98. 悲願の男
曇り空に木霊した、ジンディムの要求。
それは――
『アルディア王よ。我等の代表と、一対一で闘ってもらう。それが、こちらの要求だ』
周囲の全てが、完全に沈黙した。
「……は?」
流護は思わず、空中に浮かぶ巨大な波紋を見つめる。
リーフィアじゃ……ない?
静まり返っていた人々も、にわかにざわつき始めた。
「ど、どういうことだ?」
「陛下と、闘うだと……?」
周囲の騎士たちも動揺を隠せないようだった。
『……ふむ?』
アルディア王も眉をひそめて、寝起きみたいな声を出す。
『何だって? 俺と……闘うだぁ?』
『そうだ。これから、我等の代表をそちらに遣す。その者と決闘してもらおうか、アルディア王』
『……んん? 本当にそんなことでいいのか? それが本命の要求だってのか?』
『そんなこと、とは余裕だな。決闘に勝てるつもりでいるのか? 生き残れるつもりでいるのか? 一国の王としては、十二分に憂慮すべき事態だと思うが?』
『……ふうーん……まぁ、いいけどよ』
アルディア王はボリボリと頭を掻きながら、散歩に行くかのような足取りで歩き始めた。
「へ、陛下!」
「陛下!」
周囲の騎士たちが慌てて進路を塞ぐ。
「おら、どけよお前ら。向こうが決闘してぇってんなら、やるしかねえだろ」
「し、しかし……」
てっきりリーフィアの引き渡しを要求してくるものだと思っていた流護は、アルディア王と同じく唖然としかけてしまったものの、よくよく考えてみればこれも充分に非常事態だ。
一国の王がテロリストなどと決闘をして、命を落としてしまうようなことになれば――。
敵の要求が『アルディア王との決闘』である以上、代理として流護が出ることもできない。邪魔や横槍を入れることも不可能だ。
(いや、つーか……むしろこれは――)
少しずつ熱が回るように実感する。その危険性を認識する。
いわばこれは――敵が勝ち取った、『国王を堂々と殺すことができる権利』。
勘違いだったのだ。
リーフィアの身柄を要求し、そのうえで「全ての人質と引き換えでもいい」と言ったジンディム。
全ての人質と引き換えでいいということは、それこそが本命の要求だ――と思ってしまった。
しかし、違う。敵はおそらく、最初からこの要求をするつもりでいた。誰にも邪魔されずアルディア王を討つという機会を作り出す、この目的のために。
『では――決闘を了承したということで良いのだな? アルディアよ』
『構わんぞ。って、断れねぇんだろ? 大体よぉ』
『英断だ。ついでに、武装馬車を用意してもらおうか。この目的を達した我等が――貴様を殺した我々が、悠々とこの美術館から去るためのな』
不遜な要望にも、にい、と笑った王が答える。
『あいよ。俺が勝とうが負けようが、決闘終了した時点で馬車を寄越す。それでいいか?』
『物分かりが良くて助かる。では、出てきてもらおうか。こちらの代表も向かわせる』
やり取りを終えて、上空の波紋が消失した。
「おーし、どけどけーいっ」
アルディア王は身に纏っていた赤いマントを脱ぎ捨て、道を阻む兵士にバサリと被せた。
「うわっ」
よろけた兵士を大きな手でどかし、ズンズンと進んでいく。
「……!」
流護はアルディア王の体躯に目を奪われた。
会った当初から、大きく引き締まった身体つきをしているとは思っていた。しかし今、マントを脱ぎ、薄い上着一枚となったその上半身。その背中。
それはまるで、肉によって作り込まれた鎧。
見事なまでの背筋だった。首から肩、背中へとなだらかに続いている、とてつもなく肥大した僧帽筋。身体から浮くほどに盛り上がった広背筋。
流護としては、鍛えるのが苦しいのは腹筋、難しいのは背筋と考えている。
まともな器具や知識もない、神詠術の存在ゆえに肉体の鍛錬が重要視されていないはずの世界だというのに、アルディア王の肉体は完成形と表現していい錬度を誇っているように見えた。
話には聞いていた。
自国には『武王』と評され、敵国には『暴王』と揶揄されるその巨大な雄。
老若男女、きっと誰が見ても一目で分かる。獅子を前にしたかのように理解できる。この男は――とてつもなく、強いのだと。
そう、本能に訴えかけてくる雰囲気を纏っていた。
この場の誰よりも背丈の高いアルディア王が、人波をかき分けて堂々と進み出てゆく。その様はまるで、海原を進む戦艦のごとし。流護はその迫力に圧倒された。
「王様ーっ!」
「きゃー! 陛下ーっ!」
「うおおおぉアルディア王万歳いいぃ!」
アルディア王は手を伸ばしてくる民衆たちへと応えるように、その丸太じみた太さの両腕を伸ばす。タッチを交わしながら進んでいく。比例して、民衆たちの喝采も大きさを増していく。
「はは、格闘技の選手入場かよ……」
流護は思わず呟いてしまう。しかもとんでもない人気選手だ。
人々の熱狂ぶりは、先ほど流護がフェル・ダイを倒したときの比ではない。そのフェル・ダイに爆弾が仕掛けられていて危険な状態だというのに、彼らに憂いの色などは全くない。
国民たちは信じている。微塵も疑うことなく。
アルディア王の勝利を。この王ならば、脅威を取り除いてくれると。
流護からすれば、ほとんど狂信にすら思えてしまう絶対の信仰。だが国民たちにしてみれば、信ずるに値する何かがあるのだろう。
熱狂の渦の中、両腕を天に向かって突き上げたアルディア王が広場へと躍り出た。
これだけで拍手喝采、呼応するかのごとく大気が振動する。テンションが上がりすぎたのか、流護の右斜め前にいる若い女性がふらっと倒れてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
近くにいた兵士が慌てて介抱に向かう。ライブか何かじゃないんだからさ、と流護は内心で突っ込んだ。
『いやぁー……実は、リューゴの闘いを見て疼いちまっててなぁ。ちょうどいい申し出だったぜ。いつもだったらよ、ラティアスの野郎が「陛下が自ら闘いに出るなど、一国の王としてあるまじき行為です。もっと自覚を持って行動なさいますよう」とか言ってくるところだぜ? うるせーよバーカ、お前は俺の嫁か何かかってんだよなぁ』
ラティアスの声真似を交えたアルディア王の語りに、人々がどっと沸く。
そこで流護の左斜め前にいる若い女性陣が嬌声を上げた。
「よ、嫁!? 嫁って仰ったわよね今!」
「ラ、ラティアス隊長って、あんなかっこいいのに浮いた噂とか全然聞かないと思ってたけど……や、ややっぱり、そういう……!?」
……聞かなかったことにしよう。
流護は王のほうを見やる。
観客を沸かせながら美術館へと向き直り、どっしりと敵を待ち構えるアルディア王。
格闘技の世界においても頂点の座に君臨する者を『王者』と表現することがあるが、まさに今、そこに佇んでいるのは正真正銘の『王』だった。
見計らったかのように、美術館の扉が開け放たれる。
出て来るのは、一人の男。
撫でつけた金髪のオールバック。面長で彫りの深い顔立ちに、青く鋭い眼光。整えられた口ひげ。
濃紺一色の軍服めいた衣服に、両腕を包み込む、黒い甲虫じみた無骨なガントレット。流護の見知った男――ディーマルド。
しかし違うのは、その表情だった。
酒場で見たときのような、飄々とした余裕を感じさせる雰囲気ではない。
その双眸は明らかな怒りを秘めて、アルディア王を睨めつけていた。
奇しくも――この男も、どこか王者のような風格を漂わせているように見える。
(やっぱここで……出てくるのか)
おそらくは、敵側で最強の男。
その人選と表情から、確かな本気が感じ取れる。
流護は決闘を見守るべく、人波の最前列へ出た。
アルディア王とディーマルドが、約三メートルほどを離れて向かい合う。
――デカい。
改めてそう認識する。ディーマルドの身長は二メートル弱。先ほど闘ったフェル・ダイより少し高い程度か。それでも流護から見れば相当に大きい。
そして、アルディア王。ディーマルドを悠然と見下ろすその背丈は、優に二百四十センチを越えるだろう。間違いなくヘビー級同士の対決だ。
「い~いツラ構えだなぁ、伊達男。名前は?」
己を睨む金髪の男を見下ろし、アルディア王は気軽な調子で問う。
「ディーマルドだ」
「そうか。それじゃ早速始めるか、ディーマルドとやら」
「おいおい、それだけかよ。何も訊かねぇのか? アルディアさんよ」
「あん? 訊く? 何をだ?」
首を傾げるアルディア王に、ディーマルドが視線を一層鋭くする。
「俺たちが何者なのか。なぜこんなテロを起こしたのか。なぜここまでして、俺がアンタとの決闘を望んだのか。山ほどあるハズだろ」
「ああ、成程な。ま、後にしようや。そういうのは」
「何だと……?」
ディーマルドが遠目にも分かるほどに怒気を孕む。
「んなこたァ、後でみっちりと訊いてやるよ。で、お前さんは何があろうとこの俺と闘る。そのつもりで出てきたんだろ? 説得したらやめるのか? やめねぇよな? だったら、それでいいじゃねえの」
アルディア王が首を左右に傾けると、バギンゴギンと凄まじい音が鳴った。
「闘りてェんだろ、俺と」
獰猛な笑みを浮かべるアルディア王は、一国の主などではなく――群れを統べる百獣の王にすら見えた。
「……そうさ。無抵抗の貴様を殺す程度じゃおさまらねぇ。だからわざわざ決闘って条件にした。てめえの王としての尊厳と……その自慢の腕っ節をへし折ってやらねぇとなぁッ!」
ディーマルドが両腕を上げ、構える。
「!」
流護は目を見張る。
左の手足を前に。右手足を引き気味に。
その構えは――ボクシングの、オーソドックススタイルに酷似していた。
「ありゃ、『双拳武術』か……」
「え、何だそれ?」
隣にいる民衆たちの会話が聞こえてくる。
「北東の地域に伝わってる、拳技を駆使する格闘術だよ。特に、シュッツレイガラルド辺りで教えてたはず」
「へぇ~」
「っても、大した神詠術が使えねえ連中の競技みたいなもんだ。こんな決闘で使えるようなもんじゃねぇはずだぞ。しかも、あの陛下を相手に。ナメてんのか、あのヒゲ野郎」
黒いガントレットに覆われた腕を油断なく構えたまま、金髪の拳士は言葉を紡ぐ。
「『ラインカダルの惨劇』……って言えば分かるか、アルディアさんよ」
「……そうか。あの子供たちの……」
「ああ。貴様に見殺しにされた、何の罪もない子供たち……その中の一人、アスターは……俺の息子だったんだよォッ!」
吼えたディーマルドの周囲を、かすかな風が覆い始めた。