだぞ。
流護の渾身の拳だって、デトレフの身体をわずかに浮かせた程度でしかない。
しかし実際、ショットされたように宙を舞ったディーマルドは、先ほどの裏投げの倍以上もの距離を滑空して大地へ激突した。
民衆たちが大歓声を爆発させる。
あんぐりと口を開けて固まった流護に、観客たちの声が聞こえてきた。
「出たああぁ! ギガンティック・ストライク!」
「陛下の膨大な筋力と、熟達した神詠術技術によって裏打ちされた、恐るべき一撃。かのガイセリウスとて、このような一撃は放てまいて」
力と神詠術の融合。流護は少し冷静さを取り戻した。
それはそうだ。単純な打撃で、あんなにも人間が吹き飛ぶはずはない。
流護もレドラックファミリーと戦闘した際、同じように敵を飛ばしたりはしたが、あれは遠心力を利用した『投げ』だ。殴った衝撃で人間を吹き飛ばすことなどできはしない。
しかし。太い腕を突き上げて民衆の歓声に応える王を見やりながら、流護は考える。
これが――アルディア王。
正直なところ、ディーマルドも相当に強い。これまで見てきた中でも最強の部類に入るだろう。あの凶悪な黒いガントレットに包まれた腕から繰り出される鋭い拳。自分ならどう立ち回るだろうか。
しかしそのディーマルドが、まるで子供扱いだ。
またも、傍らの観衆たちの声が耳へ届く。
「なぁ……王様って、こういう戦闘スタイルなのか? 身体強化しながら、素手で闘うみたいな。見てる限り、何の属性使うのかもよく分からないし」
「ああ、お前は陛下の闘い見るの初めてか。そういや留学してるんだもんな。陛下の属性は炎だ。二つ名は『焔武王』。巨大な炎の斧とかで、豪快に敵を薙ぎ倒す闘い方が本来だな」
「え? じゃあ何で、今はこんな……」
「はは……敵が『双拳武術』を使うから、それに合わせて陛下も素手で闘ってるんだろう。あとはあの『竜滅』の勇者が素手で敵を倒しちまったから、密かに対抗してんだよ。負けず嫌いなんだよな、陛下って」
そう言う若者は、自分の父親を自慢しているかのように誇らしげだった。
……しかし。
若者の言う通りだとするならば……アルディア王は、本来のスタイルではなく……つまるところ、手加減をして闘っているということになる。そのうえで魅せることを意識しながら、ディーマルドを圧倒している。
アルディア王には、ロイヤルガードというものが付いていない。必要ないからだという。
臣下たちは当然ながら気を揉んでいるようだが、当の王は「ロイヤルガードって同性しかツケらんねぇだろ。女ならいてもいいが、男なんざに四六時中ひっつかれてたまるかよ」などと言っているらしい。流護はベルグレッテからそう聞いていた。
事実、強い。下手な護衛など、足手まといになりかねない。
同じ炎属性でも、速度や手数で圧倒するディノとは真逆。豪胆で重々しいパワー。『剛』という、分かりやすい強さ。
目の前の決闘に釘付けとなりながらも、流護は思わずにいられない。
(どっちが……強いんだ……?)
アルディア王とディーマルドが、ではない。
――有海流護とアルディア王だったら、だ。
格闘技者の性質とでもいうべきか、知らず知らずのうちに流護は考えてしまっていた。
自分ならこの人とどう闘うだろう、と。
(は……)
夏の空気に汗を拭いながら、落ち着けと自分を諭す。
さて。それはともかくとして、これはさすがに決着だろうか――
「……!」
打ち捨てられたみたいに転がっているディーマルドへ視線を向けていた流護は、思わず息をのんだ。
起き上がる。立ち上がる。
殴られた衝撃はおろか、地面に叩きつけられた衝撃だって相当なものだろう。起き上がれるはずがない。
しかし金髪の拳士は、血反吐を流しながらも立ち上がった。
「……ハッ、……ハァッ……、」
その瞳に、確かな強い光をたたえて。




