97. 策謀の渦
「――完了だ」
ジンディムは一際大きな息をつき、頬の傷痕を撫でた。
約二十名の武装した同志たちが、主導者へ喝采を送る。
――全ては、このための布石だった。
まず最初の交渉。
「食事と引き換えに人質の一人を解放しろ」というアルディアの要求に、あっさりと応じた。
「簡単に応じるということは、『人質に』罠が仕掛けられているかもしれない」
そう疑惑を抱くよう、思考を誘導した。
実のところ、アルディアが言い出さなければ、ジンディムは自分から同じような提案を持ちかけるつもりだったのだ。
次に、交渉をこじれさせ、平行線へと持っていく必要があった。
最初から分かっていたのだ。相手がリーフィア・ウィンドフォールの引き渡しに応じないことなどは。
交渉が進まなくなれば、アルディアは局面を動かすために一石を投じてくる。そういう男だ。そして、決闘だの何だのという荒事を好む、野蛮なレインディールの人間だ。集まった民衆たちに対するパフォーマンスも含め、決闘を提案してくることは想像に難くなかった。
そこで、施術したフェル・ダイを送り込む。負けることを前提で。
フェル・ダイも腕の立つ兵ではあるが、『銀黎部隊』でも上位の者が相手となれば、まず勝ちの目はない。そしてこの場ですぐ殺されることもない。実際に出てきた対戦相手は騎士にも見えなかったが、ともかくフェル・ダイは敗北し、敵の手中に落ちることとなった。――計画通りに。
敵に『危険物』を飲み込ませることには成功したが、この計画を遂行する中で、常に警戒を余儀なくされていた存在があった。
ナスタディオ・シグリス。
一瞬で全てを瓦解させてくる危険性のある『ペンタ』。
美術館占拠からしばし時間が経つも、ナスタディオはその姿を見せなかった。食事の運搬係として最初から仕掛けてくることも考えていたが、それもなかった。途中の交渉にて、物品引き渡しの際に入り込んでくるかと思ったが、それもなかった。
姿が見えないとなると、どこで何を企んでいるか分からない。
必要であれば、現われるまで人質解放の時間を引き延ばすことも考えたが――つい先ほど、ようやくその姿が確認できたため、この段で実行に移したのだ。
隠れて何か仕掛けようとしているのではないかと警戒していたが、単純に到着が遅れただけのようだった。神経を張り詰めていただけに、正直なところ拍子抜けだったともいえる。
王陣営はこちらの隙を窺い、神詠術爆弾を解除しようとするだろう。
通常、高度な罠の術に対処する場合、当然だが高い技量と時間を必要とする。相手側もジンディムの通信技術から推し量って、罠の解除に二十分程度が必要と見込んでいるはず。
そして、この場へ集まった全員を人質にできるほどの術となれば、解除できるのは現在ナスタディオしかいないはずだ。これで、彼女の行動は罠の解除作業によって封じられることとなる。
二重三重の術式を施しておいた。『気付く』まで、十五分はかかるはず。
もっともこれらの予想が外れたとて、まだ手段はある。
例え事態が最悪の方向に転がったとしても、勝つための策は巡らせてあった。ノルスタシオンが……ジンディム・トルストイが敗北することは――ありえない。
――アルディアよ。貴様は今、どんな貌をしている?
しまった、と苦悩に満ちた貌をしているのか?
それとも、まさか。
私の思惑を……『仕掛け』を見破ったつもりになって、ほくそ笑えんでいたりはしないだろうな?
だとしたら見当違いだ。
やはり貴様は、私の掌上で踊っているにすぎぬ――。
「さて……私の仕事はここまでだな。次は貴様の番だ。悲願だな、ディーマルド」
ジンディムは笑みを押し殺し、戦友の肩を叩いた。
「……ああ」
ディーマルドは感慨深く頷き、己の腕を包む無骨なガントレットに視線を落とす。拳と拳を打ち合せると、ガギンと重い金属音が反響した。
キュッと左足を踏みしめたディーマルドは、その場で「シッ」と息を吐くと同時、左の拳を突き出す。
左、右、左。黒い残像が立て続けに、重々しい風切り音を伴って繰り出された。
「ヒューッ……調子いいですね、ディーマルドさん」
「ハハ。そう見えるか、ダズ。その通りだ」
ディーマルドはくるりと背を向ける。振り向かず、主導者へと語りかけた。
「じゃあ後は頼むぜ、リーダー」
後ろ姿のまま、黒い拳を掲げる。
「あと、お前らもな。感謝してるぜ、馬鹿野郎ども」
「……思ったんすけど」
「何ですか、アリウミさん」
「俺がさっき倒したあのロシア野郎、今のうちに遠くに捨てちまうとかどうっすか?」
「いえ、バレますので……。ところで、ろしあ? って何ですか?」
ケッシュは嫌な客に対応する店員みたいな、困った笑顔を見せた。
くそっ、いい案だと思ったのにダメか。流護は内心で舌打ちをする。
ジンディムは「この場の全員を人質に取った」と宣言した後、十分後にまた連絡するとして通信を切っていた。
(それにしても……すげえな)
周囲に集まった二百名という人々は、不安そうにしているものの、全員がアルディア王の指示に従ってこの場に留まっている。
無論、逃げ出そうとしたところで今や兵士たちに囲まれているのだが、それでもこれだけの人数が皆、混乱や恐慌をきたさず大人しく待機していることに、流護は驚きを隠せない。
これがアルディア王の統率力なのか。まあ、いきなり爆弾で全員死ぬと言われたところで、色々と実感が湧かないだけなのかもしれないが。
「あーもー。二日酔いで頭痛いのよね。帰っていい?」
「いい訳ないでしょうが」
つい突っ込んでしまう流護だった。二日酔いどころか今も酔っていそうなナスタディオ学院長が、がしがしと頭を掻きむしる。
まじで五年前のテロで大活躍したのかよこの人、と少年は内心で呟かざるを得ない。
案の定というか何というか、この事態に全く動じていないところはさすがなのかもしれないが。
そこで、数名の兵士たちと話していたアルディア王がその輪から離れ、流護たちの下へとやってきた。
「おう、学院長。そろっと敵さんの本命要求が来るだろうし……少しばかり頼まれてくれや。あとケッシュ、お主にも仕事がある」
爆弾によって命綱を握られている状況でありながら、アルディア王はいつも通りの明るさで二人に語りかける。お使いを頼むような気軽さだった。
アルディア王がどういう指示を下すのかは、流護にもそれとなく予想がつく。
この待機時間中に流護もケッシュから話を聞いていたが、ジンディムほどの使い手が仕掛けた規模の神詠術爆弾となると、最高位の術者が解除作業に当たる必要があるのだという。
爆弾を阻止する手立ては二つ。
一つは、術者であるジンディムを倒すこと。
もう一つは、敵に気付かれないよう爆弾の術を解除すること。
前者は、今この状況では不可能。論外だ。となれば後者になるのだが――
その技量を持つのは現在、この場にはナスタディオ学院長しかいない。
解除にかかると予想される時間は約二十分。
つまり、敵の本命要求を聞きながら可能な限り時間を稼ぎ、その隙をついて敵に気付かれないよう神詠術爆弾の解除作業を進める。
こちらができることは、それしかない。
――はずなのだが。
「よいかケッシュ、学院長。それぞれやってもらいたいことがある」
アルディア王がケッシュと学院長へ命じた内容は、流護が予想だにしていないことだった。
「ケッシュは、テントへ運び込んだ賊の……爆弾小僧の監視。賊の小僧はキモチ良くお寝んねしながら拘束状態だが、その動きに注視しておけ。学院長は、すぐにB地点に向かってくれ」
「ほーい」
当然のように返事をする学院長。
流護は困惑のあまり、眉根を寄せて固まった。
「えっ……!? ど、ういう……」
それはケッシュも同じだったようで、声を裏返して驚く。
「ああ、ケッ……ボッシュくんは気付いてない?」
そういう学院長は何に気付いているというのか、だるそうに頭を押さえながら大きくあくびをした。
「あの……俺も、全然分かんないんですけど……」
流護もおずおずと声を上げる。
結果として爆弾を押しつけられてしまったこの状況。
こちらが取れる手段は、先ほど思い浮かべたこと以外に――『敵の要求を聞きながら可能な限り時間を稼ぎ、その隙に気付かれないよう解除作業を進める』以外にないはずだ。
それを、神詠術爆弾の仕掛けられたフェル・ダイに対してケッシュが監視? 対応に当たらなければならないはずの学院長は、B地点に向かう? そもそもB地点とは何なのか。
意味が分からない。
二百もの命綱を握られている状況だというのに、アルディア王はどうしてこんな指示を――
そんな流護を見て、学院長はニヤリと口の端を歪める。
「ンフフ、キミもか。んー……これまでの状況をよく思い返してみなさいな。あるコトに気付くはずよ。すごく単純な、あるコトにね。リューゴくんはともかく、ボッシュくんは『銀黎部隊』なんだから、気付かなきゃダメよー?」
「す、すみません……!」
「あること……って」
そもそも学院長は、この場に来たばかりだ。
人質全員の解放待ち中に現われ、その直後に「この場の全員を人質に取った」という宣言。それらの場面にしか立ち会っていないにもかかわらず、何に気付いたというのか。
そんな流護の思いを見透かしたかのごとく、妖艶な美女は続ける。
「そう。ここに来たばっかのアタシでも気付くような何か。……いやむしろ、途中参加のアタシだからこそ違和感が大きいのかも。この場に来て、すぐに『この場の人間を全員人質に取ったー』とか言われて、『ん?』って思ったもの。もしかするとここにいる民衆の中にも、違和感に気付いた人とかいるんじゃないかしら。少し考えてみるのもいいかもしれないわよ? 暇潰しにね」
二百人の命が懸かってる状況なのに、暇潰しって――
「学院長……何で、そんな余裕なんすか? こんな状況なのに」
思わず流護は呟いてしまう。わずか、非難めいた口調で。
「――だって。ただの、茶番だもの。こんなのは」
ぞくり、と。
流護の背筋が凍りかけた。
妖艶でありつつ、微塵も温もりを感じさせない笑み。
分からない。この事態を茶番と言い切れるその思考が。ナスタディオ・シグリスという人物が、何を考えているのか理解できない。
冷徹にすら見える笑みをその顔に貼りつけたまま、学院長は踵を返す。
「んー、久々だから上手く乗れるかな?」
兵士たちに案内され、人波の中へと消えていく。
「そ、それでは自分も任務に当たります。しかし陛下……監視、とは……?」
「そのままの意味だ。あの賊の小僧を監視し、状況に応じて対処しろ。民衆は遠ざけておけ」
ケッシュの動揺は当然だ。
神詠術爆弾の施術されたフェル・ダイを監視するだけ。爆発すればこの場の二百人を吹き飛ばすというそんな代物をただ監視することに、何の意味があるというのか。
「よいかケッシュよ。ついでにリューゴもな。あの賊の小僧に、敵が――」
困惑しきりな流護たちにアルディア王が説明を始めた瞬間、巨大な波紋が空中に展開された。
「おっと、時間みてぇだな。詳しく説明できずにすまんが、頼んだぞ。『深潭』のケッシュ・ラドフォードよ」
「……、は、はっ!」
『深潭』。それはきっと、ケッシュの二つ名だ。
今この局面でそれを呼んだことに何の意味があるのか流護には分からなかったが、最敬礼をもって返したケッシュもまた、人波の中へと消えていく。
ジンディムの声が曇り空に響き渡った。
『――さて、待たせたな。では、我等の本命となる要求を宣言させてもらおうか。分かっているとは思うが、拒否は許されんぞ』
……本命。こいつらはリーフィアの身柄を狙っていたはずだ、と流護は思考を巡らせる。
しかし当然、リーフィアを引き渡すつもりなどない。
ここは何としても時間を、交渉を引き延ばす必要があ――
(――って)
いや、アルディア王は爆弾の解除作業をするつもりがない。時間稼ぎをする理由がない。
ならば、どうするのか。拒否できない敵の本命を突きつけられて、アルディア王はどうするつもりなのか――。
もはや流護には何が何だか分からない状況で、ジンディムの声が響き渡った。