94. 流れゆくように
「待ちなさいッ!」
混雑する人波にぶつかりながら逃げていく、ブラウン色のローブ姿。ベルグレッテは、その背中を追ってひた走る。
ただならぬ雰囲気を察した兵士たちの助力もあり、気付けば数人がかりで四方から追い立てていた。
ごった返す民衆たち、持ち場に立っている騎士や兵士たち。不審なローブの人物を追うベルグレッテを見て、一人、また一人と兵士たちが助太刀に加わっていく。
さすがのオプトといえど、この状況で交戦しようとは思わないらしい。
となれば、ここが好機。
反撃に転じられるような場所へと逃げられる前に、捕縛する。
人々にぶつかりながら強引に走るローブ姿よりも、その後を一直線に駆ける少女騎士のほうが速かった。
その背中へと肉薄したベルグレッテが、水剣を喚び出して背後から足元を払う。ものの見事に両足を掬われたローブ姿は、派手に転倒してごろごろと石畳を転がった。
ベルグレッテは素早く相手の腕を足で踏み押さえ、眼前に水剣を突きつける。
――捕らえた。いかにオプトとはいえ、こうなってしまえば……!
「ひ、ひええ、カンベンしてくだせえ……!」
「……え?」
しかしフードから覗いたその顔は、恐怖に怯える中年男のものだった。
「す、スリ盗った金は返しますんで、どうか命だけは……!」
「スリ……?」
「あーっ! 騎士様! 助かりましたぁ!」
ベルグレッテが困惑しているところへ、ふくよかな体格の女性が息を切らせながら走り寄ってくる。数名の兵士たちも一緒だった。
「その男! あたくしの財布を盗んだんですよぉ! 追いかけようとしたら、騎士様が追ってくださったのでぇ。それも、こんな大人数で! ありがとございましたぁん!」
「え? あ、は、はあ……」
「……はぁ」
スリを兵に引き渡したベルグレッテは、小さくも深い溜息をついた。
――明らかに焦っている。
流護が遊撃兵になるかもしれないと。できれば彼の有用性を示さずに、事を解決してしまいたいと。
完全に空回りだ。落ち着かなければ。ベルグレッテはそう自分に言い聞かせる。
……結果として偶然スリを捕らえられたので、決して悪いことではないのだが。
そもそも、ベルグレッテはオプトと直に接したことはない。数度、その顔を見たことがある程度だ。
かすかなウェーブを描くブロンドヘアに、整った顔立ちの美しい女性。年齢は十八だったか。派手な服装を好み、背も高い。目立つ容姿をしているが、例えば髪型や服装を変えてしまうだけでも、随分と違って見えるはず。
少し変装されてしまえば、ベルグレッテには分からなくなってしまう恐れがあった。
第一、一人で飛び出してしまったのは失策もいいところだ。周囲に兵たちもいるとはいえ、本当にオプトと見えることになってしまったら、ああも簡単に捕らえられるはずがない。
(ああ、もう……! しっかりしなきゃ)
走りながら聞いた、先ほどの通信――アルディア王とジンディムのやり取りも気になる。代表を選出しての一対一、などと言っていた。王らしい提案といえばそれまでだが、それに乗った敵も敵だ。嫌な予感しかしない。
こちらは誰が出るのか。吸い寄せられるように、自然とその候補の顔が浮かぶ。
ベルグレッテは人ごみの隙間を進み、美術館前の広場が見える場所まで出た。
「……リ、」
思わず、かすかな声が漏れてしまった。
広場へ進み出た人物。予想通りのその人物。
彼がそう決めたのだろうか。自らの意思で。
しかし飽くまで、交渉を優位に進めるための代表。まだ遊撃兵になると決めた訳ではないはずだ。
今は――今は、まだ。
二度と這い上がれない奈落へ滑り落ちていくような、どこか不吉な感覚。
少女騎士は滑り落ちないよう、必死に踏み止まっていた。まだ大丈夫。大丈夫なはず、と根拠もなく自分に言い聞かせながら。
「ではここで待機してください、アリウミさん」
流護は黒銀の軽装鎧を着た真面目そうな騎士に案内され、美術館前の開けた舗道へと歩み出た。
まるで闘うための場所にも見える開けた平地。当然ながらそのような場所ではなく、本来は馬車が待機する場所だった。
十数メートル離れた周囲には、二百人を超えるという民衆たち。
「あ、あいつ誰だよ?」
「騎士ですらねえ……よな?」
「でも、王様直々の推薦らしいぜ」
「一緒にいるのケッシュさんじゃないか。あの人が闘うんじゃないのか?」
大観衆のざわめき。広い空間。まるで試合みたいだ……と流護は手首を回しながら思う。
ここで負ければ大変なことになる。それでも不思議と、緊張は感じない。コンディションも良好。ディノのような怪物がそうそういるものでもなし、誰が相手でも負ける気はしない。……今はそれより、先を見ている。気にかかっている。遊撃兵のことが。
「標的に関しては、打倒して捕縛することが望ましいです。可能な限り、殺めずに制圧するようお願いします」
「……分かりました」
元々、殺すつもりはない。……いや、未だにそんな覚悟は持てない、というのが正しいか。
「あなたの双肩に、囚われた国民たちの命運と陛下の名誉が懸かっています。お忘れなきよう。そして……この国の子でないあなたがこうして闘ってくださることに、敬意を表します。ご武運を」
「あ、はぁ……どうもっす。えっと……」
「自分はケッシュ。『銀黎部隊』のケッシュ・ラドフォードと申します。あなたに、ウィーテリヴィアの加護があらんことを」
ケッシュと名乗った青年騎士は敬礼を見せ、人波の中へと戻っていく。
――あの人、『銀黎部隊』なのか。
今まで流護が出会ったあの部隊のメンバーは、ラティアスにデトレフにケリスデル……一癖も二癖もある人物ばかりだった。あの人は普通そうだ、と少し安心する。
そのケッシュとちょうど入れ違う形で、美術館の扉を開け放ち、一人の男が悠然と出てくるのが見えた。
「!」
まず流護が驚いたのは、その服装。
黒に近い紺色で統一された上下の服、マント、靴。腰からは長剣が吊り下げられている。
明らかに――数日前ミアたちと王都へ来た際に諍いのあった、あの外国人たちと同じ服装。
クレアリアはあのとき不審がっていたが、不審どころの騒ぎではない。テログループだったという訳だ。
さっぱりと刈り込んだ短髪に、彫りの深い顔立ちも印象深い。なんかロシア人の格闘家みたいだな、と流護は心中で感想を漏らす。
全体的に冷たい印象を与えてくる男だが、何より特徴的なのは、その灰色の瞳。
感情らしきものが全く感じられない。人を殺すことに対して何の躊躇もしないだろうと、容易に想像がついた。
『さて……ではこちらの代表は、そこにいるフェル・ダイだ』
『へっ、いい面構えしてんじゃねぇか。だがこっちも負けちゃいねえぜ? 我らが代表はリューゴ。まぁ、色々と説明するより、実際目にした方が早えだろうよ』
さりげなくハードルを上げてくるアルディア王に内心で苦笑いしながらも、流護は舗道の中央で足を止めた。
対するフェル・ダイと呼ばれた青年も、数歩離れた位置で流護と向かい合う。
(……やっぱでけぇ)
フェル・ダイの身長は百九十センチ超といったところか。
この世界へ来てさすがにもう慣れたつもりでいたが、こうして闘うつもりで相対すると、やはり身に染みて感じる。
グリムクロウズの男性は基本的に皆、背が高い。今のところ流護より背が低かったのは、レドラックぐらいのものだ。線が細く弱々しい印象のアルヴェリスタでさえも、優に百八十センチを超えていたりする。
(こう身長差があると、蹴りが使いづらくてなぁ……)
顔面へのハイキックなどは届きそうにない。蹴りを当てたいなら、ディノ戦のときのように工夫を凝らす必要がある。もっとも、無理に蹴りを当てる必要などない。そんな訳で自然、この世界へやってきてからは拳に頼ることが多くなっている。
流護は油断なくフェル・ダイを見据えながら、手首と足首を入念に回した。
『さぁて、条件の再確認だ。さっきも言ったが、こっちは何でもいいぜ。リューゴに勝てたら、何でも望みを聞いてやる』
『大した自信だな。だがそれはこちらも同じこと。フェル・ダイに勝てたなら、残る人質を全員解放しよう』
ジンディムの言葉に、人々の間から歓声が上がった。
『おーし。んじゃそれで決定ってコトでいいな』
『フフ……アルディアよ。本当に良いのか? 後悔することになるかもしれんぞ?』
『そっくり返すぜ、ジンディムさんよ』
アルディア王は事態を楽しんでいるかのように声を弾ませる。
『それじゃ、何でもアリのド突き合いだ。武器、神詠術、好きに使え。特に制限時間は設けん。どちらかの降参、戦闘不能、死亡のいずれかを以って決着とする。今から一分後に俺が開始の合図を出す。それでいいか?』
『構わん。頼んだぞ、フェル・ダイ』
『おおそうだリューゴよ、大丈夫だとは思うが、出来るだけ美術館を傷つけないように頼むぞ。塀とかもな。意外と高価ぇんだ』
流護は正面に鎮座する荘厳な美術館を見上げながら、右腕を上げてアルディア王に応える。
(とは言うけども……)
近くで見ると中々の被害だ。立派な支柱が一本、削り取られたように抉れてしまっている。由緒正しい王立の美術館とのこと。これを修復するのにどれほどの費用がかかるのだろうか。
流護は神詠術が使える訳でもなし、建物に被害が及ぶようなことはないだろう。……敵をジャイアントスイングなどで投げ飛ばしたりしない限りは。
さて、開始まで一分。
――ピキ……
流護は首をコキッと鳴らしてフェル・ダイを見る。
隙のない佇まい。敵に対して何の躊躇もしないだろう、恐ろしいまでに冷たい双眸。武力を行使することが前提であるかのような物々しい雰囲気は、軍属の人間を彷彿とさせる。
あの酒場で、この服装をした男たちを見たときにも思ったのだ。まるで軍人みたいだと。
「猿が……何を見ている」
「は?」
「言葉が理解できんのか、南方猿。猿だと言ったんだ、低俗なレインディール人め」
「な……」
フェル・ダイが発した唐突な罵詈雑言に、流護は思わず目を丸くする。
「い、いきなり猿呼ばわりとか何なの。つか俺、レインディール人じゃねえんだけど。その目はガラス玉か? 機能してねえのか? ハゲ」
同レベルで言い返してみると、フェル・ダイのこめかみに青筋が浮いた。
「……こ、の……小猿が」
流護としては助かる。
人を罵倒しておきながら、自分がされるのは許容できないというその人間性。躊躇なく全力でぶん殴れる。
「今のうちに祈りを済ませておけ、猿。俺は、お前の全身を徹底的に壊す。まず最初に腕を刎ね飛ばす。次に足を斬り飛ばす。最後に、頭を叩き潰す。一分も要らん。お前に出来るのは、ただ泣き叫ぶことだけだ」
「うわー、それはおっかないっすね。おー怖い怖い」
「……、こ……ッ」
どう反応すれば納得するのか。
しかし一見して短気で単純に見えるが、それでもこの男――強い。傲慢さの裏側には、幾多の勝利を重ねてきた実績があるのだろう。
おそらく、酒場で出会ったあの二人組み……ダズやダリミルとは比較にならない。
わざわざこんな場面で出てくるぐらいだ。強いことは間違いない。雰囲気もある。……のだが。
――パキッ……
流護はフェル・ダイへ向かって言葉を投げかけた。
「なあ、えーと名前何だっけ……ロシアの殺人マシーンさんよ」
「ロシアノサ、ツジ……? 俺はフェル・ダイだ。名前もまともに覚えられんのか、低脳の小猿が」
「あんたの仲間に、ディーマルドってオッサンいない? 黒くてすげーゴツいガントレットつけた、こう……ヒゲのナイスミドルみたいな」
「答えると思っているのか?」
――パキン……
構わず、流護は強引に会話を進める。
「そんでさ……もちろん、あんたもそこそこ強いんだろうけど――」
流護は嘲るように口の端を上げた。
「あのディーマルドってオッサンの方が、あんたより強いよな。何でこの期に及んで、強い奴を出し惜しみしてんの?」
簡単な挑発。しかし、率直な疑問でもあった。
もはや交渉は大詰めだ。
そこで『流護さえ倒せれば何でも要望を聞く』という、流護の実力を知らない敵側にしてみれば、この上ないはずの条件。
最も強い者を投入して確実に勝利することができれば、敵はそれで目的を遂げられるはずなのだ。
なのになぜ、それをしないのか。
「俺が……ディーマルドに劣るだと? 猿が……」
――ビキ……
フェル・ダイは簡単な挑発に乗り、あっさりとディーマルドが同胞であることを暴露してしまっていた。随分と選民意識が高いようだが、頭の中にはスポンジが詰まっている。つつけば色々喋りそうで面白いな、と思う流護だったが、もうそろそろ一分が経過する――
――パキン……
「……?」
流護は周囲を見渡した。
先ほどから聞こえる、妙な音。
何かにひびが入るような、何かが固まるような――
『一分経過! 始めいッ!』
アルディア王の野太い号令が轟いた。