93. 掌上
「な、何だ? ベル子の奴、どうしたんだ……?」
「さあ……」
唐突にどこかへ行ってしまった姉に、クレアリアですらつい呆然としてしまっていた。
そうしている間にも、アルディア王とジンディムのやり取りは続いている。
『――ふむ。どうあっても、人質全員と引き換えでも譲れんと?』
『ああ』
『……アルディア王よ。互いの立場は、平等ではないのだぞ? 人質も、歴史あるこの美術館も、我等の手中にあるということを忘れてもらっては困るな』
余裕を滲ませたジンディムの声が木霊する。要求に応じようとしないアルディア王に苛立つでもなく、どこか事態を楽しんでいるようでもあった。
『ふーむ。お前さんがたも譲れねぇ、こっちも譲れねぇ。これじゃ話が進まん。そんじゃここらで一つ、趣向を凝らすとしようじゃねえか。この場に集まった皆の衆も、そろそろ大きな進展がほしかろう』
『……どういうことだ?』
『互いに代表一名を決めて、美術館の前で正々堂々ド突き合い――なんてのはどうだ?』
握り拳を掲げてのその提案に、人波からどよめきが起きる。
無機的に交渉役を務めていたジンディムが、堪えきれないように息を漏らした。
『フ……、ハハ、何だそれは。本気でそんなことを言っているのか?』
『本気だぜぇ? そっちにも腕に覚えのあるヤツぁいるだろう? 人質相手に、勝てたら解放してやるー、なんつって楽しいコトやってたみてぇじゃねえか』
馬鹿馬鹿しいと言わんばかりのジンディムに対し、王はその言葉を投げかける。
『こっちの代表に勝てたらよ、そっちの言うこと何でも聞いてやるぜ?』
『――ほう』
ジンディムの声音が変化した。
集まった民衆たちのざわめきも次第に大きくなっていく。
『くだらん……が、「暴王」らしい提案と言えんこともないな。そちらが負けた際に言うことを聞く保証は?』
『保証とか言われちまうと何もねえけどよ。約束は守るぜぇ? じゃなきゃ盛り上がらねえし、成り立たんだろ。そういうお前さんはどうなんだ?』
『……ふむ、よかろう。ではそちらの代表が勝利したなら、こちらは残る人質を全員解放しよう。が、仮に負けたうえで約束を違えることがあったなら、その罪は人質たちに償ってもらうこととする。それでいいならば乗ろう』
『ちゃっかりしてやがんねぇ。じゃ、それでいいぜ。約束は破らんしな』
『了承した。では十分後に、こちらの代表を外へ出す。そちらもせいぜい、腕の立つ者を選出することだ』
『くく、いいねえ。一気に大詰めだな。互いに親睦を深めた甲斐があるってモンだ。……美術館内の民たちよ、聞こえるかぁ!? もう少しだけ辛抱してくれーい!』
まさかの流れに、民衆たちの喧騒も最高潮へと達する。
(…………これ、は)
クレアリアはこの局面で思い至る。
あまりにも強引な、しかしまるで狙ったかのような運び。これが……アルディア王の描いたシナリオ。王は、このつもりで『彼』を呼んだのだと。
「だっ、誰が出るんだよ!? ラティアス隊長とか……いや、みんな演習でいねぇんだろ!?」
「オルエッタさんだってこの場にいないよな!? 今、誰か強い人残ってんのか……?」
興奮気味に議論を交わす民衆たちの声が、クレアリアにはどこか遠く聞こえる気がした。
「そんな訳でリューゴよ。ちーっとばかし暴れてみねぇか?」
巨大な王は、まるで飲みに誘うような気軽さで声をかける。
「なるほど……」
流護は苦笑いを浮かべて頷いた。
クレアリアも全くもって、「なるほど」と思わざるを得ない。
相手が何者であろうと、流護は闘えば勝つだろう。
そしてこれまでは噂話に過ぎなかった少年の強さを、この場にいる二百超という人間が目撃することになる。
神詠術が使えないとはいえ、まさにガイセリウスの生まれ変わりのごときその活躍を目にして、流護が遊撃兵となることに反対する人間がどれだけいるだろうか。
彼はまるで流れた先へ漂着するように、自然とはまり込むように、遊撃兵となるだろう。
これは交渉を優位に進めると同時に、流護を確実に兵として引き込むための――王の、策略。
「ま、待ってくださいっ!」
そこで声を上げたのは、リーフィアだった。
「リューゴさんが、そんな……危ない目にあう必要はないはずですっ……」
流護たちの下へ走り寄ってきたリーフィアは、喋ることすら一生懸命であるように必死で言い募る。
「犯人の人たちは、わたしが行けば人質のみんなを開放してくれるんですよね? なら……それでいいはずです。わたしが行けば、みんな助かって終わりですっ」
感情がぶれているためだろう。リーフィアから、かすかな風が立ち上る。
少女の長くやわらかな髪が、彼女自身の生み出した風に揺られてそよいでいた。
「リーフィアよ。それはできん」
しかしアルディア王はリーフィアの目を見て……真剣な眼差しで、はっきりと否定する。
「それは……わたしが、『ペンタ』だからですか」
「そうだ」
「わたしが『ペンタ』だから……捕まってる人たち全員より、わたし一人のほうが大事。だからわたしを引き渡すわけにはいかない。そういうことですかっ……」
「そうだ」
「っ……、でも……犯人の人たちの狙いがわたしだっていうなら……こんなことが起きてしまったのも、わたしがいるせい……みたいなものじゃないですかっ……!」
「かもしれんな」
「……陛下っ」
きっとそれは、否定してほしかった一言。
しかし迷いもせず肯定した王に、クレアリアが抗議めいた鋭い声を出す。
「だったら……せめて、わたし……わたしがひとまず捕まって、そのあとで、兵士のみなさんが助けにきてくだされば……」
優しい風の少女は、テロの件を知って悲しんだことだろう。
なぜこんなことをするのかと。なぜ人が人を傷つけるのかと。
その原因が、自分だった。
賊たちが自分を手に入れるために、このようなテロを引き起こした。
そう知らされてしまった少女の心中は、察するにあまりある。
鳴咽混じりになった声で懸命に主張するリーフィアに対し、しかし王は真実のみを告げる。
「人質全員の命と美術館そのものを含めてすら、リーフィア……お主の価値には到底及ばんという現実。それがある以上、例えお主自身が良くとも、お主を危険に晒すことはできん。この国の王として、交渉に応じることはできんのだ」
「うぅっ……」
リーフィアはその場にぺたんとへたり込んだ。
「わたしの力のせいで、いろんな人たちが危ない目にあって……、悪い人たちがわたしの力を狙ってきて、それでまた、たくさんの人たちが危ない目にあってっ……、こんな、なにもできない、わたしなんかの力を……っ!」
硬い石の舗道に、ぽたぽたと雫が落ちる。
「わたし、こんな力いらない! 『ペンタ』になんて、生まれなければよかったっ!」
彼女が忌み嫌うその力は、それでも彼女の叫びに呼応する。
リーフィアが叫んだ瞬間、彼女を包み込むように――守るように、烈風が発生した。
周囲がハッとしたときにはもう遅い。
少女の座り込んだ石畳の舗道がバキリと音を立てて沈み込み、見えない衝撃波が円周状になって周囲へと炸裂――、しなかった。
「……っ、全くもう」
水の壁。
リーフィアを優しく包み込む水の壁と――
クレアリア本人が、自身も壁の一部であるかのごとく、リーフィアを後ろから抱きとめていた。
「あ……、ぁ」
リーフィアは、覆いかぶさるように抱きすくめてくるクレアリアを見上げる。
無理矢理押さえ込んだ衝撃波によって、クレアリアの顔には細かな傷がついていた。ドレスの端々も破けている。
「ぁ……わたし、また、ご……ごめんなさ……」
「いいから。貴女に非なんてない。貴女が取り乱す必要なんてない。悪いのは、貴女の力を狙ってこんなテロを起こす輩です。そんなの当たり前でしょう?」
クレアリアは優しくリーフィアの手を取り、立ち上がらせる。
「リーフィア。向こうで少し休みましょう」
返事を待たず、クレアリアはアルディア王へと向き直る。
「陛下。交渉でリーフィアを引き渡すつもりなどありませんし、構いませんよね?」
「ん? ああ」
アルディア王の返事を受け、クレアリアはリーフィアの肩を抱きながら寄り添って歩いていく。
――と、小さな騎士は思い出したように振り返った。
「……陛下。私はこの国に生まれ、王家に仕えることができる現実を誇りに思っています。陛下のことも心から尊敬していますし、国や陛下のためならば、未熟ながらこの命を懸けることも厭わないと思っています」
「が」と強く噛み締めて、
「言い方、というものがあると思います。そういった配慮をできない……いえ、しない陛下のそういうところは……昔から、大嫌いです」
「ク、クレアさっ……」
焦ったリーフィアの肩を強引に抱いて、クレアリアは歩き出す。
アルディア王はかすかにうつむき、ボリボリと頭を掻いた。
クレアリアに支えられながらゆっくりと歩くリーフィアが、流護の横をすれ違う。
「なあ、リーフィア」
流護は、そんな風の少女に優しく声をかけた。
「リーフィアは『自分が行けば人質みんなが助かる』って言ったけどさ、それじゃダメだ。人質は助かっても、リーフィアが捕まっちまうだろ?」
「……でもっ」
鼻をすすりながら、涙でその瞳を濡らしながら、リーフィアが流護を仰ぐ。
「リーフィアは、簡単に自分が身代わりになるなんて言うけど……怖くないのか?」
「……、そ、れは……。怖い……ですっ」
「だろ。だから王様は……全員が助かる方法を選んだんだ」
言いながら、少年は両腕のパワーリストを外す。
その手を離れた漆黒の輪が、ゴズンと凄まじい音を立てて石畳へ落下した。弾かれた石片が散る。
「アリウミ殿……」
クレアリアの呼びかけに、流護は「よせよ、みなまで言うな」とばかりにフッ……とかすかな笑みを浮かべる。
そんな少年に、クレアリアは毅然とした瞳で言い放った。
「石畳が傷むのでやめてください」
「あっ、す、すいません」
かっこ悪かった。
「ま、まぁとにかくさ。リーフィアは知らないだろうけど、俺はまじ強えんだぞ。だからこれは交渉じゃねぇ。こっちの勝ちが確定してるんだからな」
流護は一つずつ、(クレアリアに怒られたせいか)丁寧にパワーリストを外していく。
「でもっ……」
「えーいでもも何もねぇー! 俺は強いから大丈夫なの! 以上! 終わり!」
「ひぃ……」
リーフィアはびくりとして縮こまった。
「アリウミ殿……貴方はそれで、いいんですか……?」
アルディア王の思惑通りに動いてしまっていいのか。
クレアリアはそう問いかけている。
人は強い力を恐れる。今は噂話にすぎない流護の強さも、実際目にしたならば、人々は驚き、熱狂し、そして最終的には恐怖を抱くはずだ。
この力は何なのか。国以外にこんな武力があって大丈夫なのか。
しかしそれは、流護自身が国の武力として組み込まれることで解消する。こんな強い人が国の兵士なら安心だ、という考えに変化する。
そうして少年が遊撃兵となるように、周囲の全てが状況を作り上げていく。
「ま、心配しなさんなって」
「貴方の心配などしてません。……まあ、貴方がそう決めたのなら、もう私から言うこともありませんが」
――関係ない。話せることは、もう話した。
この男が遊撃兵だった彼女と同じような末路をたどることになったとしても、それは本人が選んだことだ。
「では、ご武運を」
「サンキュ」
クレアリアは振り返らず、リーフィアに寄り添いながら、騎士たちの設営したテントへ向かった。
「やれやれ、嫌われちまったなぁ。まぁ、リリアーヌの奴にもよく言われんだよな。お父さまなんて嫌いです! ってな。がははは!」
大きな王は遠ざかっていく二人を眺めながら、頭をボリボリと掻いて豪快に笑う。
「えっと……王様」
「ん? 何だリューゴよ」
「クレアじゃないけど、もっと……リーフィアにも、優しく言ってあげればいいんじゃないすか? こう、『お前が大事だから渡せねえんだ』みたいな感じで」
「あぁん? んだよそれ……バッカ、んなハズかしいこと言えるかよ」
一国の王は、またも頭を掻いてバツの悪そうな顔をする。その横顔だけ見れば、年頃の娘に対する接し方が分からず困っているおじさんのようでしかない。
流護は思う。この人は、どうしようもなく不器用なだけなんじゃないかと。
「……好機、だよなぁ……!」
ディーマルドは野性的な笑みを滲ませて、ソファから立ち上がった。
「いいんだろ、リーダー。俺が出ちまってもよ……!」
「駄目だ。わざわざこんな提案をしてくる程だ。連中の代表は、生半可な相手ではないだろう」
ジンディムがディーマルドを諭す。
「リーダー……俺が負けるとでも?」
「そうは思わん。『銀黎部隊』が出てくるだろうが、貴様ならば勝つだろう。だが、如何に貴様とて無傷で済むとも思わん。そんな状態で、本来の目的を達することはできんはずだ」
「でもよ……!」
自らを抑えられないとばかりに逸るディーマルド。
対を成すかのごとく、ジンディムは飽くまで冷静に状況を分析する。
「それに……罠でない可能性も捨て切れん。ノコノコ出ていったところを狙撃される恐れもある」
美術館の二階へと陣取って窓にカーテンを引き、騎士たちにこちらの姿を見せないようにしているのは、主に狙撃を警戒してのことだ。
いや――狙撃ならまだしも、この国にはナスタディオ・シグリスという『ペンタ』がいる。未だ姿を見せる気配はないが、気付かないうちに幻惑され、一網打尽にされていた――などという事態だけは避けねばならない。
無論こちらに人質がいる以上、向こうもおいそれと無茶な真似はできないだろうが。
と、ジンディムたちの会話が聞こえていたのか、人質の男の一人が声を張り上げた。
「王様が、狙撃なんて卑怯な真似するかってんだ……!」
アルディアが約束を違えたなら、人質たちに危害が及ぶ。そんな状況でなお、彼らの瞳に憂いの色は全く見られない。
信頼に溢れたその言葉を、ディーマルドは鼻で笑う。
「随分とアルディアを信じてるんだな。奴は、年端もいかない子供を平気で見捨てるような男だぜ?」
しかし男は怯まずに言い返す。
「あの方がそうしたってんなら、そうしなければもっと多くの人間が犠牲になってたってことだ。あんたらはどうなんだ。俺達がここで犠牲になったとして、その結果、どこかでより多くの人間が救われるのか? そんな訳ないよな。あんたらは、私怨でこんなことしてるだけだろう!」
チッと舌打ちをしたダズが男に歩み寄る。
「裸で喚いてんじゃねぇよこのオヤジが……その粗末なモノ、切り落とすぞ」
「ひっ……!」
「よせ、ダズ」
カタールを抜いたダズを、ディーマルドは鋭い声で制止した。代わって、静かな声で人質の男に語りかける。
「そうだな……じゃあ例えば、その犠牲となるのが自分の子供だったら。それでも、あんたは納得できるのかい?」
「……、そ、れは」
この人質の男も、年齢は四十そこそこといったところか。実際に子供の一人や二人はいるのだろう。だからこそ、その状況を想像して言葉に詰まったのだ。
「これはな……ただそれだけの、単純な話なんだよ。私怨、まさにその通りさ」
ディーマルドはそう呟きながら、カーテンの引かれた窓辺へ寄る。油断なくその隙間から外を覗くと――
遠巻きに美術館を囲む人々の群れ。そこからさらに手前、美術館正面の開けた場所へと歩み出てくる人影が二つ。一人は黒銀の軽装鎧を身につけているところからして、『銀黎部隊』の一員だろう。そして、もう一人は――
「……! あのボウズは……」
見覚えのあるその姿に、ディーマルドは息をのむ。
「どうした? ディーマルド」
「――いや」
ジンディムの問いに短く答えて、カーテンを閉めた。
「すまんリーダー、俺はやめておく。本音を言えば闘ってみてえ相手だが、ウォームアップで済みそうにない」
「ああ。だから貴様を行かせるつもりはないと言っているだろう?」
かすかに笑みを滲ませたジンディムは、人質たちの傍らに立つ青年へ声を投げた。
「フェル・ダイ、貴様が行け。そろそろ暴れたいところではないか?」
「いいだろう。猿どもに、本物の戦闘というものを見せてやる」
表情ひとつ変わらない青年は、考えた様子もなく即答した。
同志たちが小さな声で囁き合う。
「フェル・ダイか……扱いづらい男だが、戦闘の腕は間違いなく一級品だしな」
「こういう場合のために連れてきたような奴だ。この勝負、間違いなくもらったぜ」
首をばきばきと鳴らし、つまらなげにフェル・ダイは確認を取る。
「今度こそ、殺してもいいのだろう?」
「ああ。貴様が勝てば、それで終わりだ。アルディアが約束を守ればの話だが、な」
「守らなかったら守らなかったで構わん。低俗な南方猿なんぞ物の数ではない。皆殺しにしてやろう」
ジンディムはフェル・ダイの後姿を眺めながら、右頬の傷痕を撫でながら、吊り上がりそうになる口の端を抑える。
双方の思惑が、交錯する。
――疵面の主導者は、胸中でほくそ笑む。
思惑通り。全てが想定通りに進んでいる。
アルディアよ。決闘を持ちかけ、同意させることに成功した。決闘に勝てば事態が収束する。そう思っているのだろう?
違うのだよ。貴様は、この私によって意のままに『動かされて』いる。全てが読み通りだ。
受け取ってくれたまえ。このフェル・ダイという、至高の贈り物を。
これで、我等の勝ちは確定した――
――『焔武王』の二つ名を持つ巨大な王は、美術館を……その外観、大きく削られた支柱を眺めてほくそ笑む。
さぁてジンディムさんよ。『お前さんの口からどんな言葉が飛び出すのか』、楽しみだぜ。
舞台は存分に整っている。
この茶番、そして貴様らノルスタシオンという存在。せいぜい利用させてもらうとしよう――